千葉県(下総国)の遺跡・関連施設一覧

最終更新日:2025年5月12日

目次

 ※自治体ごとに示し、自治体の並び順は五十音順です。
 ※一覧の見方に関しては、こちらをご覧ください。
 ※便宜上、横芝光町と芝山町は上総のページに記載しています。

 

我孫子市


下ヶ戸貝塚

さげとかいづか

後期から晩期の遺跡で、住居跡と地点貝塚が検出されている。

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15m
前原古墳(1号墳・2号墳)跡

発見時は主体部を含めて墳丘はすでになかったが、一辺15mの方墳が2基並んで確認された(西が1号墳、東が2号墳)。周溝から見つかった土器によって3世紀後葉の築造とされる。

現在は高野山桃山公園の一画で、ここからの手賀沼の眺めは最高。

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この場所に、右手に1号墳、左手に2号墳があった 

 

手賀沼を一望できる

 

 

 

26m
香取神社1号墳

香取神社古墳群。前期の方墳の可能性があるとされているが不詳。

香取神社古墳群には説明板はない。

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香取神社2号墳

香取神社古墳群。詳細不明。

道路側から見ると前方後円墳に見えるが分からない。

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香取神社参道から見る

 

 

 


香取神社古墳群のなかの1基かもしれないが、北総はやたらと中世の塚も多いため何とも言えない。

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69m
水神山古墳

すいじんやまこふん。4世紀末から5世紀初頭にかけて築造された墳丘長69mの前方後円墳。手賀沼沿岸で最大、千葉県北西部全体で見ても、市川市の法皇塚古墳(65m)よりわずかに大きい。

後円部墳頂の主体部は、長辺を墳丘の長軸と並行させた長さ7.2mの粘土槨で、5.13mの割竹形木棺が安置されていた。

墳丘の形状は説明板の図を見ても分かる通り、いかにもという形の前方後円墳。この水神山古墳の築造によって、この地域がヤマト王権の影響下に完全に入ってしまったことが分かる。

立地は香取海(今の手賀沼)に横腹を見せており、香取海を航行する船からも見えたはず。

とても素敵な古墳。

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墳丘からは手賀沼の水面がチラッと見える

 

 

 

36m
高野山1号墳石室(移築)

我孫子市立我孫子中学校の敷地内、正門近くに移築保存してある。

高野山1号墳は、6世紀後半に築造された墳丘長36mの前方後円墳で、初葬の主体部は不詳だが、墳丘後円部裾をめぐる形で4基の埋葬施設が見つかった。

4基の内、3つが石棺(直葬?)、1つ(4号)が竪穴式石室だった。移築されているのはこの4号。

石室内には約7体分の遺骨があり、3号からも3体出ており、6世紀後半における古墳の複数埋葬の珍しい事例として大変興味深い。

この時代は群集墳の時代で、横穴墓も造られていることから、古墳に従来よりも多くの人びとが葬られるようになった。高野山古墳群自体も群集墳であるが、個別の古墳を造らずに、盟主的な古墳の墳丘に墓域を設け、しかも1基の埋葬部に複数の遺体を納めた理由は果たして何だったのだろうか。

しかし小形の石室に7体というのは異様である。

※見学する際は学校の許可を得ること。

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30m
日立精機2号墳


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子の神古墳群

6世紀初頭から末にかけて築造された群集墳。14基の古墳からなり、14号墳が前方後円墳であるほかはすべて円墳。

子の神大黒天の境内部分に関しては、14号墳の墳丘もほとんど分からず、他の古墳も分からなくなっている。

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14号墳

 

14号墳の前にある説明板

 

 


香取神社(高野山)

手賀沼沿岸に多い香取神社の一社。由来書きなし。

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将門神社

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子の神大黒天

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我孫子地区公民館アビスタロビー

1階ロビーに下ヶ戸貝塚から出土した遺物が展示してある。数は少ないが、優品が揃っているためわざわざ立ち寄る価値がある。

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我孫子市湖北郷土資料室

我孫子市内の湖北地域の歴史を紹介する施設。S字甕の優品もあってなかなか素晴らしいのだが、令和6年6月27日に閉室した(展示資料の一部は、水の館で引き続き展示しているとのことだが未確認)。

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市川市


堀之内貝塚

縄文時代後期前半から晩期中頃の貝塚を伴う集落跡。貝塚は東西方向の長い尾根上に造られたU字型の馬蹄形貝塚で、長径100m、最大短径110m(説明板による)。開口部は東側。

記録の上では明治16年には遺跡としてその存在が知られており、明治37年には東京人類学会の遠足で発掘され、その後も東京から近いということもあり、多くの学者やマニアが訪れ掘り散らかした。比較的大規模な発掘調査は昭和38年の杉原壮介率いる明治大学による発掘(B地点)。

山内清男は、本遺跡出土の土器を堀之内式土器と命名し、新旧で1式と2式に分類した。ただし、このように堀之内式土器の標式遺跡にもかかわらず、古くからの乱掘もあって遺跡の全容は分かっていない。

説明板に載っている土器は個人蔵の堀之内1式土器で、市川考古博物館に複製が展示してあり、同館には2式土器も展示してある。また、國學院大學博物館にも堀之内式土器の展示がある。

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現地説明板に載っている堀之内1式土器の複製(市川市市川考古博物館にて撮影)

 

堀之内土器といえば注口土器(國學院大學博物館にて撮影)

 

 


曽谷貝塚

曽谷式土器の標式遺跡。北側に開口する縄文時代後期の馬蹄形貝塚。現状はだだっ広い広場になっており、近所の子供たちが野球などをして遊んでいる。

外径南北240m、東西210m(説明板による)で、国内最大級の貝塚。貝塚はCの字の窪んでいる中央部周辺で見つかり、Cの字の高まりの部分から外側にかけて住居跡が見つかっている。

