五ヶ庄二子塚古墳の記事はこちら
五ヶ庄二子塚古墳を見学後、黄檗(おうばく)駅に戻っても面白くないので、JRの木幡(こはた)駅へ向かいます。
おっと、京阪宇治線の踏切に引っかかりました。
これ幸いと、来た電車をパシャリ。

いずれ時間があるときに京阪電車を撮りに行きたいな。
JR木幡駅から隣の六地蔵駅まで乗車。
一駅くらいは歩いても良さそうなものですが、最近は電車やバスに乗れるのであれば無理せずに乗るようにしています。
随分と老いたものだ・・・。
いや、力技ではなく、頭脳プレイで勝負するようになったのです。
乗ってきた奈良線205系1000番台。

六地蔵駅からは木幡山を登ります。
住宅街の中を歩いて行くと、それらしき場所にたどり着きました。
ここだ。
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伊予親王巨幡墓。
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宮内庁管理なので当たり前ですが、入れませんね。
ここから眺めるしかないようです。
伊予親王は、桓武天皇の皇子で、母は右大臣藤原是公の娘・吉子です。
桓武天皇は大勢いた子らのなかでもとくに伊予親王を愛していたようです。
もし、父の溺愛が顕著であったのなら、他の兄弟は面白いはずがありません。
延暦25年(806)に異母兄の平城天皇が即位したときはまだ何事もありませんでした。
ところが、平城天皇即位の翌年、伊予親王は、藤原宗成による謀反の企てに巻き込まれて逮捕されてしまったのです。そして、母とともに川原寺(弘福寺)に幽閉され、食を絶たれたため、服毒自殺しました。これを伊予親王の変と呼びます。
幽閉しておいて食事を与えないのは、要するに「死ね」ということですからそれを悟ったのでしょう。
その後、親王と吉子は無実であったことが認められ、名誉を回復しましたが、状況的に考えると、平城天皇を含めた人びとの陰謀であったと考えられます。
そのような気の毒な皇子の墓とされているわけですが、考古学的には黄金塚2号墳と呼ばれる4世紀末頃(中期初頭)に築造された前方後円墳で、墳丘長は140mを誇ります。
墳丘は南西向きですが、前方部は破壊されて消滅しており、後円部の墳頂付近を宮内庁が管理しているわけです。
周辺は完全に宅地化されているため、140mもの大型前方後円墳の様相をイメージすることは困難です。
主体部は粘土槨であったと推定されており、若干の鉄製品の出土が確認されています。1995年には、後円部にて埴輪列150本が検出されました。それらの埴輪は円筒Ⅱ式で、築造時期判定の素材となっています。埴輪は他に、鰭付円筒埴輪や楕円筒埴輪もみつかっています。
ということで、時代的に考えたら全然伊予親王の墓ではないのですが、宮内庁がそう言っているのですから、そういうものだと思ってください。
位置的には、木幡山の反対側的なイメージになりますが、西北西約1.2㎞の位置に父・桓武天皇の陵がありますので、父に愛された皇子として、なるべく父の陵の近くに墓がある方が父子共に幸せじゃないかと思います(ただし、桓武天皇陵の本当の場所は不詳で、現在地は幕末に決められた場所です)。
黄金塚2号墳の北西側には、隣接するように墳丘長100m、西北西向きの前方後円墳である黄金塚1号墳がありましたが、宅地化のために完全に消滅しています。

この近辺を歩いてみると分かりますが、黄金塚1号墳があったとされる辺りは、丘の尾根上にあたり、古墳造営に相応しい場所です。
「今昔マップ」で確認すると、昭和47年発行の地形図の段階ではまだ開発はされておらず、等高線で古墳の存在が推定できます。
それでは続いて、明治天皇陵に行きますよ。