宮城県の遺跡・関連施設一覧

最終更新日:2025年6月30日

目次

 ※自治体ごとに示し、自治体の並び順は五十音順です。
 ※一覧の見方に関しては、こちらをご覧ください。

宮城県の古代の通史をこちらにまとめています。併せてご覧ください。

 

石巻市(いしのまきし)


沼津貝塚

20230715A

 

 


桃生城跡

ものうじょうあと

20230716A

 

 

 


石巻城跡

葛西氏は元々は東京都葛飾区周辺を本貫とする武士であったが、鎌倉時代に石巻を拠点にして、宮城県内に勢力を伸ばした。

都内の葛西氏はその後、歴史の陰に隠れてしまい、奥州葛西氏が葛西氏本流とみなされるようになった。宮城県内では北部の大崎市と並ぶ大きな勢力に成長したが、南側から進出してきた伊達氏に屈服。天正18年(1590)の豊臣政権による奥州仕置により支配者としての地位を失った。

20230716A

 

 

 

 


鹿嶋御子神社

20230716A

 

 

 

 

 


蛇田道公古墳

仁徳紀によると、上毛野公田道(かみつけのきみたじ)は、蝦夷征討に赴き戦死し、現地の塚に埋葬された。その墓を蝦夷が暴いたところ、田道は蛇の姿で現れ、その毒気で多数の蝦夷を殺害した。その伝承地である。

20230716A

 

田道の碑はレプリカ

 


禅昌寺

山号は桂林山。臨済宗妙心寺派。本尊は如意輪観世音菩薩。

20230716A

 


石巻市博物館

縄文土器を始めとした考古遺物の展示が豊富。中世葛西氏についての展示もある。

20230716A

 

 

 

 

岩沼市(いわぬまし)

39.5m
かめ塚古墳

岩沼市亀塚

🅿なし
🚻なし

田んぼの真ん中に残る可愛らしい前方後円墳。全長39.5mの墳丘は南西向きで、標柱の説明によると、段築はなく、葺石・埴輪は見つかっていない。

発掘調査がされていないため主
体部は不明で、説明板には5世紀の築造とあるが、『倭国の形成と東北』所収「不安定な古墳の変遷」(藤沢敦/著)に掲載されている編年表には、1期と2期にまたがった場所に置かれている。つまり、前期前半である。

築造時期は、遺物から判断することができないので確定するのは難しいが、段築がなく埴輪が見つかっていないのは前期的様相。真横からのフォルムは、前方部の墳頂がポコンと盛り上がっているのが不自然な感じで、それを除けば前期の古墳に見え、平面形も説明板によると柄鏡形を呈しているとのことなので、総合的に見ると前期古墳として判断される。

なお、かめ塚古墳の約3㎞南には阿武隈川が流れ、仙台平野のかめ塚古墳より南は、前方後円墳が希薄な地域。

20230716
20250622A

東北本線とかめ塚古墳

 

貨物列車とかめ塚古墳

 

 

 

東北本線(E721系)

 

 

 

大崎市(おおさきし)


座散乱木遺跡

ざざらぎいせき

🅿なし
🚻なし
説明板なし

20240915

 


北小松遺跡

🅿なし
🚻なし

20240915

 

 

 

90m
青塚古墳

南西向き、推定墳丘長90mを誇る本州最北端の大型前方後円墳だが、前方部は失われている。

築造時期は4世紀後半で、この時期の東北地方は大型古墳の造営が華やかだったころだ。同じ時期の古墳には、名取市の雷神山古墳や仙台市の遠見塚古墳がある。

20230716A

 

 


山畑横穴群

🅿ふるさと研修センター
🚻同上

26基の横穴墓からなり、6・10・15号墓からは、装飾壁画が発見された。ただし、気づいたときには破壊がかなり進んでいたので、もしかしたら装飾横穴はもっとあったかもしれない。現地に立ち入ることはできない。

壁画のレプリカは、ふるさと研修センター古墳資料展示室で見ることができる。

20230716A

 

 

ふるさと研修センター古墳資料展示室にて撮影

 

15号横穴の実物大レプリカ(ふるさと研修センター古墳資料展示室にて撮影)

 

ふるさと研修センター古墳資料展示室にて撮影

 

ふるさと研修センター古墳資料展示室にて撮影

 


ふるさと研修センター古墳資料展示室

大崎市三本木蟻ケ袋山畑9-27
9:00~16:00
月曜休館

通常は開いておらず、事前に連絡しておくか、当日いきなり訪れた場合は、入口脇のインターホンを押すと、近所にいる管理者に繋がり、数分で駆けつけてくれる。不在の場合もあるかもしれないので、事前に連絡してから行った方が良いだろう。

大崎市教育委員会文化財課
0229-23-2214

20230716A

 

 


新田柵跡

🅿なし
🚻なし
説明板なし

20240915

遺跡南西部から北東側を見る

 


八幡遺跡

🅿なし
🚻なし

20240915

 

 


名生館官衙遺跡

20180413

 

 

 


宮沢遺跡

20230716A

 

 


名生城跡

名生館官衙遺跡と位置が重なっている。名生館官衙遺跡は国史跡。

20180413

中世の土塁であろう

 

中世の空堀跡であろう

 

 


宮沢城跡

宮沢遺跡に向かって説明板が立っているため、宮沢遺跡が宮沢城跡に思えてしまうが、両者は別物で、宮沢城跡の中心はちょっと離れた場所にある。せっかく説明板を立てるのならもう少し親切にして欲しいと思うが、事情があるのだろう。

20230716A

宮沢遺跡から宮沢城跡方面を見る

 

 


小野小町の墓

20180413

 

 

 

