宮城県の古代史

最終更新日:2025年7月5日

 

第0章 旧石器時代と縄文時代

 ※宮城県の旧石器時代や縄文時代に関しては、本サイト内の「旧石器時代」のページ以降をお読みください。なお、当該ページは話題が列島各地に及んでいるため、宮城県だけについて知りたいときは冗長すぎますが、その点はご了承ください。

 

第1章 弥生時代

 未作成。

 

 

第2章 古墳時代前期

 古墳時代の始まりの頃、北関東の栃木・茨城県域、南奥の福島県浜通り・中通り、そして仙台平野において、南関東、とくに東京湾東岸地域(千葉県)のものによく似た土器と竪穴住居からなる集落群が出現する。この時代は汎列島的に人の移動が激しい時代だったが、本稿で話題とする仙台平野にも南関東からの人の移住があったことが分かる。

 そういった前提のもと、宮城県内でも古墳の築造が始まるが、県内には弥生墳丘墓はなく、出現期の古墳も見つかっていない(下の編年図を見ると、飯野坂古墳群の観音塚古墳が出現期古墳に見えてしまうが果たしてどうか)。関東・東北の他の多くの地域と同じく、それまでの弥生文化とは繋がらず、突如として古墳の造営が始まったように見える。

 宮城県の古墳編年図を示す。

『倭国の形成と東北』(藤沢敦/編)所収藤沢敦氏作成編年図

 

 上図、「亘理」より上が宮城県域の古墳である。

 

 


飯野坂古墳群|名取市

 上掲した宮城県の古墳編年図(藤沢編年)で前期古墳を見ると、まず目につくのは、前方後方墳が5基も継起的に築かれている飯野坂古墳群であろう。現在残っている古墳は、5基の前方後方墳と2基の方墳である(ただし、2基の方墳の築造時期は不明)。

現地説明板を撮影

 5基の前方後方墳の築造時期に関しては、現地説明板や名取市歴史民俗資料館の展示パネルでは、4世紀代に5基が連続して築造されたとするが、藤沢編年では、3世紀後半から築造を開始したとし、攻めている感じがする。名取市歴史民俗資料館には飯野坂古墳群の出土遺物はほぼ展示されておらず、私はそれ以外に遺物を実見したことが無いので、墳丘デザインだけでは築造時期を断定できない。

 列島各地の前方後方墳の築造時期を見ると、3世紀後半から飯野坂古墳群の築造が始まってもおかしくないが、5基の前方後方墳が順番に築造されたという考えは、一般的な首長墓系列の考え方に沿っていると思われ、一代の王に一基の古墳を前提とし、それが5代続いたとの仮定だろう。

 果たして、そんなに都合よく5代も王位が継承できるかどうか。ただし、代々の王たちの血縁関係に関しては、藤沢氏も親子と明記しているわけではない。一般的には、4世紀の頃はまだ血縁関係によって王位を継承しなければならないという決まりごとは無かったとされ、父子などの血縁関係による相続が確立されるのは6世紀半ばの欽明天皇からとされる。

 古墳研究者は、首長墓系列にこだわる傾向があり、私もそういう考えを全面的には否定しない。もし、飯野坂古墳群に首長墓系列を復元できるとしたら、東北地方全体の古墳の特徴としては、首長墓系列が復元できないものばかりなので、飯野坂古墳群は東北地方においては珍しいケースとなり、この地は安定した権力を維持できる場所として、その地勢的・地理的な要因も深く考察する必要がある(それだけ魅力ある土地だからこそ、東北地方最大の雷神山古墳が築造されたのかもしれない)。

 以降、築造順に沿って飯野坂古墳群の前方後方墳を解説する。

① 観音塚古墳

 墳丘長は65m。高さは後方部が4.9m、前方部が3.8m。墳丘の形状は、前方部墳端が大きく開いている。いわゆる「撥形に開く」と言われている類型だろう。段築、葺石、埴輪なし。丘陵上、標高33mの地点に築造されている。

 段築が無いのは古い様相を示しており、葺石がないのは、それに使えそうな石が近くで取れないことが要因かも知れないが、列島各地の古墳を見ると、かなり無理して石をを運んでくるケースもあるので、そもそも石を葺く文化がなかった(あるいは興味が無かった)のかもしれないし、住民に対して優しい王だったのかもしれない。円筒埴輪に関しては宮城県の場合は5世紀以降に現れるので無くて当然だが、後述する通り、薬師堂古墳では壺形埴輪が確認されている。

