東京都(23区)の遺跡・関連施設一覧Ⅰ<原始・古代>

最終更新日:2025年5月19日

 ※自治体ごとに示し、自治体の並び順は市区町村コード順です。
 ※一覧の見方に関しては、こちらをご覧ください。
 ※博物館・資料館は、中世以降に特化した施設でない限りこのページに記載しました。
 ※古代に創建が求められそうな神社もありますが、神社はすべて「遺跡・関連一覧Ⅱ」のページに記載しました。

 

千代田区

こちらで紹介

 

中央区

 なし。

 

港区


伊皿子貝塚

いさらごかいづか

縄文後期の貝塚。弥生時代中期後葉の方形周溝墓も2基見つかっており、その被葬者たちが住んでいた集落は、隣の亀塚公園遺跡であると考えられている。

現地は公園として整備されており、列島各地の縄文の公園と比べると見劣りすると思うが、この公園を作った時の港区の気概を感じることができて好感が持てる。今の港区はどうかな?

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貝層展示

 

 

縄文時代の住居のイメージ

 

住居の中

 

ハート形土偶が解説してくれている(この遺跡からこの土偶は出土していない)

 

古墳時代の住居跡も展示

 

踊る埴輪が解説してくれている(この遺跡からこの埴輪は出土していない)

 

 


丸山貝塚

まるやまかいづか

縄文時代中期末から後期にかけて形成された貝塚と推定されている。

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112m
芝丸山古墳

しばまるやまこふん

築造時期も大きさもはっきりしない前方後円墳。

築造時期に関しては、現地説明板では5世紀代としているが、4世紀後半と考える研究者もいる。今のところ、築造時期の決め手となる決定的な証拠はない。

墳丘長に関しても、現地説明板では106mとし、港区の資料によると、1958年に測量した時は125mと発表しているが、現在の港区のリーフレットでは、112mとしている。おそらく、どこからが古墳と見るかによって大きさが変わってしまうのだろう。墳端を確認するには発掘調査が必要だし、もしかするとすでに墳端を確認するのは困難なのかもしれない。いずれにせよ、東京都で最大の前方後円墳として良いと思うし、都心に大型前方後円墳が残っているのは奇跡ともいえる。

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亀塚

明治時代から古墳ではないかと言われているが、発掘の結果、主体部や周溝は見つかっていない。ただし、古墳時代の土盛りであることは確実。現状では方墳状になっていて、北東側が削られており、「亀塚」という名前からして前方後方墳だったか。また、盛土の下からは、弥生時代中期後葉の頃のものと後期後葉から古墳時代初頭にかけての住居跡が見つかっている。

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港区立郷土歴史館

展示物の写真撮影NG。

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新宿区


新宿歴史博物館

基本、写真撮影NG。

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文京区


弥生式土器発掘ゆかりの地

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弥生二丁目遺跡

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東京大学総合博物館

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台東区

70m
摺鉢山古墳

6世紀に築造された墳丘長70mの西南西を向いた前方後円墳。前方部、後円部ともに2段築成。墳丘は、中近世の仏堂建立などによって壊されており、後円部墳頂は平坦になっている。主体部は不明。円筒Ⅴ式の埴輪が見つかっており、葺石は検出されていない。

摺鉢山古墳の周辺には、かつては桜雲台古墳(現・東京文化会館)、蛇塚古墳(現・東京都美術館)、表慶館古墳(現・表慶館)などの円墳があり、総称して上野台古墳群あるいは紫竹川古墳群と呼ばれているが、現在は摺鉢山古墳以外はすべて湮滅してしまった。古代の上野の山は墓域だった
のだ。

摺鉢山古墳は、東京低地を見下ろす武蔵野台地上の縁の部分に立地するが、古墳時代後期には東京低地の開発が進み、葛飾区には前方後円墳の柴又八幡神社古墳(6世紀末・30m)が築造され、対岸の下総台地上の市川市にはこれも前方後円墳の法皇塚古墳(6世紀後半・54.5m)などが築造されている。これらの古墳と一緒に考察するべき古墳であるが、詳しいことが分かっていない古墳である

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墨田区

 なし。

 

江東区

 なし。

 

品川区


史跡大森貝塚 大森貝塚遺跡庭園

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大井林町2号墳跡推定地および木芽の坂

戦後間もないころまでは破壊の進んだ小型の前方後円墳があったが、その後いつのまにか破壊されて正確な場所さえも不明となった

木芽の坂を登った右側の立会小学校の辺りにあったと推定されている

昭和24年の調査では主体部は粘土槨とあるが、木炭槨の可能性がある。時期や大きさは不詳(『東京の古墳を考える』所収「品川の古墳」<内田勇樹/著>)