【食事】中華菜房 路(ろう)

大崎市古川台町4-41

麻婆豆腐ラーメンは痺れる系の辛さで味も良くてヴォリュームもある。不思議と食べ進めるとさらに旨味が増す。また食べたい。

 
一見普通の麻婆豆腐だがこの下に麵がある

 

【ホテル】プラザホテル古川

大崎市古川駅前大通2-1-18
0229-24-7700

若干駅から歩くが、リーズナブルで普通のビジネスホテル。男性のみ大浴場がある。無料の朝食が種類も多くてとても美味しかったし、スタッフの方々に活気があって良かった。

 
 
無料朝食

 

 

 

大郷町(おおさとちょう)


阿弥陀堂遺跡

標柱にはお堂の説明があるが、遺跡としての詳細は不明

20180413

 

 

 

角田市(かくだし)


梁瀬浦遺跡

角田市岡梁瀬浦

🅿なし
🚻なし

縄文後期の竪穴住居跡や中期・晩期の土抗墓を検出。土偶や土製耳飾りが見つかり、とくに土錘が多量に見つかっており、阿武隈川流域における漁撈に力点を置いた集落であったと思われる。

説明板が立っている箇所が水田面より僅かに高い台地となっており、そこが遺跡の中心。

説明板に掲載されている出土遺物は、角田市郷土資料館に展示している。

20250620A

 

北側前面には水田が広がっている

 

 

梁瀬浦遺跡出土遺物(角田市郷土資料館にて撮影)

 


熱日高彦神社

あつひたかひこじんじゃ

角田市島田鳥内1

🅿あり

主祭神は、邇爾杵尊と日本武尊。縁起によるとヤマトタケルが東征の折、この地にニニギノミコトを祀ったという。

20250620A

 

 

 


角田市郷土資料館

角田市角田字町17
0224-62-2527
9:00~16:30
月曜休館

角田市指定文化財である旧氏丈邸を使用した資料館。建物自体が素敵で、暑い日に訪れたが2階は風通しが良くて気持ちが良かった。通りに面した側は元々店だった部屋で、その2階にはわずかな期間しか稼働しなかった丸森線に関する展示がある。また、敷地内にある2つの米蔵にそれぞれ考古資料と歴史資料を展示している。

考古展示室には市内の遺跡から出土した遺物を展示し、松崎古墳の箱式石棺は大型のもので、壁面内側には赤色で塗った跡が残っている。

歴史展示室には、伊達政宗が65歳の時に、24歳の娘・牟宇(むう)姫に充てた手紙があり、娘や孫を思う政宗の細やかな心配りが分かる。また、大正時代に宮城県内の尋常小学校に配られた政宗の塑像も展示している。

20250620A

 

考古資料の展示室

 

 

【蕎麦】となりの肉そば

角田市角田泉町73-1

暑かったので冷たいスープのものを選択した。蕎麦は歯ごたえがあり、なかなか独自性が高くて美味しかった。特盛は結構ヴォリュームがあり、普通盛でも人によってはちょっと多いかも知れない。

 
どっさりネギ&豚チャーシュー(特盛)

 

 

加美町(かみまち)


城生柵跡

じょうのさくあと

🅿なし
🚻なし

20240915

南側から見る

 

 

 

 

栗原市(くりはらし)


山王囲遺跡

20230716A

 

山王考古館にて撮影

 


山王考古館

20230716A

 

 


栗原市一迫埋蔵文化財センター 山王ろまん館

写真撮影NG

20230716A

 


伊治城跡

20180413
20230716A

 

 

 

照明寺にある説明板

 

 

 

塩竈市(塩釜市・しおがまし)


鹽竈神社

塩竈市一森山1-1
022-367-1611

陸奥国一宮。創建の年代を示す史料は無いが、「弘仁式」(弘仁21年<820>完成)には、祭祀料1万束の神社として登載されている。ところが、「延喜式」の場合は同じく祭祀料1万束の記載はあるが、「神名帳」には記載されていない。よって、延喜式内社には数えられない。ただ、1万束というのは破格であるので、朝廷から手厚く祀られた神社であったことは確かだ。延喜式内社でないとしたら、陸奥国総社であったと考える研究者もいるようだが、現状では、陸奥総社は多賀城跡の北東側にある。

場所的には陸奥国府(多賀城)の国府津(こうづ)を見下ろす位置にあり、多賀城の表玄関的な場所であるので、神亀元年(724)に多賀城が創建されたころに創建した神社である可能性が高い。なお、国府津は、神社南側の香津町という住所にその名残を見せている。

社殿の配置が面白く、階段を昇って唐門をくぐると、正面に社殿があり、そこには2柱の神が祭られている。すなわち、左宮に建甕槌神、右宮に経津主神である。ところが、それが主祭神かと思いきや、その右側に90度向きを変えて別宮が建てられていて、そこには塩土老翁神が祀られており、こちらが主祭神なのだ。別宮の「別」は、「特別」とか「別格」の意味での「別」である。

ただし、現在の祭神は元禄6年(1633)に4代藩主綱村が決定。神社創建時からどのような祭神を祀ってきたのかは判然としない。

現社殿は、宝永元年(1704)に造営されたもので、国指定重要文化財。

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20220701A
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東神門

 

唐門

 

左宮(向かって右)建甕槌神・右宮経津主神

 

別宮

 

 

 

 

 


志波彦神社

鹽竈神社と並び建つ。車で来た場合は、動線的に志波彦神社のほうから詣でることになるだろう。

宮城郡四座のひとつ(延喜式内社)。祭神は志波彦大神。現在は鹽竈神社の境内に建つが、元々は、現在の仙台市宮城野区岩切の冠川(七北田川<ななきたがわ>)の畔にある花立山に鎮座して仙台平野を睥睨しており、近世には鹽竈神社の末社となっていた。

