最終更新日:2024年8月27日
目次
北海道の旧石器時代と縄文時代
※北海道の旧石器時代や縄文時代に関しては、本サイト内の「旧石器時代」のページ以降をお読みください。なお、当該ページは話題が列島各地に及んでいるため、北海道だけについて知りたいときは冗長すぎますが、その点はご了承ください。
縄文晩期後半、道南は北東北の亀ヶ岡文化の影響を受けたが、道東や道北では、在地系の縄文土器群である幣舞(ぬさまい)式や緑ヶ岡式土器が成立した。これらの土器にはのちの続縄文文化の母体となる要素が多く見いだされる。
北海道の続縄文時代
支配階級が誕生した続縄文時代
続縄文時代の開始時期を実年代で表すと、紀元前4世紀や紀元前3世紀とする研究者が多いが、本稿では紀元前4世紀として論を進める。7世紀には擦文文化へと切り替わっていく。また、この間、5世紀からは道北・道東にてオホーツク文化が栄え始める。
続縄文時代はその名からは縄文時代の延長のような印象を持つかもしれないが、そういう面もありながら新しい面もある。例えば、縄文時代は墓への副葬品は目立たなかったが、続縄文時代には多数の副葬品を収めた墓が現れ、一部の墓は他の多くの墓と比べて際立って多くの副葬品が収められているケースもあり(多副葬墓)、社会にはある程度の階層化が認められる。縄文時代というと、のんびりとした「みんな仲良しで平等」的なイメージが浮かぶかもしれないが、続縄文時代には支配層が生まれていたことが状況的に推測できる。
常呂川河口遺跡墓坑出土品の時代は、まさに多副葬墓が盛んだった時代だ。例えば、宇津内Ⅱa式期(紀元前3~2世紀)の470号墓壙からは2400個のサハリン産の琥珀玉を使って作った大小2組の首飾りなど、同時期の道内ではトップクラスの豪華な副葬品が見つかり、被葬者は相当な力を持っていたことが分かる。
続縄文時代という平等社会をイメージさせるような呼び方とは裏腹に、西日本でクニが誕生していたのと同じ頃、道東でも相当な力を持った支配者の存在が想起できる。
続縄文時代の住居
関東地方では、縄文時代中期以降、柄鏡形敷石住居といって、平面形がその名の通り、柄鏡のような形状の家が造られる。北海道では、縄文時代晩期から続縄文時代前半にかけて、それと似た形状のものとして、「柄」の部分がさらに伸びた平面形の住居が造られた(地元では「フライパンのような」と表現したりする)。例えば、北見市・栄浦第二遺跡の13号竪穴は、居住部分の7.5m×6.5mの場所から長さ8m、幅1.5mの長大な張り出しが付いている。この張り出し部分は住居の出入口(玄関)であるので、寒冷地に適した形状だ。こういった竪穴住居は、続縄文時代前半に流行する。
下図は、道央の江別市・旧豊平河畔遺跡の遺構平面図。
続縄文時代の後期以降には、土器が斉一化され、また竪穴住居跡がほとんど確認されなくなるため、平地式の建物に変わった可能性が高く、そうなると旧石器時代のような遊動生活再び戻り、簡易的な建物での生活に戻ったとする考えもある。
続縄文時代の土器
続縄文時代の土器編年を以下に示す。
続縄文土器には北大式と呼ばれている土器群があるが、型式としては認められていないため、上図のように円筒・刺突文土器群と呼称する研究者もいる。そのため、上図にはその対応も記しておいた(本稿では北大式という呼称を使用する)。また、早期や前期といった時期区分の使い方や実年代の当てはめ方も研究者によって異なるので、適宜読み替えて欲しい。
① 早期(紀元前4世紀~紀元前3世紀)
この時代は、青森県以南では弥生時代にあたるが、北海道では稲作が行われず、縄文時代と同様な狩猟採集のライフスタイルが続き、土器には引き続き縄文を施文しているため、続縄文時代という呼び方がされる。いつまでが縄文時代で、いつからが続縄文時代なのかは、例えば道央の江別市郷土資料館では、タンネトウL式土器は縄文晩期、大狩部式土器は続縄文時代初頭とする。
下の集合写真の向かって一番左の上下の2個が大狩部式土器である。
同じ頃、道東部の網走地域では元町2式が、釧路地域では興津(おこつ)式が作られる。
興津式土器には蛙のようなものが器面にぺったり張り付いたものもある。
時代はかなり後になるが、オホーツク式土器の器面にも海獣や鳥の造形が貼り付くものがあるので、道東の自然の中で暮らしていると、こういうものが造りたくなるのかもしれない。
このあと道東では、釧路地方の下田ノ沢Ⅰ式と北見地方の宇津内Ⅱa式が併行し、つづいて、釧路地方の下田ノ沢Ⅱ式と北見地方の宇津内Ⅱb式が併行する。
② 前期(紀元前2世紀~紀元1世紀)
この頃、道南の渡島半島に恵山文化が発祥した。火山である恵山にほど近い場所にある北海道指定史跡・恵山貝塚は著名な遺跡である。恵山文化の人たちは、縄文時代の人たち以上に海の幸の恩恵にあずかっており、同じ恵山文化圏にある有珠モシリ遺跡から出土した人骨の調査結果によると、生前摂取していたタンパク質の割合は、海産大型動物が42%、魚介類が35%であった。反対に陸の動物は3%しかない。
恵山式土器群は、恵山貝塚を標識とする土器で、恵山1式、同2式、同3式の順に編年される。土器の特徴としては、帯状と縞状の縄文をベースに上半部に平行や鋸歯状の沈線文を施し、口縁部が外側に広がっていることにある。
恵山式土器群に分類されるアヨロ2a式土器は、道央部への進出を果たし、次のアヨロ2b式土器は、道央全体に広まり、道央には道東の文化も見え隠れしていることから、各勢力がせめぎあう様相を見て取れる。例えてみれば、函館のラッキーピエロが札幌に進出したことにより、道央のマックの業績が悪化したようなものだ。
地元民の説では、ラッキーピエロが函館から出ることは無いということなので、これは例え話に過ぎないが、話を戻して、手元には恵庭市郷土資料館で撮影してきた、単に「恵山式」と表示された土器の写真がある。これもアヨロ2式土器だろうか?
