今回の現地講座の参加者は3名様です。
皆様、予定通りお集まりいただけました。
では早速スタートしましょう。
今回は、ほとんどミュージアムめぐりです。岩手の考古遺物を鑑賞していただくのが主な目的で、時代的には縄文時代が多いです。
北の縄文というと、世界遺産の絡みもあってどうしても青森県や北海道に注目が集まりがちですが、岩手県内には御所野遺跡だけでなく、良い場所がたくさんあるということを皆様に知っていただきたいのも企画した理由の一つです。
今回は北上を出発して、北上平野を北上し、盛岡周辺を見学した後、3日目は沿岸部をめぐりつつ南下し、最後は大船渡から北上に戻ってきます。
※下図はレジュメ用の地図で、サイズを小さくして掲載していますが、赤文字で記されている箇所が探訪箇所なので、行程のイメージは湧くと思います。
まずは、北上市立博物館からです。
※以下の写真は過去に訪れたときに撮影したものを含みます。
北上市立博物館の古代に関する展示は、かなり割り切った展示で、まず最初に北上市内から出土した土器がズラッと展示され、あとは国史跡のコーナーが3つあるだけです。すなわち、縄文時代の樺山遺跡、八天遺跡、それに末期古墳の江釣子古墳群です。
弥生時代とか前九年合戦の安倍氏とかはバッサリ切り捨ててあって、潔くて良い。こういうメリハリの効いた展示方法も良いと思います。
土器の展示方法は壁掛けタイプで、時代順に展示しています。
早期、前期、中期。
この展示方法だと沢山の土器が展示できるメリットがありますが、デメリットとしては、身長が低い人が不利であることと、上に行けば行くほど遠くなるので細かい観察ができないことです。
ベストな展示方法ってなかなか難しいのですよ。
土器の型式までは書かれていませんが、出土場所に関しては別にまとめて表示があります。
岩手県の縄文時代は、大きく2つの文化圏に分かれます。北部の馬淵川流域と、中・南部の北上川流域です。今回の旅では、馬淵川流域には行きませんので、まずはこの展示を見ていただいて、北上川流域の土器の傾向を掴んでいただきます。
後期、晩期。
左下に弥生時代の土器もあります。
私自身も北上川流域の土器型式については語れるほどの知識はありませんが、皆様たくさんの土器を見ていますので、外見的な印象(あるいは雰囲気)でなんとなく傾向は掴めたと思います。
次に、縄文中期から後期の国史跡・樺山遺跡のコーナー。
樺山遺跡に関しては、このあと行きますのでその際に説明しますが、選りすぐりの土器が展示してあり、こちらの後期初頭の門前式土器は俊逸です。
樺山遺跡から出土した土器は、壁掛け土器展示コーナーにもあります。こちらは中期の深鉢で、下半分はありませんが大きめです。
つづいて、国史跡・八天遺跡のコーナー。中期末から後期末にかけての集落跡です。
特筆すべき遺物は、仮面に取り付けて使用されたといわれている土製品で、耳形土製品(1点)、鼻形土製品(5点)、口形土製品(2点)の数々です。ただし、それらは写真撮影NGなので、東北歴史博物館に展示してある複製品を示します。
孔があいており、紐を使って布製の仮面に取り付けた可能性があるわけです。なお、縄文時代の仮面は140点ほど見つかっており、120点が土製で、残りは貝製と石製です。もし布製のものがあったとしてもまず残らないでしょう。
八天遺跡からも素敵な土器が出土しています。こちらも後期初頭の門前式土器。
こちらは、後期中葉の大湯式土器。
4つある突起の一つが注口のようになっています。
とくに面白いのは、後期前葉の宮戸Ⅰb式で人体文が描かれている土器です。
AICTのメンバーは勝坂式土器を見慣れています。その勝坂式土器にはダイナミックな人体装飾がたくさん見られるので、それに比べるとこういう沈線で描かれた大人しい感じの文様は地味に見えますが、東北ではそれほどは人体文は見られないので、珍しい遺物です(人体文の凄いのは翌日見ます)。
ところで、この八天遺跡は既述したとおり中期末から後期末にかけての集落跡ですが、注目すべきは径13mの大型建物跡が見つかっていることです。長さ10m以上の建物を大型建物と呼びますが、通常大型建物は長方形なのに、こちらは円形なのです。