それが、明治4年に社格制度ができた際に国幣中社となり、鹽竈神社は末社の社格向上を受け、明治7年に鹽竈神社の別宮にいったん合祀されたことにより、鹽竈神社も国幣中社に上がった。

その2年後から現在見られる社殿の造営が国費によって始まり、昭和13年に完成しそこに遷った。

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御釜神社

塩竈市本町6-1

祭神は鹽土老翁神。鹽竈神社の境外末社。毎年7月4日から6日に特殊神事「藻塩焼神事」(宮城県無形民俗文化財)が行われる。その際に焼きあがった塩は、7月10日の鹽竈神社例祭にも供えられる。

7月5日の水替神事が行われる四口の神釜が置かれている建物の扉は閉じているが、初穂料を納めると拝観できる。ただし、写真撮影NG。

20250621A

 

四口の神釜(背後には鹽土老翁神が祀られている)

 

7月6日にはこの釜で藻塩焼神事が行われる

 

 

 


鹽竈神社博物館

塩竈市一森山1-1
電話番号: 022-367-1611
8:30~16:00(季節により変動)
基本無休だが臨時休館有り

神社に関する展示がメイン。刀剣の展示も豊富。とくにお勧めは2階で見ることができる藻塩焼神事のヴィデオ。

以前は屋上に登って景色を眺めることができたが、2025年6月現在、立入禁止。

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20250621A

 

屋上から東側(海側)の眺望

 

屋上から西側の眺望

 

【ランチ】塩竈市魚市場(塩釜海の駅)

塩竈市新浜町1-13-1

美味しい海鮮が食べられる。水産加工品のお土産もお買い得なものが揃っている。

 
特にマグロが俊逸で貝が多いのも良かった

 

 

色麻町(しかまちょう)

54m
念南寺古墳

ねやじこふん

東向きの前方後円墳。後円部は2段築成で前方部は段築なしか。主体部は竪穴式石槨の可能性があり、家形石棺が安置されていた。

Ⅳ~Ⅴ式の円筒埴輪が見つかり、色麻町農業伝習館 資料展示室に展示している。

築造時期は5世紀後半と考えられ、名取市の名取大塚山古墳(90m)や岩手県奥州市の角塚古墳と同時期であろう。

なお、駐車場はあるのだが、そこに行くまでの道は軽自動車でも困難なので手前で停めて歩いて向かうのが無難。

🅿あり(ただし到達困難)
🚻なし

20240915

前方部から後円部を見る

 

 


日の出山瓦窯跡

ひのでやまかわらかまあと

出土した瓦は色麻町農業伝習館 資料展示室に展示している。

🅿あり
🚻なし

20240915

 

 


色麻町農業伝習館 資料展示室

展示室内は写真撮影NG。

20240915

 

ホール

 

 

 

七ヶ浜町(しちがはままち)


大木囲貝塚

七ヶ浜町東宮

南東北を中心に分布する縄文時代前期から中期の大木式土器の標式遺跡。大木式土器は、三内丸山遺跡で有名な円筒土器文化を滅亡へと追い込み、関東では加曽利E式土器の出現に大きな影響を与えている。

20210918A
20220701A
20250621A

 

 

 


七ヶ浜町歴史資料館

七ヶ浜町境山2-1-12
022-365-5567
9:00 ~16:00
月曜休館

さすが大木式土器の本場だけあって、土器のラインナップが凄い。大木式土器を知るには必ず訪れるべき施設。縄文土器以外も石器や土偶、装飾品、釣針や銛などの骨角器なども展示しており、松島湾の縄文文化を知ることができる。

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【ランチ・お土産】うみの駅 七のや

七ヶ浜町花渕浜舘下75-41

七ヶ浜町歴史資料館の近くで食事をするなら「七のや」がお勧め。隣には町の観光案内所もある。

 
丼や麺類などの種類が豊富だが、海鮮丼はとくにお勧め

 

柴田町(しばたまち)


しばたの郷土館

柴田町船岡西1-6-26
0224-55-0707
9:00~17:00
月曜休館

しばたの郷土館は、敷地内にいくつか建物が建っており、それらの建物群の中に資料展示館「思源閣」というのがあって、そこが郷土資料館になっている。

柴田町内の遺跡から出土した縄文時代以降の考古遺物を展示。

常設展示室に入ると、この部屋の大きさに似つかわしくない政宗がお出迎えしてくれるが、これは何と、現在仙台城に建っている銅像の鋳型なのだ。

昭和10年に現・柴田町出身の小室達が制作し、仙台城に設置したが、戦時中に供出されてしまった。それを昭和39年になって、残っていたこの石膏鋳型を元にして今の銅像を鋳造したのだ(このとき小室氏はもう亡くなっていた)。

胸から上の部分と馬の頭が展示されているが、これは平成時代に解体されてしまったからである。

20250622A

 

 

 

 

白石市(しろいしし)

56m
瓶ケ盛古墳(鷹巣12号墳)

かめがさここふん

白石市鷹巣

鷹巣古墳群は、5世紀後半から7世紀頃までに約50基ほどが造営され、現在残るのは20基ほど。群内最大の古墳は、5世紀後半に築造された墳丘長56mの帆立貝式古墳である瓶ケ盛古墳(12号墳)。2段築成で埴輪が見つかっている。発掘調査がされていないため、主体部は不明。

20250620A

 

 


鷹巣17号墳

白石市鷹巣

20250620A

 

11m
鷹巣15号墳

白石市鷹巣

20250620A

 

