箸墓古墳|奈良県桜井市 ~古墳時代の始まりを示す画期的な巨大前方後円墳~

 

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箸墓古墳

 

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1.箸墓古墳は前方後円墳のなかの前方後円墳

 箸墓古墳は、古墳好きなら必ず訪れるべき古墳で、全国で最も有名な前方後円墳と言っても良い、まさに前方後円墳のなかの前方後円墳です。

 では、なぜそんなに有名なのでしょうか。それは、例えば古墳研究の泰斗である白石太一郎氏やその他の著名な研究者が、「卑弥呼の墓」と発言していることも要因の一つでしょう。

 ただし、卑弥呼の墓とするのは、あくまでも「考え方の一つ」に過ぎません。偉い先生が発言するとそれに追従する方(仕事上の都合でそうしたほうが良いと考えるプロの方あるいは古墳の初心者)も多く、そうすると多数派を形成して、それがまるで事実のようになってしまいます。卑弥呼の墓ではないと考えている研究者も多く、私もその一人ですし、現状では、卑弥呼の墓かどうかは「分からない」というのが正確な答えです。

 箸墓古墳を著名なものにしている他の要因としては、「定型化された初めての前方後円墳」と評価されていることです。つまりは、箸墓古墳の造営に用いられた墳丘デザインや外側に表飾するものなどが一つのフォーマットとなって、これが元になって全国に前方後円墳が広がって行ったという考えです。

 書籍や現地説明板で列島各地の古墳の説明を読んでいると、「この古墳は箸墓古墳の3分の1の相似形」とか、「箸墓古墳と同様に前方部がバチ形に開いており」いったような説明を見ることがあります(「バチ」というのは三味線の「撥」)。これが、箸墓古墳のフォーマットが列島各地に広がって行ったとする考えです。

 この考えは、奈良にヤマト王権が発足し、ヤマト王権の支配あるいは影響が及んだ地域に、箸墓古墳と同様なフォーマットの前方後円墳ができていき、やがてヤマト王権の支配あるいは影響は列島の広範囲に及んだとする考え方に繋がっていきます。

 ※この考え方のほかに、箸墓古墳よりも前に「纒向型前方後円墳」なるものが奈良を震源地として全国に広がったとの考えもありますが、それについては今回は触れません(結論だけ述べると私は否定派です)。

 ところが、箸墓古墳について語るまでもなく、古墳時代前期におけるヤマト王権の具体的な政治の仕組みや地方統治の方法に関してはほとんど分かっていません。つまり現状では、古墳によって「イメージ先行型」のヤマト王権が研究者の頭の中に展開しているわけで、その実態も本当のところは誰にも分りません。

箸墓古墳

 

 ところで、日本の歴史区分を言った場合、古い順に、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代となります。ここまでは考古学に基づいたネーミングで、その次に来る飛鳥時代、奈良時代、平安時代などは、当時の日本の中心(首都)があった場所に因んでいます。古墳時代の最後の方は飛鳥時代とオーバーラップしているので、その辺の区別が良く分からないと思う人もいるようですが、歴史区分の呼び名がたまたま被っちゃっているだけなので深く考えないでください。

 これらの歴史区分の中の古墳時代というのは、その名の通り、列島各地に古墳が造営された時代です。となると、古墳の第一号を決めて、それが造られた以降は、古墳時代としなければならないという考えが生まれてきます。その際に、一般的に古墳の第一号とされているのが箸墓古墳なのです。箸墓古墳が造られた以降は、古墳時代なのです。

 これらのことから箸墓古墳は、前方後円墳のなかの前方後円墳と言われるのに相応しい古墳であると言えるわけです。

 以降、現状で分かっている範囲で箸墓古墳についてもう少し詳しく見て行きましょう。

 

2.箸墓古墳の実態はどこまで分かっているのか

箸墓古墳の形状

 箸墓古墳は、宮内庁によって、大市墓(おおいちのはか)として孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)の墓に治定されているため、現在は墳丘内に立ち入ることはできません。ですから、私たちは外側を歩きながら観察することしかできません。外から見るとただの山ですから、正直、面白くも何ともありませんが、それでも一度は見ておいた方がいいと思います。 

箸墓古墳の拝所

 

 宮内庁管理の古墳は、原則的に発掘調査は行われません。ただし、まれに古墳の修繕の際などに発掘調査がされることがあります。箸墓古墳の場合は、墳丘の発掘調査は行われていません。

 宮内庁管理の古墳を調査しようと思った場合、考古学者が目を付けるのが周濠です。私は全部の陵墓について調べたわけではないですが、おそらく宮内庁が管理しているのは墳丘だけのケースが多いはずです。そうすると周濠は掘れます。