左手前が後方部で右奥が前方部

 墳丘に登ると、土が流れてしまって前方後方墳の形状が崩れている様子が分かる。

 

② 宮山古墳

 墳丘長は60m。高さは後方部が4m、前方部が2m。くびれ部分がもっとも低く、そこから前方部墳端に向けてやや高度を増す形状。こちらも観音塚古墳と同じく、前方部墳端が大きく開いており、段築、葺石、埴輪なし。古墳群で最も標高の高い場所に立地する。

 現地で見ると、くびれ部分がキュッと締まっているのが分かり、ナチュラルな前方後方墳でこの形状が見られるのは貴重だ。

前方部から後方部を見る

 築造順に関しては、遺物による判断ではなく、墳丘の形状による判断だと考えられるが、その場合、宮山古墳の方が観音塚古墳よりも後方部と前方部との比高差が大きく、また立地も丘陵上で最も高い場所に宮山古墳が築造されていることから、宮山古墳の方が先ではなかろうか。

 ただし、観音塚古墳は北側の麓の広範囲から仰ぎ見ることができる立地だが、宮山古墳は少し奥まっていて、仰ぎ見ることのできる範囲が狭く、北東側から仰ぎ見るとちょうどよい。いずれにせよ、この2基の古墳が築造された時点で、北東側の麓から丘を見ると、2基の古墳が並んでそのサイドを見せつけていたわけだ。

 

③ 薬師堂古墳

 墳丘長は65m。高さは後方部が6.2m、前方部が3m。前方部墳端が大きく開かないことから上の2つの古墳よりも築造時期を新しく見ているのだろうか。段築、葺石はないが、壺形埴輪の破片が1点見つかっており、名取市歴史民俗資料館に展示してある。

前方部から後方部を見る

 薬師堂古墳は、墳丘上のくびれ部分から後方部の法面を見ると、エッヂがしっかり分かってカッコいい。くびれがキュッと締まっている感じも美しい。

 薬師堂古墳が築造された時点で、北東側の麓から丘を見上げると、3基の古墳が後方部を右にしてそのサイドを見せつけていた。

 

④ 山居(さんきょ)古墳

 墳丘長は60m。後方部の高さは4.8m、前方部は、くびれ部分がもっとも低く、墳端部分に向けて高度を増し、墳端で2.8mある。前方部墳端は開いている。標高38mの地点に築造。段築、埴輪、葺石なし。説明板には「周溝の有無は不明」とあるが、前の3基は周溝について言及されていない。

 

 立地的には、当時は丘の北側の裾から見上げると、後方部の先端部分のみを見ることができた。北東側から全体を見ようとしても、観音塚古墳に遮られて見えないのだ。

 前方部墳端は開いているが、撥形ではなく、渋谷向山古墳(景行天皇陵)と同じように、後方部と前方部の幅が同じになっている(30m)。こういった墳丘の形状と立地から、前の3基よりも新しい古墳と判断しているのだろう。

 次項で触れる雷神山古墳も渋谷向山古墳と同様に後円部と前方部の幅が同じである。そのため、もし山居古墳と雷神山古墳が同じ時期の築造だとすると、雷神山古墳はかなりヤマトティックな古墳なので、在地の王が代々前方後方墳を築造していたこの地域をヤマト王権が重要視して入り込んできた結果、ついに在地の王は力を失い、つぎの山居北古墳の墳丘サイズに成り果ててしまったという仮説を立てることができる。

 他の古墳は木々に遮られて眺望はほとんど効いていないのだが、山居古墳は墳丘上からの眺めを楽しむことができる。

後方部から概ね北側の眺望

 ただし、タイミングによっては墳丘はモシャ子ちゃんになっており、登ると近所の人から呆れられる可能性がある。

 飯野坂古墳群の立地を見ると、現在の住所でいうところの大手町、小山、飯野坂といった、丘の北から東側が主たる支配地域であったように見える。また、4世紀には北海道を本貫とする続縄文人がこの地域まで南下して来ていたため、彼らに威容を見せつける目的もあったと思われる。

 しかし、ここまでの4基を見てきて、遺物は壺形埴輪片が1点だけとは!