10m
鷹巣16号墳

白石市鷹巣

20250620A

 

11m
19号墳横穴式石室移築

白石市鷹巣

20250620A

 

 

22m
山の神古墳(18号墳)石棺移築

白石市鷹巣

20250620A

 

 


郡山横穴古墳群

白石市郡山合体沢19

70基以上の横穴が確認されている白石地方最大の横穴墓群。築造時期は7世紀頃と考えられている。東北各地の横穴墓と同様に「蝦えぞあな夷穴」と呼ばれ、それが昔の人の知識を物語っている。

20250620A

 

 

 

 

仙台市青葉区(せんだいしあおばく)


仙台城跡

20050809
20230715A

 

 

 

 


伊達政宗像

20050809
20230715A

 

 

 

仙台市太白区(せんだいしたいはくく)


地底の森ミュージアム(富沢遺跡)

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20220630A

 

 

 

 


山田上ノ台遺跡

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20220630A

 


仙台縄文の森広場

20210918A
20220630A

 

 


郡山遺跡

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20180421C
20180616C
20190427C
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20220630A

 

 


郡山中学校ピロティ

20160512
20180421C
20180616C
20190427C
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北目城跡

20160512

 

 

 

 

仙台市若林区(せんだいしわかばやしく)

110m
遠見塚古墳

仙台市若林区遠見塚1丁目

4世紀後半に築造された墳丘長110mの南向きの前方後円墳。宮城県では2番目、東北地方では5番目の大きさを誇る。葺石・埴輪ともに認められず、周溝を掘った土で墳丘を構築している。段築は、前方部が1段、後円部が2段。主体部は墳丘の主軸に合わせた復元長8mの粘土槨が東西に2つ並び、割竹形木棺を使用していたと考えられる。

前方部墳端が道路建設で削られているが、全体プランはおおよそ分かる。雷神山古墳と築造時期が近いが、前後関係について確実なことはいえない。

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55m
法領塚古墳

7世紀前半に造られた径55mの円墳。この大きさは、円墳としては宮城県内では、雷神山古墳の隣にある小塚古墳と並んで最大級である。ただし、現在は墳丘はかなり削られてしまっている。

古墳はウルスラ学院の構内にあるため、平日であれば事前の予約で見学することができ、かつ、横穴式石室の扉の鍵も貸してくれる。

横穴式石室も東北地方最大級で、現在残っているのは玄室のみだが、元々は10m以上はあったはず。

法領塚古墳の周辺も6世紀の頃は人口が希薄になるが、7世紀になって再び活性化してきて、このような大型の古墳を築造するだけの有力者が出現した。

その時代は全国的には国造の時代だが、先代旧事本紀を読む限りでは、断定はできないものの、仙台に国造がいたようには見えない。おそらく、国造の配置の北限は阿武隈川下流域である。つまりは、国造の範囲外に、国造級の墓が造られたことがとても面白いのだ。

ただし、その後の歴史を見ても分かる通り、東北地方の行政は他地域と違って特殊なことが多いため、国造ではない何か違う地方首長が蘇我氏によって任じられていた可能性もある。

6世紀末から7世紀中葉にかけて、のちに初代陸奥国府ができる郡山遺跡に集落跡が形成され、その集落を作った人々は千葉県の印旛沼周辺からやってきたと思われ、印波国造などが仙台の開発に活躍した可能性があり、これと同様に関東か南東北からやってきた人びとの中でこの地で権力を得た者があったのだろう。

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陸奥国分寺跡

20160512
20210919A
20220701A

 

 


史跡陸奥国分寺・尼寺跡ガイダンス施設

20210919A
20220701A

 

 


陸奥国分尼寺跡

20160512
20220701A

 

 


若林城跡

20160512

 

 


少林山 保春院

20160512

 

 

 

 

多賀城市(たがじょうし)


桝形囲貝塚

🅿なし
🚻なし

標柱に書いてある通り、大正8年に籾の圧痕が付いた土器が見つかったが、当時は、東北地方には弥生時代はないと考えられていたため、大正14年には山内清男が「石器時代にも稲あり」という論文を発表した。ここでいう石器時代というのは、縄文時代のことである。その後、山内はその土器を弥生土器と訂正した。このように、南東北にも弥生時代があったことを証明し、その後の東北の弥生研究の出発点にもなったといえる記念すべき遺跡であるが、現地には標柱以外何もない。

20250621A

 

 


大代横穴墓群

20250621A

 

 

出土した金銅装頭椎大刀(多賀城史遊館にて撮影)

 

出土した金銅装頭椎大刀(多賀城史遊館にて撮影)

 


多賀城跡

多賀城市市川

神亀元年(724)に大野東人(おおののあずまびと)によって創建され、陸奥国府が郡山遺跡より移転。律令国家の東北における支配拠点で、「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれた。

約900m四方に及ぶ自然の地形を生かした平面プランで、中央に政庁域があり、そこから南に延びる道の延長上にあった外郭の南門が復元され、2025年春にグランドオープンした。外郭の門はそれ以外に西門と東門があり、東門には遺構展示がある。

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全体図(ここに書かれているスポットを全て歩いて巡るには3時間必要)

 

復元された南門

 

 

南門から東方向に延びる築地塀跡

 

南門から政庁跡を見る

 

政庁跡から南門を見る

 

政庁正殿跡

 

 

 


