【gooブログから】朝鮮半島の古代史

 2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。

 当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。

 基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。

 ※本記事は、2014年3月23日に投稿した記事です。


日本人は古代、朝鮮半島南部に住んでいたのか? ~イントロダクション~

 紀元前1046年に周が殷を滅ぼしたあと、殷の皇族で政治家だった賢人・箕子(きし)が、殷の遺民を率いて中国から朝鮮半島へ移住して独立国を建てたという伝承があり、それを箕氏朝鮮と呼びます。

 箕子朝鮮は中国人の研究者の中には実際に存在した国家であると考える人が多いようですが、韓国人の研究者は自分たちの先祖が中国からの移民であったとされたくないので、伝説上の国家であると一蹴する人が多いようです。

 ただ、韓国人の先祖は厳密に言うと、朝鮮半島北部に箕子朝鮮が有ったとか無かったとかとは関係なく、半島南部の「韓」の地域にいた人が先祖です。

 朝鮮半島には現在、ご存知の通り朝鮮民主主義人民共和国(通称「北朝鮮」)と大韓民国(通称「韓国」)という2つの国家がありますが、歴史的に見ると朝鮮半島は元々は各種の種族が多数の国家を形成していた地域なのです。

 さて、それでは朝鮮半島に建国された国家で、確実的に一番古い国家はいつ建国されたのでしょうか。

 現在の中華人民共和国も多数の民族で構成されていますが、秦の始皇帝(嬴政<えいせい>)が前221年に中華を統一するまで、各地の民族がそれぞれ小国を作っており、その中に燕という国がありました。

 燕の領域は、おおよそ現在の北京の辺りから遼東半島までで、いわゆる「中華」という地域の中では北東の辺境地帯でした。

 吉川英治の小説『三国志』で、張飛がよく「燕人張飛」と名乗りますが、張飛は燕の出身なので「燕人(えんひと)」と名乗るのです。

 劉備もまた燕人です。

 『漢書』によると、燕は戦国時代(前5世紀末期から前221年)になって朝鮮半島への進出を果たし、のちに真番郡が置かれる地域(半島中西部あるいは韓国の錦江の河口部)まで版図を伸ばして役人を置き、障(とりで)を築いていました。

 さて、前206年に秦を滅ぼした漢の高祖(劉邦)が前195年に没すると、高祖の親友だった燕王盧綰(ろわん)は、高祖の皇后であった呂氏の粛清を恐れて匈奴(きょうど。北方の異民族)の元に亡命します。

 それと同じころ、同じく燕の衛満(衛というのは姓氏ではなく、『古代朝鮮』によるとその字義に国境・辺境などという意味があり、その姓氏が不明なためにこの字を借用した)も1000余人の徒党を集め、朝鮮に移住して、朝鮮王を僭称していた準(箕子の子孫とされますが、実際は姓氏不明)に取り入って重用されたあと、機を見て準を追い出して衛氏朝鮮を建てました。

 これがおそらく、朝鮮半島で最初に作られた国家です。

 衛氏朝鮮が都とした王険城は、現在の平壌です。

 半島北部には、秦末の混乱期に中華北東部から1万人もの人びとが戦火を避けて移住しており、朝鮮半島最初の国家の一般住民は、元々半島に居た人びとと中国からの移住者が混在しており、支配者は衛満や彼に従って乗り込んできた中国人だったのです。

 ただ、中国の史書を読むと、朝鮮半島北西部に元々いたはずの半島の原住民について何も記されていないので、燕の時代から断続的にかなりの数の中国人(燕人)が移住してきて(燕の政策もあったかもしれない)、秦末に1万人もの移住者が来ると、ほとんど原住民の姿は見えなくなったのかもしれません。

 そう考えると、半島北西部は歴史的に見るとほとんど中国の一部と言われても仕方がないです。

 衛満に追い出された準は、『三国志』によると箕子の40数代目の子孫とされていますが、それが事実でないとしても、衛満がやってくる前から朝鮮半島北部には、燕の支配下であるものの燕から半独立した、準に至る系譜を持つ中国人が支配する地域政権があったと考えてよいと思います。

