最終更新日:2024年8月27日
目次
※宮城県の旧石器時代・縄文時代に関しては、本サイト内の「旧石器時代 ~ツアーをより楽しむための古代史講座~」以降をお読みください(ただし、宮城県についてのみ述べているわけではありませんのでご了承ください)。
第1章 古墳時代前・中期
古墳時代の始まりの頃、北関東の栃木・茨城県域、南奥の福島県浜通り・中通り、そして仙台平野において、南関東、とくに東京湾東岸地域(千葉県)のものによく似た土器と竪穴住居からなる集落群が出現する。この時代は汎列島的に人の移動が激しい時代だったが、本稿で話題とする仙台平野にも南関東からの人の移住があったことが分かる。
そういった前史のもと、宮城県内でも古墳の築造が始まるが、県内には弥生墳丘墓はなく、出現期の古墳も見つかっていない。
飯野坂古墳群|名取市
宮城県の前期古墳を見渡すと、まず目につくのは、現在残っている古墳だけを見ても、継続して5基の前方後方墳と2基の方墳を築造した飯野坂古墳群の存在だ。
飯野坂古墳群の前方後方墳の築造順は以下の通り。
① 観音塚古墳(65m)
② 宮山古墳(60m)
③ 薬師堂古墳(65m)
④ 山居(さんきょ)古墳(65m)
⑤ 山居北古墳(40m)
現地説明板によると、築造時期はすべて4世紀代に収まるとしているが、もしかすると造営開始は3世紀末まで遡るのではないかと考えている。ただし、今はまだその証拠を掴めていない。東海系の遺物の確認もできていないため、次回訪れた時は、そういったものの調査もしたいと考えている。
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雷神山古墳|名取市
宮城県域の大型前方後円墳としては、4世紀後半には仙台平野に名取市・雷神山古墳(墳丘長168m)や仙台市・遠見塚古墳(同110m)が築造され、さらにそれより北側の大崎平野の江合川流域では、大崎市・青塚古墳(同90m)が築造された(なお、仙台平野と大崎平野を併せて仙台平野と呼称する場合もあるが、本稿では分けて呼称する)。
雷神山古墳は、東北地方最大の古墳で、山梨県の甲斐銚子塚古墳(169m)や群馬県の浅間山古墳(171.5m)と並ぶ、4世紀における東国最大級の古墳の一つだ。もし日本書紀の記述が正しいのであれば、景行天皇の時期に東日本でとくに重要視されたのが山梨県、群馬県、宮城県となる。
高さは後円部12m、前方部 6m、3段築成ですべての法面に葺石が認められる。1段目は地山を削って成形し、2・3段目は盛土で構築している。後円部径と前方部幅が同じタイプの古墳で、このデザインは渋谷向山古墳(現景行天皇陵)と同じで、類型は列島各地にあり、ヤマト王権の影響が非常に強い古墳だと考えられる。大きさやデザインから考えると、被葬者は相当ヤマト王権から優遇されていたことがわかる。
前述した飯野坂古墳群と雷神山古墳は、それぞれ違う丘陵上にあるが、距離は1㎞ほどしか離れていない。私は、この地は元々飯野坂古墳群の代々の被葬者が治めていたところ、4世紀後半にいよいよヤマト王権の介入があざとくなってきて、ついにヤマトから送り込まれた人物がこの地を治めることになり、飯野坂古墳群の築造が終焉を迎えたという仮説を立てている。
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遠見塚古墳|仙台市
前方部の端が道路のため削られているが、下草が綺麗に刈られていることも多い整備された古墳。大きさは県内では2番目、東北地方では5番目。葺石・埴輪ともに認められず、周溝の土で墳丘を構築している。
主体部は復元長8mの粘土槨が2つ見つかっており、割竹形木棺であったと考えられる。
雷神山古墳との築造時期の前後関係は不明で、現段階では、「同じ頃」というに留める。