 一般的には、円筒埴輪が出現する前は、赤く塗った壺形埴輪を墳丘の縁の部分に立て並べたので、飯野坂古墳群でもそうしたはずだと思う。もう少し多く見つかっても良いと思うのだが。

 それとも、大して並べなかったのだろうか。そうだとすると、葺石も葺いていないわけなので、通有の古墳とはかなり違う見た目になったと思う。

 本当はもっと見つかっていて私が知らないだけかもしれないが・・・。

 

⑤ 山居北古墳

 墳丘長は40m。後方部の高さは2.8m、前方部は1.2m。葺石や埴輪がないのは上の4基と同じ。標高28mの地点に築造され、その立地や墳丘サイズを見ると上の4基と比べてあきらかに劣位である。

 

 築造時期が、5基の中で本当に最後なのかは分からないが、雷神山古墳の築造時期と同じかそれより後だとすると、雷神山古墳との墳丘規模の差は非常に大きい。

 もしかしたら、没落していく在地の伝統ある王に対して、ヤマト王権が辛うじてその権威を認めた最後の王が眠っているのかもしれない。

 

 

 

168m
雷神山古墳|名取市

 宮城県域の大型前方後円墳としては、4世紀後半には仙台平野に名取市・雷神山古墳(墳丘長168m)や仙台市・遠見塚古墳(同110m)が築造され、さらにそれより北側の大崎平野の江合川流域では、大崎市・青塚古墳(同90m)が築造された(なお、仙台平野と大崎平野を併せて仙台平野と呼称する場合もあるが、本稿では分けて呼称する)。

 雷神山古墳は、東北地方最大の古墳で、山梨県の甲斐銚子塚古墳(169m)や群馬県の浅間山古墳(171.5m)と並ぶ、4世紀における東国最大級の古墳の一つだ。つまり、4世紀の東日本でとくに重要視された地域は、山梨県甲府市、群馬県高崎市、宮城県名取市となるのだ。

 

 高さは後円部12m、前方部 6m、3段築成ですべての法面に葺石が認められる。1段目は地山を削って成形し、2・3段目は盛土で構築している。段築があって葺石を葺いているところは、先述した飯野坂古墳と大きく異なる。そして雷神山古墳は、飯野坂古墳群と異なり、壺形埴輪などの土師器類が多く出土している。

名取市歴史民俗資料館にて撮影

 雷神山古墳は、後円部径と前方部幅が同じ長さで、このデザインは渋谷向山古墳(景行天皇陵)と同じで、類型は列島各地にあり、ヤマト王権の影響が非常に強い古墳だと考えられる(稲用語でヤマトティックな古墳という)。大きさやデザインから考えると、被葬者は相当ヤマト王権から優遇されていたことがわかる。

 前述した飯野坂古墳群と雷神山古墳は、それぞれ違う丘陵上にあるが、距離は1㎞ほどしか離れていない。私は、この地は元々飯野坂古墳群の代々の被葬者が治めていたところに4世紀後半になり、いよいよヤマト王権の介入があざとくなってきて、ついにヤマトから送り込まれた人物(雷神山古墳の被葬者)がこの地を治めることになり、飯野坂古墳群の築造が終焉を迎えたという仮説を立てている。

 そしてその人物とは、景行天皇の皇子であり、日本武尊に投影された人物群のひとりではないだろうか。

 

 

110m
遠見塚古墳|仙台市若林区

 前方部の端が道路のため削られているが、下草が綺麗に刈られていることも多い整備された古墳。大きさは県内では2番目、東北地方では5番目。葺石・埴輪ともに認められず、周溝を掘った土で墳丘を構築している。

 段築は、前方部が1段、後円部が2段。主体部は墳丘の主軸に合わせた復元長8mの粘土槨が東西に2つ並び、割竹形木棺を使用していたと考えられる。

 

 雷神山古墳との築造時期の前後関係は不明で、現段階では、「同じ頃」というに留める。

 

39.5m
かめ塚古墳|岩沼市

 仙台平野では、雷神山古墳や遠見塚古墳よりも古いと考えられている前方後円墳がある。それが、岩沼市のかめ塚古墳で、雷神山古墳の南方3㎞強の位置にある。

 南西向きの墳丘は39.5mあり、田んぼの中にポツンと佇む。すぐ東側には東北本線が通っているので、列車と一緒に撮影できる古墳である。

 

 標柱の説明によると、段築はなく、葺石・埴輪は見つかっていない。こういった特徴は、形状の違いはあるが、飯野坂古墳群と共通する。発掘調査がされていないため主体部は不明で、説明板には5世紀の築造とあるが、藤沢編年では、1期と2期にまたがった場所に置かれている。3世紀末から4世紀初頭のイメージだろうか。

