神蹟隠ヶ丘・出雲日御碕灯台・日御碕神社|島根県出雲市【AICT開催レポート】第142次現地講座「古代の山陰に君臨した王たちの実像を追う 出雲と石見の古代史 出雲後編」その3


神蹟隠ヶ丘

 神様は実在の人物がモデルとなって創造されたと考える人がいます。

 果たして神は皆が皆、元々のモデルがいたのかは分かりませんが、日本人が言うところの神は、自然神もありますが、実在の人物が死後に神になったケースが極めて多いです。日本はそういう文化の国なので、スサノオも実在の人物がモデルになって造られた神かも知れません。

 そうだとすると、「人間スサノオ」とは一体何者か。

 多くの人が語る説では、新羅からやってきた人物とされます。

 つまり、半島からやってきた有力者が出雲で勢力を蓄えたと見るわけですが、私もこのラインが一番現実的ではないかと考えます。ただし、こういった話は物証がありませんので、どんなに権威のある学者が語ったとしても、すべてがある種の「トンデモ」です。

 自身の権威に傷がつくことを恐れている偉い先生は、一切語らないという利口な手段を取ります。

 さて、島根半島の西端にある日御碕には、聖蹟ならぬ神蹟隠ヶ丘という場所があります。

 スサノオは、大国主に後事を託し根の国へ行きましたが、そこで柏の葉を取り、「これが止まった所に住もう」と言って放り投げ、それが落ちた場所がこの地とされています。

 

 では、鳥居をくぐって向かいましょう。

 

 緩い上り坂が続きます。

 

 途中にも鳥居があります。

 

 登った先には社殿はありませんでした。

 

 まさに神蹟と言えるような素敵な場所です。

 説明板の場所からは3分くらいで到達しました。

 スサノオは、根の国において住処を探してここに決定したわけですから、この場所は根の国です。

 根の国とは、地下の国とか海底の国といった解釈もありますが、日本が統一国家になる過程で服従した地方王権と解釈することもできます。

 


出雲日御碕灯台

 つづいて私たちは、出雲日御碕灯台へ向かいました。

 

 この辺は観光地になっており、観光客の姿がまばらに見えます。

 日御碕灯台は、明治36年に設置された石造灯台で、海面から灯塔の灯火までは63.3m、地上から塔頂までは、43.65m あり、石造灯台としては日本一高く、国の重要文化財に指定されています。

 

 灯台の周囲は散策路になっており、登る前に歩きつつ下から見上げてみます。

 

 

 

 今日は風が強いため、登れるかどうか分かりませんでしたが、営業していました。

 では、登りますよ。

 

 中は土禁になっていて靴下で螺旋階段を登らないといけないので滑らないように注意しましょう。

 段数が何段あるのか数えていませんでしたが、ちゃんと横に書いてありました。てっぺんまで百六十余段ですから2~3分で登れます。

 ちなみに、よく神社の石段とかの段数を口に出しながら数えて登る方がいますが、私はそういう方をお見掛けすると、そっと横に寄り添い、まったく関係ない数を耳元でささやいて妨害します。

 よって、段数を数えたい方は、くれぐれも私から離れて登るようにしてください。

 

 

 

 

 

 

 

 さ、外に飛び出ますよ。

 

 いくら気持ちが良いからといって飛び降りちゃだめですよ。

 

 風が当たる側に回ると物凄い強風で、まるで台風レポートの現場のようになります。

 

 下から撮っている人を撮る。

 

 知らない人です。

 ひとしきり景色と暴風を楽しんで降ります。

 麓には、無料かつ無人の灯台資料展示室がありますよ。

 

 

 

 灯台楽しかった!

 おやつに焼きイカ。

 

 んまい。

 ビールが欲しいけど運転するからダメです。

 こちらももはや文化財級。

 

 


日御碕神社

 では次に、出雲においてとくに著名な神社の一つである日御碕神社へ向かいます。

 日御碕神社は、『出雲国風土記』「出雲郡」に「美佐伎社」として現れる神社に比定されます。ということは、奈良時代にはすでに神社があったことが文献でも証明できているわけです。

 神社はとかく古いものと思われがちですが、実際のところは意外とそうでもないというのが私の考え方です。でも、日御碕神社は古い神社と考えて間違いないでしょう。

 色鮮やかな楼門をくぐります。

 

 日御碕神社は、日本海の潮風によってすぐに建物がダメージをくらうそうで、補修や塗り直しが大変なようです。楼門は平成26年から27年にかけて塗り直されました。

 境内では寛永12年(1635)の徳川家光の命により建てられた建物群を見ることができ、境内14棟の建物と2基の鳥居は、国の重要文化財に指定されています。

 楼門をくぐってそのまま進むと現れるのは、下の本社・日沉宮(ひしずみのみや)の拝殿です。

 

 日沉宮は、アマテラスを祀っています。

 

 アマテラスは元々はこの近くの文島(経島)に祀らていたのが、天暦2年(948)頃に現在地に遷宮されたとされています。

 日沉宮に向かって右側を見ると一段高い場所にも社殿が見えます。

 

 スサノオを祀る上の本社・神の宮(かむのみや)です。

 

 日御碕神社というのは両宮の総称です。

  

 両宮の建物は似た造りですが、日沉宮の方が一回り大きく造られています。

 スサノオは元々は先ほど訪れた隠ヶ丘に祀られていましたが、安寧天皇13に現在地に遷宮したと伝わっています。

 安寧天皇というと、欠史八代ですね。

 神の宮拝殿前から境内を見下ろします。

 

 楼門の前に向かい合わせで立っている2棟の社殿は、日沉宮の門客人社(もんきゃくじんしゃ)です。

 門客人社は一般的には、門番の役目をする神社とされ、櫛磐間戸神(くしいわまどのかみ)と豊磐間戸神(とよいわまどのかみ)が祀られていますが、門客人社の祭神は、本来の主祭神であった在地の神が外部からやってきた人びとによって下位に貶められたものと考える人がいます。

 また、アラハバキを想起する人もいるでしょう。

 アラハバキというのは、東北地方に多い「謎の神」ですが、門客人社として祭られていることもあるとされます。

 なんで東北の「謎の神」が出雲に?と不思議がる人もいると思いますが、アラハバキは武蔵(東京・埼玉)でも散見でき、アラハバキを抜きにしても、武蔵では出雲の神を祭る神社がものすごく多いです。

 埼玉県大宮の氷川神社という名称と、出雲平野にある斐伊川とを結びつけて考える人もいます。

 出雲・武蔵・奥州が、アラハバキによって繋がる可能性があるのです。

 さて、こういうフニャフニャした話はこの辺でやめておいて、復習がてら神社に掲載されている由緒を読んでみましょう。

 

 神の宮の創建年が安寧天皇13年であるのが史実かどうかは別としても、元々スサノオを祀っていた場所にあとからアマテラスがやってきたという前後関係だけは確実だと思います。

 でもアマテラスは日本国家の神ですから、アマテラスの社殿の方が大きい。

 しかし、元々の神であるスサノオを敬うために高い場所に社殿を築いている。

 そして実は本来のこの地の神かもしれない存在が、門客人社という名称でひっそりと祀られている。

 ということになろうかと思います。

 さて、さきほど日御碕に向かっている時、日御碕神社の社殿類が見下ろせるポイントがあることに気づいたので、そこへ向かってみます。

 さっき見たのはこれだ。

 

 なかなか素敵な光景です。

 晴れていたらバックの海ももう少し綺麗に見れたかも知れませんね。

 



 

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