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青塚古墳|大崎市
岩手県奥州市の角塚古墳は例外として、前方後円墳の築造の北限は、太平洋側では大崎平野の江合(えあい)川流域である。
江合川は現在ではそれほどは目立たない川となっており、高速道路で渡るときは看板を見逃すと気づかないくらいだが、古代においてはヤマト王権あるいは律令国家とその北側の領域とを隔てる重要なラインとなっていた。いったい江合川にはどんな秘密があるのかは分からないが、非常に気になる川だ。
その江合川流域で最大の前方後円墳が青塚古墳である。
墳丘長は100mと説明されることもあるが、現地説明板では90m前後と控えめに記されている。
現在は前方部は壊滅状態で、現地で見ると円墳に見える。
築造時期は細かいことは分からないが、おそらく4世紀後半で、名取市の雷神山古墳の被葬者が宮城県域全体を管轄する将軍のような存在だったとすると、青塚古墳は最前線に送り込まれた人物か、あるいは在地でとくに有力な人物であったと考えられる。後者の方が可能性が高いように思える。
続縄文人の南下と古墳築造との関係
4世紀は、北海道を本拠地とする続縄文人が最も南まで進出した時期で、太平洋側では福島県北部にまで進出した。この時期のヤマト王権の急速な東北への進出を見ると、お互いに「お付き合いをしましょう」という相思相愛関係が背景にあったと想起できる。
この時期に南下してきたのは、後北C2・D(こうほくしーつーでー)式土器(後期北海道薄手縄文土器の略称)を携えた続縄文人である。彼らの痕跡はとくに大崎平野に多いため、青塚古墳を始めとする大崎平野の古墳の被葬者たちは、彼らとの交易を担って北方の豊かな資源を入手し、ヤマト王権に上納することに大きく貢献していた地元の有力者たちであったと想定できる。時期によってはそれに雷神山古墳の被葬者が関与し、手数料を取っていた可能性もある。
古墳文化人たちが続縄文人に対してアコギな行為に及んだ可能性もあるが、考古学的に見ると戦った形跡はなく、結構仲良く付き合ったように見える。
下図は、後北式土器(江別式土器)の型式ごとの分布範囲を大雑把に示したものである。
後北C2・D式期の遺構や遺物の出土位置を細かく示すと下図のようになる。
上図から分かる通り、続縄文人の南下の形跡は、住居跡や墓といった遺構で確認できることは少なく、その多くは、土器を検出したことにより追うことができる。
また、下図を見ると続縄文人は適当な場所に住んだわけではないことが分かる。
上図は、後北C2・D式期に限ったわけではなく、北大式期(5~6世紀)までを含めているが、遺跡の分布を見ると、雫石や湯倉といった黒曜石の産地の近くに多い傾向が看取できる。後北C2・D式期の遺跡分布では、盛岡周辺が多いため、すでに4世紀には雫石の黒曜石が得やすい場所を選んだのであろう。
湯倉の黒曜石露頭は、続縄文人が開発したと言われている。湯倉周辺は、後北C2・D式期には続縄文人の痕跡は少ないが、つぎの北大Ⅰ式期(おおよそ古墳時代中期)になって増える。
続縄文人の日常の道具は石器であるが、黒曜石製の石器はとくに皮革加工に最適だったようだ(ということは、馬匹生産との関連も考えられる)。北海道は黒曜石が豊富なため、彼らは伝統的に黒曜石を好んだのだろう。また、黒曜石で意味不明な形状のもの(異形石器)を作って、墓に副葬もした。
続縄文人の南下とアイヌ語地名との関係
後北C2・D式土器を携えて進出した続縄文人の南下の範囲とアイヌ語地名の分布域はほぼ重なる。そのため、元々続縄文人がチラホラと住んでいた地域に古墳文化人が北上してきて集落を形成し、彼らは日ごろかコミュニケーションを取っており、続縄文人が呼んでいた地名を古墳文化人がそのまま採用して現代にまで残ったと考えられる。
