島の山古墳|奈良県川西町 ~多量の腕輪形石製品が発掘された超大型前方後円墳~

 

200
島の山古墳

 

🅿なし
🚻なし

 

1.島の山古墳の歴史的位置づけ

 島の山古墳は、4世紀末頃に築造された墳丘長200mの超大型前方後円墳です。

 その立地が面白く、大和川の本流に寺川や飛鳥川などの支流が注ぎ込む、川の連続ジャンクションみたいな場所に築造されており、周囲には奈良盆地にしては珍しくあまり古墳がありません。つまり、普通に考えたら、あまり古墳を造るような場所ではないところに200mもの前方後円墳を造ってしまったわけですが、川を交通路として考えた場合は非常に重要な場所です。地勢や川との関係で評価するのなら、この古墳の価値も理解できそうです。

 

 それでは、島の山古墳の編年的位置づけを見てみましょう。

 下図は、『古墳からみた倭国の形成と展開』(白石太一郎/著)より転載した図で、これだけだと年代が分からないかもしれませんが、3本ある横線のうち、一番上が西暦300年、その次が西暦400年、そして西暦500年です。

『古墳からみた倭国の形成と展開』(白石太一郎/著)より転載

 

 島の山古墳は見つけられたでしょうか。

 さきほど、4世紀末の築造と言いましたが、西暦400年の少し手前にありますね。つまりは、中期初頭の古墳です。

 この頃は、奈良市の佐紀古墳群に200m級の超大型前方後円墳が継起的に築造されており、佐紀古墳群以外でも、島の山古墳の隣に書かれている巣山古墳は、墳丘長220mの超大型前方後円墳です。

巣山古墳

 

 なお、大阪の古市古墳群では、超大型前方後円墳の築造がいよいよ始まった頃で、そのトップバッターとして墳丘長208mの津堂城山古墳が築造されています。

津堂城山古墳



 島の山古墳は、このような時期に築造されたわけですが、その頃、いわゆる天皇陵は、一般的には佐紀古墳群に築造されたと考えられています。でも、それらと同等の大きさの古墳として、島の山古墳や巣山古墳、そして津堂城山古墳が同時期に築造されています。

 単純に偉い人の古墳は大きさに比例すると考えた場合は、島の山古墳、巣山古墳、そして津堂城山古墳の被葬者はいったい何者なのでしょうか。

 なお、佐紀古墳群が天皇の墓域であるというのも、一つの仮説です。物的な証拠はなく、状況からすると可能性が高いよね、と言っているだけで、実際のところは分かりません。

 また、偉い人の地位と古墳の大きさは比例するという一般的に信じられている説も、本当なのかは分かりません。実は最近私は、古墳の大きさは、被葬者の社会的地位以外に、その場所にその大きさで作る政治的必要性が絡んでいるのではないかと考えているので、単純に、大きいから偉い、とは言い切れないと考え始めています。

 

2.島の山古墳の説明板を読む

 島の山古墳は、池(周濠)に囲まれており、墳丘内に入ることはできません。200mもあって大きいので、まるで天皇陵のように見えますが、そうではありません。

 こういう古墳は、普通であればただ単に外から眺めるだけで終わりなわけですが、島の山古墳の良いところは、説明板がたくさん設置されているところです。古墳の周りはグルッと一周歩けるようになっていて、周濠のフェンスの各所に説明板が設置され、しかもなんと、「説明板を説明する説明板」まであるのです。

 

 川西町教育委員会のこの力の入れようには脱帽です。

 本当に素敵。

 このように、島の山古墳は墳丘には入れないわけですが、説明板を読むことによって多くの知識を得ることができます。島の山古墳に来たときは、古墳を眺めつつぜひすべて読んで「お勉強タイム」を楽しんでください。

 それでは、一つずつ読んでいきましょう。

 

 ここでは、段築や基底石といった専門用語がでてきますが、こられは日本全国共通で使う言葉なので覚えておきましょう。

 ここに書いてある通り、葺石を葺く際は、一番下に基底石という大きめの石を置くことが多いです。島の山古墳では見ることができませんが、他の葺石まで復元している古墳を見るときは、その辺に注意して見てみると良いでしょう。

