邪馬台国奈良説を採る人にとっては、ヤマト王権は発足時において近畿地方から北部九州までを掌握していたと考えるかもしれません。
しかし、考古学的にも文献史学的にも邪馬台国が奈良にあったという可能性は低いのが事実です。
人から話を聴いたり、単純な浅い本を読むレヴェルではなく、きちんと自分で中国の古代史にまで幅を広げて本を読み漁ったり(魏志倭人伝の原文を解読することは必須です)、列島各地の遺跡をめぐって丹念に調べる人が多ければ、今みたいに奈良説支持者が多い状態ではなく、もっとバラエティに富んだ説が出てくるはずです。
ただし、だからといって奈良以外のどこであるということは私も断言できません。
科学的な姿勢からすると、どこであるとも断言できないのが邪馬台国の所在地に対する正常な考え方です。ですから、奈良説であってももちろん良いですし、心の中ではどう考えても自由なのですが、口に出す場合は、「奈良である!」と言い切ってしまうのは恥ずかしいのでやめましょう。
さて、それはそれとして、3世紀後半の時点で、畿内を中心としたいわゆる「ヤマト王権」なる政治勢力があったことは間違いないでしょう。
ヤマト王権が力を付けた原因の一つは、朝鮮半島の諸国と上手く付き合えたことです。しかしそうするには、当たり前な話ですが、朝鮮半島と往復するための安全な航路の確保が必要です。
本稿では、ヤマト王権が瀬戸内海の制海権を確保する段階を、前方後円墳を素材として簡単に追いかけてみます。
こちらの図を元に説明します。
列島各地の古墳から出土する遺物を見ていると、3世紀後半の時点ではまだヤマト王権の影響力はそれほど各地に及んでいません。
前方後円墳はヤマトで発生し、その途端、全国でドッと築造されて、それがヤマト王権が一気に全国に支配圏を拡げた証拠だという説明が、過去にはよくなされましたが、現在この考え方を引きずっている研究者は少なくなっているはずです。
いわゆる「纒向型前方後円墳」というものがその証拠だとされましたが、今では「纒向型前方後円墳」という考え方自体が破綻しています。ただし、説明する場合には便利なので、私も時折口に出します。
「前方後円墳体制」という政治手法は、私は4世紀後半から本格導入されたと考えています。
3世紀後半にヤマト王権の影響力が各地に及んだことを説明する際に、よく三角縁神獣鏡が引き合いに出されます。しかし、詳述しませんが、簡単に言うと、三角縁神獣鏡は列島各地の有力者から大切な扱いを受けていません。しかも、東国の場合は、大きな古墳以外にも、その地域であまり勢力を持っていなかった人が眠るであろう小さな古墳からの出土も目立ちます。
プレゼントするヤマト王権側からすると頑張ったのですが、プレゼントされた側はあまり嬉しくなかった。片思いのことも多かったのです。
3世紀後半から4世紀初めに各地で出土する素環頭大刀など、各地の王が自身の力で朝鮮半島の諸勢力から入手していたと考えられる物もありますし、腕輪型石製品などは、ヤマトではなく、濃尾勢力から入手していたものもあると考えられます。
このような様々な証拠を見ると、ヤマト王権は3世紀後半から4世紀初めにかけては、勢力拡大に大変苦労していたことが分かります。
そのヤマト王権が飛躍するきっかけは、既述した通り、朝鮮半島との濃密な付き合いが始まった結果であると考えていますが、4世紀以降、ヤマト王権は瀬戸内海(西瀬戸内地方)の制海権奪取に向けて積極的に動き出しました。
瀬戸内海は内海ですから確かに波は静かです。
しかし、場所によっては小さな島が密集しており、潮の流れが複雑ですから、地元勢力の力を借りなければ航行できません。中世の村上水軍のような勢力が、各地に盤踞していたはずですので、積み荷が略奪される恐怖もあります。
ヤマト王権が西瀬戸内地方を抑える上で重要な個所として、高縄半島があります。現在の愛媛県今治市で、それこそ中世の水軍が活躍した場所であります。
その高縄半島には、4世紀に愛媛県を代表する2基の前方後円墳が築造されました。両者とも海が望める古墳です。一つは、妙見山古墳。55.2mの前方後円墳です。
現在でも墳丘からは瀬戸内海が望めます。
そしてもう一基は、墳丘長82mで愛媛県最大の古墳である相の谷1号墳です。
こちらもバリバリ今でも瀬戸内海が望めます。
この2基の前方後円墳の存在から、古墳時代前期の内には、ヤマト王権は高縄半島勢力をガッチリと影響下に置くことができたと考えられます。
もっと時期を厳密にしたいですが、半島西側の妙見山古墳は4世紀初頭の築造で良さそうなものの半島東側の相の谷1号墳の時期が今のところ私も判断できていません。
前方後円墳集成編年ですと2期ですから、妙見山古墳と同じ頃と考えて良いのですが、新しくする考えでは4世紀末と考える研究者もいるようで、今のところ何とも言えません。
相の谷古墳群のある山は、今治城の天守からも見えます。
なお、この2基の古墳には、2022年11月にAICTで2度訪れています。
つづいて、ヤマト王権はさらに西へ勢力拡大を目論みます。
そこで王権がどうしても傘下におさめたかったのが、山口県東部の熊毛半島の勢力です。
※この記事を書いている翌日からは、当該地域の現地講座を行ってきます。
熊毛半島は、現在は陸続きになっていますが、往時は島であり、本州との間にあった古柳井水道を通ると便利でした。
そのため、ヤマト王権は、高縄半島を傘下に収めた後は、熊毛半島勢力を調略するわけですが、まずは島の対岸に橋頭堡を築きます。
それが、柳井市の柳井茶臼山古墳です。
柳井茶臼山古墳は、墳丘長90mを誇る大型の前方後円墳で、4世紀末(中期初頭)の築造と考えられます。
古墳は積極的復元がなされており、上の写真の通り、葺石が施され、円筒埴輪が立て並び、いかにもヤマトの古墳といった外観でした。もちろん、海を臨めます。王権はこの古墳を築き、熊毛半島勢力を威圧したのです。
私の怠慢で、古墳周囲の集落遺跡にまでまだ調査が及んでいないため、王権が元々の在地勢力を取り込んだのか、植民しつつ将軍を送り込んで支配したのかは分かりません。
柳井茶臼山古墳の築造から数十年後、熊毛半島には平生町に白鳥古墳という120mの大型前方後円墳が築造されます。
半島には他にも同じ頃の前方後円墳である神花山古墳なども築造されるため、5世紀前半にはついに熊毛半島勢力はヤマトに屈服したことが分かります。
これによって、ヤマト王権は古柳井水道の制海権を確保することができました。
そしてその次は、関門海峡ということになりますが、これに関しては今はまだ私の中で考えがまとまっていません。
以上、簡単な文章でしたがひとまずこれで終わりにします。
明日からの旅でまた何か分かりましたら追記するかもしれません。