アイヌ語地名で頻出する「ナイ」と「ペツ/ベツ」は、両者とも川を意味するが、使用された時期が違うと考えられている。続縄文人は4世紀と6世紀にそれぞれ南下を行うが、4世紀の第1波の方が南に行っているので、そう考えると第1波の際に「ナイ」地名が付いたように見える(ただし、「ナイ」と「ペツ/ベツ」の前後関係は研究者によって考え方が異なる)。
※続縄文人の土器について詳しく知りたいときは、本サイト内の「北海道の歴史」を参照されたし。
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名取大塚山古墳|名取市
雷神山古墳の後、仙台平野では墳丘長90mの名取大塚山古墳が築造された。
さらに、その次には十石上(じゅっこくがみ)古墳が築造されるが、墳丘長は32mとなってしまった。墳丘の大きさだけで一概にその勢力の大きさを推し量ることはできないが、同じ時代の他地域の古墳と比較すると、5世紀は列島各地の多くの地域で大型前方後円墳が築造された時代であるので、そういった時代背景にもかかわらず古墳の大きさが小さいということは、その地域がヤマト王権の直轄地のような状態になり、支配者が公務員化してしまった場合か、あるいは経済力が低下してしまった場合のどちらかの可能性があると考えられる。仙台平野の場合は、後述する通り、経済的な低下が原因と考えられる。
なお、5世紀後半には、岩手県奥州市(胆江<たんこう>地方)に角塚古墳(同45m)が築造されたが、既述した通り太平洋側における前方後円墳の北限は、江合川流域と考えて良い。
第2章 古墳時代後・終末期
前項で述べた通り、仙台平野では5世紀に古墳規模の縮小化が進んだ。そして、6世紀に国造が設置されたときは、国造設置の北限は阿武隈川流域となり、仙台平野の阿武隈川流域以外の多くの地域は、国造設置地域の範囲外となってしまった。
私は国造の設置は継体天皇の時であると考えているので、つまりは、継体朝が支配できた範囲には、仙台平野や大崎平野は含まれていないと考える。なぜ、国造が設置されなかったかというと、考古学的に見ると6世紀には当該地方の竪穴住居跡がかなり少ないため、物理的に古墳文化人の人口が減少して、地方の王が君臨するための社会基盤がそもそもなくなってしまったからだと考えられている。
既述した通り、後北C2・D式土器を携えた続縄文人は4世紀の頃に宮城県域にまで南下し、それを続縄文人の南下第1波とすると、一見人口が希薄になったと見える6世紀の頃には第2波の南下があった。ただし、第2波の南下は、第1波ほどは進まず、それが「ペツ/ベツ」地名の分布に現れているように見える。彼らは簡易的な平地式建物を作って居住していたため遺構が残りづらい。
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法領塚古墳|仙台市
7世紀になると仙台平野の人口は再び増える。飛鳥の朝廷の影響力は再び仙台平野北部に浸透していき、当地方を治めた首長の墓として7世紀前半に法領塚古墳が築造された(位置は上図の遠見塚古墳の北西側1㎞の距離)。
法領塚古墳は横穴式石室を備えた円墳で、現在は墳丘がかなり削られているが、発掘調査によって、元々は径55mであったことが分かっており、円墳としては雷神山古墳の隣にある小塚古墳と並んで宮城県最大級だ。
古墳は聖ウルスラ学院の構内にあり、平日であれば事前に学校に連絡しておけば横穴式石室を含めて見学することができる。横穴式石室も東北地方最大級で、現在残っているのは玄室のみだが、玄室だけでも奥行きが5.7mあり、元々は10m以上はあったはずだ。
これだけの古墳が築造されたということは、それだけの人的・経済的基盤があったということになるが、法領塚古墳の築造より少し前の6世紀末から7世紀中葉にかけて、のちに初代陸奥国府ができる郡山遺跡に集落が形成される。そういった集落が法領塚古墳の築造基盤であろう。
