最終更新日:2025年5月19日
※自治体ごとに示し、自治体の並び順は市区町村コード順です。
※一覧の見方に関しては、こちらをご覧ください。
※博物館・資料館は、中世以降に特化した施設でない限り、「遺跡・関連一覧Ⅰ」のページに記載しました。
※古代に創建が求められそうな神社もありますが、神社はすべてこのページに記載しました。
千代田区
中央区

鎧橋
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兜神社
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日本国道路元標
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中央区立京橋図書館
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港区

久国神社


妙円寺
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<写真準備中>

瑞聖寺
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<写真準備中>

覚林寺
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<写真準備中>

今井城跡
戦国城郭跡との伝承があるが遺構はみつかっていない。
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高縄原古戦場跡
大永4年(1524)、武蔵進出を目論む北条氏綱は、扇谷上杉氏の江戸城を落とすべく北進し、高縄原で両軍は激突した。その場所は、港区高輪3丁目辺りといわれている。勝利した氏綱は江戸城を落とし武蔵統一への大きな足が掛かりとした。
一方、南側には太田道灌が江戸城に入る前に一時的に居したといわれる御殿山城があったといわれている。
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新宿区

赤城神社
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<写真準備中>

筑土八幡神社
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<写真準備中>

牛込城跡
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<写真準備中>

牛込見附跡
<写真準備中>

四谷見附跡
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新暦調御用所(天文屋敷)跡
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<写真準備中>

玉川上水水番所跡
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<写真準備中>

四谷大木戸跡碑
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<写真準備中>

西念寺
家康の江戸入部後、半蔵は麹町清水谷(千代田区内)に居し、信康の遺髪を供養した。家康はそこに寺を建てるように命じたが、それが果たせないまま半蔵は慶長元年(1596)に病没。その後建立されたのが西念寺。
その後、西念寺は、寛永11年(1634)に現在地へ遷った。
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服部半蔵の墓
服部半蔵というと忍者として有名だが、「半蔵」という名前は一家の当主の通称。家康に仕えて活躍した有名な服部半蔵は2代目半蔵で、諱は正成。天文11年(1542)生まれ。
父の保長(初代半蔵)は、伊賀国の土豪で忍者だったが、家康と縁ができ、三河に移住。正成は三河で成長する。
正成は、16歳の弘治3年(1557)に初陣を果たしたのち、槍の使い手として数々の戦で敵の首級を挙げ、「鬼の半蔵」として名を馳せた。
出自から分かる通り、正成本人は忍者ではないが、家康の江戸入部後、家康の伊賀越えの際に家康に臣従した元・伊賀の地侍たちで編成された伊賀同心(伊賀衆)の指揮をゆだねられた。
なお、天正7年(1579)、岡崎信康が切腹した際は、渋川四郎右衛門が介錯役であったが、直前に出奔したため、急遽正成に命じられた。ところが、正成も刀を振れず涙を流して倒れ込んでしまったため、天方通綱が介錯を行ったという。
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岡崎三郎信康供養塔
家康の嫡男。「信」の字は信長の偏諱で、妻は信長の娘・徳姫。永禄2年(1559)の生まれなので、家康が17歳の時に生誕している。
浜松城に居した家康とは別に岡崎城に居して、その周辺には信康の家臣団ができあがっていたため、父とさほど年齢の変わらない信康は、父にとってはライバルのような存在になっていたと考える研究者もいる。
父と子でそれぞれ派閥ができていたことは事実だと考えられるが、織田・徳川の同盟にとって最大のライバルであった武田勝頼に通じたとの嫌疑を受け、信長の命によって、天正7年(1579)、22歳の時に母とともに自刃させられた。
供養塔は文禄2年(1593)に服部正成が建立したもの。
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文京区
台東区

池之端児童遊園
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三島神社
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黒船稲荷神社
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浅草観音戒殺碑
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墨田区

東京都復興記念館
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江戸東京博物館
2010年以降、「発掘された日本列島」を見に行っているが、2016~18年は家庭の事情で行けなかった。2022年以降は別の場所で開催。
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江東区
未探訪。
品川区

梶原塚稲荷
塚状になっているが、梶原塚稲荷の由来によると、中世の梶原一族を祀る塚である。
古墳を再利用した中世の塚の可能性もあるが、その場合は、規模から見ても6世紀以降の群集墳の一基であると考えられる。ただし、周囲の古墳調査が進んでいないため確実なことはいえない。
近辺には大井林町2号墳があるが、それはおそらく前期の前方後円墳で、梶原塚が古墳だったとしても直接の関連性はないだろう。
あるいは、この地に梶原氏の居館があったと言われているので、土塁の削り残しを利用した塚かも知れない。
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梶原氏館跡および来福寺
来福寺は、梶原氏の創建と伝わっており、来福寺から梶原塚稲荷のあたりに中世の梶原氏の居館があったといわれている。
「役帳」によると、梶原日向守が新井宿(大田区山王・中央)に51貫分、梶原助五郎が馬込に32貫60文の役高を有しており、梶原塚稲荷の由緒から見ると、梶原氏の勢力がこの辺りに及んでいたことが想定できるが、それ以上のことは分からない。
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御殿山城跡
15世紀半ば、太田道灌は御殿山城に居していたが、夢のお告げによって江戸城を築いて移り、御殿山城には宇田川泉守長清を配置したという。
御殿山城があった場所は、品川区北品川4丁目から港区高輪4丁目にかけてといわれている(『日本城郭大系5』)。
現在は行政地名としての御殿山はなくなったが、周囲の施設名などに形跡が多く残っている。
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天妙国寺
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目黒区