 築造時期は、遺物から判断することができないので確定するのは難しいが、段築がなく埴輪が見つかっていないのは前期的様相で、平面形も標柱の説明によると柄鏡形を呈しているとのことなので前期の古墳だろう。ただし、真横からのフォルムは、前方部の墳頂がポコンと盛り上がっており、中期的な雰囲気もある。

 

 墳丘まで行ったときはかなりのモシャ子ちゃんだったためきちんと観察できていないが、写真を見ると2段築成に見えなくもない。

 おそらく往時もこの周辺は湿地性の土地だったと思われ、その中の僅かな微高地を選び築造したのであろう。関東平野ではよくある立地である。古墳を築造する前に土地改良が必要だったかもしれず、例えば群馬県高崎市辺りでは、そういう工事を施した上で古墳を築造しているため、高度な土木技術を持った集団がこの周辺に居住して勢力を張っていた可能性がある。

 なお、かめ塚古墳の約3㎞南には阿武隈川が流れ、仙台平野のかめ塚古墳より南は、前方後円墳が希薄な地域である。

 

 

90m
青塚古墳|大崎市

 岩手県奥州市の角塚古墳は例外として、前方後円墳の築造の北限は、太平洋側では大崎平野の江合(えあい)川流域である。

稲用章作成(青塚古墳を100mとしているが現地説明板では90m前後とある)

 

 江合川は現在ではそれほどは目立たない川となっており、高速道路で渡るときは看板を見逃すと気づかないくらいだが、古代においてはヤマト王権あるいは律令国家とその北側の領域とを隔てる重要なラインとなっていた。いったい江合川にはどんな秘密があるのかは分からないが、非常に気になる川だ。

 その江合川流域で最大の前方後円墳が青塚古墳である。

 

 墳丘長は100mと説明されることもあるが、現地説明板では90m前後と控えめに記されている。

 現在は前方部は壊滅状態で、現地で見ると円墳に見える。

 築造時期は細かいことは分からないが、おそらく4世紀後半で、名取市の雷神山古墳の被葬者が宮城県域全体を管轄する将軍のような存在だったとすると、青塚古墳は最前線に送り込まれた人物か、あるいは在地でとくに有力な人物であったと考えられる。後者の方が可能性が高いように思える。

 

66m
京銭塚古墳|美里町

 青塚古墳と同じく江合川右岸には前方後方墳もある。それが墳丘長66mの京銭塚(きょうせんづか)古墳で、青塚古墳から東南東約11㎞の地点に築造されている。

 

 後方部は一辺が37mの正方形で高さは2m、前方部の長さは29mあり、墳端の幅は約15mで高さは1m。墳丘長が66mもある立派な古墳なのに高さが異様に低い。墳頂は寺の境内となっており、削平されているようだ。

 平成4年に設置された現地説明板では中期古墳とされており、東北の古墳は遅れているとする昔の考えが反映されているのだろう。藤沢編年では2期と3期の間に置かれ、イメージ的には4世紀前葉であり、この方が確度が高いように思える。

 遺構や遺物などの詳細については良く分からないのだが、現地説明板の簡易的な墳丘図を見ると、後方部に発掘調査区のような矩形の線が描かれている。

 

 本州最北端の前方後方墳であるので、非常に貴重な古墳。もしかすると、4世紀前葉には濃尾勢力の影響はこの地にまで及んだのかもしれない。

 なお、余談であるが、墳頂には多数の馬頭観音などの石仏が集積されている。

 

続縄文人の南下と古墳築造との関係

 4世紀は、北海道を本拠地とする続縄文人が最も南まで進出した時期で、太平洋側では宮城県南部にまで進出した。この時期のヤマト王権の急速な東北への進出を見ると、お互いに「お付き合いをしましょう」という相思相愛関係が背景にあったと想起できる。

 この時期に南下してきたのは、後北C2・D(こうほくしーつーでー)式土器(後期北海道薄手縄文土器の略称)を携えた続縄文人である。彼らの痕跡はとくに大崎平野に多いため、青塚古墳を始めとする大崎平野の古墳の被葬者たちは、彼らとの交易を担って北方の豊かな資源を入手し、ヤマト王権に上納することに大きく貢献していた地元の有力者たちであったと想定できる。時期によっては、雷神山古墳の被葬者が中間搾取をしていただろう。

 近世の日本人のアイヌに対する仕打ちから想像すると、古墳文化人たちが続縄文人に対してアコギな行為に及んだ可能性もあるが、考古学的に見ると戦った形跡はなく、基本的には仲良く付き合ったのではないだろうか。

