最終更新日:2024年11月28日
貝塚とは何か
貝塚は、縄文時代早期から近世まで造られましたが、単に「貝塚」と言った場合は、おそらく縄文時代の貝塚を想像する人が多いと思います。本稿では、その縄文時代の貝塚について述べます。
貝塚は、貝殻が堆積している遺跡あるいは遺構のことを言います。当時の人からするとゴミ捨て場という認識だったかもしれませんが、考古学的には宝の山です。
貝殻だけを見ても、当時の自然環境や食生活が分かりますし、貝殻以外の遺物が含まれていることも多いです。それら遺物の中でとりわけ貴重な物が人骨です。普通、土の中に埋まった人骨は、酸性土壌の日本においては溶けてなくなります。ところが、骨粗しょう症対策でカルシウムをたくさん取ろうと言われている通り、貝塚に安置された遺体は、貝殻のカルシウムによって保護され、数千年経ってもよく残っていることがあるのです。縄文時代の人骨として紹介されるもののほとんどは、貝塚から出土したものです。
貝塚は日本列島のどこに多いのか
貝塚は全国の海岸部であればどこでも造られたわけではありません。千葉県の袖ヶ浦市郷土博物館に掲示してある下図を見ると傾向が分かると思います。
一番多いのは、神奈川県・東京都・千葉県にかけての東京湾沿岸です(後述する縄文海進があったので、埼玉県にも多い)。東京都品川区には、学史的に非常に重要な大森貝塚があります。
千葉県には全国の貝塚の3割があり、千葉市若葉区の加曽利貝塚は、全国で4か所ある縄文時代の特別史跡の一つです(他は、三内丸山遺跡、大湯環状列石、尖石遺跡)。
千葉県北部と茨城県南部の間にかつて展開した香取海沿岸(現在の霞ヶ浦沿岸)も多いです(上掲図では、古鬼怒湾と記されている場所です)。
三浦半島には、国内最古級の貝塚である夏島貝塚のほか、早期貝塚が多く、ある種、貝塚の聖地の様相を呈していますので、貝塚好きは必ず訪れるべき地域でしょう。
それ以外を北から見てみると、北海道の噴火湾沿岸。世界遺産になっている北黄金貝塚や入江・高砂貝塚が有名です。
青森県の八戸市周辺も多いです。八戸市には、世界遺産の関連遺産になっている長七谷地(ちょうしちやち)貝塚があります(5月の現地講座で行きます)。
岩手県から宮城県にかけての三陸海岸も多く、宮城県東松島市の里浜貝塚は、今行っても松島湾の美しい景観の場所にあります。
東海地方では、三河湾から伊勢湾の愛知県側(あゆち潟)にかけて分布します(有名な朝日遺跡にある貝殻山貝塚は弥生時代の貝塚です)。
西日本を見てみると、瀬戸内海沿岸のとくに岡山県に多いです。
九州では、玄界灘沿岸と有明海沿岸に多い。
本州日本海沿岸は太平洋沿岸と比べると少ないのですが、例えば、青森県つがる市には世界遺産になっている田小屋野貝塚があります。
しゃこちゃんが出土した亀ヶ岡石器時代遺跡の近くですね。
また、富山市の小竹貝塚は、前期としては全国最多の91体の人骨が出土した著名な遺跡です。
沖縄も貝塚が多い地域ですが、先島諸島は縄文文化の枠組みでは話せません。なお、鳥居龍蔵が調査した石垣島の川平貝塚は、14~15世紀の遺跡と考えられています。
参考までに、岡山市灘崎歴史文化資料館に展示してある縄文時代の貝塚数ランキングは以下の通りです。
1位 ・・・ 千葉県 657
2位 ・・・ 茨城県 327
3位 ・・・ 宮城県 218
4位 ・・・ 埼玉県 170
5位 ・・・ 神奈川県 131
6位タイ ・・・ 北海道 109
6位タイ ・・・ 沖縄県 109
8位 ・・・ 東京都 90
9位タイ ・・・ 岩手県 82
9位タイ ・・・ 愛知県 82
11位 ・・・ 熊本県 77
12位 ・・・ 青森県 56
13位 ・・・ 岡山県 53
※岡山県が意外と多いということを示す目的があるようで、岡山県までしか掲載されていません。
時期ごとの傾向
早期の貝塚
縄文時代は1万数千年間に及びますから、上述の貝塚がすべて同じ時期に存在したものではないことは、すぐに想像できると思います(チラチラと時期を書いていますから分かると思います)。
貝塚の時代ごとの展開を見てみると、まず、草創期の貝塚は今のところみつかっていません。