出土する土器は、称名寺式、堀之内式、加曽利B式、安行式土器などでこれらは後期の土器であり、遺跡自体は後期がメインとして考えてよいだろう。

市川考古博物館には、本遺跡出土の土偶や堀之内2式の深鉢、安行1式の異形台付土器が展示してある。

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左上の土偶は曽谷貝塚から出土(市川考古博物館にて撮影)

 

ちなみにこれは秋田県北秋田市藤株遺跡出土の縄文後期の土偶(伊勢堂岱縄文館にて撮影)

 

 


姥山貝塚

縄文時代中期の貝塚を伴う集落跡。見つかった住居跡は39軒、人骨は143体で説明板が設置された昭和57年の時点では国内で3番目の数。

現状では南側に開口する馬蹄形貝塚に見えるが、乱掘の影響もあるため、実際はリング状だった可能性がある。外径は東西130m、南北120m(説明板による)。

住居跡を完掘したことにより、日本で初めて縄文時代の住居が炉を持つ竪穴住居であることが確実に分かった(A地点)。

大正15年には考古学に造詣が深かったスウェーデンのグスタフ・アドルフ王太子(後に即位)が発掘し、その際皇太子は層序を気にしたが対応した大山柏はそれほど気に留めなかったという逸話が残る(B地点)。

現地には各発掘地点ごとに説明板が設置されていて、発掘の歴史を追うことができて楽しい。なお、杉原壮介発掘地点(S2地点)も明示されているが、このとき杉原は旧制中学生。

市川考古博物館では、本遺跡出土の注口土器や石皿などを展示している。

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A地点

 

 

姥山貝塚出土遺物(市川考古博物館にて撮影)

 

 

65m
法皇塚古墳

ほうおうづかこふん

国府台古墳群

6世紀後半に築造された千葉県北西部最大級の前方後円墳。前方部はおおよそ北西を向いており、江戸川の方に側面を見せて築造されているが、角度的に川から見ることは無理。

関東の古墳としては珍しい片袖式の横穴式石室を備えているが、天井石は見つかっていない。千葉県の古墳としては貴重な挂甲も見つかっている。

埴輪は下総型と生出塚埴輪窯産のものが見つかっているが、器材形埴輪に関してはすべて生出塚産。

現在の千葉県・東京都・埼玉県の江戸川流域を見渡しても大きな古墳は築かれず、後期後半にいたってようやく市川市に法皇塚、弘法寺、明戸、そして葛飾区に柴又八幡神社古墳といった前方後円墳が築造され、松戸市の栗山古墳群や葛飾区立石の古墳群などの群集墳の築造も始まる。

この地域での前方後円墳の築造順は分からないが、6世紀後半になってから国府台やその西側の東京低地で突如として古墳の造営が始まることから、本地域の開発を推進するために畿内から遣されてきて、この地域の支配者の高祖的人物が被葬者でないだろうか。挂甲の出土や片袖式の横穴式石室からそれが推測できる。

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40m
明戸古墳

あけどこふん

国府台古墳群

6世紀後半の築造。戦国期の国府台城の土塁の一部に利用されてしまったが、なんとなく古墳であることが分かる。後円部には箱式石棺が2基並んでおかれており、元々の位置を保っている。石材は黒雲母片麻岩で、この石は筑波山麓から運ばれてきた。

古墳の向きは法皇塚古墳とほぼ同様だが、やはり江戸川からは見えないだろう。

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43m
弘法寺古墳

ぐほうじこふん

現地標柱の説明によると、6世紀後半から7世紀前半の築造とあり、関東における最終段階の前方後円墳の一つであろう。

台地上の南縁に東西の主軸で前方部を西に向けて築造されており、海側から仰ぎ見られるような立地。現在は墳丘の南側は崖の崩落とともになくなっており、墳丘に登ることはできない。

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真間山古墳

ままやまこふん

 

弘法寺古墳と同じく弘法寺境内にあり、円墳と考えられているが、調査がされておらず詳細不明。弘法寺の境内にはほかにも古墳のようなものがあるが、確実なものはない。

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下総国府跡

しもうさこくふあと

 

説明板はおろか、標柱も無いが、発掘調査によって国衙の位置が分かっている。

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下総総社跡

しもうさそうじゃあと

 

 

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下総国分寺跡

しもうさこくぶんじあと

 

 

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下総国分尼寺跡

しもうさこくぶんにじあと

 

 

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国府台城跡

こうのだいじょうあと

 

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印西市


木下貝層

きおろしかいそう

🅿あり
🚻あり(木下万葉公園)

12万年前頃は海進が極端に進んでいて、古東京湾と呼ばれる内湾が広がっており、例えば多摩川の河口は青梅にあったが、そんな時代に造られた地層。

木下万葉公園の西側と南側に露頭が観察できる場所があり、両方とも近くに駐車場がある。西側の方が間近で見える。

木下交流の杜歴史資料センター横の説明板には「一見もろく見えますが、強度があり、古墳時代終末期の横穴式石室や江戸時代の常夜灯など、古くより構造物の石材として利用されてきました」とある。

この種の岩石を使用して横穴式石室を構築した古墳としては、龍角寺古墳群の岩屋古墳が有名だが、横穴式石室の石材として使うには、脆いとされて評判は良くない。

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木下万葉公園西側路頭

 

木下万葉公園西側路頭

 

木下万葉公園南側路頭

 

木下万葉公園西側路頭の説明板

 

木下交流の杜歴史資料センター横の説明板

 

 


道作古墳群

どうさくこふんぐん

印西市小林

🅿あり
🚻なし

 印西市を代表する古墳群で、前方後円墳7基、円墳14基、方墳1基の合計22基から構成される群集墳。築造時期は6世紀後半で、主墳は墳丘長46mを誇る1号墳。
 印旛沼沿岸の大規模群集墳としては、龍角寺古墳群や公津原古墳群が著名だが、それらと並ぶ重要な古墳群といえるだろう。

 

 

 現地は公園になっており、下図の内、1号墳、4号墳、5号墳が公園内にあり、北側隣の畑に6号墳がある。

現地説明板に追記

 