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品川歴史館

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<写真準備中>

 

目黒区

 なし。

 

大田区

 こちらを参照ください。

 

世田谷区

 こちらを参照ください。

 

渋谷区


國學院大學博物館

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渋谷区郷土博物館

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中野区


中野区立歴史民俗資料館

常設展示室のスペースの都合もあるようで石器や土器などは数は少ないが、選りすぐりの優品を展示している。

それらの中で特に目を引くのが、北江古田遺跡で出土した縄文時代中期後半の加曽利E式の浅鉢で、「タガのついた土器」と説明されている。口縁部の下に何かを巻き付けているようだ。「文化遺産オンライン」によると、桜皮のタガだそうだ。しかも全体を赤漆で塗っていて、造りも丁寧なので、特別な土器だったことが分かる。これを見るだけでも中野区立歴史民俗資料館を見学する価値がある。

有機質のものは残らないことが多いため、実はこのように土器に植物性のパーツをくっつけるということは、モノが残っていないだけで当時は結構行われていたのかもしれない。

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北江古田遺跡出土・タガのついた土器

 

 

杉並区


高井戸東遺跡

杉並区大宮

大宮八幡宮のすぐ隣では、弥生時代終末期の方形周溝墓が3基見つかった。出土遺物は、杉並区立郷土博物館に展示している。

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杉並区立郷土博物館にて撮影

 

 


大宮遺跡

杉並区大宮

大宮八幡宮のすぐ隣では、弥生時代終末期の方形周溝墓が3基見つかった。出土遺物は、杉並区立郷土博物館に展示している。

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20250420A

 

 

 

杉並区立郷土博物館にて撮影

 

杉並区立郷土博物館にて撮影

 

 


高千穂大学大宮遺跡

杉並区内には、現在は古墳は1基も残っていない。伝承では高千穂大学周辺に30基の古墳があったとされ、実際に、発掘調査によって周溝跡が1つ検出されている。説明板なし。

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高千穂大学

 

 


松ノ木遺跡

杉並区松ノ木

旧石器時代から古墳時代にかけての複合遺跡で、区内最大級の規模を誇る。現地には方南峰遺跡で発掘された古墳時代の住居跡を元にした復元住居が建っているので、古墳時代の東京都民がどんな家に住んでいたのか、ここで確認しよう。

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杉並区立郷土博物館

杉並区大宮1-20-8
03-3317-0841
9:00~17:00
月曜・第3木曜休館

杉並区の歴史を紹介した博物館。高井戸東遺跡出土の局部磨製石斧を展示。杉並区は縄文時代早期の撚糸文系土器様式である井草式土器の標式遺跡である井草遺跡があり、記念すべき井草式土器の複製も展示している。井草式土器が発見された昭和12年当時は「最古の土器!」として話題になったのだ。それ以外にも縄文中期の土器など、優品を展示している。

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井草遺跡出土・井草式土器の複製

 

 

 

 

豊島区


豊島区立郷土資料館

写真撮影は許可制。

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北区


音無渓谷 

 
 

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音無さくら緑地内旧石神井川の自然露頭 

 
 
 
 

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中里貝塚

 
 

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西ヶ原貝塚

 
 

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31m
飛鳥山1号墳

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豊島郡家跡(御殿前遺跡)

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古東海道・鎌倉道・熊野坂

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飛鳥山博物館

写真撮影は許可制。

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荒川区

 なし。

 

板橋区


茂呂遺跡

板橋区小茂根5-17

昭和21年の群馬県みどり市における相澤忠洋の「岩宿の発見」と、3年後の明治大学の発掘調査により、日本列島にも旧石器時代に人間が住んでいたことが証明された。

昭和26年3月、中学生の瀧沢浩少年(後に考古学者となった)がこの地の切通りで黒曜石製石器と礫群を見つけ、それを受けて7月、明治大学と武蔵野文化協会が共同で発掘調査を行い、ナイフ形石器7点を含む22点を発掘し、ナイフ形石器は、茂呂型ナイフ形石器と呼ばれるようになった。板橋区立郷土資料館にレプリカが展示しているが、黒曜石製ではない。実物は明治大学博物館に展示している。

なお、ナイフ形石器という呼び名は、昭和26年に茂呂遺跡出土の石器を見た芹沢長介が名付けた。ただし、ナイフである保証はない。

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明治大学博物館にて撮影(2023年10月3日)

 

 


稲荷台遺跡

板橋区稲荷台23

昭和12年、偶然近くを通りかかった中学生の白崎高保少年は、工事現場で新種の土器を発見。彼は同じく中学生の江坂輝弥少年と共に
資料を収集し、ビッグネームの長はせべことんど谷部言人や山内清男を動かし発掘調査にこぎつけた。両少年は長じて共に考古学者となり学界で重きをなした。