早期前葉の今から約1万年前頃になると貝塚が現れます。一般的には、夏島貝塚が最古の貝塚と説明されることが多いですが、令和3年に国史跡となった千葉県船橋市の取掛西(とりかけにし)貝塚の方が数百年早いとする見方もあります。
取掛西貝塚では、貝塚の下からイノシシとシカの頭部が並んだ状態で見つかり、最古の動物儀礼の形跡ではないかと考えられています。飛ノ台史跡公園博物館では、発掘時の写真を床面に貼り付けています。
夏島貝塚から出土した土器は撚糸文系と呼ばれる土器で、夏島貝塚が標式となって夏島式土器と呼ばれています。
縄文好きなら知っていることとして、早期の土器は、尖底か丸底です。つまり、自立できません。ただし、北海道東部の早期土器は平底です。
気候の温暖化が進むとともに定住化が進み、早期後葉には小規模な集落に貝塚が伴う例が増えます。例えば、千葉県船橋市の飛ノ台貝塚です。
見つかった貝は、ハイガイ、マガキ、ハマグリ、シオフキなどの鹹水(かんすい)性の貝です。つまり塩水(海)にいる貝を取って食べていたということになります。
なお、勘違いしてはいけないのは、貝塚を伴う集落が必ずしも海のすぐ近くに在するわけではないことです。千葉県の東京湾岸の貝塚の場合は、大体海岸から1.5㎞~2㎞くらい離れていることが普通ですから、いつも海辺で貝を取って生活をしていたわけではなく、いろいろある食べ物の中の一つの選択肢が貝であったと考えてください。
縄文早期の貝塚に限って検出される特徴的な遺構としては、野外に炉を設置した炉穴がありますが、それが初めて発見された遺跡が飛ノ台貝塚です。杉原荘介が見つけました。飛ノ台史跡公園博物館では、炉穴の実物大模型があります(1月の現地講座で行きます)。
早期までは九州の縄文文化も大変栄えていました。例えば、佐賀市の東名(ひがしみょう)遺跡は、湿地貝塚という位置づけで、大量の植物製品や動物遺体が見つかっている大変貴重な遺跡です。
遺跡の傍に博物館を建設する予定ですが、ちょっと難航しているようです。ただし、現在でも展示室(東名縄文館)はあり、編み籠などの植物製品も展示してあり素晴らしいです。
九州の縄文文化が急速に衰えるのは、7300年前の鬼海カルデラの噴火によってですが、その辺の話は3月の鹿児島の現地講座の一つのテーマとなっています。
北の貝塚を見てみると、既述した長七谷地(ちょうしちやち)貝塚は、早期後葉の貝塚で、赤御堂式土器が出土しています。現在の地形を見ると完全に陸地にありますが、往時は古奥入瀬湾に面しており、遺跡の前面には干潟が展開していました。見つかった貝は、ハマグリやオオノガイなどです。
前期の貝塚
前期は、縄文海進が最大まで進んだ時期です。下図のような地図を見たことがある方も多いでしょう。最も海進が進んだ時期の地図で、関東の人間からすると、またいずれこうなってしまうのかと思うと恐怖に震える地図です。
前期は列島各地で貝塚の形成が進みますが、規模はまだそれほどでもありません。
既述した北海道の北黄金貝塚は、前期の貝塚で、前期にしては規模が大きいです。見つかった貝は、ハマグリやカキ、ホタテなど、現代の私たちからするとご馳走級の貝が多い。この遺跡の重要なところは、水場遺構が見つかったことです。
そこでは、石皿や摺石といった大量の礫石器がみつかっています。水場でそういったものの供養か何かの儀礼を行ったのではないかと考える研究者もいます。
宮城県七ヶ浜町の大木囲(だいぎがこい)貝塚も前期から貝塚の形成が始まりました。この遺跡の重要なところは、出土した土器によって前期から中期にかけての大木式土器の編年の基礎を作ることができたことでしょう。編年を作成したのは、山内清男です。
中期の貝塚
中期になると貝塚は大規模化します。前期までの貝塚は、点在貝塚(地点貝塚)といって、例えば住居跡の穴に貝殻が堆積したりしたものが集落内に点在している状態でした。ところが、中期になると、馬蹄形あるいは環状形と呼ばれる貝塚が出現し、それは「C」の字や「U」の字を描くように直径数十メートルから、大きなものでは200mを越える土手状になった貝殻の堆積が見られるものです。
