野上行宮跡
お腹いっぱい幸せ気分になった後、引き続き西へ向かいます。
今日のゴール予定地である関ケ原古戦場記念館まではあと5㎞。
遠い・・・
※註:この日は結局18㎞歩きました。
垂井町から関ケ原町に入ります。
トラックがビュンビュン走る道をテクテク歩いていると、いきなり「天武天皇」と記された看板が目の前に飛び込んできました。
壬申の乱での天武天皇の野上行宮跡が近くにあるようです。
これは、寄り道せねばなるまい。
看板が指し示す方向へ向かいます。
墓地ですな。
ここだ。
特に目で見られるものはなく、石積みは当然ながら野上行宮のものではありません。
関ヶ原合戦の古戦場を歩いていて壬申の乱が現れるとは思っても見ませんでしたが、考えてみれば、大海人皇子(天武天皇)は伊勢まで逃れた後、北上して美濃に入り、この地を近江朝廷撃破のための大本営としたのです。
これまた予期していなかった場所に来れて嬉しい。
時系列的に話すと、大海人皇子は伊勢の鈴鹿まで逃れてようやく落ち着いて物事を考えることができるようになったようで、桑名で戦術に則った指令を出し始めています。大津皇子も近江の与党を連れて参陣しましたし、美濃の軍勢が味方することも分かりました。
美濃には最も頼りになる長子・高市皇子を先に派遣して地ならしさせたあと、大海人皇子は、野上に進出したのです。
日本書紀を普通に読むと、大海人皇子が天下人に成れたのは、高市皇子の活躍に負うところが大きいですね。さすが九州・宗像の子。人材の豊富な近江朝廷と比較して気弱になった父に、「この高市がいるからにはご安心ください!」と言い切る胆力のある19歳です。
しかし、さすが関ヶ原。武士の供養塔である五輪塔がやたら多い。
もちろん、全部が全部関ヶ原合戦に関係するものとは限りませんが、これだけの数が並んでいるとやっぱりそうだと思ってしまいますよね。
真念寺
隣には、真念寺というお寺があります。
先ほどの野上行宮跡の説明板にも「南方六坊」というものが書かれていましたが、良くわかりません。
山内一豊陣跡
一見すると昔のドライブイン風な飲食店がありますよ。
「天下分け目」にかけている。
面白そうな店ですが、すでにランチは済んでいますし、今日は定休日です。
いろいろな食べ物が関ヶ原を境にして東西で違うと言われていますね。
例えば、うどんなんかは私は色の濃いつゆのものを食べて生まれ育ち、味も濃いのが好きだったのですが、数年前から関西によく行くようになったら、関西出汁も好きになりました。大阪は何でも美味しいところですが、うどんも美味しいですよ。
あれが目指す桃配山かな。
おっと、しまった。
何となく現代の道を歩いていましたが、旧道に行きたかったんだ。
ちょっと戻って旧道に降ります。
歩くのにはこっちの道の方が断然良さそう。
おや、今度は山内一豊だ。
どういうわけか最近は一豊によく会いますな。
先日は高知城に行きました。
また、掛川城にも行っています。
実は一豊みたいなスマートな生き方をした武将はあんまりどうも・・・(一豊ファンの方、すみません)。
実際にはスマートに見えても泥臭いことはやっていますし、高知では在地の旧長曾我部氏に関連する武士たちを謀殺したりしていますが、なんていうか、心がときめかない。
とか言っていますが、こうも立て続けに目の前に現れると、認識を変えなければならないかもしれません。
ちなみに、私が好きな武将は、九戸政実、長尾景春、今川氏真、足利義昭などなど。関ヶ原合戦に参加した武将では、長曾我部盛親。でも、信長や信玄も好きです。
関ヶ原宿
ここは、中山道の関ヶ原宿です。
ベンチもあるので休憩にもちょうどよい場所です。
気づけば、絶好の鉄道観察ポイントでもありました。
すぐ横に東海道本線が走っています。