多賀城碑

多賀城市市川字田屋場

多胡碑、那須国造碑と並ぶ「日本三古碑」のひとつ。多賀城跡内の覆屋の中に保管されている。

花崗岩質砂岩で造られ、高さは248cm(地上部196cm)、最大幅は103cm、最大厚は72cm。西に向かって立てられている。

碑面には、中央上部の「西」という文字を含め、141字の文字が彫り込まれており、それが非常に重要な文字史料で、藤原朝獦(あさかり=仲麻呂の四男)が天平宝字6年(762)に多賀城を修復したときに建立したことが分かるす。ちなみに、この時の朝獦の肩書は、「参議東海東山節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守府将軍藤原惠美朝臣朝獦」。

多賀城の造営時期に関しては不思議なことに続日本紀に記載がないが、多賀城碑に神亀元年(724)と記されているため判明した。

なお、朝獦は多賀城碑建立の2年後、父・仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)に巻き込まれ命を落とした。朝獦絶頂期の資料としても貴重。

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館前遺跡

多賀城と多賀城廃寺の中間に位置し、多賀城南東隅から約200mの位置にある。9世紀前半に稼働していた6棟の建物跡が検出され、その中の中心的な建物は四面庇付建物という多賀城政庁殿と同等の最上級の建物であり、国司の館跡と考えられている。

説明板が立っているのみで、とくに何もない。

なお、こことは別に国守館(くにのかみたち)と呼ばれている遺跡があり、そちらは出土遺物から陸奥守の館であったことが確実視されている。

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東北本線の国府多賀城駅が見える

 

 

 

多賀城市埋蔵文化財調査センターにて撮影

 


多賀城廃寺跡

多賀城市高崎3-13-3

国府である多賀城に付随する寺院の跡。律令時代は、役場に附属した寺を建立するケースが多く、例えば郡衙の近くには郡寺を建立したりした。現地には基壇や礎石が整備され、往時の伽藍配置が分かるようになっている。

塔跡の塔心礎や礎石に関しては、往時の物である。

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中門跡とその向こうの右手に塔跡・左手に金堂跡

 

 

多賀城廃寺跡の復元ジオラマ(東北歴史博物館にて撮影)

 


荒脛巾神社

多賀城市市川伊保石44

🅿なし
🚻なし

謎の神・アラハバキ。トンデモ系の歴史マニアやオカルト系の人が好きな神様。日本の朝廷が東北を支配するより前に現地の人たちが信奉していた神と考える人もおり、なかには、遮光器土偶をその御神体とする話を作った人もいる。

アラハバキを祀る神社は、関東・東北に散見でき、とくに東北に多いが、当社は鹽竈神社の末社で、脛巾とは、旅行くときに脛に巻く布のことであるので、その字面から下半身の病気に霊験があるといわれ、旅の安全を護る神でもある。ただし、古い神であれば、漢字は当て字であるので、音に意味があるはずだ。

創建年代は不詳だが、位置的には、多賀城を神の力で護る意図があったと考えられ、江戸期には伊達家からも大事にされた。

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陸奥総社

多賀城市市川字奏社1

🅿あり
🚻あり

広大な陸奥国には式内社が100社あり、その神々を祀る神社。創建年代は不明で、元々の場所もここではなかったかも知れない。鹽竈神社が陸奥の総社だったという説もある。入口両脇にある式内社一覧の看板は圧巻。キミはいくつ詣でたことがあるかな?

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多賀神社

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貴船神社

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多賀神社

20160513

 

 


多賀城神社

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20250621

 

 

 


伏石

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東北歴史博物館

多賀城市高崎1-22-1
022-368-0106
9:30~17:00(16:30)
月曜休館

東北地方全体の歴史について幅広く展示・解説している博物館。旧石器時代以降の古代に関する展示も豊富だが、平泉以降の中世・近世などの展示も充実。

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20180616C
20190427C
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20220701A
20240915
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多賀城市埋蔵文化財調査センター

多賀城市中央2-27-1
022-368-0134
9:00~16:30
月曜休館

多賀城を始めとした多賀城市内の奈良・平安時代の解説に特化しており、多賀城跡から出土した遺物を展示。全国で初めての発見となる国守の館についての展示もあり、館前遺跡についてはジオラマとともに説明している。

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20250621A

 

 


多賀城史遊館

多賀城市中央2-25-5
022-368-3127
9:00~16:30
月曜休館

多賀城市内の縄文時代から飛鳥時代にかけての遺跡から出土した考古遺物を展示している。多賀城跡には、縄文時代の金堀貝塚があり、そこから出土した土器や石器、骨角器などを展示。また山王遺跡では、弥生人の足跡がみつかっているほか古墳時代の遺物も多数出土し、続縄文土器も見つかっている。

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20250621A

 

 

 

【ラーメン】長町ラーメン 多賀城店

多賀城市留ケ谷1-44-3

シンプルで美味しい醤油ラーメンが食べられるぞ。

 

 

富谷市(とみやし)


鳥屋又館跡

20240915

 

 


富谷市民俗ギャラリー

20240915

 

 

 

 

名取市(なとりし)


飯野坂古墳群

宮城県名取市名取が丘

🅿あり
🚻なし

飯野坂古墳群は、現存する古墳としては、4世紀代に築造された5基の前方後方墳と築造時期が不明の2基の方墳からなる。全国的に見ても前方後方墳が継起的に築造された場所はほとんどなく、非常に珍しい古墳構成である。前方後方墳の築造順は、観音塚古墳、宮山古墳、薬師堂古墳、山居古墳、山居北古墳。

2024年に駐車場が完成した。そこを拠点として全体を歩いて巡ると大体1時間くらいであるが、古墳群は丘陵の尾根部分にあって、都合よく道路が通じているわけでもないため、意外と行き来に時間が掛かり、アップダウンもある。途中、自販機も見当たらないので、夏場は歩いて巡るのはやめた方が良いかもしれない。なお、駐車場にも他の場所にもトイレはない。