 考古学的に見ても、半島北西部は燕の影響が強いようです。

 ところで準は、側近や宮女を連れて半島南部へ逃れ、韓王と名乗りました。

 現在も半島南部には大韓民国という国家がありますが、歴史的に見ても韓人は半島南部がその居住地で、韓人も三国志の頃(3世紀前半)には馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)の3つの種族に分かれていました。

 衛氏朝鮮はその後、前漢の第7代皇帝・武帝(劉徹)が積極的に領土拡張政策を推し進めた結果、前108年に攻め滅ぼされてしまいました。

 衛氏朝鮮は3代で滅びたのです。

 その結果、前漢帝国は半島北部に楽浪(らくろう)・玄菟(げんと)・真番(しんばん)・臨屯(りんとん)の各郡を設置し、半島北部を自らの領土としました。

 各郡の領域は、おおむね楽浪郡が北西部、玄菟郡が北東部、真番郡が南西部、臨屯郡が南東部でした(『海を越えたメッセージ ~楽浪交流展~』)。

 このうち玄菟郡には元々沃沮(よくそ)という種族がいましたが、沃沮の住民の上に中国人が君臨したわけです。

 前82年には、南側の真番・臨屯両郡が廃止されます。

 そして前75年には玄菟郡が遼寧地方に移転してしまい、上記の4郡の領域はほぼ全域的に楽浪郡としてまとめられ、先述の沃沮の居住区やその南側の濊貊(わいはく/かいはく)という種族の土地は、楽浪東部都尉という軍政下に置かれました。

 このとき発足した25の県を持つ楽浪郡は「大楽浪郡」と通称されます。

 『漢書』によると、楽浪郡には海のかなたから倭人が季節ごとに物を持ってやってきて、郡の太守(長官)にまみえていました。

 この倭人は日本列島人のことだと思われ、当時、倭人の国は百余国に分かれていました。

 ただ問題は、倭人は朝鮮半島南部にも住んでいたと『三国志』に記されていることです。

 朝鮮半島南部の倭人は日本列島の倭人と同じなのか?

 つまり、日本人は古代、朝鮮半島南部に住んでいたのか?

 今後も研究を続けて行きたいと思います。

後漢の名将祭肜の活躍と倭国

 西暦8年、王莽が前漢の皇太子・孺子嬰から禅譲(正式に国を譲ることだが通常脅迫によって行われる)を受けて新を建国、しかし各地に群雄が並び立ち、その中のひとりである前漢の皇族の劉玄が勢力を得て、23年には皇位に就き(更始帝)、王莽を殺害しました。

 しかしその更始帝も、25年には都の長安を没落しすぐに殺されてしまいます。

 そして更始帝に代わり、これも前漢の皇族の末裔である劉秀(光武帝)が皇帝に推され、後漢を建てました。

 なお、光武帝の元号である建武は、日本でも鎌倉幕府が滅亡した後に後醍醐天皇が政権を確立したときに採用しています。

 さて、更始帝没落から光武帝即位の間の混乱に乗じ、朝鮮半島の楽浪郡でも地元の王調が郡守の劉憲を殺害し、自ら大将軍・楽浪太守と称し、楽浪郡を支配しました。

 『後漢書』によれば、前108年に衛氏朝鮮が滅亡して、朝鮮半島北部に4郡が置かれてから、朝鮮半島南部や日本列島に無数にあった、「東夷」と中国に呼ばれた国々は、はじめて漢の都に上ることになりました。

 東夷の使節の上京に関する対応を含め、東夷の国々との外交の窓口となったのは楽浪郡です。

 新しく楽浪郡の支配者となった王調に対して、東夷の国々がどのような対応をしたかは記録に残っていません。

 楽浪郡を牛耳ることに成功した王調でしたが、それも束の間、30年には光武帝により派遣された王遵によって滅ぼされ、楽浪郡は後漢王朝に帰属します。

 それまで単単大嶺から東側は楽浪東部都尉といって、郡都尉という官職の軍人が軍政を敷いていたのですが、楽浪郡が戻ってきたのを機に後漢は当該地域を地元の住民である沃沮(よくそ)や濊(わい)といった種族の酋長を県候に封じて統治させるように変更しました。