千葉県市川市の姥山(うばやま)貝塚は、C字形の馬蹄形貝塚で、外径は東西130m、南北120mを測ります。現地は元々のC字状の形状が分かるように整備されています。
姥山貝塚では143体の人骨が見つかり、縄文人骨の形質の研究進展に大きく寄与しました。また、初めて縄文人が炉を備えた竪穴住居に住んでいたことが確実とされた学史的に重要な遺跡です(1月の現地講座で行きます)。
おそらく、貝塚で最も有名であると思われる加曽利貝塚は、中期中頃から後期中頃にかけての集落遺跡で、中期後半には環状をした径140mの北貝塚が形成され、後期前半には馬蹄形をした長径190mの南貝塚が形成されました。
加曽利貝塚の発掘調査では、AからEまでの地点が設定され、中期後葉のE地点から見つかった土器は、加曽利E式、後期のB地点から見つかった土器は加曽利B式土器と命名されました。なお、AからD地点までの名付け親は、勝坂遺跡の調査で有名な大山柏(大山巌元帥の子)です。
加曽利貝塚で面白いのは小型の巻貝であるイボキサゴがたくさん見つかることで、南貝塚の場合は、出土した貝の80%以上がイボキサゴでした。
現代人の目から見ても、こんな小さい貝をつまようじでほじくって食べるのは面倒くさいなと思います。スープの出汁として使っていたのかもしれません。
東京湾沿岸の中期貝塚の中では、特殊な様相を呈しているのが、北区の中里貝塚です。
中期中頃から後期初頭にかけて形成された貝塚で、最大で約4.5mの厚さの貝層が、横幅約70~100mをもって、長さ約1kmも続いているというとんでもない規模の貝塚です。
見つかった貝の量は周辺の住民だけで消費するには多すぎるため、貝の加工生産工場であったのではないかと考えられています。例えば、ここで干し貝に加工して、各地に出荷するか、あるいは各地からやってきた人びととこの近くで物々交換をしていたという仮説です。面白いですね。
香取海沿岸では、茨城県美浦村の陸平(おかだいら)貝塚が著名です。早期後葉から貝塚の形成が始まりますが、中期に大規模化し、8か所の地点があります。それらは繋がって環状になっているわけではありませんが、環状に近い状況を呈しています。
見つかった貝は、ハマグリが多く、シオフキ、サルボウ、ハイガイ、マガキ、アカニシなどです。
明治12年に陸平貝塚を発掘した佐々木忠次郎と飯島魁は、モース博士の弟子で、当時は東大の学生でした。この発掘は近代における日本人による初めての発掘と言われており、学史的に非常に重要です。その時の発掘箇所は、A地点と呼ばれ、国史跡の石碑が建つ場所の裏手です。
後・晩期の貝塚
貝塚の大規模化は後期まで続き、関東では晩期後半の貝塚は小規模化します。
東京湾沿岸の貝塚としては、千葉県市川市の堀之内貝塚は、後期前半から晩期中頃までの集落跡で、U字形をなす馬蹄形の貝塚を伴います。貝塚は長径100m、最大短径110mです。
記録上では、明治16年には遺跡としてその存在が知られており、明治37年には東京人類学会の遠足で発掘され、その後も多くの学者やマニアが訪れ、掘り散らかしました。比較的大規模な発掘調査は、昭和38年の杉原壮介率いる明治大学による発掘です(B地点)。
山内清男は、本遺跡出土の土器を堀之内式土器と命名し、新旧で1式と2式に分類しました。ところが、古くからの乱掘もあって遺跡の全容は分かっていません。
同じ市川市の曽谷貝塚も後期の著名な貝塚で、C字形をした馬蹄形貝塚です。外径は南北240m、東西210mで、加曽利貝塚の南貝塚よりも大きく、国内最大級。貝塚はCの字の中央部周辺で見つかり、C字形の高まりの部分から外側にかけては住居跡が見つかっています。
古東京湾を少し遡ったさいたま市岩槻区の真福寺貝塚も後期から晩期にかけての貝塚で、国指定重要文化財のミミズク土偶は大変な人気者です。
香取海沿岸では、既述した土浦市の上高津貝塚が後期から晩期にかけての集落跡です。
貝塚は4つの地点が確認でき、それらは埋没谷を囲むようにその周辺に造られ、完全に繋がっているわけではありませんが、C字形を呈しています。
後期から晩期にかけての西日本の主な貝塚を見てみると、岡山県笠岡市の津雲貝塚では、170体以上の人骨が出土しています。また、熊本市南区の御領貝塚は、九州を代表する大規模貝塚です。