46m
道作1号墳

墳丘長は46mあり、印旛沼西岸域では最大規模を誇る。周溝あり。下総型埴輪が出土している。

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11m
道作4号墳

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推定15m
道作5号墳

円墳状のものが2つ並んでいるのだが二つ合わせて前方後円墳。

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37m
道作6号墳

墳丘長37mは道作古墳群で2番目の規模。周溝あり。鉄斧が見つかっている。

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23m
松山2号墳箱式石棺(移築)

木下交流の杜歴史資料センターのに移築展示がある。

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上宿古墳

かみじゅくこふん

印西市大森

🅿なし(駐車場のように見えるが民家の敷地だろう)
🚻なし

当該地域には12万年前に形成された貝化石砂岩である木下貝層やそれに類する岩石を使って横穴式石室を造っている古墳が、判明しているだけで7基あるが、上宿古墳もその一つ(*1)。

古墳は民家の敷地内にあり、入るのを躊躇すると思うが、道路近くの説明板には「この古墳は、個人宅内にありますので、マナーを守って見学しましょう」と書いてあるので静かに見学すれば大丈夫だと思うし、所有者にお会いしたらご挨拶しよう。

敷地内に入ると古墳の場所を示す小さな立て札があるので、それに誘われて素敵な竹林の中を歩いて行くと、すぐに横穴式石室が開口した墳丘が見える。

石室内は快適でいい石室だ。

墳形に関しては不明と言われてきた古墳だが、入口側の説明板には方墳とある。

最近の調査で方墳であることが分かったのかどうかは分からないが、他の判明している貝化石墳はすべて方墳である。

(*1)『7世紀印波における横穴式石室の考古学的研究』(川村悠太/著)による。ただし、『印旛沼周辺の終末期古墳』(永沼律朗/著)によると、八千代市・沖塚古墳、印西市・後庵山2号墳も貝化石の横穴式石室とし、柏市(旧沼南町)・船戸1号墳も貝化石によって石室あるいは石棺を造った古墳としているほか、印西市・森内古墳、香取市(旧利根町)の城の台3号墳や横須賀台古墳が貝化石の箱式石棺としている。

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天井

 

 

 

 


小林鳥見神社

🅿あり
🚻なし

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印西市立木下交流の杜歴史資料センター

印西市木下1489-1
0476-40-3500
9:00~17:00
月・祝休館

印西市内の利根川寄りの旧石器時代遺跡や縄文遺跡、古墳などから出土した遺物が展示してあり、木下貝層の貝化石の展示もある。

素晴らしい展示なのだが、展示室内の写真撮影はNG。その代わり、『印西市 歴史読本』という本が3種類売っているのでそれを購入しよう(古代史が好きな人は「原始・古代編」だけで良いだろう)。オールカラーで写真や図版が多く、読み応えのある優れた本だ。

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印西市立印旛歴史民俗資料館

印西市岩戸1742
0476-99-0002
9:00~17:00
月・祝休館

縄文・弥生・古墳時代の土器などの遺物が展示されており、大木台2号墳出土の形象埴輪や人物埴輪は、下総型埴輪を知る上でとても良い教材になる。

吉高立田台第2遺跡出土の箱式石棺の展示は、この地域の多数埋葬を知る上で貴重。

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柏市


戸張一番割遺跡

遺跡は、日体大柏高校や戸張地区公園周辺に広がる。

3世紀半ば頃に稼働していた環濠集落跡で、130軒以上の建物跡が見つかった。当時の北総地域での大規模拠点集落。

発掘時の写真を見ると、環濠の隅の部分が突出している。まるで櫓を設置して横矢を効かせているような平面形だが詳細不明。

畿内系のタタキ甕や伊勢湾岸のS字甕など、外来系土器が多数出土している。

目で見られるものはとくになく、説明板もない。

出土遺物は、柏市郷土資料展示室に展示してある。

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戸張地区公園

 

戸張一番割遺跡出土の土器類(柏市郷土資料展示室にて撮影)

 

 


戸張城山遺跡

遺跡は、文京区立柏学園の敷地内。

戸張一番割遺跡と同様な環濠集落で、稼働時期も同じ頃。

竪穴住居が復元されているようだが、柏学園が平成25年から休校中のため、敷地内に入ることはできない。説明板もない。

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柏学園の標柱

 

14m+
戸張一番割1号墳跡

戸張一番割遺跡にある北総最古の前方後方墳で、築造時期は3世紀半ば頃と推定される。

戸張地区公園の台地の縁の部分にあり、現在目で見られるものはなく、説明板もない。

前方部が未発達の前方後方墳で、発掘時の写真を見ると、すでに墳丘は失われていたかほぼ無い状態だったようだ。環濠集落に隣接して築造されており、周囲には方形周溝墓もあった。

前方後円墳データベースによると、墳丘長は14m以上で、後方部は10m。

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戸張地区公園

 

21.5m
北ノ作1号墳

以前は、説明板にあるように方墳とされていたが、現在では短い前方部を持つ前方後方墳と認識されている。

北総では、2番目に古い前方後方墳。

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30m
北ノ作2号墳

北総で3番目に古い前方後方墳。

前方後円墳データベースによると、墳丘長は32m。

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46m
大井浅間古墳

北総で4番目に古い前方後方墳。

前方部は道路建設のため湮滅し、後方部は浅間神社となっており残存。

説明板はない。

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21m
権現古墳

説明板はあるが、古墳の名前しか書かれていない。

発掘調査はされておらず詳細不明。

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船戸古墳群

6世紀後半から7世紀前半にかけて築造された40基の古墳からなる手賀沼周辺を代表する群集墳。

その中には、前方後円墳が7基含まれ、小型前方後円墳が群集墳内に多く含まれるという北総の特色が現れている。

敷地内には立ち入ることができず、柵の外からの見学となる。

出土遺物は、柏市郷土資料展示室に展示してある。

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平将門 王城の地

平将門が都とした場所といわれている。

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香取神社(戸張)