 下図は、後北式土器(江別式土器)の型式ごとの分布範囲を大雑把に示したものである。

続縄文人の後北式土器(江別式土器)の分布範囲(江別市郷土資料館の展示パネルを撮影して加筆)

 

 後北C2・D式期の遺構や遺物の出土位置を細かく示すと下図のようになる。

『土器と墓制から見た北東北の続縄文文化』(2022)所収「「続縄文」とは何か」(鈴木信/著)より転載

 

 上図から分かる通り、続縄文人の南下の形跡は、住居跡や墓といった遺構で確認できることは少なく、その多くは、土器を検出したことにより追うことができる。

 また、下図を見ると続縄文人は適当な場所に住んだわけではないことが分かる。

「東北地方続縄文文化小考 仙台平野の事例を主にして」(相澤清利/著)より転載

 

 上図は、後北C2・D式期に限ったわけではなく、北大式期(5~6世紀)までを含めているが、遺跡の分布を見ると、雫石や湯倉といった黒曜石の産地の近くに多い傾向が看取できる。後北C2・D式期の遺跡分布では、盛岡周辺が多いため、すでに4世紀には雫石の黒曜石が得やすい場所を選んだのであろう。

 湯倉の黒曜石露頭は、続縄文人が開発したと言われている。湯倉周辺は、後北C2・D式期には続縄文人の痕跡は少ないが、つぎの北大Ⅰ式期(おおよそ古墳時代中期)になって増える。

 続縄文人の日常の道具は石器であるが、黒曜石製の石器はとくに皮革加工に最適だったようだ(ということは、馬匹生産との関連も考えられる)。北海道は黒曜石が豊富なため、彼らは伝統的に黒曜石を好んだのだろう。また、黒曜石で意味不明な形状のもの(異形石器)を作って、墓に副葬もした。

 

続縄文人の南下とアイヌ語地名との関係

 後北C2・D式土器を携えて進出した続縄文人の南下の範囲とアイヌ語地名の分布域はほぼ重なる。そのため、元々続縄文人がチラホラと住んでいた地域に古墳文化人が北上してきて集落を形成し、彼らは日ごろかコミュニケーションを取っており、続縄文人が呼んでいた地名を古墳文化人がそのまま採用して現代にまで残ったと考えられる。

『アイヌ学入門』(瀬川拓郎/著)より転載

 

 アイヌ語地名で頻出する「ナイ」と「ペツ/ベツ」は、両者とも川を意味するが、使用された時期が違うという説がある。続縄文人は4世紀と6世紀にそれぞれ南下を行うが、瀬川拓郎氏は、4世紀の第1波の方が「ナイ」地名を付け、第2波が「ペツ/ベツ」を付けたとする。ただし、これは仮説にすぎない。

 ※続縄文人の土器について詳しく知りたいときは、本サイト内の「北海道の歴史」を参照されたし。

 

第3章 古墳時代中期

 列島各地の中期を見ると、畿内や吉備、それに関東地方ではその地域最大の前方後円墳が築造された。ところが、藤沢編年を見て分かる通り、宮城県域の5期と6期は古墳の造営が極端に少ない。そこそこの大きさの前方後円墳に限っては、県南部の村田町に夕向原1号墳があるだけだ。

 夕向原1号墳は、1996年に発見された古墳で、標高159mの丘陵頂部に立地する墳丘長56mの前方後円墳。水田との比高差は80mある。後円部墳端と前方部墳端にのみ周溝が造られており、周溝を含めた全長は64mとなる。このような周溝の造られ方は、尾根上に築造された古墳にたまに見られる。

 仙台平野では、雷神山古墳や遠見塚古墳を築造した大きな勢力は、突如として衰亡した。イメージ的には70年位の間隔、世代的には3世代ほどの空白を経て、雷神山古墳の西北西約2.5㎞の丘陵上に名取大塚山古墳が築造されたが、それまでの間は「空白の5世紀」となる。

 古墳文化の人びとは、基本的には稲作によって経済が支えられていたので、当時は稲作の適地とはいえなかった宮城県域では、古墳文化を安定して維持することが難しかったのだろう。

 

 

90m
名取大塚山古墳|名取市

 墳丘長90mの大型前方後円墳である。ただし、後円部の径が60mあるので、平面形は帆立貝形に近い形状である。

 