これ以外にも、恵庭市郷土資料館には、「前半の土器」として以下の土器が展示してあった。
③ 中期(2世紀) ~後北/江別A式、同B式の時代~
恵山文化圏の道南部ではこれまでの流れで恵山4式が造られるが、同じ頃、各勢力がせめぎあっていた道央では、後北A式、つづいて同B式という土器を造る文化が発生していた。これらの土器のことを江別市では江別式土器(あるいは江別太式)と呼び、この土器を使う文化のことを江別文化と呼ぶ。
後北A、B、C1、C2・D式と、江別A、B、C1、C2・D式は、それぞれ同じものを指す。本稿では両方の呼称が出てきてややこしいと思うが、適宜読み替えて欲しい。なお、後北式は、「後期北海道式薄手縄文土器」の略称で、以前は「前期」もあったがすでに型式名が消滅している。
後北B式は、「江別文化の成立と発展」では、坊主山1式と呼んでいる。
後北B式は、古式と新式に分けられ、これまでの特徴であった沈線文は完全に消滅。器形は、これまでは深鉢形のみだったが、壺形や浅鉢形も現れる。
後北B式が造られた中期後半は、竪穴住居が急激に減っていくため、おそらく住居は平地式に切り替わっていったと考えられる。この時期、江別文化は概ね北海道全体に分布域を拡大する。
下図の「B式」と書かれている勢力範囲が、この時期の江別文化の勢力範囲である。
後北B式の新式は、『新北海道の古代2 続縄文・オホーツク文化』(野村崇・宇田川洋/編)所収「江別文化の成立と発展」では、坊主山2式と呼んでいる。貼付文がより細くなり、疑縄隆起線文と呼ばれる。
④ 後期前半(3世紀) ~後北/江別C1、同C2・D式の時代~
後期の江別文化圏では、後北C1式が出現する。実年代は、3世紀(「オホーツク文化の土器・石器・骨角器」<右代啓視/著>)。
この頃になると、道北の先端の狭い地域で鈴谷式土器を使う勢力がいたほかは(下図のイメージとは少し異なる)、北海道は江別文化に席巻されてしまい、なおかつ、江別文化は北東北にまで進出した。
土器が北海道全体で斉一化されていくなかで、稚内地方に混ざって存在する鈴谷式土器は、サハリンの鈴谷貝塚が標式で、大陸極東地方で伝統的な櫛目文様を持ち、サハリン南部から中部にかけた地域が中心分布域である。
下の図の「C1式」がこの頃の江別文化の勢力圏だ。
この頃、本州以南では弥生時代から古墳時代に移り変わる。弥生時代は、北東北一円で弥生土器が見つかるため、変な言い回しになるが、「弥生時代の北東北はちゃんと弥生時代」だった(つまり、北東北で続縄文土器が見つかった場合は、それは、弥生末から古墳時代の物である確率が非常に高い)。
ところが、弥生文化に覆われた北東北では、弥生末期の2世紀の頃から弥生人の暮らした集落跡がかなり少なくなる。この頃から、気候は寒冷化に向かったと言われている。
状況的には、後北C1式土器勢力の南下は、弥生人が気候の寒冷化によって南へ逃れたのとリンクする。
ただし、後北C1式土器勢力の痕跡としては、墓壙と土器片は見つかるが、住居跡はほとんど見つからない(北東北で住居跡の検出が少ない状況は5世紀前半まで続く)。そのため、後北C1式土器勢力は、痕跡が残りづらい平地建物に住んでいたと考える研究者もいる。
なお、続縄文人の墓は、楕円形の土抗墓で、両端にそれぞれ1~2個の柱穴があるか、片方だけに柱穴があるのが特徴で、秋田県能代市の寒川Ⅱ遺跡では、弥生時代末期の続縄文系の墓が6基見つかっている(少し先の話になるが、北東北においては、7世紀以降にはこういった続縄文系の墓は見つからなくなる、それは末期古墳の築造時期と重なる)。
続縄文時代の時代区分に関しては、北海道大学の高瀬克範氏の考古学講座のレジュメをもとに、早期、前期、中期、後期、晩期の5期に分け、そのうち、早期、前期、中期を「前半」、後期、晩期を「後半」とする。さらに後期と晩期はそれぞれ2つに分割して、以下に7つの時代に分けて考察する。
⑤ 後期後半(4世紀) ~後北/江別C2・D式の時代~
後期後半の4世紀には、後北C2・D式が登場。この時期、江別文化はさらに勢力を拡大し、福島県北部~新潟県北部あたりのラインにまで進出した(ただし、後北C2・D式の古手の物は庄内式期と併行するという考えもあって、そうなると3世紀まで遡る)。これは、アイヌ語の分布圏に相当することから、宮城・福島県辺りまでアイヌ語地名を付けて行ったのは、江別文化の人たちであるといえる。
この時代、続縄文文化人(江別文化人)が南下した南限と、ヤマト王権のフロンティアの地域は重なっており、北は北上川中流域から南は大崎平野までの南北約60㎞におよぶ範囲で、両文化の考古資料が混ぜこぜで見つかり、互いが敵対していた様相は見えない。宮城県域では、古墳文化人によって前方後円墳が築造されているのを近くに住んでいる続縄文人が見て驚いたこともあったであろう。
両者は交易によって結びついており、例えば双方の有力者同士が婚姻関係にあった可能性もゼロとは言えないだろう。盛岡市の永福寺山遺跡では、続縄文系の土坑墓が7基見つかり、後北C2・D式土器と古墳時代の土師器である塩釜式が一緒に出土している。
続縄文文化人は適当な場所に住んだわけではなく、下図の通り、黒曜石の産地の近くで活動した傾向が看取できる。
彼らの日常の道具は石器であるが、黒曜石製の石器はとくに皮革加工に使われた。北海道は黒曜石が豊富なため、彼らは伝統的に黒曜石を好んだのだろう。東北に多い頁岩(けつがん)を見て、「なにこのダッサイの」と思ったかもしれない。また、黒曜石で意味不明な形状のもの(異形石器)を作って、墓に副葬もした。
ヤマト王権の北進の理由の一つは、続縄文人と交易をするためだったはずで、一方の続縄文人の南下も、この時代の気候の寒冷化も指摘されているが、それよりも王権のフロンティアの人たちと交易することが一番の目的であっただろう。
また、おおよそ全国的には古墳時代中期にその地域での最大の前方後円墳造られる傾向にあるが、東北地方ではそのブームが前期の4世紀後半になっている。これは、続縄文人が住んでいる近くに大型の前方後円墳を築造することによって、王権の力強さをアピールする目的もあったのではないかと考える。
アイヌ語地名といっても、アイヌは中世以降の存在であるので、正確にはアイヌの先祖が付けた地名である。アイヌの先祖をひとつに絞ることはできず、例えば本稿で述べている江別文化人もそのひとつであろう。その江別文化人が南下し、反対に古墳文化人が北上してお互い交わったことによって、口伝えにアイヌ語地名が古墳文化人に伝わったと考えられる。
