最終更新日:2024年7月16日
古代史をやっていると様々な考古遺物に興味を持ちます。しかし、個人的に今一知識が深まらないものもあって、その一つが銅鐸です。
銅鐸について今まで突っ込んで考えてこなかった理由としては、私が坂東の人間だからでしょう。関東地方は銅鐸の文化圏ではないため、関東各地の博物館や郷土資料館などを見学しても銅鐸の展示はほとんどありません。
また、西日本に出かけて行った時には当然対面する機会が多いのですが、意外と写真撮影がNGなこともあって、撮影可能としても大きい銅鐸になるとケースが反射してうまく写真が撮れなかったりします。複製品の展示も多いですし、こういうことも銅鐸に対するモチヴェーションが上がらなかった要因だと思います。
ということで、今までは気分が乗らなかったのですが、先日、AICTで浜松に行って銅鐸を見て、そのあと久しぶりに出雲に行ったらちょっと銅鐸気分になってきました。
関東地方ではあまりお目に掛かれない銅鐸ですが、東京国立博物館や全国各地で発掘調査を行っている大学の博物館には展示があります。
本ページでは、東京国立博物館、國學院大學博物館、明治大学博物館に展示してある銅鐸を簡単に紹介ます。
※なお、各施設は展示替えがあったりするので、本ページで紹介する遺物が現在展示されているかどうかは分かりません。
銅鐸の型式
ところで、その前に型式について説明します。
あとで型式ごとに具体的な銅鐸をお見せしますが、銅鐸は大きく4つの型式に分かれます。古い順から、菱環鈕(りょうかんちゅう)式、外縁付鈕(がいえんつきちゅう)式、扁平鈕(へんぺいちゅう)式、突線鈕(とっせんちゅう)式です。
神戸市立博物館に分かりやすい展示パネルがあります。
上図にも記されている通り、銅鐸の部分を大きく分けると、上の部分の把手のような薄っぺらい部分を鈕(ちゅう)と呼び、膨らんでいる本体部分を身(み)と呼び、またバリのような周辺の薄い部分を鰭(ひれ)と呼びます。最初期の菱環鈕式の段階では、まだ鰭はありませんね。
東京国立博物館展示の銅鐸
以下は平成館に展示されています。
菱環鈕式銅鐸
菱環鈕式銅鐸は、弥生時代前期に登場した最古の型式の銅鐸で、全国で11個しか見つかっていません。
その一つがトーハク平成館にあります。
ただし、出土地は分からないようです。
外縁付鈕式銅鐸
弥生時代中期前半の頃の型式です。
キャプションには「御所市名柄字田中出土 外縁付鈕2式銅鐸」とあります。
まず、出土地ですが、単に地名が書いてあるだけで遺跡名がありません。もしかすると、正確な出土地点が分からなくなっているのかもしれません。
また、外縁付鈕2式とありますが、外縁付鈕式をさらに細分化した2番目の物という意味です。
表面につけられた文様に関しては、ちょっとこれは状態が良くないのですが、こういう文様を流水文と呼びます。代表的な文様としては、他には袈裟襷文(けさだすきもん)がありますが、分かりやすいものを次に示します。
扁平鈕式銅鐸
弥生時代中期後半から後期前半にかけては、扁平鈕式が造られました。
伝香川県出土の銅鐸です。
身全体の文様を見ると、四角く区画されているのが分かります。これが袈裟襷文です。片面の区画の数で言うと、これは六区と呼びます。他に、四区や八区もあります。
しかもこれは区画の中に画が描かれていますね。銅鐸は日本全国で500個くらい見つかっていますが、こういった絵画銅鐸は全体の1割程度です。
突線鈕式銅鐸
つづいては、いかにも銅鐸!といえるような立派な銅鐸です。
後期後半に登場する突線鈕式銅鐸で、和歌山県みなべ町西本庄字桑谷出土の突線鈕4式銅鐸です。
こちらは、大岩山(後述)出土の突線鈕5式銅鐸です。
写真だと大きさが分からないので申し訳ないですが、こちらは高さ134.7㎝、重さ45.47㎏あって、現存するものとしては日本最大の銅鐸です。
身の部分には八区あって、伝香川県出土銅鐸と違うのは、こちらには区画の中に絵がありません。
身の両サイドのある鰭に飾耳があるのも特徴です。
この銅鐸は、突線鈕式をさらに細分化した時の5式で、最新の銅鐸です。この見事な銅鐸の製作をもって、銅鐸祭祀は日本から突如として消滅しました。
出土地の大岩山は滋賀県野洲市にあり、合計24個の銅鐸が見つかっており、一つの場所から出た数としては、島根県雲南市の加茂岩倉遺跡の39個についで日本で2番目です。
なお、野洲市には銅鐸博物館(野洲市歴史民俗資料館)があります。私が以前訪れたときは、展示室内は写真撮影NGなので非常に残念に思ったのですが、2024年7月に訪れた人の話によると、写真撮影OKだったそうです。
トーハク平成館には、もう一つ立派な銅鐸がありました。
川西市加茂1丁目15出土の突線鈕5式銅鐸です。
一見、さきほどの銅鐸と見分けがつきませんが、同じ頃に制作された銅鐸です。
近畿式銅鐸と三遠式銅鐸
現在のところ、銅鐸の生産は畿内がもっとも盛んであったと見られますが、他に、北部九州や出雲での生産が知られており、また、濃尾平野でも造られていました。
濃尾平野で造られた銅鐸は、とくに三河東部から遠江西部にかけて多く見つかり、それを三遠式(さんえんしき)銅鐸と呼びます。
近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の外見上の最も分かりやすい違いは、三遠式銅鐸には突線鈕式銅鐸に耳飾がありません。
本館の方に優品が展示してあります。
國學院大學博物館
ではつぎに、渋谷区の國學院大學博物館を見てみましょう。
手元には1つだけ写真がありました。
複製品ですが、伝大岩山遺跡出土の袈裟襷文銅鐸です。
突線鈕1式ですので、突線鈕式の中では最古段階に当たります。
大岩山遺跡の調査は2度行われており、最初は明治14年(1881)のことで、そのとき出土した銅鐸は行方が分からなくなっているものがあるようです。そんなこともあり、この銅鐸は「大岩山で出土した可能性が指摘されている」とされるに留まっています。
明治大学博物館
では最後は、千代田区の明治大学博物館です。
3個の銅鐸が展示されていますが、私は明大博物館には何度も行っているのに、手元の写真を見たら13年前に初めて行ったときしか撮影していません。私が今まで銅鐸に関心が無かったことの表れですね。
四区袈裟襷文銅鐸。
こちらも四区袈裟襷文銅鐸。突線鈕式です。
これら2個は出土地が書いてありません(キャプションには書いていない)。
そして、こちらは、伝福井県出土というかなり大雑把な出土地ですが、流水文銅鐸で、外縁付鈕式です。
以上、都心でお目にかかることができる銅鐸について簡単に紹介しました。
美術館にもあったりするので、探せばまだまだたくさんあるはずです(ただし、美術館だと写真撮影はNGでしょう)。
機会があればもう少し詳しく書きたいと思います。