 名取大塚山古墳は、約30基からなる賽ノ窪古墳群に属するが、同古墳群では名取大塚山古墳の後継と目される6世紀初頭に築造された17号墳(十石上<じゅっこくがみ>古墳)の墳丘長は32mと極端に小型化してしまった。

 仙台平野を見渡すと、藤沢編年では8期に置かれている仙台市の兜塚古墳(75m)が、名取大塚山古墳と同じ7期かも知れず、同じ時期であれば名取大塚山古墳の後継古墳とは言えない。例え8期としても、名取大塚山古墳とは9㎞以上離れているので別勢力であろう。その兜塚古墳にも大型の後継古墳はない。

 

54m
念南寺古墳|色麻町

 名取大塚山古墳が築造されたのと同じ頃、大崎平野では、念南寺(ねやじ)古墳が築造された。青塚古墳の南西約7㎞の位置である。東向きの前方後円墳で、後円部は2段築成、前方部は段築が認められない。主体部は竪穴式石槨の可能性があり、家形石棺が安置されていた。

 

 形状は、名取大塚山古墳と似ているとされ、同じ頃の同じような形状の前方後円墳としては、岩手県奥州市の角塚古墳(45m)がある。

 そのため5世紀後半の一時期、北東北におけるヤマト王権の影響力が盛り返し、南から順に、名取大塚山古墳、兜塚古墳、念南寺古墳、角塚古墳と前方後円墳の築造がなされたことが分かる。

 規模こそ、雷神山古墳が築造された4世紀後半には及ばないものの、その影響力を岩手県南部にまで及ぼしたことは大きい。ところが、その勢いも6世紀になると再びしぼんでしまう。

 

 

第4章 古墳時代後・終末期

 6世紀中葉以降、再び宮城県域の古墳の造営は極端に低下する。これ以降の目立つ規模の古墳は、後述する終末期の法領塚古墳しかない。6世紀には続縄文人(アイヌの先祖)の再南下があったとの説があり、そうだとしたら、それは歴史上、彼らの最後の南下であった。

 6世紀末頃、東北地方に国造が設置されたときは、国造設置の北限は阿武隈川流域となり、仙台平野の阿武隈川流域以外の多くの地域は、国造設置地域の範囲外となってしまった。

『東北の古代史3 蝦夷と城柵の時代』所収「城柵の設置と新たな蝦夷支配」(永田英明/著)より転載

 

 私は国造の設置は継体天皇の時であると考えているが、東国への制度の波及は遅れ、日本書紀の敏達紀(581年か)に記された蝦夷のアヤカスらの服属記事が福島・宮城県域における国造の設置について述べた記事ではないかと考えている。

 また、仙台平野や大崎平野に国造制が及ばなかった原因は、考古学的に見ると6世紀には当該地方の竪穴住居跡がかなり少ないため、物理的に古墳文化人の人口が減少して、地方の王が君臨するための社会基盤がそもそもなくなってしまったからだろう。

 既述した通り、後北C2・D式土器を携えた続縄文人は4世紀の頃に宮城県域にまで南下し、またもや古墳の造営が低調になった6世紀の頃にも南下があったとする説があり、「ペツ/ベツ」地名は6世紀の南下で付けられたという説がある。なお、この頃の続縄文人は簡易的な平地式建物を作って居住していたため遺構が残りづらい。

 

 

55m
法領塚古墳|仙台市若林区

 7世紀になると仙台平野の人口は再び増える。飛鳥の朝廷の影響力は再び仙台平野北部に浸透していき、当地方を治めた首長の墓として7世紀前半に法領塚古墳が築造された(位置は上図の遠見塚古墳の北西側1㎞の距離)。

 

 法領塚古墳は横穴式石室を備えた円墳で、現在は墳丘がかなり削られているが、発掘調査によって、元々は径55mであったことが分かっており、円墳としては雷神山古墳の隣にある小塚古墳(54m)と並んで宮城県最大級だ。

 古墳は聖ウルスラ学院の構内にあり、平日であれば事前に学校に連絡しておけば横穴式石室を含めて見学することができる。横穴式石室も東北地方最大級で、現在残っているのは玄室のみだが、玄室だけでも奥行きが5.7mあり、元々は10m以上はあったはずだ。

 

 これだけの古墳が築造されたということは、それだけの人的・経済的基盤があったということになるが、法領塚古墳の築造より少し前の6世紀末から7世紀中葉にかけて、のちに初代陸奥国府ができる郡山遺跡に集落が形成される。そういった集落が法領塚古墳の築造基盤であろう。