面白いのは古墳文化人が江別文化人が呼んでいた地名を積極的に吸収したことだ。アイヌ語地名を記号的に覚えるのはちょっと難しいため、古墳文化人も積極的にアイヌ語を勉強していたように思える。そして、時代は下るが、エミシの英雄・アテルイなどの個人名もアイヌ語説があり、もしそうだとすると、北に移り住んだ人たちは、名詞に関しては、北の言葉を使うことをアイデンティティとする傾向にあったのかもしれない。
なお、元々はC2式とD式が別の型式としてあったが、その後の研究により両者に時間差は認められないとして、C2・D式と呼ばれるようになった。「江別文化の成立と発展」では、坊主山4式と呼んでいる。
⑥ 晩期前半(5世紀) ~北大Ⅰ式土器の時代~
晩期の前半には、続縄文人は北大Ⅰ式土器を造った。
北大Ⅰ式の実年代は5世紀(古手の物は4世紀後半にまで遡る)で、5世紀後半には岩手県内で唯一の前方後円墳である角塚古墳(奥州市)が築造され、胆江地方の勢力もヤマト王権の影響下に入ったことが分かる。
角塚古墳のすぐ近くには同時代の豪族居館跡(中半入遺跡)も見つかっていることから、この地は古墳文化の範囲内に入ったことが分かるが、角塚古墳の後継古墳は築造されず、おそらく角塚古墳の被葬者一代限りの王権所属ではなかろうか。
⑦ 晩期後半(6世紀) ~北大Ⅱ式土器の時代~
5世紀後半から6世紀末までの1.5世紀の間、北東北では古墳文化人の生活の痕跡が少なくなる。
6世紀の北大Ⅱ式の時代は、古墳文化人も国造の分布から見ると、宮城県南部の阿武隈川河口周辺までは進出したものの、それより北には進出しなかった可能性が高い。
一方、この時期の続縄文人の痕跡は下図の通りだ。
北東北での続縄文人の活動も低調になっていることが分かる。
この時代のヤマトでは継体天皇やその後継の天皇たちによって、列島各地に国造制を推し進めるとともに、朝廷の直轄地である屯倉の設置に力を注ぐようになった。
⑧ 擦文文化への移行(7世紀)
7世紀になると、江別文化は急激に衰退する。いや、衰退というよりかは、変容と言った方がいいかもしれない。この時期には、ついに「続縄文時代」が終焉を迎え、「擦文時代」が始まりつつある。
645年の乙巳の変以降の改新政府による城柵設置に先立ち、仙台市太白区の郡山遺跡ではⅠ期官衙に先行する竪穴住居跡から関東系の土師器が出土している。6世紀末から7世紀中葉の土師器で、千葉県印旛沼周辺の遺跡で出土する土師器に酷似している。郡山遺跡に隣接している南小泉遺跡は、弥生時代から古墳時代にかけての仙台平野最大の集落跡で関東系の土器が出土するが、6世紀末葉から7世紀初頭に掘られたと考えられる大溝も見つかっており、郡山遺跡に先行して倭王権が東北経略を推し進めていた可能性が高い。
時代的には大化改新前の蘇我氏が政権を運営していた時代なので、蘇我氏が東北経略を推し進めていた可能性が高く、その際、協力したのが関東の国造たちで、郡山遺跡には印波国造が進出していた可能性が高い。
日本書紀によれば、改新政府によって越の国に渟足柵と磐舟柵が造営されているが、太平洋側でも同じ頃に、仙台市太白区の郡山遺跡で、第一次陸奥国府に先行する城柵遺構が見つかっている。
また、同じく日本書紀の斉明紀によると、阿倍比羅夫(あべのひらぶ)が王権の命令により船団を率いて北方へ遠征した(斉明紀の干支を単純に西暦にすると658~660年)。遠征先では蝦夷は支配下に入ったが、蝦夷と敵対していた粛慎とは交戦した。粛慎とはオホーツク人のことと考えられ、彼らが本拠地とした幣賂弁嶋(へろべのしま)は奥尻島で、青苗砂丘遺跡がその拠点である可能性が高い。考古学的に見てもこの時期以降、オホーツク人はオホーツク海沿岸に撤退し、続縄文人の居住域は安定化しており、日本書紀の記述と整合性がある。
このように、7世紀後半から朝廷の東北進出は活発化し、それが続縄文人に影響し、擦文化が進んでいった。「擦文文化の成立過程と秋田城交易」(鈴木琢也/著)によると、北海道では、8世紀を画期として墓制・葬送、土器型式・組成などが大きく変化するが、その前段階として、上述の阿倍比羅夫の遠征などがあった。
北東北では7世紀に末期古墳の築造が始まるが、北海道でも8世紀に石狩低地帯で末期古墳が築造される。ただし、在地の墓制も残っており、両者の大きな違いは、末期古墳は伸展葬だが、在地の墓制は以前からの伝統である側臥屈葬である。末期古墳を築造した人びとは、北東北から石狩低地帯に進出してきた古墳文化人であろう。
8世紀は続縄文時代から擦文時代への移行期で、擦文時代早期の土器は、北大Ⅲ式土器である。
この時代の土器にはもう縄文を付けなくなり、刷毛によって表面を擦るように調整することから「擦文土器」と呼ばれる。擦文土器を使った時代だから擦文時代。
擦文時代には長らく使用してきた石器も使わなくなる。北海道の一般家庭でもようやく鉄器が普及したのだ。
オホーツク文化
オホーツク文化は、サハリン南部から北海道北部の宗谷海峡を挟んだ狭い地域が発祥の文化で、文化自体の存続期間は5世紀から13世紀だが、北海道では9世紀に滅んでいる。オホーツク文化を担った人々のことをオホーツク人と呼ぶ。
オホーツク人の最大の特徴は、海洋適応だといわれる。彼らの集落跡などの遺跡は、海岸至近にあり、遠くても1㎞ほどしか内陸に入っていない。ただし、北海道におけるオホーツク文化の最終段階には、海岸から遠く50㎞の地点にまで進出したケースもあるが(弟子屈町<てしかがちょう>下鐺別<しもとうべつ>遺跡)、そうなってしまうと海との繋がりが乏しくなるはずで、そのように変容した人びとの文化は、トビニタイ文化と呼んでオホーツク文化とは区別している。
オホーツク文化の最大領域は、サハリン全土と千島列島、それに道北、道東の沿岸部全体に及び、南は奥尻島にまで進出している(奥尻町青苗砂丘遺跡)。
オホーツク式土器の編年は研究者によって区々だが、「オホーツク文化の土器・石器・骨角器」(右代啓視/著)では、プレ期(2~4世紀)、前期(5~7世紀)、後期(8~9世紀)、トビニタイ期(10~12世紀)の4つに分けている。
古墳時代前期にあたる3~4世紀の頃、サハリン南部の鈴谷文化が利尻島や礼文島、稚内周辺に進出してきた。その時期の代表的な遺跡としては、稚内市のオンコロマナイ1遺跡があり、その遺跡からは晴れた日にはサハリンが望めるという。
北海道北端に進出してきた鈴谷文化の土器の特徴は、口縁部下に突瘤文・撚紐圧痕文をめぐらせ、胴部は無文、あるいは縄文で施文し、器形は丸底あるいは平底の深鉢形である(「オホーツク文化の土器・石器・骨角器」<右代啓視/著>)。
