最終更新日:2025年1月31日
縄文時代の6区分ができるまで
明治10年(1877)に東京都品川区の大森貝塚でモースが発掘して見つけた土器は、一時は大森式土器と呼ばれたことがある後期の土器(後期という区分はこの当時はまだない)です。

現在の型式で分類すると、大森貝塚から出土した土器は、後期前半の堀之内式や加曾利B式、後期後半の安行式、それに晩期安行式です。

その2年後の明治12年にモース博士の弟子で、東大の学生であった佐々木忠次郎と飯島魁は、茨城県美浦村の陸平(おかだいら)貝塚を発掘しました。この発掘は近代における日本人による初めての発掘と言われています。

この時見つかった土器は中期土器(中期という区分はこの当時はまだない)で、大森貝塚で見つかった土器よりも分厚く、陸平式と名付けられました(大森式や陸平式という型式は現在は消滅)。そして、大森貝塚で見つかった土器を薄手土器、陸平貝塚で見つかった土器を厚手土器と呼んで、この違いは時期によるものだと考え、薄手の方が新しい土器であると推測されました。
なお、その一方で、鳥居龍蔵は土器の違いは海岸の民と山岳の民との違いではないかという視点を持っていました。
その後も各地で発掘が続き、出土土器はどんどん増えて行きます。
明治30年(1897)には、八木奘三郎によって諸磯貝塚の発掘が行われ、そこではこれまた大森式とも陸平式とも違う特徴を持った土器が見つかりました。

結果的にはそれは前期土器だったわけですが、この当時は、新しい土器だと考える研究者もいました。
このように様々な種類の土器が出土して、それが検証されて、土器型式の研究が進んでいったわけです。
その結果、昭和12年(1937)に山内清男が『縄紋土器型式の細別と大別』により、早期・前期・中期・後期・晩期の5区分による土器型式を発表したのです。
そして、戦後になり、昭和37年に(1962)に山内清男は、早期の土器の中から古いものを分離して、草創期を作り、これによって現代にまで使用されている6区分ができました。
今は普通に草創期と呼びますが、当初は、最早期とか早々期などと呼ばれました。
参考文献:
『縄文土器の研究 普及版』 小林達雄/著