 普通はこの規模・内容の古墳であれば国造の墓と考えることができるが、この地域には国造は置かれなかった。私は、文献にこそ現れないが、国造の範囲より北には特別行政区のようなものが置かれた可能性があり、そのトップの人物の墓ではないかと考えている。

 

仙台平野の開発と印波国造

 官衙としての郡山遺跡については後述するが、その前段階でその地に集落を作った人びとは、土器を見ると千葉県の印旛沼周辺からやってきたことが分かる。印波国造などが仙台平野の開発に活躍したのではないだろうか。また、郡山遺跡に隣接している南小泉遺跡でも、6世紀末葉から7世紀初頭に掘られたと考えられる大溝が見つかっており、日本書紀には一切記述がないが、改新政府が城柵を造営して東北経略を推し進めるより前の蘇我氏が政権を運営していた時代には、すでに国家の政策として、北東北への進出を企てていたことが推定できる。

 千葉県の印旛沼に臨む栄町には龍角寺古墳群があるが、そこには7世紀前半に造られた一辺78mを誇る国内最大級の方墳である岩屋古墳があり、印波国造の墓である可能性が高い。

千葉県栄町・岩屋古墳

 印波国造が、当時政権首班であった蘇我氏の古墳をも上回るほどの巨大な方墳を築造できた理由は、蘇我政権の仙台平野への進出に積極的に協力したことに対する褒賞の意味があるのではなかろうか。

 なお近年、宮城県では、初期の城柵と同じように周囲を区画溝と材木塀で囲んだ特殊な囲郭(いかく)集落と呼ばれる遺跡が見つかっており、柵の仲間と見られる。囲郭集落は、竪穴住居が主体で役所のような大型の建物跡が見つからないが、関東系の土器が見つかることが多いため、関東からの移民が居住していたことが分かる。熊谷公男氏は、倭王権の出先機関である郡山遺跡の政治的支配のもとで計画的に造られた施設としている。

 現代においても仙台は東北地方を代表する都市だが、元々仙台周辺は大集落化のポテンシャルが非常に高い地域で、弥生時代にはバリバリ水田を作っているし、遠見塚古墳と同時期にもその近くに大規模な集落があった。6世紀の一時期に人口が減少したのは気候の寒冷化が原因の一つだと思われるが、その地域が再び本来の力を発揮しだしたのだ。

 

 

第5章 律令国家の建設と北方政策


郡山遺跡|仙台市太白区

 645年に蘇我政権が倒れ、日本が律令国家への道を歩み始めると、宮城県域にも新たな変化が訪れる。

 古代の東北地方には城柵(じょうさく)と呼ばれる特殊な役所が造られた。いまだ日本の統治が及んでいない地域に新たに進出した際には、まずは城柵を造り、そこに柵戸(さくこ)と呼ばれる移民を送り込み、支配が安定したのち評(こおり=8世紀以降は郡)を設置し、完全に内国化していった。

 その城柵の初期のものは、日本書紀に記載されている新潟県に作られた渟足柵(ぬたりのき=647年造営)と磐舟柵(いわふねのき=648年造営)だ(新潟県の北部地域は、この時代には東北地方の一部として見做されていた)。これらと同時期に太平洋側にも城柵が造られたはずだが、日本書紀にはその記述はない。ただし、考古学的には仙台市太白区の郡山遺跡が城柵とされている。

 

 郡山遺跡は、法領塚古墳から南に約3㎞の地点にある。

 既述した通り、6世紀末には集落が形成されはじめ、7世紀中葉には第Ⅰ期官衙と呼ばれているものが造営された(第Ⅱ期官衙は、後述する通り初代の陸奥国府跡)。

 郡山中学校の校舎にピロティがあり、寺院東方建物群の遺構が見学できる。ただし、事前に仙台市教育委員会に連絡しておく必要があり、学芸員の方の仕事の都合があえば、丁寧な説明をしていただける。

郡山遺跡・郡山中学校内ピロティ

 

 大化改新以降、日本列島を五畿七道に大まかに分割して、その中を約60の「国」という行政区画に分ける作業が一段落したのは天武天皇のときというのが通説だ。東北地方のことをよく「みちのく」と呼ぶが、陸奥国は、当初は「道奥」と表記して、「みちのおく」と呼ばれた。

 各国には今でいう県庁にあたる国府を設置したが、陸奥国の場合は、郡山遺跡の第Ⅱ期官衙跡が最初の陸奥国府跡で、その造営時期は7世紀末頃である。

 

