五ヶ庄二子塚古墳|京都府宇治市 ~巨大な石室基礎工事跡が見つかった大型前方後円墳~

 2025年2月7日(金)から3日間、大阪にて現地講座を開催するため、ついでに京都の古墳を見てこようと思いました。

 ところが調査の段階で、阪神5000系の最後の一編成の引退が間近に迫っていることが分かったのです。

 古墳はすぐには無くなりませんが、列車は無くなったらもう写真が撮れません。

 そのため、現地講座の前日の木曜日は、阪神電車の撮影に時間を割くことにしました。

 阪神電鉄のサイトには、5000系の運行予定が日にちごとに掲示されているため、それを参考にして、午前中は京都の古墳を見て、午後は亜撮鉄活動に割り振ることにします。

 いつもは新横浜から「のぞみ3号」に乗るのですが、気持ち早めて、新横浜駅6:17発「のぞみ1号」で京都へ向かいました。

 それに乗るには、高尾駅4:57発の中央快速線に乗らないとならないのですが、羽田空港に向かう時は高尾4時ちょうど発のリムジンバスに乗るので、それよりかは早くありません。

 でもさすがに冬はちょっと起きるのがつらいですね。

 新幹線車内ではいつもの「C席作戦」でゆったり過ごし、京都到着後はコインロッカーに荷物を預け、身軽になって奈良線のホームへ。

 ※稲用語解説:C席作戦とは、新幹線の座席を予約するときに、A席が埋まっていて、B・C席が空いている所を見つけ、C席を取ることを言います。そうすると混雑時でない限り、B席にぶっこんでくる人はいないので、B席が空席のまま、C席でゆったりと過ごせるという作戦です。

 まずは、今は貴重な205系1000番台を撮影。

 

 昔は山手線も205系だったことがあったわけですが、気づいたときにはもういなくなっていました。

 平日朝の奈良線は混みますね。

 でも、2つ目の稲荷駅で一気に減りました。

 黄檗駅で下車し、五ヶ庄二子塚古墳を目指します。

 10分くらい歩いて到着。

 現地は二子塚古墳公園になっており、公園南側に入り口があります。



 入り口側には周濠風の池があり、その向こうの森に墳丘が隠れています。

 

 南向きの前方後円墳ですので、こちら側に前方部を向けています。

 説明板を読んでみましょう。

 

 二子塚古墳というネーミングがされている通り、後期前半の前方後円墳です。墳丘長は110mあり、二重周濠を備えていましたが、外側の周濠は残っておらず、池の部分が内側の周濠の名残です。

 いつもと逆パターンで、後円部が破壊されて、前方部が残っています。

 池になっていない側からも墳丘に入ることはできず、見た目的にも今一です。

 では、無くなってしまった後円部側に行ってみましょう。 

 中堤の名残は公園の一部として残っています。

 

 おや、石を並べて何かを形づくっていますよ。

 

 説明板を読んでみましょう。

 

 横穴式石室の基礎工事のあとのようです。

 説明板に書いてある通り、大正年間に後円部の盛土が取られて、横穴式石室も破壊されてしまいました。

 その後、昭和62年の発掘調査によって、石室の基礎部分が見つかりました。

 横穴式石室を構築するに先立って、東西18m×南北9mの範囲に深さ4.3mという大きな穴を掘り、そこに30㎝前後の石を積み重ねました。

 説明板のニュアンスだと、その部分は玄室の部分だけを言っているようなので、羨道部分を想定したら、相当大きな横穴式石室が構築されたと考えられます。

 説明板でオレンジ色で網掛けされている部分が、今目の前にある石積み部分ということでしょう。

 今私が立っている場所は、本来であれば後円部の盛土の中なわけですね。

 急に息苦しくなってきた。

 前方部方面を見ます。

 

 京都府内全体を見渡すと大型古墳が多数あります。令制山城国内を見てみると、木津川流域に大小多くの古墳が築造されましたが、二子塚古墳が築造された宇治川流域には大型前方後円墳があまりありません。

 そういう地域にあって、墳丘長110mというサイズはかなり目立つ存在で、この後訪れる予定の大型前方後円墳である黄金塚2号墳はもっと早い時期の築造ですので、後期という時代で見てみると、二子塚古墳は唯一無二的な大型前方後円墳で、この地域を治めた首長の墓であることは間違いないでしょう。

 さて、現状の墳丘は残念な状況でしたが、珍しい展示が見られて良かったです。

 続いて、黄金塚2号墳(伊予親王の墓)へ向かいます。

伊予親王 木幡墓(黄金塚2号墳)の記事はこちら

 

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