最終更新日:2024年7月16日
弥生時代中期前半まで
まずは弥生時代の時期区分と実年代について。いろいろ異論はあると思うが、佐倉の国立歴史民俗博物館のものを示す。自分なりの年代観をお持ちでない方は参考にされたし。
北部九州で灌漑稲作が始まり、それが列島各地に波及していくが、その第一波が及んだことを知るには、遠賀川式(系)土器を追うのが一つの手であろう。
それにより、太平洋側の場合は、濃尾平野までは灌漑稲作が一気に波及したことが分かる。それと同じ頃、三河では水神平式土器を使う集団がいて、彼らも小規模な稲作を行っていた。
そこよりさらに東の関東地方では、遠賀川系土器の出土は非常に少なく、灌漑稲作の第一波のムーヴメントは実質的には及ばなかったと考えて良い(日本海側は青森県の津軽平野まで第一波が及んでいる)。
長野県域の場合は、弥生前期には長野市の篠ノ井遺跡群や塩崎遺跡群伊勢宮地点、新諏訪町遺跡から遠賀川式(系)土器が出土するが、後述する通り、本格的な稲作開始は中期後半からである。
なお、飯田市石行(いしぎょう)遺跡から出土した弥生早期の土器には籾跡があることから、早い時期に飯田市において灌漑稲作が始まっていたと考える向きもあるが確実なところは分からない。
中期前半になると、稲穂を摘む道具である磨製石包丁と、灌漑稲作に使用されたアイテムである大陸系磨製石斧が出土するようになる。水田跡が検出されなくても、こういった稲作関連の道具が出てくると、稲作を行っていた可能性が十分に高まる(手元に長野県出土の良い写真がないので千葉県出土のものを掲載する)。
ちなみには、大陸系磨製石斧のなかで、太形蛤刃(ふとがたはまぐりば)石斧は、樹木の伐採やその荒割に使用する。
扁平片刃石斧や柱状片刃石斧は、板材を加工して矢板を作ったり、鋤や鍬などの農具を仕上げるために使う。
こういったものの出土が、灌漑稲作が行われていたことの証になり得るのだ。
弥生時代中期前半までの長野県は、同時期の西日本の弥生文化と比べると、縄文時代後・晩期以来の伝統が色濃く残るが、少しずつ「弥生化」が進行していった。
弥生時代中期後半
中部高地史上最大の勢力を誇った栗林式土器
長野県北部では、前期には在来の氷式土器の伝統を持つ土器が流行っていたが、中期初頭になると三河の水神平式土器の系譜である条痕文土器が現れる。そして、中期後半、長野県を代表する土器型式の一つである栗林式土器が登場する。
栗林式土器は、長野県中野市の栗林遺跡が標式遺跡である。千曲川流域を本貫地として北信と東信に分布し、県内では松本盆地の百瀬式土器や諏訪盆地の天王垣外(てんのうがいと)式土器もその仲間で、さらには千曲川下流の新潟県の信濃川流域にまでその勢力が伸び、群馬県から埼玉県北西部に展開した竜見町式土器もまた栗林式土器の仲間とされる。
栗林式土器や類似した土器は、さらには関東各地や福島、そして静岡などでも少量みつかっている。このような大勢力を形成したのが栗林式土器であり、中部高地型櫛描文文化圏とも言われる。
それまでの土器と栗林式土器は、パッと見は似ている。器種としては、細長く頸がすぼまった壺や、口縁部が開きぎみの甕が多く見られる。文様は、壺の場合は太い棒状のもので沈線を引いたり、縄文を施したりする。甕の場合は、羽状縄文が多い。
ところが、製作技法となると西からの影響を受けて、壺・甕の口縁部を内外面から指で強くはさんで横びきして口縁を外開きにする成形技術や土器の外側下半分を縦方向に磨いたり、土器の形を最終的に仕上げる際にハケメ整形が施されるようになった。
なお、埼玉県域に進出した栗林式土器は、南関東の雄である宮ノ台式土器文化圏と比企の辺りで境を接することになる。
柳沢遺跡での青銅器の発見
長野県中野市にある柳沢遺跡は、平成18年度からの発掘調査によって大きな成果を上げた。竪穴住居跡は、中期後半のものが5軒と後期のものが1軒、墓としては、礫床木棺墓群が2か所と土器棺墓が1基。中部高地独特の礫床木棺墓については後述する。
水田跡も見つかっているが、この遺跡をとくに有名にさせたのが、青銅器埋納坑が見つかったことである。なんと、銅鐸5点と銅戈8点が見つかったのだ。その時期は、概ね中期後半。
銅鐸と銅戈が一緒に埋められていた事例は、全国で2例目で、銅鐸5個という数は、一か所から出土した数としては全国で6番目に多い数である(*)。従来は長野県は銅鐸文化圏には含まれないと考えられていたのだが、これによって銅鐸文化圏がもっと広がっていたことが分かった。銅鐸は濃尾平野にルーツを持つ三遠式である。
※1位:島根県・加茂岩倉銅鐸の39個、2位:滋賀県・大岩山銅鐸の24個、3位:兵庫県・桜ケ丘銅鐸の14個、4位:兵庫県・松帆銅鐸の7個、5位:調査中(浜松あたりか?)