今後の見通し

 それではここで、律令国家の北方への進出がこのあとどのように進んでいくのか、あらかじめ述べることにする。下図は、東北地方の郡図(718年に建置され数年後に廃止された石背・石城国も示されている)。

『シリーズ「遺跡を学ぶ」066 古代東北当地の拠点 多賀城』(進藤秋輝/著)より転載

 

 太平洋側のみを説明すると、645年の大化改新直後は、郡山遺跡Ⅰ期官衙が宮城郡内に造営され、その周辺の支配を始めた。ただし、宮城郡の建郡時期は不詳だ。

 7世紀末から8世紀初頭には、既述した通り、郡山遺跡第Ⅱ期官衙が陸奥国府として造営された。藤原京への遷都が694年なので、郡山遺跡Ⅱ期官衙の造営がそれよりも早いということは無さそうだ。

 それから少し経った713年頃には玉造・長岡・小田・遠田・桃生郡のラインまで支配が及んだ。陸奥国の領域が北に拡大したこともあって、724年には陸奥国府は郡山遺跡から北東約12㎞の距離にある多賀城に移転する。

 栗原郡を建置するには時間が掛かり、763年。磐井郡から北が岩手県で、海側の気仙郡は北側が岩手県で南側が宮城県だが、岩手県域を治めることができるようになるまでも時間が掛かり、坂上田村麻呂がアテルイを降して、胆沢・江刺(胆江地方)を手に入れたのが802年。和我・稗縫・斯波の建郡が811年。岩手郡の建置は記録になく、はっきりしない。

 このように朝廷が北東北を支配下に収めるには相当な時間が掛かっており、その間には何度も戦争が起きて、たくさんの人びとが死んでいる。以降、この歴史を語ろうと思うが、平安時代初頭のアテルイの話は岩手県の話であるので、その手前までを述べる予定である。

 


赤井官衙遺跡|東松島市

 いくつかの時期に分けられ、Ⅱ-1期は7世紀中葉頃で、竪穴住居群により構成され、当地における一般的な集落であったが、関東系の土器が出土することから、関東地方出身の成員がいたことが分かる。

 Ⅱ-2期は7世紀後半で、区画溝と材木柱塀で囲まれた囲郭集落に転換した。

 Ⅲ期は7世紀末から9世紀前葉で、役所的性格の遺構が見つかり3つの院に区画されるが、通有の郡家のような規則的な建物配置ではないことから、郡領氏族(具体的には道嶋氏)が治める、郡衙とは異なる役所的な建物の可能性が考えらえている(以上、『東北の古代遺跡』<進藤秋輝/編>)。

 ただし、現地説明板では、牡鹿郡家跡あるいは牡鹿柵跡と推定されるとある。

 

 


名生館官衙遺跡|大崎市

 大崎平野の江合川右岸に位置し、実質的な古墳造営の北限に位置する。この地域は、古墳時代前期から中期には活発に古墳が造られた地域だが、後期には古墳も造られなくなり、人びとの生活の痕跡も少なくなる。したがって、国造が置かれることは無かった。

 遺構は、7世紀中葉から9世紀後半まで大きく6期に分けられている。遺跡が造られ始めた時期には、続縄文人はすでに北へ去っていた。

 Ⅱ期の遺構からは、多賀城創建期のものより古い8世紀初頭の様式の単弁蓮華文軒丸瓦やロクロ挽き重弧文軒平瓦が出土しており、造営時期は7世紀末から8世紀初頭とされる。郡山遺跡が陸奥国府となったのと同じ頃だが、建物の軸を南北方向に揃えた官衙的な遺構が見つかっていることから、この時期には大崎平野南部の大崎市周辺にまで律令国家の支配が及んでいたことが分かる。

現地説明板



 Ⅲ期は8世紀初頭から前葉の時期で、陸奥国府が多賀城に移転したのと同じ頃だが、城内地区に政庁が造営された。この政庁は、備後国三次郡衙跡とされる広島県三次市の下本谷遺跡Ⅱ期政庁に規模・構造などが類似し、郡衙跡と考えられている。

下本谷遺跡の現地説明板

 

 位置的に見ると玉造郡内であることから、玉造郡衙跡と考えられている(以上、『東北の古代遺跡』<進藤秋輝/編>)。

 なお、名生館官衙遺跡は、中世には大崎市の拠点城郭となり、城跡としての遺構も残っている。

中世の空堀跡か

 

中世の土塁か

 

 

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