新しめの住宅に完全包囲されているが、100mほどの参道とともに残っている。

手賀沼沿岸は香取神社の信仰圏。ただし、下手賀沼沿岸には鳥見神社の信仰圏が展開する。

由来書きはない。

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戸張城跡

文京区立柏学園の敷地内が城域だが、柏学園は平成25年から休校中のため、敷地内に入ることはできない。

敷地西側にある校門あたりから敷地内をのぞき込むと、空堀や土塁らしきものが見える。

説明板はない。

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柏市郷土資料展示室

小ぢんまりとした展示室だが、選りすぐられた考古遺物が並んでいて素晴らしい。

縄文土器も市内の遺跡から出た各型式を代表するような土器が並び、古墳時代では、戸張一番割遺跡の出土遺物が展示してある。

また、原1号墳出土の魚形埴輪は大変珍しいもので千葉県ならではの埴輪。弁天古墳出土の石枕と立花も当地域ならではの逸品。

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香取市

120m
三之分目大塚古墳

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38m
富田1号墳

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香取神宮

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鎌ケ谷市


中沢貝塚

鎌ケ谷市東中沢2-10

縄文時代後期の貝塚。後期前半から晩期前半にかけての竪穴住居跡が31軒検出されている。そのなかで、径10mの大型建物跡がみつかっていることは特筆できる。

また、土器を始めとして耳飾り
や石棒などの多くの遺物が出土し
ており、土偶のラインナップを見
るとただならぬものを感じる(出
土遺物の一部は鎌ケ谷市郷土資料
館に展示)。

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下総小金中野牧跡(捕込)

鎌ケ谷市東初富1-20-7

江戸幕府は、軍馬を調達する目的で慶長年間(1596~1615)に千葉県北部に多くの幕府直轄の牧場を設置した。千葉県北部の牧は、大きく小金牧と佐倉牧に分けられる。

江戸時代後期の小金牧には、高田台牧・上野牧・中野牧・下野牧・印西牧の五牧があった。

中野牧は、享保10年(1725)に8代将軍吉宗が鹿狩りを行ってからは歴代将軍の鹿狩りの場となった。また、御放馬(おはなちうま)囲いと呼ばれる将軍家が使用する馬の飼育施設が設けられ、小金五牧のなかでも特に重要な牧であった。その中野牧の一部分が、国指定史跡・下総小金中野牧跡となっており、捕込(とっこめ)と呼ばれる施設が残っている。

牧では毎年、3歳馬を捕縛する野馬捕りが行われ、良馬は江戸に送ったが、それほどでもない馬は周辺農村に売却して幕府は収入を得た。

野間捕りの際に使用した施設は、土塁に囲まれており、このような施設は、捕込、溜込、払込の3区画として造るのが基本であった。

ちなみに、明治時代になると、
広大な牧場跡地は、東京の貧困
層が開墾して、順番に地名が付
けられた。

すなわち、初富、二和、三咲、
豊四季、五香、六実、七栄、八街、九美上、十倉、十余一、十余ニ、十余三である。

これらの地名は現存しており
(全部残っているかは調べていない)、稲用は小学校から24歳まで五香六実という住所の賃貸マンションに住んでおり、大家さんは開墾に成功した家の子孫であり、かなりの土地持ちだった。ただし、成功した人は一部で、中途で病死したり、夜逃げした人も多かったそうだ。

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鎌ケ谷市郷土資料館

鎌ケ谷市中央1-8-31
047-445-1030
9:00~17:00
月曜休館

古代の考古系の展示としては、旧石器、縄文時代、そして古墳時代や律令時代の展示がある(鎌ケ谷市では弥生時代の遺跡はみつかっていない)。

縄文時代の展示は中沢貝塚と中期の遺跡である根郷貝塚がメイン。中沢貝塚の展示としては、貝層の剥ぎ取りも展示してあり、根郷貝塚の展示としては、出土人骨の実物がある。

無料配布の資料もたくさんあって素晴らしい。

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栄町


龍角寺古墳群

 栄町龍角寺から成田市大竹にかけての下総台地上に造営された古墳時代後期から終末期にかけての群集墳で、現在のところ115基の古墳が確認されている(数は房総風土記の丘資料館の展示パネルによる)。2009年には、「龍角寺古墳群・岩屋古墳」として岩屋古墳と他の92基の古墳が国史跡に指定された。場所によっては中近世の塚が混ざり、外見的に判別することが難しい場合がある(そういった塚の上には板碑が立てられているものが見られる)。

ゴルフ場ではない

 

 著名な古墳としては、終末期方墳の岩屋古墳(105号墳)と、みそ岩屋古墳(106号墳)、最後の大型前方後円墳の浅間山古墳(111号墳)、それに現地に埴輪の模造品が並べてある101号墳があり、これらは発掘調査がされている。

 それ以外では、8号墳、24号墳、53号墳、65号墳、75号墳、113号墳、さらに道路などの開発によって湮滅した2号墳、108号墳、112号墳が調査されている。つまり、古墳群の全体数からすると発掘調査がされた古墳は1割ほどなので、まだまだ不明点が多い古墳群なのである。

 栄町や成田市では古墳のスペックを示す立て看板の形状を古墳の形状と同じにしているため分かりやすくて良いが、形状を誤認している可能性もあるので油断はできない(以下の一覧のアイコンは、前方後円墳は111号墳以外と円墳は後期を示す黄色のアイコンを使用したが終末期の築造の可能性もあるる)。

 築造時期に関しては、最も古い101号墳が6世紀第2四半期で、あとはそれよりも新しく、追葬を含めると8世紀初頭までは使われていた。遺物が見つからない事には築造時期の判断は難しいが、もし埴輪片が見つかれば、後期古墳であることが分かる。

 なお、前方後円墳の70号墳の看板は、上から白く塗り潰されている。古墳でないことが判明したか?(要確認)

 

42m
龍角寺21号墳

龍角寺古墳群の中では比較的大きめの前方後円墳。埴輪がみつかっている。

20180525


 