サハリン南部は、明治38年(1905)から昭和20年(1945)まで日本領だったこともあり、その時期に日本人による発掘調査が多数行われ、昭和17年にはサハリンの土器編年が報告された。古い順に、宋仁式、遠淵式、鈴谷式、十和田式、江の浦B式、江の浦A式、南貝塚式、東多来加式、内耳土器というように9つの型式に分類され、この編年的な流れは現在でも使用されている。これらのうち、十和田式から東多来加式の土器群が使用されていた時期が、オホーツク文化の時期にあたる。
昨年(2021年)、大阪の近つ飛鳥博物館などで開催されていた「オホーツク文化」展の図録では、前期を5~6世紀に留め、7世紀は中期としている。上記の地図は、オホーツク文化が最大に広がったときの勢力図だが、7世紀の頃をイメージしているようだ。
その7世紀には、モロヨ貝塚などの拠点的な集落が形成されるが、この時期の土器は、刻文系土器と呼ばれる。刻文系土器は、アムール川下流域の靺鞨式土器と器形・文様が良く似ており、この時代は北海道で大陸系の遺物の出土例が増加することから、大陸との交流が盛んであったことが分かる。
後期になると、各地で地域色の強い土器が見られるようになる。
後期前半の道北では、沈線文系土器が造られる。器形は甕形で、口縁部の幅が広くなり肥厚帯は消失する。
後期後半には、道東の貼付文土器の影響が道北に及び、道北の土器として定着し、後期末には沈線文系は消滅する。
日本書紀に記された北海道
645年の乙巳の変によって発足した孝徳政権は、それ以前の蘇我政権よりも北東北の支配強化に向けて積極的に動き出します。日本書紀によると、大化3年(647)には渟足柵(ぬたりのき=新潟市)が造営され、翌大化4年(648)には磐舟柵(いわふねのき=新潟県村上市)が造営され、それらには移民が送り込まれています。
これらは日本海側の動きです。書記には記述がありませんが、太平洋側でもそれに呼応した動きがあったことが考古学的に分かります。すなわち、宮城県仙台市の郡山遺跡もこの頃に城柵として造営されたものと考えられており、同県大崎市の名生館遺跡の官衙的な遺構は、最も古い時期は7世紀後半と推定されており、当時の太平洋側最北端の官衙の可能性があります。
つづいて、斉明天皇元年(655)7月、北(越)の蝦夷(えみし)99人、東(陸奥)の蝦夷95人が朝廷で饗応され、柵養の蝦夷(服属した蝦夷)9人、津刈(津軽)の蝦夷6人に冠位が与えられました。「津刈」は「津軽」という地名の初見です。蝦夷に冠位が与えられるのはこれが初めてですが、このようにして朝廷は、蝦夷の有力者を倭国の統治機構の末端に接続していきます。
阿倍臣(比羅夫)の第一次北海道遠征(658年)
『日本書紀』にはつづいて北海道の可能性が高い場所が登場します。
斉明天皇4年(658)4月、阿倍臣(あべのおみ)が軍船180艘を率いて蝦夷を討ちました。この「討った」というのは書記のお得意の表現方法であって、何か蝦夷に不都合な点があったような印象を受けますが、現実には3年前に冠位を授かってまがりなりとも朝廷の末端に列した蝦夷たちの国ぐにを視察して、さらに朝廷に与する蝦夷の数を増やすのが目的だったと考えられます。
ただし、後述する通り、オホーツク人との戦いも起きているため、そこそこの軍勢を率いていたのは確かであり、戦いも辞さない行動であったことも分かります。南進を強めるオホーツク人に対応することも目的の一つではなかったのではないでしょうか。
阿倍臣の来航に対して、齶田(秋田)・渟代(能代)二郡の蝦夷は阿倍臣の軍船を遠くから眺めただけで降伏しました。実際には先だって3年前に冠位を授かっていた蝦夷からの斡旋があって話は元々ついていたと考えます。書記には「二郡」とありますが、この時代に郡はないですし、その前身機関である評があった可能性もありません。
齶田の蝦夷恩荷(おが)は小乙上の位を授けられ、渟代・津軽二郡の郡領(こおりのみやつこ=長官)に任命されました。阿倍臣は渡嶋(おしま)の蝦夷を有間の浜に集めて饗応して帰らせました。なお、ここで出てくる渡嶋は、私は北海道ではないかと思うのですが、秋田まで進出してきた比羅夫に対して、北海道の蝦夷も駆け付けたのではないかと思います。また、小乙上とは大化5年(649)2月に制定された「冠位十九階」の下から3番目の冠位です。
同年の7月4日には、蝦夷200人余りが上京しました。阿倍臣による説諭によって帰順した蝦夷が正式に官位を授かるために早速上京したものと思われます。朝廷は柵養の蝦夷2人に冠位一階を授け、渟代郡の大領(長官)沙尼具那(さにぐな)に小乙下、少領(次官)宇婆佐(うばさ)には建武等々を授け、津軽の大領馬武(めむ)に大乙上、少領青蒜(あおひる)に小乙下等々を授けました。また、都岐沙羅(つきさら)の柵造(きのみやつこ)に従二階、渟足の柵造大伴君稲積(おおとものきみいなづみ)には小乙下を授けました。都岐沙羅柵はここにしか出て来ず、現在の場所は不明です。
つづいて、阿倍引田臣比羅夫(あべのひけたのおみひらふ=今度は単に「阿倍臣」ではなく複姓の「阿倍引田臣」でかつ名が記されている)は、同年中に齶田からさらに北上し、粛慎(みしはせ/あしはせ)を討っています。粛慎は蝦夷とは違う別の種族を表しており、後述するようにオホーツク人である可能性が高いです。
阿倍臣の第二次北海道遠征(659年)
翌斉明5年(659)3月17日、都で陸奥と越の蝦夷が饗応されました。この月、阿倍臣(今回は単に「阿倍臣」と記されている)は再度軍船180艘を率いて蝦夷を討ちました。
阿倍臣は、飽田(秋田)郡・渟代郡の蝦夷241人とその捕虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその捕虜4人、胆振鉏(いぶりさえ)の蝦夷20人を一箇所に集めて饗応しました。ここで「蝦夷」と言っているのは、従来から朝廷に帰順している蝦夷で、「捕虜」と言っているのは、「蝦夷」の説諭によって新たに降ってきた蝦夷あるいはオホーツク人だと考えられます。胆振鉏が具体的にどこだったかは分かりませんが、北海道ではないかと考えます。
阿倍臣はさらに進み、肉入籠(ししりこ)に至ると、問莬(という)の蝦夷胆鹿嶋(いかしま)と莬穂名(うほな)が、後方羊蹄(しりへし)を政所(政庁)として欲しいと願ったので郡領を置きました(羊蹄山という山の名前は、日本書紀をもとにした後付けの名前です)。また、日本書紀が引く「ある本」によると、阿倍引田臣比羅夫が粛慎と戦って帰り、捕虜49人をたてまつったとあります