 つまり、後漢の支配が一歩後退したわけです。

 44年には「韓国の人」が、47年には高句麗(中国東北部の部族)が楽浪郡にやってきて服従しました。

 そしてついに57年正月には、倭の奴国王が後漢王朝の都洛陽に使を遣わせました。

 この奴国が日本列島内の国としては史上最初に名前が出てきた国で、現在の春日市や福岡市周辺にあたり、中心部は春日市の須玖岡本遺跡であると考えられており、そこからは王の墓も見つかっています。

 このとき光武帝は、「大夫」と称した使の者に金印を授与しており、その「漢委奴國王」と刻印された金印は、江戸時代に現在の福岡市東区志賀島で発見されて、その後国宝となっています。

 「漢委奴國王」は、一般的な説では「漢の委の奴国王」と読み、「倭」が金印では「委」となっているのは、減筆と呼ばれる処置です。

 さて、日本列島内に100余国あった国の一つである奴国が後漢王朝の都まで行けるようになったのは、実はあまり知られていませんが、後漢の祭肜(さいゆう)という武将の活躍の結果なのです。

 早くに父を亡くした祭肜は父の墓の前で生活し、任官してからは光武帝に可愛がられその近くに仕え、その後地方に出て行政官として治績を上げます。

 そして41年には、中華の地の最果てである遼東郡(遼東半島)の太守に抜擢され、強弓を引くことができて勇気もあった祭肜は光武帝の期待を裏切らず、異民族との戦いに大活躍しました。

 前述の44年の「韓国の人」や、47年の高句麗の服従は、祭肜がその地を安定させたために実現したものでした。

 その延長で、57年に奴国の使いが洛陽に行くことができたのです。

 その後も祭肜は北辺で活躍を続け、北方異民族や朝鮮の諸族の多くを後漢王朝に服従させ、69年には中央に戻ったものの、73年にはまたもや北匈奴との戦いを命じられました。

 ところが、出陣した祭肜は敵を恐れて進軍しなかったとして訴えられ、投獄されてしまいます。

 それまでの実績を考えると、祭肜が臆病風に吹かれたはずはなく、進軍が遅れたことがあったとしてもそれは軍略であったはずで、そこを祭肜に対して悪意を持っていた人物に付け入れられて冤罪で投獄されたものと考えられます。

 祭肜はその後、獄から出されましたが、その数日後、恥辱に耐えられず血を吐いて死んでしまいました。

 祭肜の死後、北方異民族である烏桓や鮮卑は祭肜を追慕し、都に来た際には墓に詣でて号泣しました。

 また、遼東の人びとも祠を建てて祭りを絶やしませんでした。

 そして祭肜の子孫も辺境にあってみな高い評判を得たといいます。

 さて、話を少し戻しますが、奴国の使が洛陽に行った翌月(57年2月)、光武帝は崩御します。

 その2年後に、倭国がまた使を遣わせ、107年になると、「倭国王帥升等」が、生口(奴隷)160人を献じて、第6代皇帝・安帝に拝謁を願いました。

 安帝はその前年に即位しているので、「倭国王帥升等」の来訪は、その祝いの意味もあるはずです。

 さて、「倭国王帥升等」の名前に関しては、帥升(すいしょう)か、「等」も含めて「すいしょうら」だったのか不確定ですが、一般的には「帥升」とされています。

 さらに言えば、「帥升」というのは個人名ではなく、官名である可能性も指摘されていますが、やはり一般的には名前だと考えられています。

 つまりこの帥升が、歴史上初めて現れる日本人の名前とされているわけです。

 帥升が登場したら、邪馬台国の卑弥呼の登場までもう少しです。

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