瀧泉寺(目黒不動)
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<写真準備中>

蟠龍寺
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<写真準備中>

大円寺
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<写真準備中>
大田区
こちらを参照ください。
世田谷区
こちらを参照ください。
渋谷区
中野区
杉並区

大宮八幡宮
杉並区大宮2-3-1
大宮遺跡や善福寺川対岸の松ノ木遺跡との関係が伺える、古代からの神聖な場所に建立。都内には、11世紀の前九年・後三年合戦に参じた源頼義やその子・八幡太郎義家に因む神社が多いが、大宮八幡宮もそのひとつ。康平6年(1063)、頼義が前九年合戦から凱旋する途中に京都の石清水八幡宮から勧請したと伝わっている。
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豊島区
北区

王子稲荷神社
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醸造試験所跡地公園
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飛鳥山公園の鉄道車両展示
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<写真準備中>
荒川区
板橋区

小豆沢神社
板橋区小豆沢4-16-5
主祭神は国之常立神(くにのとこたちのかみ)で、他に16柱を祀る。東京都内の神社でよく見られる八幡太郎義家創建伝承神社である(11世紀の前九年合戦および後三年合戦に因む)。武蔵野台地の縁にあり、小豆沢貝塚の立地を考えるためにも参考になる立地。
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志村一里塚
板橋区志村1-12/板橋区小豆沢2-16
江戸幕府による一里塚の整備は、慶長9年(1604)から始まった。中山道の日本橋から数えて3つ目の一里塚で、23区内に残る一里塚としては、北区西ヶ原とここのみという貴重な遺跡。しかもここは西ヶ原の一里塚と違って、両サイド残っており、両サイド残っている一里塚は全国的に見ても少ない。
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縁切榎
板橋区本町18
旧中山道沿いにある。文久元年(1861)、皇女和宮が14代将軍家茂の元に輿入れする際には、縁起が悪いということでわざわざ迂回したことが古文書に残っている。現在は、悪縁を切り良縁を結ぶとして信仰されており、アル中の人は断酒もできるそうで、難病も治ると信じられている。
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練馬区

石神井城跡
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三宝寺
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道場寺
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石神井神社
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石神井氷川神社
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稲荷諏訪神社
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水神社
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厳島神社
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宇賀神社 穴弁天
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旧赤塚街道
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ふじ大山道
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谷原延命地蔵
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富士街道
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所沢道
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馬頭観音
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旧内田家住宅
池淵史跡公園にある。
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勝海周邸屋敷門
三宝寺に移築され通用門となっている。
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足立区
葛飾区

古録天神社/古録天遺跡/古録天東遺跡
古録天神社の東側には、古録天遺跡と古録天東遺跡が広がる。大島郷戸籍に記載されている嶋俣里の比定地。古墳時代後期から奈良・平安時代にかけての住居跡が見つかり、溝で区画された中世の屋敷跡と思われる建物群や井戸、中世の陶磁器などが見つかっている。
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葛西城跡/御殿山遺跡
15世紀中葉に関東管領・山内上杉氏が築城し、武蔵国守護代大石石見守が居城。
その後、大永4年(1524)に後北条氏が江戸城を落とし、葛西城も奪取した。天文7年(1538)の第一次国府台合戦の際には、後北条氏の最前線の城として運用され、後北条氏によって擁立された古河公方・足利義氏は、葛西城で元服式を執り行っている。
天正18年(1590)の豊臣政権による小田原攻めの際に戸田忠次らによって攻められ落城したが、江戸に入府した家康は、ここに青戸御殿を建て、家光の代まで使用した。
葛西城跡の下層では古墳時代前期の集落跡が見つかり、葛西城と区別して御殿山遺跡と呼ばれている
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柴又帝釈天/柴又帝釈天遺跡
柴又帝釈天は、正式な寺号を経栄山題経寺(きょうえいざんだいきょうじ)という日蓮宗寺院。寛永6年(1629)の創建。
柴又帝釈天を中心に柴又帝釈天遺跡が広がる。奈良・平安時代の建物跡のほか、中世末から近世初頭の大溝が見つかり、溝の中からは陶磁器や、かわらけが見つかっていることから武士の館があったかもしれない。
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江戸川区
未探訪