ちなみに、八天遺跡は目で見られる何かがあるわけではありません。
この現地講座が終わった後、ひとりで訪れてみましたが、何か所か掘った場所にブルーシートが被せてありました。新しいものもあるため現在発掘作業中のようです(その日は土曜日だったので作業はなし)。
北上市立博物館の古代史関係では国史跡・江釣子古墳群の展示も充実しています。
古墳時代は7世紀で終焉を迎えますが、南東北以南で7世紀の終末期古墳が築かれた頃、飛鳥の朝廷の支配が及んでいなかった北東北では、末期古墳の築造が始まります。古いものは7世紀後半から築造がはじまり、場所によっては9世紀頃まで築造が続きました。末期古墳の分布範囲は下図の通りです。
末期古墳の中でもとくに最初の頃のものが江釣子古墳群と青森県おいらせ町の阿光坊古墳群で、それぞれ主体部の構造が異なることからルーツも異なると考えられています。
江釣子古墳群では横穴式石室が退化した様式の石室が造られ、阿光坊古墳群では石室は造られず、単なる墓壙です。
江釣子古墳群は、北上川支流の和賀川の北岸にあり、東から八幡、猫谷地、五条丸、長沼の4支群に分けられます(長沼支群に関しては、支群として見るのは難しいのではないかと思いますが、それについては別の機会に述べます)。総数は130基以上で、末期古墳の古墳群としては日本最大です。
築造者は当時蝦夷(エミシ)と呼ばれた人びとで、すでに続縄文時代は終わっているため、続縄文人ではありません。ただし、続縄文文化の影響が見られる場合もあります。
末期古墳は、数メートルから十数メートルの直径を持つ円墳で、古墳ごとにそれほどの階層差は見られず、蝦夷の社会は比較的均質な身分構造であったことが分かりますが、当然ながら古墳に葬られなかった階層の人びともたくさんいたわけです。
北上市立博物館には、例えば下図のような出土遺物が展示されています。
左下に錫釧(すずくしろ)があります。釧とは腕輪のことですが、日本人は錫のみで釧は作らなかったため、サハリンなどに居住する北方民族が製作したものだと思われます。
展示遺物は他にもありますが、目玉は赤彩球胴甕(せきさいきゅうどうがめ)と呼ばれる赤く塗られた土師器です。
実は上の写真は過去に訪れた時のもので、今回の現地講座で訪れた時はもっと点数が少なかったのですが、これらの土器の特徴は、器面全体を赤く塗るのではなく、頚の部分だけはストライプ模様にしたりして塗り潰さないことです。
そして、この土器の造られた時代は、8~9世紀頃で、分布は下図の通りです。
江釣子古墳群の所在する北上川流域に最も多く、蝦夷(エミシ)が造った土器であることが分かります。
ところで、上の図を見ると一点だけ東京にポツンとあります。東京都八王子市の帝京大学構内にある上ッ原(うわっぱら)遺跡から出土しており、帝京大学総合博物館にはエミシのコーナーがあり、個人的にはそれが同博物館の目玉だと思っています。
蝦夷は朝廷に服属するとラベリングが俘囚(ふしゅう)に変わります。俘囚は数家族ごとに全国に移配されたことが文献上では分かるのですが、赤彩球胴甕の出土はそれを物理的に証明したことになります。
そのため、八王子だけでなく、もっと全国から見つかっても良いのにと思うのですが、なかなかそう上手くは行きませんね。
AICTでは、今年(2024年)の1月12日に第125回現地講座として帝京大学総合博物館を訪れており、そのときは8名様の参加を頂きました。ただ、主催者側として残念なのは、そのときと今回の現地講座の両方に参加してくださった方が一人もいなかったことです。
両方参加していただければ、感慨もひとしおだったはずですが、皆様なかなか予定が合わないので仕方がないですね。
さて、今回の現地講座では末期古墳の現地にも訪れますし、岩手県立博物館には石室の模型を含めて展示がありますので、末期古墳に関しての説明はまたその都度行います。
なお、北上市立博物館には和賀分館がありますが、今回は時間の都合で行程に組み込みませんでした。