ちなみに、江坂輝弥(1919~2015)は、慶応義塾大学の名誉教授として没したが、平成17年に約1万冊の蔵書を青森県八戸市に寄贈し、今は是川縄文館の江坂輝弥図書コーナーに開架されて自由に読むことができる。

都内に標式遺跡のある撚糸文系土器としては、杉並区の井草式土器も著名。面白いことに、東京府立農藝高校の教諭・矢島清作が上井草4丁目の台地上で井草式土器を見つけたのも昭和12年。稲荷台式
土器の発見時は「日本最古の土器!」として話題になったが、昭和15年に上井草4丁目の発掘調査が行われると、最古の土器の座を井草式土器に譲り渡した。

撚糸文系土器の器形は丸底の深鉢形。撚糸文によって文様が施されている。撚糸文というのは、木か何かの芯に縄を巻き付けた絡条体と呼ばれる施文具を使って付ける文様のことを言う。

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小豆沢貝塚

板橋区小豆沢4-5-3

縄文後期から晩期にかけての所産。モース博士による大森貝塚の発掘の6年後に当たる明治16年(1883)に、白井光太郎と坪井正五郎が発見した貝塚で、西側の入江に面して形成された。現在でも住宅に囲まれた墓地の中に、貝殻や土器片の散布が見られるが、その辺りから北側の小豆沢神社の手前辺りまでが遺跡の範囲。見つかる貝殻は、ハマグリやヤマトシジミで全体の9割を占め、板橋区立郷土資料館に、江坂輝弥が調査した際に出土した貝殻を展示している。昭和3年には、大山史前学研究所が発掘調査。大正大学も八幡一郎の指導で小豆沢神社鳥居西側を発掘調査し、人骨を1体検出。

出土した土器の中には、安行3式土器の標式土器もあり、レプリカを板橋区立郷土資料館に展示している。安行式は、縄文時代後期から晩期にかけての土器型式で、最初は山内清男が埼玉県川口市の安行猿貝貝塚出土土器をもって型式を提唱。その後、細分化され、例えば、さいたま市岩槻区の真福寺貝塚出土土器をもって、後期後葉の安行2式、晩期前葉の安行3a・3b式、晩期中葉の安行3c式が決められ、小豆沢貝塚出土土器も標式土器として利用されている。

2024年6月現在、東京国立博物館 平成館に小豆沢貝塚から出土した称名寺式土器の深鉢、堀之内1式の深鉢2点、堀之内2式の注口土器の計4点を展示。

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貝殻片や土器片が散らばっている

 

出土した貝殻(板橋区立郷土資料館にて撮影)

 

安行3b式土器の複製(板橋区立郷土資料館にて撮影)

 

称名寺式土器(東京国立博物館 平成館にて撮影)

 

 


根ノ上遺跡

ねのかみいせき

板橋区小茂根1-6

旧石器時代から平安時代、そして近代の複合遺跡。縄文時代早期前半の遺物としては、中部地方的な押型文系土器が出土し、その頃の関東地方は撚糸文系土器の文化圏だと考えられていたため注目された。弥生時代後期には、環濠集落を造営。

現地は公園になっており、発掘された弥生時代後期の住居跡(火災に見舞われている)の遺構を場所を変えて復元して展示しているほか、住居跡が砂場などになっている。また、隣接する板橋区立小茂根図書館の中には、根ノ上遺跡を紹介するコナーがあり、出土遺物のレプリカを展示している。

なお、日本における最古の人びとの存在を追いかけていた芹沢長介が、本遺跡出土の石器(旧石器時代最後の方の細石器)を論文に発表し全国的に有名になったといわれている。

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板橋区立小茂根図書館

館内に根ノ上遺跡を紹介するコナーがあり、出土遺物のレプリカを展示している。また、図書館内の床を見ると、青いタイルカーペットが敷き詰められた中に、たまに赤いタイルカーペットがはめ込まれている。それは、その場所で遺構が見つかったことを示しており、環濠も示されている(写真撮影はNG)。

職員の方の話によると、板橋区は各図書館ごとに特色を打ち出しており、小茂根図書館は特に歴史関係に力を入れているそうだ。板橋区民の方で歴史が好きな方は、ぜひ訪れて欲しい。

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志村1号墳跡

板橋区では、現在は墳丘が残っている古墳は1基もないが、戦前には存在した。

円墳の志村1号墳は、区内では主体部が調査された貴重な例で、残っている図面を見ると、単室・両袖で切石積。後期あるいは終末期の築造。

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志村坂上駅近くの大体この辺

 