 

13m
龍角寺52号墳

 

20170503

27or31m
龍角寺53号墳

発掘調査がされている。

20170503


 

 

 

32m
龍角寺54号墳

 

20170503

12m
龍角寺55号墳

 

20170503

48m
龍角寺57号墳

埴輪が見つかっている。

 

20170503

25m
龍角寺58号墳

 

20170503

17m
龍角寺62号墳

 

20170503

17m
龍角寺63号墳

 

20170503
20210502A


龍角寺65号墳

発掘調査がされている。

 
 

20170503
20210502A

19m
龍角寺66号墳

 

20170503
20210502A

18m
龍角寺67号墳

 

20170503

30m
龍角寺68号墳

 

20170503
20210502A

28m
龍角寺69号墳

 

20170503

27m
龍角寺71号墳

 

20170503

20m
龍角寺72号墳

 

20210502A

19m
龍角寺73号墳

 

20170503
20210502A

22m
龍角寺75号墳

発掘調査がされている。

 

20170503

35m
龍角寺78号墳

 

20170503

12m
龍角寺80号墳

 

20170503

11m
龍角寺81号墳

 

20170503

16m
龍角寺82号墳

 

20170503

22m
龍角寺84号墳

 

20170503

15m
龍角寺85号墳

 

20170503

15m
龍角寺86号墳

 

20170503

12m
龍角寺99号墳

 

20170503

22m
龍角寺100号墳

時期不詳だが、他の方墳が終末期の築造のため、アイコンは緑色にした。

 

20170503

25m
龍角寺101号墳

栄町龍角寺

6世紀第2四半期に築造された当初は二重の周堀を持つ径25mの円墳だったが、のちに周堀の一部を埋め立て、そこに埋葬施設を作ってしまったため、造出付きの円墳のような変な形の古墳になってしまったという面白い経歴を持つ古墳。

埋葬施設は5基みつかっており、墳頂の第1施設(初葬者用の施設)は、木棺直葬だったと想定されている。

第3施設は凝灰質砂岩で造った石棺が直葬されており、その中からは、成人男性3体、成人女性3体、小児1体、幼児1体の計8体の人骨が出土。当地域らしく1つの石棺内に多数の遺体を納めている。

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20180602C
20190306C
20190317C
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20230827A
20240612A
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13m
龍角寺102号墳

20170503


 

21m
龍角寺103号墳

埴輪が見つかっている。

20170503


 

34m
龍角寺104号墳

栄町龍角寺

貝化石を使用して横穴式石室を構築した。周辺の貝化石墳の築造順は、『7世紀印波における横穴式石室の考古学的研究』(川村悠太/著)によると、龍角寺104号墳と上福田岩屋古墳が同時期、つづいて龍角寺岩屋古墳東石室と西石室、そして龍角寺みそ岩屋古墳と上福田13号墳が造られ、最後に上宿古墳が造られたとする。

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20230827A
20240612A
20240616A


 

 

 

78m
岩屋古墳(龍角寺105号墳)

栄町龍角寺

浅間山古墳に続いて7世紀に築造された一辺78m、高さ13.2m、3段築成の方墳で、方墳としては奈良県橿原市の舛山古墳(96×90m)、蘇我蝦夷の墓の可能性のある小山田古墳(最長辺80m)についで全国で3位。二重の周堀までを含めた兆域は、東西108m、南北96mとなる。

【墳丘】

墳丘は3段築成。1段目は地山削り出しで、2段目と3段目は盛土で構築している。

内側周溝は全周していた。測量図や現地での目検では、南側の石室前面部分の標高が高いため、その部分は周溝が無く広場状になっていたのかと思ったが、発掘調査報告の資料を見ると、トレンチを開けて周溝の存在を確認している。

少し高くなっているのは、後世に盗掘した際の廃土だろうか。

内側周溝の外は周堤がめぐっているが、南側はおそらくなかったであろう。外側周溝も北・西・東では確認できているが、南側は地形から見てもないだろう。

古墳に関係する遺構らしきものとして注目すべき箇所がある。現地説明板の図を見ても分かる通り、南側の地形が舌状に張り出しているが、この部分では、発掘調査によって人為的な地形の改変が認められている。実際に現地で確認しても人工的な段差が分かる。

【石室】

1段目頂部テラスに南側に開口する横穴式石室が2つ設けられており、2つともハの字に開く前庭部を持っている。石室同士は9m離れており、両室ともに短い羨道の付く単室構造。石室規模は、東石室が全長6.5m、西石室が4.8m。

石材は貝化石を多く含む約12万年前に堆積した木下貝層と呼ばれる砂岩で、よく見ると貝の化石が含まれている。

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訪れた時によって違うカットが見られる

 

西側周堤と周溝

 

現地形では、人物がいるあたりが少し標高が高いのが分かる

 

南側の突出部分(この先は急に地形が落ちている)

 

 

 

「岩屋古墳第3次現地説明会資料 2013年10月19日」(印旛郡市文化財センターHPより転載)

 

横穴式石室が2つある双室墳

 

東石室は埋まっている

 

 

西石室は中に入れないが外から観察できる

 

西石室は中に入れないが外から観察できる

 

 

35m
みそ岩屋古墳(龍角寺106号墳)

栄町龍角寺

20170503
20210502A


 

 

 

 

『7世紀印波における横穴式石室の考古学的研究』
(川村悠太/著)より転載

 

78m
浅間山古墳(龍角寺111号墳)

栄町龍角寺

7世紀初頭に築造された墳丘長78mの前方後円墳。発掘調査によって横穴式石室が見つかり調査された。石室は筑波石を使用し、壁面を白く塗っていた。

漆塗木棺に使用された漆膜など貴重な遺物が見つかり、遺物の一部は房総風土記の丘資料館に展示している、また、横穴式石室の実物大模型もあり、中に入ることができる。

墳丘は後円部墳頂が不自然に高いが、後世、神社を作ったときに1.5mほど土盛りしている。

過去8回訪れたが、いつ行っても主要古墳の内、この古墳だけは綺麗に草が刈られた状態を見たことが無い。

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白鳳道から後円部を見上げる

 