銅戈の方は、北部九州で見られるデザインの物と畿内で見られる物の両方が見つかり、この両者が同じ場所から見つかったケースとしては日本初となった。
他に、長野県内で見つかった中期後半に遡る可能性がある青銅器に関しては、以下の物がある。
・戸倉町の若宮箭塚(やづか)遺跡の細形銅剣 ・・・ 剣身先端側の半分が折れた品を再加工。切先側は研ぎなおし、根元には茎部を作り出し、柄を装着するための穿孔を施した。
・伝北安曇郡小谷(おたり)村出土の銅戈(大町市の海ノ口神社所蔵) ・・・ 大阪湾型銅戈の系統をひく完形品。
・佐久市社宮司(しゃぐうじ)遺跡の多鈕細文鏡片垂飾 ・・・ 多鈕細文鏡の破片を再加工してペンダントとしたもので、多鈕細文鏡自体、日本で12例しか見つかっておらず、東日本ではこれ一点のみ。
・塩崎遺跡松節地点出土の異形銅剣(中期末以後か) ・・・ 身部切先側の破片。
ちなみに、上述の若宮箭塚遺跡例のように、西日本同様、青銅器を再加工したケースもあるが、長野市の松原遺跡で3つ見つかった石戈のなかのひとつは、欠損した刃部の切先側を再加工して斧刃を研ぎだしている。石製品も青銅器と同様な再加工が施されたケースがあるわけだ。
松原遺跡の出土遺物ではないが良く似たものがあるので掲載する。
中部高地の人口増大化
前項で登場した松原遺跡は、縄文時代から中世に渡る複合遺跡だが、とくに栗林期の弥生中期後葉には、南北800m×東西300mの規模を有し、幅4mを超える断面V字形の溝などによって囲まれた環濠集落となり、全国的に見ても屈指の大規模集落として稼働していた。
検出された建物跡は、竪穴式、平地式、掘立柱を併せて550軒以上だが、発掘面積は集落全体の2~2.5割程度と考えられており、2000軒を超える建物があったと推定されている。その時期の集落の存続年間が100年間だとしたら、同時期に400軒だろうか。もしそうだとすると人口は2000人か。異常な規模である。
松原遺跡以外でも、長野では遺跡の巨大化が進んでおり、それはイコール人口の増大を示している。この人口増大期に、栗林式土器文化圏は上述したように関東地方などの広域に展開して、埼玉県では、南関東の宮ノ台式土器文化圏と覇権を争うような状況になったのである。
しかし後述するように、現代の長野県民が知ったら驚くような中部高地由来の一大文化圏の栄華は、そう長くは続かなかった。
中部高地独自の墓制・礫床木棺墓
長野県域では、栗林式期に、元々あった在来の墓制の要素を残しながら、あらたな墓制として礫床木棺墓(れきしょうもっかんぼ)が生まれた。
礫床木棺墓は、長方形の掘り方の底に小石(礫)を敷いて床面を造り、組合式木棺の要領で四方に板を立てて木棺を構築し、土を盛って埋葬する墓と考えられている。
上述した柳沢遺跡では、二十数基見つかった礫床木棺墓の中で1号墓の構造が他と異なっている。長さ1.4m×幅 0.6mの礫床木棺を安置するところまでは通有のやり方だが、他と異なるのは、その外側を大きめの河原石でまるで古墳時代の石槨のように長さ2.5mの方形に取り囲んでいることだ。
1号墓からは、緑色や赤色の細形管玉が70点以上出土しており、一つの墓から出土した細形管玉の数としては県内最多となる。普通に考えたら1号墓の被葬者は特別な人物であると考えられ、北部九州でクニの誕生が相次いだ弥生時代中期後半という時代を鑑みると、地域を統べる有力者の存在が想起できる。
弥生時代の墓制と言ったら、方形周溝墓を思い浮かべる人が多いだろう。中期後半には、関東地方の概ね栃木県と茨城県を除く範囲で、西の文化である方形周溝墓が造られ始めるが、それらは灌漑稲作の導入と同期している場合が多い。