全体の説明だが、駐車場ではなく宮山古墳の前(後方部付近の道路端)にある

 

駐車場にある説明板を撮影

 

65m
観音塚古墳

飯野坂古墳群

古墳の形状は、土が流れてしまって、くびれ部分のエッヂは不明瞭。

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左側が後方部で右奥が前方部

 

 

60m
宮山古墳

飯野坂古墳群

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駐車場にある

 

65m
薬師堂古墳

飯野坂古墳群

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前方部から後方部を見る

 

後方部から前方部を見る

 

 

60m
山居古墳

さんきょこふん
飯野坂古墳群

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後方部墳頂からの眺望

 

 

40m
山居北古墳

飯野坂古墳群

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14.4m
観音塚北1号墳

飯野坂古墳群

段築、葺石はない。埴輪などの遺物も確認されていないため、築造時期は不明。

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14.2m
観音塚北2号墳

飯野坂古墳群

観音塚北1号墳同様、段築、葺石はない。埴輪などの遺物も確認されていないため、築造時期は不明。

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168m
雷神山古墳

名取市植松山1

4世紀後半に築造された墳丘長168mの南西向きの前方後円墳で、東北地方最大を誇る。高さは後円部12m、前方部6m、3段築成ですべての法面に葺石が認められる。1段目は地山を削って成形し、2・3段目は盛土で構築している。

後円部径と前方部幅が同じで、このデザインは渋谷向山古墳(景行天皇陵)と同じで非常にヤマトティック。前期ヤマト王権の影響力が宮城県域にまで及んでいたことを如実に表している。

4世紀には、雷神山古墳のすぐ西側に飯野坂古墳群の前方後方墳が継起的に築造された。

南東北の古墳文化はそれ以前の弥生文化を継承しておらず、土器を見ると、弥生時代の末期頃、太平洋側は南関東から、日本海側は北陸から多くの移住者があったことが分かる。古墳時代初頭の関東地方には濃尾の人びとが大量に移住してきているが、彼らも東北へ進出している。

仙台平野には、南から移住してきた古墳文化人と、北からやってきたアイヌ語を操る続縄文人(江別文化人)が混在していた。続縄文人の目には、自分たちの集落の近くに築造された大型古墳はどのように映ったのだろうか。王権にとっては、古墳はその権力をアピールする装置として機能した。

4世紀後半にヤマト王権が東北南部に積極的にアプローチしたのは、南下してきた続縄文人との交易が最大の目的ではなかっただろうか。反対に続縄文人も交易によってメリットを享受できたはずだが、近世の日本人のアイヌへのやり方を見るとヤマトの人間の行いが想像できる。宮城県北部では、4~5世紀の住居跡が多数検出されており、大型古墳を築造するための経済的・労働力的基盤があったことが分かる。

東北太平洋側での前方後円墳の築造は、4世紀のうちには宮城県北部まで及ぶが、5世紀前半は宮城県域のみにらず、東北地方全体で古墳の造営が極端になくなる。

そして、5世紀後半になると再び活発化し、ここ名取市には名取大塚山古墳が築造され、岩手県奥州市には角塚古墳が築造されて前方後円墳の分布域が北上する。

仙台平野では6世紀中葉以降、再び古墳の造営が停滞し、終末期になると仙台市・法領塚古墳の誕生を見る。

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後円部

 

 

東側周堤

 

前方部墳端側周堤には一見すると方墳に見える土盛がある

 

 

前方部墳端は段築上に墓地があるのが分かる

 

前方部裾から南西側の眺望(下はゴルフ練習場)

 

前方部側西側コーナー

 

墳丘は大きすぎて全部が写真に収まらない

 

前方部1段目から後円部を見る

 

前方部から東側の周堤とその先の仙台平野を見る(コンディション次第で海も見える)

 

飯野坂古墳群の宮山古墳の位置

 

後円部墳頂(左が雷神様)

 

後円部墳頂から前方部を見る

 

雷神山古墳出土遺物(名取市歴史民俗資料館にて撮影)

 

雷神山古墳と小塚古墳のジオラマ(名取市歴史民俗資料館にて撮影)

 

54m
小塚古墳

雷神山古墳に隣接する。径54m、
高さ6mの東北最大級の円墳で。葺石・埴輪はない。築造時期は、雷神山古墳と同じ頃の4世紀後半と考えられている。

東北地方全体で4世紀後半と5世紀後半に50m級の大型円墳が築造されており、例外的に、東北最大の円墳である仙台市の法領塚古墳(55m)は終末期の築造。

古塚古墳と同じ頃に築造された円墳としては、県内では加美町の夷森古墳(46.7m)、美里町の程塚古墳(50m・ただし前方後円墳説あり)があり、県外を見ると山形市の大塚天神古墳(51m)がある。

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雷神山古墳の後円部墳頂から見る

 

雷神山古墳の後円部から見る

 

館跡との伝えもあり北側は郭として造成されたようにも見える

 

 


賽ノ窪古墳群

約30基からなる古墳群。5世紀中頃から後半に築造されたその時期としては東北地方最大級の前方後円墳である名取大塚山古墳(90m)を中核とした埴輪を伴う円墳群と、6世紀初頭に築造された小型の前方後円墳である十石上古墳(32m)を中核とした箱式石棺を持つ小円墳群とにグルーピングできると考えられている(ただし、例外的に27号墳のみ7世紀中頃)。

名取市歴史民俗資料館にて撮影

 

90m
名取大塚山古墳

賽ノ窪1号墳

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左・名取大塚山古墳出土、右・上糸田遺跡出土(名取市歴史民俗資料館にて撮影)

 

18m
賽ノ窪5号墳

20210919A

 