後円部から前方部を見る

 

前方部から後円部を見ると後円部が不自然に高いのが分かる

 

  

房総のむら 風土記の丘資料館にて撮影

 

房総のむら 風土記の丘資料館にて撮影

 

房総のむら 風土記の丘資料館にて撮影

 

房総のむら 風土記の丘資料館にて撮影

 

房総のむら 風土記の丘資料館にて撮影


白鳳道

栄町龍角寺

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20180602C
20190306C
20190317C
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房総のむら 風土記の丘資料館近くの箇所

 

浅間山古墳近くの箇所

 

 


龍角寺

栄町龍角寺

天竺山寂光院と号する天台宗の寺院。寺伝では和銅2年(709)に天から龍が降りてきて一夜にして伽藍を建て並べ、龍閣寺と呼ばれたとあるが、調査の結果から、さらに古い7世紀後半に創建された寺院だということがわかった。本尊の薬師如来像は国の重要文化財に指定されている。

伽藍配置は、法起寺式伽藍配置で、中門をくぐると、左手に金堂、右手に三重塔が建ち、その奥に講堂が建っていた。

創建時の軒丸瓦は、周縁に三重園文のある単弁八葉蓮華文で、奈良県桜井市の山田寺と同系統の瓦。風土記の丘資料館には、山田寺の仏頭のレプリカが展示してある。

龍角寺には聖武天皇の御代、日照りに苦しんでいる人びとのために、大龍の許可を得ずに雨を降らせた結果その怒りをかって死んだ小龍の伝説が残っており、小龍の頭のミイラといわれるものが祀られている。

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20230827A

仁王門(南門)跡

 

 

塔心礎

 

 

 

金堂跡

 

 

 

17.2×20m
瓢塚41号墳石室(移築)

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20180602C
20190306C
20190317C
20230827A
20240612A
20240616A

 

 

21m
龍角寺108号墳石室(移築)

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20190306C
20190317C
20230827A
20240612A
20240616A

 

 

交換前の古い説明板

 


旧平野家住宅(移築)

20170503
20180602C

 

 


旧御子神家住宅(移築)

20170503
20180602C

 

 


旧学習院初等科正堂(移築)

20240612A

 

 

 

 

 

 


千葉県立房総のむら 風土記の丘資料館

栄町龍角寺1028

千葉県の考古遺物を学ぶのに最も優れた施設の一つ。2023年のリニューアルによってさらに素晴らしくなった。

1階には浅間山古墳の石室の実物大模型があり中に入ることができるほか、龍角寺古墳群や関東最古級の寺院である龍角寺についての展示がある。

2階には旧石器・縄文・弥生時代の遺物が並び、市原市の新皇塚古墳(前方後方墳)の出土遺物の展示もある。

20170503
20180602C
20190306C
20190317C
20230827A
20240612A
20240616A

 

 

  

 

佐倉市


飯郷作遺跡

 
 
 

20191208


飯郷作1号墳

 

20191208


桔梗塚(将門1号墳)

将門の妻・桔梗の塚との伝承がある

 

20231018
20231203A


将門口ノ宮神社

将門と佐倉惣五郎を祀る神社

 
 

20231018
20231203A


八幡神社

勝胤創祀の神社と伝わるが、将門の父・良将の館跡で将門はこの地で生まれたという伝承もある

 

20231018
20231203A


麻賀多神社

麻賀多十八社の一社

 

20231018
20231203A


勝胤寺

千葉氏第3代勝胤開基の寺

 

20011123
20231018
20231203A


千葉家供養塔

 
 

20011123
20231018
20231203A


宝珠院

近世における佐倉五山筆頭寺院

 
 

20231018


印旛郡市文化財センター

20220726

 

 


国立歴史民俗博物館

19990327
20220726
20230827A

 

 

 

 

酒々井町


上岩橋貝層

🅿なし
🚻なし

20231018
20231203A

 

 

35m
鬼塚古墳

🅿なし
🚻なし

説明板なし

20231018
20231203A

 


カンカンムロ横穴群

🅿なし
🚻なし

酒々井町内で唯一の横穴墓群。真冬に行くと横穴墓が見られるそうだがどうだろうか。

20231018
20231203A

 

 

 


下宿麻賀多神社

 
 

20231018


白山大神社

 

20231018


玉光大神

 

20231018


妙胤寺

寺号は勝胤の「胤」を取り、山号の常勝山は、勝胤の「勝」から取った。加藤清正を祀る。

 

20231018
20231203A


吉祥寺

 

20231018


清光寺

天文年間、家康の父・松平広忠の葉骨を安置供養

 

20231018


伝説 酒の井の碑

 
 

20231018


本佐倉城跡

 
 
 
 
 
 

20011123
20231018
20231203A


国史跡本佐倉城跡案内所

 

20231018
20231203A

 

白井市

河原子台Ⅱ-3遺跡

 
 

20170503

 

 

千葉市中央区


月ノ木貝塚

20240711

 

 

 

66m
大覚寺山古墳

20240711

 

 

 

 


千葉寺

せんようじ

海上山と号する真言宗豊山派の寺院。

20240711

 

 

 


千葉市埋蔵文化財センター

20220213P
20240711

 

 

 


千葉県立中央博物館

20240711

 

常設の「房総の歴史」コーナーは撮影禁止

 

 

千葉市花見川区


犢橋貝塚

こてはしかいづか

20250118

 

 

 

千葉市若葉区


加曽利貝塚

20220213P
20230827A
20250118

 

 

 

 


荒屋敷貝塚

20250118

 

 

 


花輪貝塚

20250118

 

 

 


東寺山貝塚

20250118

 

 

 


千葉市立加曽利貝塚博物館

20220213P
20230827A
20250118

 

 

 