普通はこの規模・内容の古墳であれば国造の墓と考えることができるが、この地域には国造は置かれなかった。私は、文献にこそ現れないが、国造の範囲より北には特別行政区のようなものが置かれた可能性があり、そのトップの人物の墓ではないかと考えている。
仙台平野の開発と印波国造
官衙としての郡山遺跡については後述するが、その前段階でその地に集落を作った人びとは、土器を見ると千葉県の印旛沼周辺からやってきたことが分かる。印波国造などが仙台平野の開発に活躍したのではないだろうか。また、郡山遺跡に隣接している南小泉遺跡でも、6世紀末葉から7世紀初頭に掘られたと考えられる大溝が見つかっており、日本書紀には一切記述がないが、改新政府が城柵を造営して東北経略を推し進めるより前の蘇我氏が政権を運営していた時代には、すでに国家の政策として、北東北への進出を企てていたことが推定できる。
千葉県の印旛沼に臨む栄町には龍角寺古墳群があるが、そこには7世紀前半に造られた一辺78mを誇る国内最大級の方墳である岩屋古墳があり、印波国造の墓である可能性が高い。
印波国造が、当時政権首班であった蘇我氏の古墳をも上回るほどの巨大な方墳を築造できた理由は、蘇我政権の仙台平野への進出に積極的に協力したことに対する褒賞の意味があるのではなかろうか。
なお近年、宮城県では、初期の城柵と同じように周囲を区画溝と材木塀で囲んだ特殊な囲郭(いかく)集落と呼ばれる遺跡が見つかっており、柵の仲間と見られる。囲郭集落は、竪穴住居が主体で役所のような大型の建物跡が見つからないが、関東系の土器が見つかることが多いため、関東からの移民が居住していたことが分かる。熊谷公男氏は、倭王権の出先機関である郡山遺跡の政治的支配のもとで計画的に造られた施設としている。
現代においても仙台は東北地方を代表する都市だが、元々仙台周辺は大集落化のポテンシャルが非常に高い地域で、弥生時代にはバリバリ水田を作っているし、遠見塚古墳と同時期にもその近くに大規模な集落があった。6世紀の一時期に人口が減少したのは気候の寒冷化が原因の一つだと思われるが、その地域が再び本来の力を発揮しだしたのだ。
第3章 律令国家の建設と北方政策
郡山遺跡|仙台市太白区
645年に蘇我政権が倒れ、日本が律令国家への道を歩み始めると、宮城県域にも新たな変化が訪れる。
古代の東北地方には城柵(じょうさく)と呼ばれる特殊な役所が造られた。いまだ日本の統治が及んでいない地域に新たに進出した際には、まずは城柵を造り、そこに柵戸(さくこ)と呼ばれる移民を送り込み、支配が安定したのち評(こおり=8世紀以降は郡)を設置し、完全に内国化していった。
その城柵の初期のものは、日本書紀に記載されている新潟県に作られた渟足柵(ぬたりのき=647年造営)と磐舟柵(いわふねのき=648年造営)だ(新潟県の北部地域は、この時代には東北地方の一部として見做されていた)。これらと同時期に太平洋側にも城柵が造られたはずだが、日本書紀にはその記述はない。ただし、考古学的には仙台市太白区の郡山遺跡が城柵とされている。
郡山遺跡は、法領塚古墳から南に約3㎞の地点にある。
既述した通り、6世紀末には集落が形成されはじめ、7世紀中葉には第Ⅰ期官衙と呼ばれているものが造営された(第Ⅱ期官衙は、後述する通り初代の陸奥国府跡)。
郡山中学校の校舎にピロティがあり、寺院東方建物群の遺構が見学できる。ただし、事前に仙台市教育委員会に連絡しておく必要があり、学芸員の方の仕事の都合があえば、丁寧な説明をしていただける。
大化改新以降、日本列島を五畿七道に大まかに分割して、その中を約60の「国」という行政区画に分ける作業が一段落したのは天武天皇のときというのが通説だ。東北地方のことをよく「みちのく」と呼ぶが、陸奥国は、当初は「道奥」と表記して、「みちのおく」と呼ばれた。