 


名取市歴史民俗資料館

名取市増田1-7-37
022-724-7935
9:00~17:00
月曜休館

考古展示室があり、雷神山古墳や飯野坂古墳群などの市内の古墳について解説している。旧石器時代や縄文時代の遺物も展示。

20250622A

 

 

 

【食事・ショップ】たまご舎 名取愛島本店

名取市愛島笠島上平88-3
022-381-0095

たまごを使ったお菓子などを売っているが食事もできる。

 
さすが、オムライスの玉子は最高

 

 

東松島市


里浜貝塚

20230715A

 

 

 

 


矢本横穴

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赤井官衙遺跡群

牡鹿柵跡

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奥松島縄文村歴史資料館

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【ランチ】大高森観光ホテル

奥松島縄文村歴史資料館から車ならすぐの場所です。素晴らしいクオリティでリーズナブル。宿の方はとても感じが良く、宿泊にも利用したいと思いました。

東松島市宮戸川原3
0225-88-2121

 
イシモチの唐揚げと刺身定食
夏はウニ定食もあるし単品でも出してもらえる

 

 

松島町


西の浜貝塚

20230715A

 

 

 

 

丸森町


台町古墳群

丸森町台町

🅿あり
🚻なし

台町地区から片山・平・二本木地区にかけての広範囲の丘陵上に造営。後期に築造された墳丘長33mの前方後円墳である20号墳と、中期後半から終末期初頭にかけて築造された径5~25mの円墳174基が築造されている(説明によっては200基以上とされる)。20号墳の主体部は竪穴式石槨で、内行花文鏡や六鈴式六獣鏡、銅釧、鉄釧などが出土。103号墳からは県内唯一の完全な人物埴輪である「壷をささげる女性」埴輪が出土(東北歴史博物館と、まるもりふるさと館にてレプリカを展示)。

 

台町103号墳出土女性埴輪のレプリカ(原品は個人所蔵=東北歴史博物館にて撮影)

 

33m
台町20号墳

170基以上ないし200基以上とも言われる台町古墳群で唯一の前方後円墳のようだ。

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主体部の石材と思われる

 

主体部の石材と思われる

 


台町1号墳

詳細は分からないが、他の円墳よりも大きい。20号墳から阿武隈川の展望台に行く途中にある。

20250620A

 


台町19号墳

こちらも詳細は分からないが、他の円墳よりも大きい。20号墳の隣にある。

20250620A

 

20号墳の後円部墳頂から見る

 


伊達政宗初陣の地

20250620A

 

まるもりふるさと館にて撮影

 

伊達政宗塑像(まるもりふるさと館にて撮影)

 


まるもりふるさと館

丸森町鳥屋83-1
0224-72-2631
10:00~16:00
月曜休館

町内の遺跡から出土した考古遺物を解説を交え紹介している。台町古墳群出土の円筒埴輪や勾玉・釧なども展示。また、阿武隈急行線よりも前にあった丸森線の関連資料も展示している。

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美里町


新山前貝塚

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66m
京銭塚古墳

説明板には中期の古墳とあるが、前方後方墳ということで前期の築造だろう(東北地方の古墳は遅れているという昔の考え方の名残かも知れない)。

20180413

 

 

50m
保土塚古墳

現状から判断すると50mの円墳だが、前方後円墳であったとも考えられている。

20180413

 

 

 


山前遺跡

20180413

 

 

 


山神社

やまのかみしゃ

20180413

 

 


C11367

20180413

 

 

 

村田町

85m
千塚山古墳

村田町沼辺字千塚

村田盆地最古級の前方後円墳。墳丘長は85mで南向き。葺石は確認されていない。

阿武隈川流域で最古級の前方後円墳とされ、説明板には「古墳時代前期頃」と記載されているが、藤沢敦氏の編年表では、1期と2期にまたがって置かれている。おそらく4世紀初頭のイメージだろう。

また、説明板では、前方部墳端が撥形に開く、という前期前半の古墳の特徴を述べており、その例として京都府木津川市の椿井大塚山古墳を挙げている。椿井大塚山古墳は、前期前半でも3世紀後半の築造で、もしかすると、千塚山古墳も3世紀後半まで遡るかもしれない。

「撥形に開く」という表現が出てきても必ずしもそうでないこともあるため注意が必要だが、村田町歴史みらい館に掲示してある墳丘の復元ラインを見ると、元々の形は撥形だったように見える。

発掘調査が行われていないようなので、正確な築造時期に関しては何とも言えないが、測量図を見た感じでは私も前期古墳だと考える。阿武隈川流域のみならず、宮城県全体で見ても最古の前方後円墳と評価して良いだろう。千塚山古墳の存在は、仙台平野や大崎平野の勢力よりも早く、阿武隈川流域勢力がヤマト王権と親しくなったことの証左である。

なお、源頼朝の平泉侵攻の際、奥州藤原勢はこの古墳に陣を張って頼朝勢を迎え撃ったと伝わる。

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この森の中に前方部があり左手の画面外に後円部がある(墳丘には入れず)

 

 

村田町歴史みらい館にて撮影

 

90m
愛宕山古墳

村田町関場字愛宕山

村田盆地西側の丘陵最頂部、盆地を一望できる場所に築造。村田盆地を代表する前方後円墳で前期の築造。2段築成で東向きの墳丘の長さは90mを誇り、宮城県で3番目の大きさ。葺石が施されている。

築造時期は、4世紀後半で、注目されることとして埴輪が見つかっており、4世紀後半の埴輪は、宮城県域では最古級。

主体部の発掘調査はされていないが、レーダー探査で竪穴式石室らしきものが確認されたということだ。ただし、前期の東北の古墳では竪穴式石室が造られることは無いはずなので、石の反応があったとしたらた礫槨ではないだろうか。