習志野市

20~25m
鷺沼A号墳

20240711

 

 

20~25m
鷺沼B号墳

20240711

 

 

 


鷺沼城跡

20240711

 

 

 

成田市


公津原古墳群

こうづはらこふんぐん

 公津原古墳群には昔からたくさんの古墳が存在することが知られていたが、この地に成田ニュータウンを造ることが決まったため、昭和44年(1969)10月から昭和46年(1971)8月にかけて64基の古墳が発掘調査された。これを端緒として、その後も地道に発掘調査が進められ、現在のところ130基の古墳が確認されている。

10号墳の横にある説明板

 

 公津原古墳群の領域は広く、下図の通り、八代台古墳群と天王・舟塚古墳群、それに瓢塚古墳群の3つの古墳群が支群として存在する。

現地説明板に追記(元の画像がブレていてすみません)

 

 それぞれの古墳群の墳丘別の内訳は上図の通りだが、重ねて列挙すると、八代台(やつしろだい)古墳群は、前方後円墳が3基、方墳が6基、円墳が25基。天王・船塚古墳群は、長方墳が1基(上図では前方後方形で描かれているが実際は長方墳)、前方後円墳が3基、方墳が9基、円墳が33基。そして瓢塚(ひさごづか)古墳群は、前方後円墳が1基、方墳が19基、円墳が30基である。

 上記の古墳は破壊されてしまった物も多いが、これらのうち県指定史跡となっている38基に関しては、今後破壊される心配は普通に考えて無い。

 公津原古墳群の築造時期は主に古墳時代後期(6世紀)で、列島各地で群集墳が盛んに造られた時代。公津原古墳群の多くの古墳は群集墳として評価することができるが、大型(やや大型含む)の古墳が何基か含まれていることには注意する必要があり、とくに非常に珍しい長方形の大型墳である船塚古墳の特異性が際立っている。

 

85m
船塚古墳(公津原8号墳)

公津原古墳群

赤坂公園内

🅿あり(赤坂公園東側の学園東通沿い)
🚻あり

築造時期は、6C前半。以前は前方後方墳と言われていたが、珍しい大型の長方形墳ということで確定。周堀は二重にめぐっていたとされている。

なお、すぐ近くには円墳の9号墳がある。

20180525
20180602C
20190306C
20190317C
20210502A
20240612A
20240616A


 

 

 

 

13m
公津原9号墳

公津原古墳群

 

20180525
20180602C
20190306C
20190317C
20210502A
20240612A
20240616A

63m
天王塚古墳(公津原21号墳)

公津原古墳群

🅿なし
🚻なし

築造時期は、6C前半(「印旛のはにわ」根本岳史)。

天王・船塚古墳群に残る3基の比較的大きな古墳のうちの1基で、墳丘長63mの前方後円墳。この大きさは、公津原古墳群で2番目の大きさを誇る。主体部は不明。

20191208
20210502A

 

 

33m
石塚古墳(公津原16号墳)

公津原古墳群

🅿なし
🚻なし

築造時期は、6C前半(「印旛のはにわ」根本岳史)。

天王・船塚古墳群にある3基の前方後円墳のうちの1基で、墳丘長は40mとの説もある。主体部は不明で、埴輪が多く採取されている。

近くには10号墳から15号墳もあり、10号墳は径33mの大型の円墳。また、吾妻小学校の校庭には17号墳から20号墳の4基の円墳が保存されている。

20210502A

 

 

33m
公津原10号墳

公津原古墳群

 

20210502A

公津原20号墳

公津原古墳群

吾妻小学校の校庭にある中の1基。

 

20210502A

8m
公津原22号墳

公津原古墳群

 

20191208
20210502A

公津原23号墳

公津原古墳群

 

20191208
20210502A

11m
公津原24号墳

公津原古墳群

 

20191208
20210502A

公津原30号墳

公津原古墳群

 

20210502A

12m
公津原31号墳

公津原古墳群

 

20210502A

12m
公津原32号墳

公津原古墳群

 

20210502A

12m
公津原33号墳

公津原古墳群

 

20210502A

13.5m
公津原34号墳

公津原古墳群

 

20210502A

12m
公津原35号墳

公津原古墳群

 

20210502A

14.5m
公津原36号墳

公津原古墳群

 

20210502A

12.5m
公津原37号墳

公津原古墳群

 

20210502A

23m
公津原38号墳

公津原古墳群

 

20210502A

35×36m
伝伊都許利命墳墓(公津原39号墳)

🅿あり(麻賀多神社)
🚻なし

船形麻賀多神社の境内にある一辺が36mの大型方墳で、印波国造伊都許利命(いつこり)の墓との伝承のある終末期方墳。

公津原古墳群の他の古墳が集中する地域から少し離れた場所に築造されており、規模から見ても特別な古墳であることは間違いなく、実際に印波国造が埋葬されている可能性はあるだろう。

20180525
20180602C
20190306C
20190317C
20210502A

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

37m
上福田岩屋古墳

🅿なし
🚻なし

貝化石は脆いため強度に問題があるが、上福田岩屋古墳の横穴式石室は比較的残り具合が良い。常時開口しているので見学をお勧めしたい。

ただし、説明板に「T字形」とあるのは微妙だと思う。確かに玄室の奥行きよりも幅の方が長いが、この程度で「T字形」というのはどうかと思う。本物の「T字形」は、対馬の矢立山2号墳がそうだし、渡来系との関りを想起させられる古墳が多い。

20240612A
20240616A

 

 

 

天井

 

 

『7世紀印波における横穴式石室の考古学的研究』(川村悠太/著)より転載

 


古墳?