ちょうど、上下線が一緒に来ました。
徳川家康最初陣地(桃配山)
では、家康が関ヶ原に出張ってきて最初に陣地を築いた場所へ行ってみましょう。
旧道から現代の国道に上がり、少し戻ります。
この山が桃配山で、大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱で野上行宮に進出した際に、この地で兵士に山桃を配って鼓舞したという伝承がある場所です。家康はそれにあやかってこの地に本陣を定めたと言われています。
既述しましたが、赤坂の勝山(岡山)にて2時に起床した家康は、諸将への指示を出した後、3時に出陣し、6時にはこの地に進出しました。直線距離で8.6㎞。3時間かけていますので、普通の行軍速度で、焦らず慌てずやってきた状況がイメージできます。
そして、8時にはこのような布陣となったわけです。
右翼の黒田長政、細川忠興、加藤嘉明などは戦いに強い武将たちです。そして、左翼には猛将・福島正則がいます。
絶妙だと思うのは、本多忠勝の位置です。忠勝は個人的には家康子飼の中では最強だと思っています。最前線で戦うとかなりの活躍が見込まれるのですが、忠勝は強いだけでなく、冷静かつ頭の良い男で、家康の意図を汲み取って臨機応変に動くことができます。そのため、少し後ろに下がった位置にいて、全体のバランスを考えて動く、他の武将にはできない仕事をこなすことがきるのです。
サッカーに例えたら、長政や正則が得点を決めるためのフォワードだとしたら、忠勝は守備的ミッドフィールダーと言えます(かなり妄想)。
それでは、いよいよ戦闘開始だ!
説明板の写真とはちょっと角度が違いますが、小西行長は北天満山にて開戦の烽火を上げたと言われています。行長の陣地自体は、上の写真にある通り、北天満山の山頂ではなく、少し下った場所でしょう。
三成の陣地は記されていませんが、北天満山の北側(右側)の笹尾山とされ、「決戦地」と記されている場所の後方あたりであると考えられます。
史跡の標柱。
ちなみに、国史跡としては、「関ヶ原古戦場 附 徳川家康最初陣地 徳川家康最後陣地 石田三成陣地 岡山烽火場 大谷吉隆墓 東首塚 西首塚」という長い名称になっています。附(つけたり)が多いのです。
山の中には空堀とかがありそうですが、立ち入りません。
桃配山から北側の谷を見下ろすと、この地が本当に狭隘な地であることが理解できます。
ところで余談ですが、この辺の東海道本線って不思議な線路の敷き方になっていて、2つのルートに分かれているのですが、前方にはそれが合流する場所があります。
ちょうど下りの貨物列車が走って行きますが、その手前、下側にも線路があります。
勾配の関係で、下り線の貨物列車はこの線路(新垂井線という支線)を走り、上り線の貨物列車は手前下(さきほどの関ヶ原宿で見た線路に繋がっている)を走っています。
話を関ヶ原合戦に戻すと、昔から小説、ドラマ、映画その他でさんざん描かれてきたのが通説に則った戦いの状況です。そのベースとしては、戦前に陸軍参謀本部がまとめた資料が使われることが多いと思います(私も本記事の連載で今まで語ってきた状況は、基本的にそれを参照しています)。
ところが、ようやくここ最近になって信頼できる史料をもとに考察が進み、陸軍参謀本部の資料には信頼できない部分が含まれていることが分かってきました。
それらをここで語ると複雑になりますが、開戦の時刻が8時くらいだったのは合っているようです。
家康は戦い開始の3時間後には本陣を前に2㎞ほど押し出しますが、私もさらに西に歩みを進めたいと思います。
関連楽曲
『決戦、関ヶ原。』
作詞&作曲:稲用章
Vo:Saki(ボカロ) Gt&Key:稲用章
この日の探訪でインスピレーションを受けて制作した楽曲です。