板橋区立郷土資料館にて撮影

 

 


板橋区立郷土資料館

板橋区赤塚5-35-25
03-5998-0081
9:30~17:00(16:30)
月曜休館

板橋区の歴史について展示解説した施設。古代に関しては、茂呂遺跡や稲荷台遺跡、小豆沢貝塚、四枚畑貝塚などから出土した遺物を展示。ただし、レプリカも多い。販売している図録が豊富なので散財に注意。

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練馬区


池淵遺跡(池淵史跡公園)

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栗原遺跡

練馬区氷川台1-6-30

旧石器時代から平安時代にかけての複合遺跡。現地には、奈良時代の竪穴住居をイメージしたものが建てられている。関東地方の庶民は、奈良時代になってもまだ竪穴住居に住んでいたのだ。

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練馬区立 石神井公園ふるさと文化館

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足立区

12m
白旗塚古墳

6世紀に築造された径12mの円墳で、周辺には元々計7基の古墳があり、白旗塚古墳群と呼ばれているが、残っているのは白旗塚古墳のみ。足立区内全体で見みても墳丘が残っているのはこれだけだろう。

すぐ近くにある伊興遺跡は、6世紀前半に急に衰退するが、それと反比例するかのように白旗塚古墳群の築造が始まった。

 

 

 


伊興遺跡

足立区東伊興4-9-1 伊興遺跡公園

伊興遺跡は、古墳時代の始まりと共に集落の形成が始まり、濃尾の人びとが来た証であるS字甕も見つかっている。古墳時代中期には祭祀場としての最盛期を迎え、関東では早い段階といえる須恵器も見つかっている。また、伊興遺跡では古墳時代前期の方形周溝墓も見つかっており公園内に復元されている。

伊興遺跡の北側には現在、毛長川という小さな川が流れているが、2000年ほど前までは、利根川の本流で大河川だった。その頃までは利根川は大宮台地の西側を流れていたのだが、大宮台地の東側に移ったことにより支流化してしまった毛長川は、交通路として最適な状態になったようだ。

伊興遺跡で水辺の祭祀の形跡が多く見つかるのは、河川交通との関連が想像できる。古墳時代中期から後期はじめ頃の古式須恵器が多く、器種として「ハソウ」が目立つことも特徴的で、東日本の遺跡としては特異なことに韓式系陶質土器が出土している。

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伊興遺跡公園展示館

足立区東伊興4-9-1
03-3898-9111
10:00~16:00
基本無休

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葛飾区

30m?
柴又八幡神社古墳

東京低地にある唯一の前方後円墳。前方部の墳端が確認できていないため不確実ではあるが、墳丘長は30mと推定されている。後円部の上に社殿があり、墳丘はほぼ無くなっているが、社殿の下に石室が復元保存されている。ただし、一般公開はされていない。

石室は近辺で取れる礫を小口積みで壁面を造り、房州石の天井石を乗せた竪穴式石室と考えられている。

築造時期は6世紀後半とされ、規模からして市川市の法皇塚古墳より下位に位置付けられる。

見つかった人物埴輪は、「男はつらいよ」の寅さんに似ているといわれ、また出土した日が渥美清さんの命日だったことから「寅さん埴輪」の愛称で呼ばれている。寅さん埴輪を含め、遺物は葛飾区郷土と天文の博物館に展示してある。

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柴又八幡神社古墳出土埴輪(右下2点は立石遺跡出土)(葛飾区郷土と天文の博物館にて撮影)

 

「寅さん埴輪」は、渥美清さんの命日に出土した

 

 


南蔵院裏古墳跡

関東大震災の直後、鳥居龍蔵が南蔵院の裏で人物埴輪の頭部を発見。昭和63年の調査の際にはすでに墳丘はなかったが、古写真との照合で、墳丘があった場所は特定できた。その後、さらに埴輪が見つかり、それらの遺物から6世紀後半の古墳とされた。

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本堂の左側のマンションの敷地内に古墳があった

 

 

18m
立石熊野神社古墳跡

熊野神社古墳の境内で、径18mの周溝跡が検出され、周溝跡から出土した須恵器などから7世紀後半の築造と分かった。

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立石

地元で「立石様」と呼ばれて信仰の対象となっている石は房州石で、古墳の石室の部材と考えられている。立石様のすぐ南には古代東海道が走っており、石は道標のようなものとして道沿いに立てられていたといわれている。石は煎じて飲むと病気が治るなどの理由からかなり削られている。

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葛飾区郷土と天文の博物館

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江戸川区

 未探訪

 

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