ところが、長野県域でも中期後半には灌漑稲作が本格導入されたわけだが、なぜか方形周溝墓は受け入れなかった(方形周溝墓は、遅れて後期になって導入される)。長野県域は墓制においては特殊な地域であり、この特殊性は、本論の範囲ではないが、古墳時代前期の独特な古墳たちにも受け継がれているような気がする。
弥生時代後期
赤い土器・箱清水式土器の世界
弥生後期の初頭は、列島各地で大きな社会的・文化的変化が起こった時代として認識されており、変革の時代とも言われる。古気候学や中国の正史を参照すると、紀元前後から紀元1世紀第1四半期には気候は大きく寒冷化した。中国では、前漢王朝の滅亡と新王朝の樹立、そしてわずか15年で新王朝が滅んで後漢王朝が大陸での覇権を制するという大きな社会変動があった。そういった気候変動や政治的大事件が日本列島にも影響を及ぼしたことは容易に想像できる。
前節で述べた通り、弥生中期後半の中部高地から関東北~西部は、栗林式土器勢力の天下であり、南関東には宮ノ台式土器勢力が大きく繁茂していた。それらの勢力が、後期初頭頃、一気に力を失うのである。東国の場合は西日本と違って中国王朝の盛衰の直接的な影響は被らないとしても、気候の寒冷化の影響は大きかっただろう。
そんな時期、長野県域の北半の千曲川・犀川流域において栗林式土器の後継として現れたのが、「赤い土器」と称されることのある箱清水式土器である。煮炊きの道具である甕は別として、壺・鉢・高坏は、土器の表面を丁寧に研磨したあとベンガラを使用して赤く塗っている。
前代の栗林式土器以来の櫛描文を踏襲し、甕は器面全体に櫛描文を施し、壺の場合は首の部分を櫛描文で施している。この時代の櫛描文は近畿地方がルーツだと考えられるが、近畿地方と違うのは、上から土器を見たときに時計回りの方向に文様を何度も継ぎ足していることで、これは中部高地型と呼ばれる。壺と甕では構図が異なり、壺では横線を縦に切るT字文、甕では頸に簾状文、口縁と胴部に波状文を施す。
既述した通り、栗林式土器は周辺地域に大きく勢力を伸ばしたが、箱清水式土器も新潟県南部に進出し、群馬県域の樽式土器、埼玉県西部地域の岩鼻式、それに神奈川県北部地域の朝光寺原式土器も中部高地型櫛描文を採用しており、兄弟関係にあるとされる。これらの地域は、土器が似ているだけでなく、鉄剣や鉄釧を墓に副葬する文化も共有しており、一つの文化圏を形成していたと考えていいだろう。
この箱清水式土器文化圏に対し、長野県南部の伊那谷では、座光寺原・中島式土器というまったく様相の異なる土器が流行した。弥生時代後期の長野県は大きく北と南で別個の文化が繁栄したわけだ。
「赤い土器」の箱清水式土器とその周辺の土器文化圏は下図を見ると分かりやすい。
ちなみに、「家下・金の尾」とあるが、金の尾遺跡は山梨県甲斐市に所在する後期の集落跡と墓域からなる遺跡で、場所は甲府駅から小淵沢方面に一駅乗った竜王駅の近くである。山梨県では弥生時代の集落の実態が分かる遺跡がほとんどなく、山梨県における非常に重要な遺跡と位置付けられている。
参考文献
・『長野市誌 第2巻 歴史編 原始・古代・中世』
・『稲作とクニの誕生 信州と北部九州』(長野県立歴史館/編)
・『佐久考古通信 No.119』(佐久考古学会/編)
・『北西関東における弥生後期の遺跡動態と環境変動』(若狭徹/著)
・『赤い土器の世界』(静岡市登呂博物館/編)
・「信州の遺跡 各号」(長野県埋蔵文化財センター/編)
・「柳沢遺跡の調査成果」(長野県埋蔵文化財センター・鶴田典昭/著)