 ただし、箸墓古墳のように周濠が国指定史跡になっていることもあるため、そうすると簡単には掘れませんが、箸墓古墳の場合は周濠の発掘調査が行われています。

 発掘調査ができないときは、古墳の外見やかつて墳丘上で拾われた遺物を元に考えることになります。今はレーザー測量の技術が発達しており、墳丘に樹木があっても正確な古墳の形が分かります。赤色立体地図と呼ばれる赤い色の墳丘図を見たことがある方もいると思いますが、それがそうで、箸墓古墳の正確な形が判明しています。

 ところが、それは現在の形なのです。古墳は造られてから相当の年月が経っているため、今私たちが見ることができる形は、あくまでも今の形であって、築造当初の形を正確に知るには、発掘調査をするしかないのです。

 箸墓古墳の墳丘長は280mと言われることが多いですが、前方部の墳端が削られたようになっていることから、本当はもう10m長かったと考える研究者もいます。それは、掘ってみないと分かりません。

 正確な形が分からないと、既述した「箸墓古墳の相似形」の話などはできないのに、相似形云々を話す研究者は、現在の古墳の形を見て判断しますし、戦前に書かれたような結構適当な測量図を元に議論したりしますので、私は「相似形」という言葉が出てきたら警戒するようにしています。

 

箸墓古墳の築造時期

 箸墓古墳の築造年代は、昔は4世紀といわれていて、今でもそう考えている研究者がいます。ところが、最近では3世紀半ばとの見解を示す研究者もおり、そうすると、箸墓古墳は邪馬台国所在地論争を行う際に有力な素材として使えることになります。

 箸墓古墳の築造時期はいったいいつなのでしょうか。主体部を開けてみて遺物がたくさん出れば一発で分かります。ただそれができないため、考古学者は主として表採された遺物を見て判断します。その際、研究者ごとに考え方が違うため、築造時期が確定できないのです。

 宮内庁職員は墳丘で特殊器台の破片を見つけています。通常、特殊器台は特殊壺とセットで、主として弥生時代後期の吉備の墳墓に立てられた土器です。岡山県総社の楯築墳丘墓で見つかった楯築型からの編年が確立しています。

楯築墳丘墓

 

総社市埋文学習の館にて撮影

 

 『「遺跡を学ぶ」箸墓古墳』によると、見つかった特殊器台について、近藤義郎は、宮山型と都月型であるとし、宮内庁の発表資料によると、後円部からは宮山型が、前方部からは都月型が見つかったとあります。 

 特殊器台は円筒埴輪のルーツになったものと考えられていますが、これらの中の宮山型は、面白いことに吉備では宮山墳墓群からしか見つかっておらず、あとは奈良で見つかっています。

宮山墳墓群出土・特殊器台のレプリカ(総社市埋文学習の館にて撮影)

 

 箸墓古墳で表採された宮山型特殊器台を築造時に置かれたものと考えると、その時期は、3世紀半ばから後半となります。

 こういう少ない遺物から判断すると、箸墓古墳は3世紀半ばから後半の頃に造営されたと考えられます。

 

何を基準として古墳の築造時期を決めるか

 ただしここで問題となることがあります。これはあまり話題にされませんが、非常に重要なことです。

 先ほど、「3世紀半ばから後半の頃に造営されて」と軽く言いましたが、例えば、静岡県沼津市にある高尾山古墳は、230年頃に墳丘が完成し、250年頃に主体部の構築と埋葬が行われたと考えられています。こういう墳丘の完成と埋葬とのタイムラグがある古墳は恐らくですが全国に沢山あるはずです。

高尾山古墳

 

 高尾山古墳の築造時期を示す場合は、230年なのでしょうか250年なのでしょうか。初葬者が埋葬された時点をもって古墳の完成と考えた場合、250年です。でも、稀に岡山県赤磐市の両宮山古墳のように未完成ではないかと疑われる古墳もあって、そうなった場合、築造年代は、「工事を諦めたとき」ということになるでしょうか。

両宮山古墳

 

 このように古墳の築造時期の決め方は、その前提からきちんと決まっていないのです。初葬が行われたときを古墳の完成した時と考えるなら、高尾山古墳は250年に築造された古墳と言えます。ところが、墳丘のデザインは230年版なわけです。墳丘のデザインを元に古墳の編年(築造順)を考えると、230年頃の位置に高尾山古墳を編年するわけです。

