せっかく遠野に来たので皆様を観光にお連れしたい気分ですが、そういう時間はまったくありませんので、諦めて綾織新田(あやおりしんでん)遺跡を目指します。
最近国史跡になった鍋倉城跡もなかなか良いのですが、遠野市にはその鍋倉城跡以外にもう一つ国史跡があって、それが綾織新田遺跡なのです。
AICTでは、案内役の私も初めて行くという場所がよく出てきますが、綾織新田遺跡も初めて行きます。
まずは適当に当たりを付けて向かいましたが、説明板が見当たりません。
おそらく、もう一段上でしょう。
坂を登り、高速道路に架かる橋を南側に渡った場所に説明板を発見しました。
説明板の前は広大な駐車場のような良く分からない広場になっているので、適当に車を停めます。
立派な説明板だ。
説明板の左下の写真は、網の上で焼き肉をしている画ではありません。赤い石器は、遠野まちなか・ドキ・土器館に展示してある異形石器です。
鉄分を含んでいるため赤い。異形石器とは、何だか良く分からない奇妙な形の石器のことです。現代人的発想でも呪的パワーがありそうに見えますが、土壙墓から副葬品として見つかることもあります。
綾織新田遺跡は、縄文時代前期前半の拠点的集落跡を主とする遺跡です。ただし、普通の縄文集落と違うところは、広場を中心に放射状に建てられた建物が大型竪穴住居であることです。説明板の図を見ても分かる通り、でかい建物に拘っているのです。建物跡は17棟分が検出されており、平面形は長方形を基調とし、複数の炉を持ちます。
綾織新田遺跡と同様に大型建物で構成されていた集落としては、同じ岩手県内の奥州市にある国史跡・大清水上(おおすずかみ)遺跡が著名です。
AICTでは、2021年9月に訪れています。胆沢川の扇状地の奥にあって意外と遠かった。
ただし、大清水上遺跡は前期後葉ということで、綾織新田遺跡よりも少し新しいです。
こういった大型建物で構成される集落は寒冷地に多い傾向があるため、寒冷地対応の住居の可能性がありますが、前期は気温の温暖化が進行した時期です。ただし、もっと細かい周期で見た場合は、当然ながら短いスパンでの寒暖の変化もあったはずです。
なお、綾織新田遺跡では、道路跡も検出されており、東日本の太平洋側で初めて発見された縄文時代の道路遺構です。
さて、それでは遺跡の現状はどうなっているでしょうか。
うん、なるほど。
通有の縄文遺跡と同様な風景です。
説明板の図を見ると、遺跡は台地の先端部分に選地し、東側が地続きで、他の三方が落ちています。その空間に大型建物が建っていたわけです(ただし、説明板の図は正方位ではなく少しズレています)。
とくに歩く場所も無いので切り上げようかなと思ったのですが、遠くの方にもうひとつの説明板が立っていることに参加者が気づきました。
あー本当だ、ある。
見てしまったからには気になるので草をかき分けて確認しに行きます。
でも、お客様は誰一人付いてきません。
まあ、こんなところは歩きたくないですよね。
到達。
説明板の近辺は草が刈られていました。
戻ろうと思ったら、草が刈られているルートを見つけました。
帰りはそこを歩きます。
皆様が待っている場所に戻って報告すると、お陰で図のスケール感が分かったと言われました。
確かにその通りで、遺跡入口の説明板に書かれている3号建物跡の場所が分かったため、説明板の場所から眺めた際の集落全体のスケール感が理解できるようになったのです。
ではここで、「遠野まちなか・ドキ・土器館」に展示してある綾織新田遺跡出土の土器を紹介します。
まずは、大木2b式土器。
こちらも大木2b式土器。
両方ともシンプルな実用本位の土器という感じがします。
こちらは大木3式土器。
大木式土器は、前期から中期にかけて流行った土器型式で、南東北を中心として、最後の方は北は青森県にまで進出して、例えば三内丸山遺跡などの円筒土器文化を飲み込んだような形になりました。また、南下した勢力によって、関東で加曽利E式土器の出現を誘発します。
その中でも、上記した2b式や3式は、前期前半の土器で、綾織新田遺跡で大型建物が建っていた時期に相当します。
興味深いのは、ドキ土器館に大木8b式土器が展示されていることです。
大木8b式になると中期の後半に差し掛かっていると思うのですが、説明板には中期の説明は無いですね。
それでは、遠野市内でもう一か所行きます。
中期旧石器が出土した金取遺跡です。
(つづく)