 また、3段築成の各テラス部分と墳頂には、円筒埴輪の埴輪列が見つかったとありますね。円筒埴輪を並べる場所というのも基本的に全国共通です。

 島の山古墳では、墳丘図を見ても分かりづらいのですが、両サイドに造出が構築されています。ちょうどこの頃から前方後円墳に造出を設けることが流行り出します。 

 

 この説明板には他にも重要なことが書いてあります。それは、周濠は元々は空堀だったということです。現在私たちが見る古墳の中には、島の山古墳のように周囲に水堀がめぐっているものがありますが、古墳築造時は空堀だったというケースはよくあるのです。

 ちなみに、この説明板を読んで、じゃあ造出を見てみようと思ってもこんな感じです。

 

 まったくわかりませんね。

 東くびれ部の造出近辺でみつかった埴輪は、他の地点の埴輪よりも大きかったと書かれています。

 

 この説明では円筒埴輪しか述べられていませんが、一般的に造出には多くの形象埴輪が並べられました。そして、そこでは祭祀が行われていたと考えられています。形象埴輪の記述が無いのは、島の山古墳の造出の機能がまだ確立される前のテスト段階だったからかもしれません。

 島の山古墳では、周濠を縦断して掘って調べています。 

 

 元々の空堀は、明治20年までは水田として使用されていましたが、ため池に改造した際に、かなり深く掘削したようです。普通はそのときに遺物が出てきていると思うのですが、遺物はほとんど見つからなかったということです。

 この説明板の右側の「乾燥化のしくみ」という説明はナイスです。

 

 これは古墳を築造するときだけではなく、例えば唐古・鍵遺跡のような弥生時代の環濠集落にも当てはまります。唐古・鍵遺跡や福岡県朝倉市の平塚川添遺跡など、低い場所にある集落遺跡は、雨が降ったあとに行くと、地面がグチャグチャしていることがあります。

 そんな場所でも住まなければならない場合は、環濠を沢山掘って水位を下げるという方法が取られます。ですから、弥生時代の環濠集落の環濠は、戦に備えての防御用と単純に考えることはできないのです。

 さて、今までの説明板は、周濠や造出の話が中心で、古墳の核心に迫る話が出てきませんでしたが、いよいよ最も知りたい話が登場します。しかも、竪穴式石室の時代の前方後円墳の中で一番大切な所、初葬者の埋葬施設がある後円部墳頂の話です。 

 

 しかし残念!

 後円部墳頂の中央部は発掘していませんでした。

 しかも調査によると、過去にかなり削られており、どうやら主体部は破壊されて副葬品などは持ち去られてしまったようですね。

 ふれあいセンターに露出展示してある竜山石製の天井石はこちらです。

 

 つづいて、古墳の横にある比売久波神社などに関する説明です。

 

 比売久波神社の拝殿と本殿の間に踏み石として置かれている3枚の平な石も、島の山古墳の後円部主体部の天井石だと言われています。

 

 先ほどは、墳丘の東側の話でしたが、今度は西側です。

 

 島の山古墳の造出は小さな目立たないものですが、元々の平面形は保たれているそうです。ただし、上面は削っています。 

 

 竹製の籠が4個体分出たというのは珍しいですね。現状では、何のために使ったものなのかは分からないようです。

 そしてようやく、島の山古墳の目玉である、前方部主体部の話が出てきました。 

 

 島の山古墳の前方部の墳頂からは粘土槨が検出されました。

 

 その際に、車輪石が80、鍬形石が21、石釧32点の合計133点が見つかりました。ただし、この数は完形品や完形に近いものであって、粘土槨がかく乱を受けていたために、実際の数はこれ以上多かったのです。

 これら腕輪形石製品(石製腕飾類)は、棺(割竹形木棺)の中に収められていたのではなく、棺をコーティングした粘土の中から見つかっています。

 出土品の一部は、橿原考古学研究所附属博物館で見ることができます。 

橿原考古学研究所附属博物館にて撮影

 

 以上、島の山古墳は、後円部の主体部の状況が分からないのが残念ですが、佐紀古墳群の超大型前方後円墳の築造と同時期に造られた同規模の前方後円墳として、巣山古墳などとともにその築造理由を考察すべき重要な古墳です。

 

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参考文献

・『大和の前期古墳 島の山古墳 調査概報 付.小泉大塚古墳調査報告』(橿原考古学研究所/編) 1997年

 

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