阿倍臣が郡領を置いた後方羊蹄の場所は不明ですが、それが北海道の日本海側だとすると、この時代北海道まで倭人の影響力が及び、さきの津軽や秋田方面とともに北海道にも郡が置かれたということになります。しかし、時期的に見ると、まだ郡が登場する前なので評のはずですが、評は国造が解体されて成立したもので、北東北や北海道には国造は置かれていません。そもそも、初めて支配が及んだ地域にいきなり評を立てることはあり得ないため、正式な支配をする前の段階での仮の支配機構を設けたのであろうと考えらます。
この頃、倭国の使者が唐に使わされており、使いと皇帝との会話の中で蝦夷の話が出てきます。それによると、蝦夷は3種類あり、遠いものを都加留(津軽)と名づけ、次を麁蝦夷(あらえみし)と名づけ、一番近いものを熟蝦夷(にきえみし)と名付けているといいます。
阿倍臣の第三次北海道遠征(660年)
翌斉明6年(660)3月、またもや阿倍臣(今回も単に「阿倍臣」と記されている)が軍船200艘を率いて粛慎を討ちました。阿倍臣が陸奥の蝦夷を船に乗せ大河(大河の場所については後述)までくると、渡島の蝦夷が1000余人屯営していました。その蝦夷が言うには、粛慎に殺されそうになっており、阿倍臣に仕えたいとのことだったので、阿倍臣は粛慎と沈黙貿易を行おうとしました。ところが取引は成立しませんでした。
阿倍臣が幣賂弁島(へろべのしま)に帰ったところ、しばらくして粛慎が和を乞うてきました。しかしまたもや交易は成立せず、今度は戦いに発展し、阿倍臣側は、能登の首長である能登臣馬身竜(のとのおみまむたつ)を殺されるという痛い犠牲を払いましたが、粛慎は妻子を殺して逃走しました。5月には阿倍引田臣が蝦夷50人をたてまつりました。
以上の話を読むと、連年に渡って3次の遠征が行われたわけではなく、これらの話は、一度の遠征での出来事として書紀編纂時の元資料(安倍氏が提出した資料)に記載されていたものをこのような体裁に編集してしまったものと考えられます。
では、以下に阿倍比羅夫の遠征記事に関連する遺跡を紹介します。
青苗砂丘遺跡|北海道奥尻町
奥尻島の青苗砂丘遺跡では、オホーツク人の住居跡や墓が確認されており、オホーツク文化の南限であることが確認されています。
時期的に比羅夫の遠征の頃と重なる火災跡も見つかっており、その時の戦闘はここを舞台に行われた可能性があります。また、本州で作られた土師器や碧玉製管玉も持ち込まれており、書記に記されているような戦いだけでなく、普段は交易の拠点となっていた可能性を含めて、広い視野で考察する必要があるでしょう。
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須曽蝦夷穴古墳|石川県七尾市
須曽蝦夷穴(すそえぞあな)古墳は、今は橋によって能登半島と接続されていますが、当時は離島であった能登島に築造された7世紀中頃の方墳です。横穴式石室が2基並んで構築されている「双室墳」と呼ばれる古墳で、のと里山里海ミュージアムの展示解説によると、全国を見渡しても20数例しかないそうです(もっとありそうな気がするのですが意外と少ない)。
クラツーとAICTでは、2021年にそれぞれ1回ずつ案内しています。
横穴式石室は随時開口しており、容易に見学ができますが、最近能登島でもクマの目撃情報があるため、複数人で訪れたほうが精神的に余裕をもって見学できるかもしれません。
被葬者は、地元では比羅夫とともに北海道へ遠征して、オホーツク人との戦いで戦死した能登臣馬身竜ではないかと囁かれており、現地にある「鹿嶋津から出航する阿倍氏の水軍」というイメージ図は、古代史好きには堪りません。
超ロマンな画です。
のと里山里海ミュージアムには、須曽蝦夷穴古墳から出土した遺物が展示してあります。
こちらは須恵器。
須曽蝦夷穴古墳からは、銀象嵌円頭大刀と枘穴(ほぞあな)鉄斧が見つかっており、それらの復元品も展示してあります。
そして実はここでは比羅夫の北方遠征を大きくフィーチャーしているのです。
博物館でこんなに大きく取り上げられているというのは、古代史ファンにとっては嬉しい限りですね。
江別古墳群|北海道江別市
北東北や北海道では、それよりも西の地域で古墳が造られなくなった奈良時代以降に古墳が造られ続け、それらは末期古墳と呼ばれます。紛らわしいですが、終末期古墳ではないです。
北東北では、7世紀以降に末期古墳が築造されますが、8世紀には北海道の石狩低地帯でも築造されます。北海道の末期古墳は、かつては「北海道式古墳」とも呼ばれていましたが、藤沢敦氏は、「墳墓から見た古代の本州島北部と北海道」で、北海道式古墳について、「墳丘や内部主体の特徴は、基本的に北東北の「末期古墳」と一致しており、別なものとして区分する必要性は認め難い」と述べており、現在は北海道式古墳という呼称は用いず、末期古墳と呼ぶことが多いです。それらの中で、現在墳丘を見ることができるのは、江別古墳群のみです。
といっても小さな円墳の群集墳といった風情です。
江別古墳群には、元々は20基以上の古墳がありましたが、現在でも18基が残っているそうです。クラツーでご案内した時は、運よく、下草刈りの後でした。
でもその前に、個人的に行った時と、AICTで行ったときはモシャ子ちゃんでした。
どちらが見られるかは運次第。
遺跡名としては、後藤遺跡と呼ばれ、江別市郷土資料館でジオラマや出土遺物を見ることができます。
さて、末期古墳が築造された石狩低地帯というのは、考古学的に見ても本州の文化が入って行きやすい場所です。
上に示した、のと里山里海ミュージアムの展示パネルでも、比羅夫は石狩川河口まで進出したと想定していますが、日本書紀の660年の記述で比羅夫が到達した「大河」というのは石狩川のことではないでしょうか。この地域には、外部からやってきたであろう日本の文化を持った人びとと、続縄文人やその末裔である擦文人といった在地の人びとがともに混ぜこぜで住んでおり、末期古墳は外見的にはヤマトの古墳と同じですが、内部には在地の文化の影響を見て取れます。
北海道で末期古墳が築造され始める8世紀、続縄文時代から擦文時代へ移行しますが、擦文文化の特徴は、土器に縄文がなくなることと、鉄器の使用が普及することです。これらは北海道の人びとがヤマトの文化と濃厚な接触をしたことの表れです。
江別古墳群の被葬者に関しては、石狩低地帯に進出してきた古墳文化人と考えることもできるし、古墳文化人に強くインスパイアされた在地の人びとと考えることもできますが、墓制はその人びとの文化を最も色濃く残すものなので、そう考えると、この地に進出してきた古墳文化人の墓と考えたくなります。