 この20年というタイムラグが一般的な事だったのか、イレギュラーな事だったのかは、そういう観点から古墳を調べ直さないと分かりません。

 話を戻して、箸墓古墳の場合、特殊器台が墳丘に置かれた時点で、主体部に埋葬が行われていたかどうかは分かりません。それらの土器が、古墳を飾るための物である場合は、墳丘の完成とともに置かれた可能性が高いですが、葬儀の際に供献された物である場合は、埋葬時に置かれたものとなるでしょう。

 宮山型特殊器台の編年的位置ははっきりしていますが、それが置かれた時点で古墳がどのような状態であったのかは分からないのです。

 このように古墳というものは得体の知れない物体なわけで、よく分かっていないこういうものを扱って「歴史」を語る際には、それは確実な史実ではなく、研究者の頭の中にある「ストーリー」を語ることが多くなります。

 例えば、白石太一郎氏は、「箸墓古墳の造営は3世紀半ば頃で、被葬者は卑弥呼である」と言っていますが、例えば在野の私みたいな名の知られていない研究者が違うことを言った場合は、世間の人たちはどっちを信じるでしょうか?

 こういうレベルの話なわけです。

 

3.箸墓古墳は古墳第一号なのか

 列島各地には沢山の墳墓が造られ、正直、どれを古墳の第一号と決めるのかは至難の業です。ただ、そう言っていると教科書は書けませんから、歴史区分で「古墳時代」をぶちまけてしまった以上は、第一号、あるいは「第一号とその仲間たち」を決めないとなりません。そういう意味では、箸墓古墳は非常に便利です。

 卑弥呼の墓かどうかを抜きにしても、考古学的に見て、それまでは大きくても100mくらいだった墳墓が、箸墓古墳で一気に280mという3倍くらいの規模になったことはどう考えても歴史の画期です。そのため、古墳時代について分かりやすく説明するためには、箸墓古墳を古墳の第一号として、箸墓古墳以降を古墳時代とする考え方を私は支持します。

 古墳時代の前は弥生時代です。そのため、外見上は古墳とそっくりな物体でも、弥生時代に造られた墳墓は「弥生墳丘墓」と呼びます。具体的なネーミングは、例えば「西谷3号墓」とかで、最後に「墳」ではなく、「墓」を付けます。

 ところが厄介な問題として、箸墓古墳以降を古墳時代とする考え方に則れば、3世紀前半に築造された墳墓は弥生墳丘墓なわけですが、それを研究者によっては古墳と考え、現地の説明板にも古墳と書いていることがあることです。つまり、こういった定義ですら、全国の研究者の間で共通の見解には至っていないのです。古墳を何年もやっているとこういうニュアンスは分かってきて、「ま、いっか」になるのですが、初心者の人はこういうところでモヤモヤすると思います。でも、モヤモヤは時間が解決してくれます。

 私は現地講座の際に、3世紀前半に築造された墳墓を「古墳」呼ぶことがあります。上述した内容と矛盾しているということは自分でも重々承知していますが、支配者の墓の本質を事を考える際には、古墳とか墳丘墓などというラベリングは重要でないと考えているため、その時の気分で墳丘墓と言ったり古墳と言ったりしているのです。ですから、皆さんはそういう表面的なことではなく、本質を掴むように留意してください。

 

4.箸墓古墳は定型化された古墳なのか

外見を比較してみる

 箸墓古墳が前方後円墳のフォーマットとなってヤマト王権の発展とともに列島各地に前方後円墳が造られていったとの話は、ストーリーとしては大変面白いです。ただし、これは地域によってはそういう見方ができても、当てはまらない地域も多いですし、東日本ではかなり当てはまりません。

 一見、前方後円墳と呼ばれるものの外観(もっと細かく言えば、墳丘図に表された平面形)は、日本中どれも同じように見えるのですが、ちゃんと見るとどれもこれもかなり違います。

 学者は分類が大好きで、分類をしないと研究が進まないという面もあるわけですが、分類しようとすると、箸墓古墳の類型が現れます。ただしそれは多分に恣意的です。

 既述した通り、古墳の本当の形(大きさ)は、きちんと発掘調査をしないと分かりませんが、不確実な形状をもって相似形云々とするのはナンセンスです。考古学者もそのことは気づいているはずですから、それを知っていて敢えて相似形云々を語る考古学者がいることに驚きですが、それ以前に、列島各地の前方後円墳の平面図を見たら恐らく子供でも指摘できるのは、「どれも意外と形違うじゃん」ということです。

 ただし、その中でも大雑把な特徴というものがあって、例えば、北條芳隆氏が讃岐型前方後円墳と呼んでいる香川県周辺の前方後円墳があって、ご覧の通り前方部がひょろーッと細長いのがその辺りに多いです。