後円部墳頂には、古墳の名前の由来になった愛宕山神社の碑と山津見神社の碑が立っており、その後ろには朽ち果てた古墳の標柱が横たわっている。

なお、墳丘長は90mは、既述した通り宮城県内では3位であるが、それはタイであって、名取市の名取大塚山古墳と大崎市の青塚古墳が90mである。ちなみに、宮城県1位は名取市の雷神山古墳(168m)で、2位は仙台市の遠見塚古墳(110m)。宮城県の古墳大きさランキングに関しては、こちらのページに記載してある。

都府県別・古墳大きさランキング – 歴史を旅しよう ~AI World~

愛宕山古墳へは、龍泉院横穴古墳群から3分ほど登ると、神明社の社殿が現れ、社殿に向かって左側の道を1分ほど歩くと愛宕山古墳の前方部側にたどり着く。

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前方部墳丘裾から後円部方向を見る

 

後円部墳頂

 

後円部墳頂から前方部を見る

 

 

35m
薬師堂古墳

村田町関場字愛宕山

愛宕山古墳の北西側に隣接して築造。愛宕山古墳より少し新しいと推測されている。

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龍泉院横穴古墳群

村田町関場字愛宕山

愛宕山古墳・薬師堂古墳の現地説明板の図に記された「愛宕山古墳登口」から2分ほど登ると、階段の右手に存在する。

パッと見で2つの横穴墓があるが、説明板によると6基確認されている。

1号横穴は、壁から天井にかけてはまん円く丁寧に造られており、玄室内の大きさは、縦3m×横2.5m。

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1号横穴

 

1号横穴

 

1号横穴

 

2号横穴は入れない

 

 


村田町歴史みらい館

村田町村田字迫85
9:00~17:00
0224-83-6822
月曜休館

常設展示室に「石と土のささやき」コーナーを設け、町内の遺跡から出土した石器や土器などを展示している。

20250622A

 

 

 

山元町


合戦原古墳群

山元町高瀬合戦原

宮城病院の北側にある。墳丘長28mの前方後円墳である5号墳のほかに7基の円墳がある。うち、1~4号墳が古墳公園として整備され、2017年4月にオープンした。5号墳は林の中にある。

訪れた時期が悪かったせいか、古墳公園は園路さえも草ぼうぼうで、ましてや古墳は絶望的な状況だった。おそらく、保守をする人員が足りていないのだろう。そういう現地の厳しい状況を想像すると、草ぼうぼうでも文句は言えないと思った。

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海の方向の眺望(画面左側に太平洋が見える)

 

遠くの森が「せんこくん」が見つかった横穴墓群があった場所

 

 


合戦原遺跡

山元町高瀬合戦原

古墳時代から平安時代にかけての複合遺跡で宮城病院とのその周辺の丘陵地帯に展開する。横穴墓が54基見つかり、38号墓からは貴重な線刻壁画が見つかった。ただし、壁面が脆弱だったため現地保存は困難と判断し、剥ぎ取りを実施し、山元町歴史民俗資料館に展示している。

20250620A

 

滅亡状態の説明板(画像処理で少しは文字が読めるようにした)

 

山元町歴史民俗資料館

 


山元町歴史民俗資料館

山元町浅生原字日向13-5
0223-37-0040
9:00~16:30(16:00)
月曜休館

山元町の歴史と民俗を紹介した資料館。目玉となる展示は、合戦原遺跡38号横穴墓奥壁の線刻壁画の実物展示。可愛い人物画が線刻されており、資料館のマスコットキャラクター「せんこくん」の元になった。合戦原遺跡横穴墓の出土遺物の展示もある。縄文時代の遺物としては、北経塚遺跡出土の前期土器と石器、西石山原遺跡出土の中期土器、谷原遺跡出土の後期土器、中筋遺跡出土の晩期土器などがあり、中筋遺跡出土の弥生時代や古墳時代の遺物も展示している。

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涌谷町


黄金山産金遺跡

こがねやまさんきんいせき

🅿天平ろまん館
🚻同上

20230716A

 

 

 

 


黄金山神社

こがねやまじんじゃ

🅿天平ろまん館
🚻同上

20230716A

ゴールドの鳥居

 

 

 


わくや万葉の里 天平ろまん館

涌谷町涌谷黄金山1-3
0229-43-2100
9:30~17:00(11~3月は16:30)

20230716A

 

 

【食事・お土産】わくや万葉の里 天平ろまん館 レストラン

天平ろまん館にあるレストラン

親子丼とミニはっと汁のセット。ここのはっと汁はかなり美味い。

 

亘理町


三十三間堂官衙遺跡

亘理町逢隈下郡

古くから礎石が整然と並んでいることが知られており、古代寺院跡と考えられていたが、昭和61 ~63年の発掘調査により、陸奥国亘理郡衙跡であることが分かった。

郡衙は主に役人が政務をとる政庁域と、税を納めておく正倉域に分かれるが、その両者の位置(遺構)がはっきり分かっている貴重な遺跡。

20160512
20250622A

 

 

 

正倉院

 

正倉院

 

 

出土遺物とジオラマ(亘理町立郷土資料館にて撮影)

 


亘理町立郷土資料館

亘理町西郷140
0223-34-8701
9:00~16:30(16:00)
月曜・最終金曜・祝休館

三十三間堂官衙遺跡などの亘理町内の遺跡から出土した考古遺物を展示。伊達政宗の従兄弟・成実から始まる亘理伊達氏についても解説している。

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5階ベランダからの眺望

 

 

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