ただし、その古墳文化人は、北東北の末期古墳を築造していた人びとで、北東北の末期古墳を築造した人びとはすでに続縄文文化と融合しており、北海道の末期古墳を解明する前に北東北の古墳文化について解明しないとなりません。
道南十二館
北海道には旧石器時代から日本人が住んでいますが、前項で述べた比羅夫の北方遠征のあと、日本国という律令国家が誕生した後も、長い間日本国の領域にはなりませんでした。私は比羅夫は頑張って北海道まで行き、朝廷に帰服する北東北や北海道の在地の人びとを増やして、現地に代官のようなものを設置したのは事実だと考えていますが、それが継続することはありませんでした。奈良・平安時代と、まだまだ紆余曲折は続きます。
早くから「津刈」という地名が出てきた青森県が本格的に日本国のシステムに組み込まれたのは、源頼朝が奥州平泉の藤原氏を滅ぼして、青森県域に頼朝の子分たちが踏み込んで行ってからだと考えます。でも、鎌倉時代にはまだ北海道は日本の国土であるとの認識はありませんでした。
しかし、北海道は海産資源が豊富ですから、商人の行き来は古代から盛んであったはずです。彼らは金になるのであればどんなリスクも侵しますから、ビジネスマンでありながら冒険家でもありました。
中世の青森県五所川原市に十三湊という交易拠点がありました。列島各地の商人もおそらくそこまでは普通に来れたと思うので、十三湊で仕入れて、西日本で売りさばくというのは通常のやり方だと思いますが、当然ながら、北海道で仕入れたものを十三湊に卸す業者もいたわけです。アイヌの業者もいたはずですし、彼らは、国家が統治するよりも外側で活動した商人たちです。
商人と言えども武力を持っています。当たり前の話ですが、金めのものを持っているのにヘボかったら簡単に取られてしまいます。中世は武士の時代ですから、武士が商人をすることも可能ですが、餅は餅屋です。武士は商人を護ってあげて、そのギャラをもらう方が適しています。
このようなこともあり、鎌倉時代後期の14世紀初頭には、秋田県北部から青森県西部を半ば独立的に治めていた安藤氏に属した武士たちが北海道の最南端に進出し、俗に「道南十二館」と呼ばれる拠点を設けて割拠しました。彼らの経済資本は交易でしょう。彼らの出自は様々で、武士とは言っても普通の奴らではありません。鎌倉幕府が滅びた際の混乱時に、悪党と呼ばれる人びとが活躍しましたが、北海道に渡った彼らの中にもその類がいたと思われます。
中世の頃に北海道の住民の多くを占めていたのはアイヌです。アイヌも積極的に和人(日本人)と交易をおこなっており、上述した十三湊での交易でも当然大きく絡んでいます。北海道にある博物館の展示を見れば、彼らがかなり日本人の影響を受けていたことが分かりますが、そうは言っても違う民族ですから、彼らはアイヌとしての誇りをもって生きていました。
そんなアイヌを騙し続けてアイデンティティを踏みにじったのが、「道南12館」の武士たちやその地域に住む和人たちです。和人はアイヌと比べて奸智に長けており、不公平な取引を長く続けていた結果、ある事件をきっかけにして、ついにアイヌの怒りが爆発しました。
その事件は、『新羅之記録』という近世史料に記されています。それによると、康正2年(1456)春、志苔(しのり=函館市)の鍛冶屋村でアイヌの少年が短刀を注文したのですが、その際に少年と和人の鍛冶屋の間で品質や価格について言い争いになってしまいました。そしてあろうことか、鍛冶屋は少年を刺し殺してしまったのです。
以前から和人とアイヌとは一触即発状態であったことが想像できますが、この事件をきっかけに両者の戦闘が始まり、アイヌの首長コシャマイン率いる軍勢が、翌長禄元年(1457)5月、ついに「道南十二館」の志苔館と函館を落とし、つづいて他の館を次々に陥落させて行ったのです。これを「コシャマインの戦い」と呼びます。なお、長禄元年といえば、関東地方では戦国時代に突入した直後であり、太田道灌が江戸城を築城した年にあたります。
AICTでは、2021年9月に道南の現地講座に行っており、その際に函館市にある志苔館(しのりだて)跡を訪れています。
注目すべきは、永正9年(1512)にもアイヌの蜂起があって再び落城の憂き目にあっていることで、和人の狷介さは治っていないようです。
コシャマインの蜂起の際、陥落を免れたのが、北斗市の茂別館と上ノ国町の花沢館でした。
両館跡ともにAICTでは、2023年6月24日出発の現地講座で訪れています。
花沢館の館主は蠣崎季繁(かきざきすえしげ)です。季繁の元には27歳の武田信広という客将がいたのですが、彼の働きによってコシャマイン勢力は壊滅しました。
そのため、季繁は主人である安藤氏から娘を養女としてもらい、それを信広に娶せ、蠣崎家を譲ったとされます。
当時の道南には列島各地からドロップアウトした人やアウトローの人びともかなりいたようです。武田信広も面白い出自の持ち主で、彼は若狭守護武田信賢の子で守護を継ぐべき人でしたが武田家を出奔し、津軽の安藤氏を頼りました。
ただし、今述べた武田信広の出自に関しては、近世の記録にある話であって同時代の史料によって裏付けが取れておらず、史実かどうかは分かりません。しかし、日本海側は古来より商船の行き来もありましたから、信広は、若狭守護の息子ではないとしても、若狭から津軽に流れ着いて実力でのし上がった人物である可能性は十分あると思います。
また、蠣崎という苗字に関しては、下北半島に地名がありますので、蠣崎季繁の本貫地はそちらでしょう。それが津軽安藤氏との縁によって道南に進出したのではないでしょうか。安藤氏にも諱に「季」の字を用いる人物がいますので、偏諱ではないかと思われます。
なお、この蠣崎氏がのちに松前に改姓し、江戸時代には松前藩主となります。
函館戦争
明治元年(1868)10月、幕府海軍副総裁・榎本武揚(えのもとたけあき)が、旧幕府軍を率いて道南に上陸し、函館にごくわずかな期間、新政権を打ち立てました。榎本らの道南上陸から、彼らが翌年5月に明治政府軍に降伏するまでの足掛け2年に渡る戦いを函館戦争と呼び、それは歴史的に見ると、戊辰(ぼしん)戦争という広域での戦いの最終局面に位置づけられます。
ここでは、函館戦争の経過について、時系列で簡単にまとめてみます。なお、榎本らの道南上陸は、明治元年(1868)10月20日で、五稜郭の開城は、翌明治2年5月18日です。
旧幕府軍による蝦夷地平定