野田院古墳模型(善通寺市立郷土館にて撮影)

 

 一方、下図は箸墓古墳の墳丘平面図です。

『古墳とヤマト政権』(白石太一郎/著)より転載

 

 野田院古墳の築造時期は3世紀後半と考えられているので、箸墓古墳とそう大して違いません。このように時期がそれほど違わない古墳なのに、これだけの形の違いがあるのです。これらを比較して、「野田院古墳は、箸墓古墳のフォーマットによって造られた古墳です」と説明したら、世の中からおバカチンだと思われます。また、福岡市博多区の那珂八幡古墳についても、現地の研究者は、九州独自の古墳であると言っています。

 その他の例を出すと枚挙に暇がありませんが、東日本の前期前方後円墳の形もまた個性的です。

 また、思想の面でも違いがあります。前方部に対する考え方(あるいは用途)だったり、古墳が周りからどう見えるか(周りにどう見せたいか)と言ったことが地域によって違いがあるように思えます。

 以上、外観から判断すると、箸墓古墳を定型化された古墳の第一号とするのは、ちょっと難しそうです。本場の奈良においても、中山大塚古墳とか西殿塚古墳とか初期の頃の前方後円墳は、築造する度に試行錯誤が行われていた形跡があり、決して箸墓古墳が完成したことによって「これからは、箸墓で行こうぜ!」という風になったようには見えません。箸墓古墳は一つのプロトタイプであって、前方後円墳にはその後も改良が加わって行くのです。

 

主体部を比較してみる

 箸墓古墳は主体部がどうなっているのか分かりません。ただ、奈良の他の前期大型前方後円墳を見ていると、最初の頃の主体部についての傾向が掴めます。例えば、天理市にある黒塚古墳は主体部の様相が判明しており、古墳の横にある黒塚古墳展示館で実物大の模型が見られます。

黒塚古墳展示館にて撮影

 

 大変素晴らしい模型で、クラツーやAICTで何度も説明しました。

 最初の頃の畿内の大型前方後円墳の主体部はこういう感じのものが多かったと考えて良いと思います。きちんと石室を作って、その中に木棺(割竹形木棺が多い)を置いて埋葬します。こういうのが奈良の前期大型前方後円墳の基本だとすると、箸墓古墳もこのような感じだったかもしれません。

 なお、「魏志倭人伝」には、倭人の死に関してこう書かれています。

 其死有棺無槨封土作冢(その死、棺はあるが槨はなく、土で封じて塚を作る)

 これは、王様のような支配階級の人について書いた記事ではありませんが、ここから想像できるのは、石室のような立派な埋葬主体は造らず、棺を直葬しているような感じです。興味深いのは、穴を掘って地下に埋めるとは書いておらず、棺を土で封じて塚を作るという日本の古墳の特徴を的確に表しているところです。そして、この文面からイメージできるのは、ここで紹介している奈良の古墳よりかは、福岡あたりの墳墓です。

 さて、このように竪穴式石室をしっかりと構築する前期大型前方後円墳を東日本で見てみると、同じ前期でも時期が100年位くだりますが、長野県千曲市の森将軍塚古墳の石室が大変立派で、日本最大級の竪穴式石室です。森将軍塚古墳館に実物大の模型があります。

森将軍塚古墳館にて撮影

 

森将軍塚古墳館にて撮影

 

 このような立派な竪穴式石室の東限は甲信地方までで、関東・東北地方にはまったく及んでいません。関東地方の前期古墳は、いくら100mを越える大型前方後円墳であっても、基本的には粘土などで棺をくるむことはあっても直葬のイメージに近く、石室は構築しません。

 箸墓古墳の主体部は分かっていないので断定はできませんが、外見のデザインもそうですし、内部構造を見ても、箸墓古墳が一つのフォーマットとなって全国に広がって行ったという説明は適切ではありません。正確には、地方へ伝播はしていても、普及はしなかったと言うこともできます。そこから想像できるのは、3世紀後半から4世紀初頭にかけてのヤマト王権の力は、まだ大したことが無かったというストーリーです。

 

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参考文献

・『大和の前期古墳 下池山古墳 中山大塚古墳 調査概報 付.箸墓古墳調査概報』 橿原考古学研究所/編 1997年
・『シンポジウム 前期古墳を考える 長柄・桜山の地から 記録集』 逗子市教育委員会・葉山町教育委員会/編 2004年
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」035 最初の巨大古墳 箸墓古墳』(清水眞一/著) 2007年

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