北上市立博物館で北上市の古代の様相を理解したあとは、国史跡の樺山遺跡へ向かいます。
樺山遺跡には、樺山歴史の広場縄文館という施設があるので、まずはそこに寄ってみましょう(トイレもこの中にあります)。
ただしここには遺物の展示は無く、見るべきものは土層の剥ぎ取り展示くらいで、あとはイメージ映像が見られるくらいです。
※樺山遺跡から出土した土器に関しては、北上市立博物館のページで紹介しています。
立派な建物ですから結構な意気込みで造られたことが想像でき、当初は活用されたのでしょうが、今はどうなのでしょうか。非常にもったいない気がします。
では、遺跡に行ってみましょう。
樺山遺跡は、北上川東側の段丘上にあり、標高100m付近の上段と80m付近の下段の2段構造になっています。上の段は集落で、下の段には配石遺構があり、後述する通り墓域および祭祀場とされていますが、集落ともされています。
※樺山遺跡の場合は、スカッときれいに説明した資料が見当たらず、現地説明板や北上市立博物館の展示パネルなどを併せ読むと混乱するため、以降は最大公約数的な説明をします。
まずは、上の段の集落跡から見てみましょう。
今日はほとんど人がいませんが、ここは北上市民の憩いの場になっていますので、タイミングによっては家族連れなどを結構見かけます。
竪穴住居が何棟か復元されていますが、中に入ることはできません。
これは竪穴住居跡の窪み。
縄文時代の竪穴住居は、おおよそ20年に1度くらいは建て替えていたと考えられており(研究者によって建て替えスパンには違う考えもある)、建て替えるときは場所を変えて建てますので、住居跡の竪穴のみ残ります。
場合によってはその竪穴をゴミ捨て場にしたりしますし、海に近い遺跡では貝塚になっていることもあります。
樺山遺跡は既述した通り北上川東側の段丘上にあり、北上平野(北上盆地)を見渡すことができます。遺跡からの景色は素晴らしいですが、今日は曇り空ですから奥羽山脈はほとんど見えません。
2022年の夏に来たときはこんな感じでした。
2022年9月にAICTで北東北の現地講座を開催した時も解散場所は北上駅でしたが、新幹線の時刻までまだ少し時間があったので最後にオマケで寄りました。
その時はちょうど夕暮れ時で、奥羽山脈に沈む太陽を見ることができました。
地元の方々が何人か見ていて、これでも沈む太陽が見られたから今日はまだ良い方だと言っていました。
ところで、この集落跡からは、伏甕(ふせがめ)が検出されています。
「集落内」という表現があまりよくなく、住居跡で見つかったのかどうかが分かりません。図を見る限りでは住居跡の床面から検出されたようです。ただし、底開けられた穴を覗いている想像図は、現代人的にはにわかには信じ難い気がしますが、縄文人は何を考えているか分かりません。
ところで、遺跡の時期ですが、北上市立博物館の展示パネルによると、上段は「約5500年前」、下段は「約4500年前」とあります。こういう絶対年代での説明はやめて欲しいです。こういう数値は研究者によって変わってくるので客観性に乏しいからです。
ただし、北上市立博物館のページで紹介した通り、展示されている土器は、中期および後期初頭です。大体その頃が集落の盛期と考えて良いでしょう。
集落跡から見下ろすと、配石遺構が並んでいるのが見えます。
これも青々とした夏の時期はこんな感じでした。
遠くに奥羽山脈が見えますね。
ではつづいて、その配石遺構を見てみましょう。
樺山遺跡の配石遺構は、径1~2mの範囲内に石を敷き詰め、その中央や一端に花崗岩の川原石を立てているものが多いです。
現地説明板には「石組みの下は少しくぼんではいるが、土こう(あな)といえるものではない」とあり、その表現だと墓であるとは思えないのですが、北上市立博物館のパネル展示には、「墓と考えられています」と記され、屈葬の図も描かれています。
こういった遺構は総数35基以上で、耕作により破壊されたものもあると推定されています。
こちらは2基が合体しているのか、あるいは切り合っているのか。
中には立石として石皿を転用したものが2基ありました。
現地に置かれているものはレプリカで、実物は北上市立博物館に展示してあります。
随分と使い古されている感じで、現代人的発想だと、被葬者が生前に愛用していた物なのかな?と思ったりしますね。
配石遺構は、大きな括りでは環状列石(ストーンサークル)と一緒で良いと思いますが、そういった遺跡の中では、大湯環状列石や小牧野遺跡などと比較すると樺山遺跡はマイナーかもしれません。
でも、上述した通り中々興味深い遺構ですので、「石を並べる系」が好きな方はぜひ訪れてみてください。
それではつづいて、江釣子古墳群に行きたいと思いますが、その前にランチを食べましょう。