慶応3年(1867)12月9日、明治天皇が発した「王政復古の大号令」によって、江戸幕府が廃止されましたが、最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)は権力を手放そうとせず、薩摩藩らは武力で慶喜らを滅ぼす機会を伺っていました。そしてついに、翌慶応4年1月3日、京都にて慶喜らと薩摩藩らとの戦いである鳥羽・伏見の戦いが勃発し、これによって戊辰戦争が始まりました。しかし、慶喜は負け続け、6日には開陽丸を預かっている乗組頭取の榎本武揚が不在にもかかわらずそれに乗船して大阪城を脱出し、江戸へ向かいました。置いてけぼりにされた榎本は、その後、別の船で江戸へ向かい、15日に到着。23日には、幕府海軍副総裁に任ぜられました。幕府はすでに滅びているのにややこしい。
4月、江戸城は無血開城し、名実ともに幕府は滅亡しましたが、榎本は幕府艦隊をなかなか新政府に引き渡さず、そうこうしているうちに「奥羽越列藩同盟」の盟主・仙台藩からの要請よって、8月20日、主力艦・開陽を旗艦として、榎本軍鷲ノ木上陸跡地の説明板によると、蟠竜・回天・長鯨・神速・鳳凰・回春・東江を含めた計8隻で、江戸湾を脱出して仙台へ向かいました。ただし、開陽丸記念館の展示パネルでは船の名前が少し違いますが、軍艦と言うのに十分な船は、開陽・蟠竜・回天の3隻です。
ところが、仙台へ到着すると仙台藩は新政府に抵抗する気持ちがなくなり混乱状態になっていたため、ひとまず石巻に移動します。仙台藩領内では新選組の土方歳三ほか、仲間が増えましたが、10月には石巻の日和山でフランス人の軍事顧問・ブリューネの指揮のもと、軍事訓練をしています。
榎本らは、元々の要請主である仙台藩から追い出される形で、宮古を経由して、蝦夷地(北海道)へ向かいました。当時、道南には松前藩があり、また函館には新政府の管轄である函館府(旧幕府奉行所)がありましたが、それらを撃滅できれば道南を支配できます。榎本艦隊は、防備が厳重と思われる函館湾には入らず、太平洋側から北へ回り、鷲ノ木(森町)に上陸しました(世界遺産の縄文遺跡である鷲ノ木遺跡はそのすぐ近くです)。
その兵力は2000名とも3000名とも言われています。明治改元は9月8日ですから、この時はもう改元しており、上陸した日は旧暦では10月20日ですが、新暦ではもう12月ですので、この日の鷲ノ木は雪が降っており、海も荒れていました。
鷲ノ木に上陸した旧幕府軍は、大鳥圭介が一軍を率い、現在もメインの交通路となっている比較的平坦なルートの峠下・七重方面から進軍し、土方歳三もまた一軍を率いて、東側の海岸部をまわって鹿部・川汲峠を経由して、湯の川方面から函館を目指しました。
大変なルートは土方の担当です(土方のルートは国宝土偶「カックウ」が出土した著保内野<ちょぼないの>遺跡の近くから川汲峠へ向かう山へ入って行きます)。
旧幕府軍は、可能であれば戦いは避けたかったため、箱館府知事の清水谷公考に対して使者を派遣しましたが、早くも翌10月22日の夜、峠下に宿営していた大鳥隊が箱館府軍の奇襲を受けて戦端が開かれました。
破竹の勢いで進撃する旧幕府軍に恐れを抱いた清水谷公考は、10月25日に青森に逃れます。その翌日、旧幕府軍は五稜郭へ無血入城し、艦隊も箱館港に入りました。
10月27日には土方歳三が彰義隊・額兵隊・衝鋒隊などから編成された軍勢を率い松前城を目指して出陣しました。11月1日には、松前藩の反撃を跳ね返し、11月5日には松前城に到達。
このとき、松前城を守る兵力は少なく、藩主松前徳広らは内陸の館城に逃れており、数時間の抵抗で松前城は落城しました。
松前城の残兵たちは、江差方面へ敗走したため、榎本は開陽を江差方面に展開させました。11月15日に開陽が江差に着くと、陸の友軍はまだ到着しておらず、開陽が艦砲射撃をしても手ごたえがないため、試みに上陸してみると敵兵の姿はありませんでした。
開陽は味方が到着するまで待機することにして、港の外側に錨を降ろしたのですが、その日の夜に天候が極度に悪化し、暴風が吹きすさび、まったく制御ができなくなった開陽は暗礁に乗り上げてしまい、やがて沈没してしまいました。
旧幕府軍の象徴とも言える軍艦の損失は、兵たちの士気に大きなダメージを与えたことは想像に難くありません。
松前藩は館城を守るため稲倉石に砦を築き、旧幕府軍の進撃に備えていましたが、11月12日に襲来した旧幕府軍によって打ち破られてしまいました。
稲倉石で松前藩兵を撃破した旧幕府軍は、その3日後の11月15日に館城へ攻撃を仕掛け、藩主松前徳広らは弘前へ落ち延び落城しました。このとき、松前藩正義隊隊長・三上超順は、味方の退却を助けるために旧幕府軍の攻撃を引き受けて、斬りあいの末戦死しました。その勇猛ぶりは旧幕府軍からも称賛されたといいます。
館城陥落をもって旧幕府軍による蝦夷地平定は完了しました。
新政府艦隊出撃
東京に首府を置く明治政府(新政府)は、11月19日に旧幕府軍追討令を出します。しかし、冬場は戦争ができないため、すぐには作戦は開始できません。
一時的な平和の中、12月15日には旧幕府軍によって箱館政権が樹立され、総裁は入れ札によって榎本武揚に決まりました。
なお、榎本らは逆賊の立場ですが、それでも蝦夷地の開拓を国家に認めてもらえれば、その立場から逃れ、戦争も終結します。ここまで戦ってきて虫の良い考えですが、ともかく、蝦夷地開拓の嘆願書を朝廷に提出していました。しかし、右大臣・岩倉具視はすでに12月14日にそれを却下しており、榎本らが逆賊の身から逃れることは絶望的となっていました。
新政府軍は、アメリカから購入した最新鋭の装甲軍艦・甲鉄を主力艦として、3月9日には、軍艦春日・陽春・丁卯と、運送船豊安丸・戊辰丸・晨風丸・飛龍丸で新艦隊を編成し、青森へ出撃させました。
ここで旧幕府軍は、奇策に出ます。甲鉄を奪おうと考えたのです。
3月20日、新政府の艦隊が宮古湾に入ると、回天・蟠竜・高雄(函館港で分捕った秋田藩の船)の3艦を向かわせました。ところが暴風雨に会い、蟠竜は行方不明となり、高雄は蒸気機関が故障し速力低下。開陽沈没後に艦隊旗艦となっていた回天の艦長甲賀源吾は、自艦のみで事足りると豪語し、宮古湾に突撃し攻撃を仕掛けました。
まるで中世の海賊のように船体を甲鉄にぶつけ、兵士たちが飛び移る算段でしたが、回天は外輪船なので横付けできず、頭から甲鉄に突っ込む形になりました。元新選組の野村利三郎は、真っ先に飛び移り暴れ始めましたが、後がなかなか続きません。