各国には今でいう県庁にあたる国府を設置したが、陸奥国の場合は、郡山遺跡の第Ⅱ期官衙跡が最初の陸奥国府跡で、その造営時期は7世紀末頃である。
今後の見通し
それではここで、律令国家の北方への進出がこのあとどのように進んでいくのか、あらかじめ述べることにする。下図は、東北地方の郡図(718年に建置され数年後に廃止された石背・石城国も示されている)。
太平洋側のみを説明すると、645年の大化改新直後は、郡山遺跡Ⅰ期官衙が宮城郡内に造営され、その周辺の支配を始めた。ただし、宮城郡の建郡時期は不詳だ。
7世紀末から8世紀初頭には、既述した通り、郡山遺跡第Ⅱ期官衙が陸奥国府として造営された。藤原京への遷都が694年なので、郡山遺跡Ⅱ期官衙の造営がそれよりも早いということは無さそうだ。
それから少し経った713年頃には玉造・長岡・小田・遠田・桃生郡のラインまで支配が及んだ。陸奥国の領域が北に拡大したこともあって、724年には陸奥国府は郡山遺跡から北東約12㎞の距離にある多賀城に移転する。
栗原郡を建置するには時間が掛かり、763年。磐井郡から北が岩手県で、海側の気仙郡は北側が岩手県で南側が宮城県だが、岩手県域を治めることができるようになるまでも時間が掛かり、坂上田村麻呂がアテルイを降して、胆沢・江刺(胆江地方)を手に入れたのが802年。和我・稗縫・斯波の建郡が811年。岩手郡の建置は記録になく、はっきりしない。
このように朝廷が北東北を支配下に収めるには相当な時間が掛かっており、その間には何度も戦争が起きて、たくさんの人びとが死んでいる。以降、この歴史を語ろうと思うが、平安時代初頭のアテルイの話は岩手県の話であるので、その手前までを述べる予定である。
赤井官衙遺跡|東松島市
いくつかの時期に分けられ、Ⅱ-1期は7世紀中葉頃で、竪穴住居群により構成され、当地における一般的な集落であったが、関東系の土器が出土することから、関東地方出身の成員がいたことが分かる。
Ⅱ-2期は7世紀後半で、区画溝と材木柱塀で囲まれた囲郭集落に転換した。
Ⅲ期は7世紀末から9世紀前葉で、役所的性格の遺構が見つかり3つの院に区画されるが、通有の郡家のような規則的な建物配置ではないことから、郡領氏族(具体的には道嶋氏)が治める、郡衙とは異なる役所的な建物の可能性が考えらえている(以上、『東北の古代遺跡』<進藤秋輝/編>)。
ただし、現地説明板では、牡鹿郡家跡あるいは牡鹿柵跡と推定されるとある。
名生館官衙遺跡|大崎市
大崎平野の江合川右岸に位置し、実質的な古墳造営の北限に位置する。この地域は、古墳時代前期から中期には活発に古墳が造られた地域だが、後期には古墳も造られなくなり、人びとの生活の痕跡も少なくなる。したがって、国造が置かれることは無かった。
遺構は、7世紀中葉から9世紀後半まで大きく6期に分けられている。遺跡が造られ始めた時期には、続縄文人はすでに北へ去っていた。
Ⅱ期の遺構からは、多賀城創建期のものより古い8世紀初頭の様式の単弁蓮華文軒丸瓦やロクロ挽き重弧文軒平瓦が出土しており、造営時期は7世紀末から8世紀初頭とされる。郡山遺跡が陸奥国府となったのと同じ頃だが、建物の軸を南北方向に揃えた官衙的な遺構が見つかっていることから、この時期には大崎平野南部の大崎市周辺にまで律令国家の支配が及んでいたことが分かる。
Ⅲ期は8世紀初頭から前葉の時期で、陸奥国府が多賀城に移転したのと同じ頃だが、城内地区に政庁が造営された。この政庁は、備後国三次郡衙跡とされる広島県三次市の下本谷遺跡Ⅱ期政庁に規模・構造などが類似し、郡衙跡と考えられている。
位置的に見ると玉造郡内であることから、玉造郡衙跡と考えられている(以上、『東北の古代遺跡』<進藤秋輝/編>)。
なお、名生館官衙遺跡は、中世には大崎市の拠点城郭となり、城跡としての遺構も残っている。