20240612A
20240616A

 

 

 


公津原埴輪窯跡

千葉県ではたくさんの埴輪が見つかっており、ここ印旛地域やここより南側の山武地域では、とくに多くの形象埴輪が見つかっている。ところが、埴輪窯跡は県内ではここ公津原埴輪生産遺跡と、木更津市の畑沢埴輪生産遺跡の2ヵ所しか見つかっておらず、しかもその埴輪窯と出土した埴輪たちが結びつかない。

現地は完全に市街地化されており、当時の地形もほとんど分からない状態で、説明板もない。

20210502A

大体この辺

 

 


八代玉作遺跡

やつしろたまつくりいせき

八代玉作遺跡は東日本ではじめて発見された玉作遺跡で、玉作遺跡というのは一般的には装身具あるいは祭祀具として用いる勾玉や管玉などの玉類を製作していた遺跡のことを言う。

八代玉作遺跡の場合は、玉作の工房跡が谷を囲むように10軒見つかっており、4世紀後半から5世紀前半にかけて、主として緑色凝灰岩を材料とした管玉の生産が行われていた。

4世紀後半から5世紀前半というと、公津原古墳群で盛んに古墳が造られた時期と違う。

20191208
20210502A

 

 

下総歴史民俗資料館にて撮影

 

下総歴史民俗資料館にて撮影

 

 


吾妻神社

あずまじんじゃ

20191208

 

 

 

 


台方麻賀多神社(稷山社)

だいかたまかたじんじゃ

麻賀多神社は、印旛沼畔に麻賀多十八社と言われる信仰圏を持ち、台方の社はその本宮。祭神は和久産巣日神(わくむすひのかみ)。

戦争末期に岡本天明が自動書記によって「日月神示(ひつきしんじ)」を成した場所として有名だ。

境内には樹齢1300年で東日本一といわれる樹高40mの大杉が生えており神秘的な場所。

境内社の中には、馬来田郎女神社があるが、上総には馬来田(まくた)国造が存在し、印波国造に馬来田国造から嫁入りしたのかと想像が膨らむし、そもそも「まかた」と「まくた」は音が似ているのも気になる。

祓戸の神として、瀬織津姫も祀られているし、いろいろ気になる神社。

20180525

 

 

 

 

 

境内社・馬来田郎女神社

 

天日津久神社

 

祓戸神

 

 

樹齢1200年の大杉

 

 

 


船形麻賀多神社(手黒社)

ふながたまかたじんじゃ

船形の社は麻賀多神社本社の奥宮。

奥宮である船形の麻賀多神社は、稚日霊命(わかひるめのみこと)を祀っている。

境内には伝伊都許利命墳墓(公津原39号墳)がある。

20180525
20180602C
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境内社・加志波神社

 

 


下総歴史民俗資料館

成田市高岡1500(下総運動公園内)
0476-96-0080

初めて行くと場所が分かりにくいかも知れないが(私はカーナヴィに変な場所を案内された)、丘の上に展望台のようなタワーが建っているのが見えるので、そこを目指そう。

元々は合併前の下総町の歴史民俗資料館。有名な全国で唯一例のムササビ形埴輪を含め南羽鳥正福寺1号墳から出土した埴輪の展示、猫作・栗山16号墳出土の石枕、南羽鳥中岫(なかのごき)第1遺跡出土の縄文前期の人頭形土製品(これも全国唯一だが複製)など貴重な遺物が展示してある。

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南羽鳥正福寺1号墳出土・埴輪群

 

南羽鳥中岫第1遺跡出土・人頭形土製品(複製)

 

 

船橋市


行田無線塔

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取掛西貝塚

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下郷後遺跡

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飛ノ台貝塚

縄文時代早期後葉の遺跡。住居
跡や炉穴跡、貝塚などを展示。

昭和7年(1932)に杉原荘介が発掘したが、その頃杉原は19歳くらいなので大学に進まず家業の和紙問屋を手伝っていた頃だと思う。

その後、昭和13年に東京考古学会が発掘して、国内で初めて炉穴を発見した。東京考古学会は、昭和5年(1930)に森本六爾(その後34歳で亡くなり才能を惜しまれた)らが創設したが、杉原は鳥居龍蔵に私淑したあとは、森本に教えを受けていたという。

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飛ノ台史跡公園博物館

船橋市海神4-28-18
9:00~17:00(16:30)
月曜休館
047-495-1325

飛ノ台貝塚や船橋市の縄文時代について詳しく解説した施設で、遺物の優品を展示している。

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松戸市


栗山古墳

栗山浄水場の周辺には6世紀後半から7世紀にかけて古墳が築造されたが、墳丘が残っているのは栗山浄水場の南西角の西向かいの雑木林の中にある栗山古墳とその西側にある小墳丘のみ。

栗山浄水場南側の天神山遺跡と北側の立出し(たてだし)遺跡では、それぞれ5基の周溝跡が検出されており、それらを含めて栗山古墳群と呼び、市川市の国府台古墳群の支群に位置付けられる。

現状分かっている範囲では、合計12基の古墳からなるが、栗山浄水場を作る際に調査をしていないようなので、実際にはこの倍くらいの古墳があったかもしれない。

現在みつかっているものを見るとすべて円墳で、規模は10m台ほどだが、立出し遺跡の第1地点では、内径25m以上の周溝が確認されている。

栗山古墳群からは多くの埴輪が見つかっており、立出し遺跡第1地点で見つかったものは、群馬県産のものが多い。

栗山古墳からは、埼玉県行田市の生出塚産の埴輪も見つかっているが、同じ頃の栗山古墳群のボス古墳である市川市・法皇塚古墳でも生出塚産の埴輪が多く見つかっている。

また、栗山古墳群では房州石の破片が見つかっていることから、石室あるいは石棺の部材として使われていたことが分かる。

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2度訪れたが2度とも標柱の説明文は藪に覆われていて読めなかった(松戸市頑張れ!)

 

栗山古墳出土埴輪(松戸市立博物館にて撮影)

 

栗山古墳出土提瓶(松戸市立博物館にて撮影)

 

 


野馬除土手

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野馬除土手の木戸遺構

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金ケ作陣屋跡

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高龗神社・香実会所跡

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栗山配水塔

昭和12年に築造されて、いまなお現役の配水塔として稼働している。

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松戸市立博物館

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