回天艦長甲賀源吾は、左足や右腕に被弾しながらも攻撃を指揮していましたが、頭に銃弾を受けて斃れ、ついに回天は攻撃を諦めて離脱。取り残された野村らは甲鉄の上で敵兵と斬り結びましたが、多勢に無勢で斬り殺され、遺体は海に投げ捨てられました。野村は近藤勇が出頭した際に同行した人物で、新選組時代はトラブルメーカー的な人物でしたが武勇は抜群で、敬愛する近藤が処刑されたあと、死に場所を探していたのではないでしょうか。
かくして作戦は失敗に帰しました。旗艦回天には検分役として土方歳三も乗っていましたが、まったく成す術がなかったようです。
この戦いを宮古湾海戦と呼びます。
なお、行方不明となった蟠竜は、八戸の鮫港に避難していて無事で、甲鉄の追撃を振り切って函館に戻ってきました。蟠竜の艦長・松岡磐吉は、敵味方からその操舵技術と冷静な判断力を称賛された人で、部下からの信任も篤い人でした。後述する通り、函館湾での最後の海戦でも活躍し、函館戦争を生き延びたのですが、惜しくも明治4年に獄中で亡くなっています。生きていればその後の日本海軍で活躍したことは間違いないと思います。蟠竜という船に関しては、その後改造されつつ最後は捕鯨船になったり商船になったりしましたが、明治30年に解体されるまでずっと活躍し続けた船です。
新政府軍の北海道上陸と土方歳三の奮戦
新政府艦隊は、3月26日に青森に到着し、いよいよ北海道を攻撃する準備に入りました。先鋒は4月6日に青森を出陣し、4月9日の早朝、乙部に上陸しました。
上のイラストでも分かる通り、甲鉄の形状はちょっと特殊です。大砲を浴びても大丈夫なように厚い甲鉄で覆われている船なのですが、そのせいで自分自身は大砲をあまり搭載できず、火力は貧弱なのです。その代わり、舳先の下の方が尖っており、これで敵艦に突撃して破壊するという非常に乱暴な攻撃方法が得意な面白い船です。
上陸した新政府軍は、江差を奪還します。さらに、4月12日には陸軍参謀・黒田清隆が率いる軍勢が江差へ上陸。ここを拠点に4つのルートから函館を落とすべく進撃を開始します。
この間、4月11日には松前に駐屯していた旧幕府軍の伊庭八郎率いる遊撃隊と春日左衛門率いる陸軍隊などが、江差奪還のために出撃しましたが、途中で引き返しました。4月17日に松前への攻撃が始まり、旧幕府軍は松前城を放棄して知内まで敗走します。
一方、木古内では4月12日に陸軍奉行・大鳥圭介の指揮のもと、伝習隊・額兵隊や同地にいた彰義隊、それに松前を逃れた兵たちが戦いましたが、4月20日未明に新政府軍の総攻撃が始まると、泉沢まで後退しました。旧幕府軍は、一時は木古内の奪還に成功しますがすぐにそこを放棄し、矢不来(北斗市)で、新政府軍を迎え撃つことに決めました。
4月29日、新政府陸軍参謀・太田黒惟信の軍勢が矢不来を攻撃し、甲鉄などの軍艦が艦砲射撃でそれを援護します。総崩れとなった大鳥圭介らは、有川(北斗市)まで撤退。有川では総裁の榎本武揚が自ら指揮を執りますがここでも打ち負け、箱館へ逃れました。
各方面で戦いが行われている中、土方歳三も一軍を率いて迎撃し、新政府軍の将兵たちを恐怖のどん底に陥れていました。
土方歳三が指揮する衝鋒隊・伝習隊は、4月10日に台場山(北斗市)に到着し、13日正午過ぎから始まった新政府軍の攻撃に猛反撃を食らわせました。土方軍の攻撃は凄まじく、翌14日早朝、新政府軍はついに精神が崩壊して、稲倉石まで撤退します。まさに16時間にわたる激闘でした。
性懲りもなく、新政府軍は22日にも攻撃を仕掛けてきましたが、土方軍はこれも撃退。ついに新政府軍は奇策を考え、23日午後には山越えでの奇襲攻撃に出ます。しかし、これも上手くいきません。
24日未明には、旧幕府軍の瀧川充太郎が伝習士官隊からなる抜刀隊を組織して、新政府軍に突撃を行い混乱に陥らせる働きもあり、25日未明、ついに新政府軍は撤退します。一方、勝利した土方軍も退路を断たれる恐れがあるため、五稜郭へ撤退しました。
函館総攻撃と函館戦争の終結
5月11日未明、新政府軍による箱館総攻撃が開始されました。黒田清隆率いる軍勢は、夜陰に紛れて箱館山の裏側に上陸し、黒田直率の部隊は西側の寒川付近に上陸し、箱館山をよじ登り、予期せぬ方面から敵が現れたことに驚いた守兵は遁走し、夜明けには箱館山は新政府軍が占領しました。
このとき、函館山で敵勢を監視していたのは新選組でしたが、彼らは敵がよじ登ってくることを発見できなかったのです。
その日行われた海戦では、旧幕府軍で唯一残っていた蟠竜が新政府軍の朝陽を撃沈するという金星を挙げましたが、やがてその蟠竜も砲弾を射ちつくしたのち座礁、戦闘不能となりました。艦長松岡磐吉以下の乗組員は船から飛び降りると敵中を突破して弁天台場の味方の陣に駆け込み、小銃を手に取り今度は陸兵として戦闘継続です。
また、五稜郭の北側を守るべく急造した四稜郭では、松岡四郎次郎率いる一聯隊が敵の攻撃を防いでいました。
ところが、四稜郭と五稜郭の間にある権現台場が長州兵によって占領されたため、松岡らは孤立を恐れ、五稜郭へ敗走しました。
新選組の落ち度で函館山が陥落したことを知った土方はどんな心境だったでしょうか。函館山が落とされたことにより、新選組が中心となって守備していた弁天台場は孤立状態となりました。
弁天台場では、土方と古くから新選組で苦楽を共にしてきた島田魁も戦っていました。旧幕府軍としては彼らを見殺しにすることはできず、副総裁の松平太郎が指揮を執り、旧幕府軍の総力を挙げて戦いを挑むと、土方はその先頭に立って敵陣に斬り込んでいったのです。
ところが、一本木関門付近で戦っていたところ、一発の銃弾が土方に命中してしまいました。
土方は、陸軍奉行並の役職にあり、函館政府の幹部で唯一戦死した人物となりました。
午前11時ごろには新政府軍は箱館市街を制圧し、翌5月12日には五稜郭に対して甲鉄による艦砲射撃が始まりました。甲鉄の大砲の射程距離は4㎞で、五稜郭は射程内でした。
5月14日、榎本武揚は降伏勧告を拒絶。5月15日には、弁天台場を守備していた永井尚志らが降伏。千代ヶ台陣屋では、箱館奉行並・中島三郎助らがなおも敵の攻撃を引き受け奮戦していました。
三郎助は新政府軍からの降伏勧告を拒否して戦い、味方司令部からも五稜郭まで退去せよとの指示がありましたが、それも聴かず、5月16日に2人の息子とともに戦死しました。
この戦いが結果的には箱館戦争で最後の戦闘となりました。なお、現在この周辺は中島町という住所ですが、戦死した中島父子から取った地名です。
翌5月17日の朝、榎本武揚は無条件降伏に同意。18日の昼には五稜郭は開城し、函館戦争は終結しました。