2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2016年1月16日に投稿した記事です。
2016年1月16日(土)の探訪レポート
連日連夜、歴史ばっかりやっているという印象を持たれているような、そのような人の視線に恐れ慄きながら生きる昨今ですが、本日は、「シロキチ企画」が企画した城めぐり「中城&腰越城」に参加してきました。
私は以前だったら人に案内してもらって歴史スポットをめぐるなんて考えたことすら無かったのですが、2年半くらい前に、ガイドをされる側ではなく、する側に興味が芽生えて、ついで「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」に入会したことにより、会が主催する城めぐりのガイドをやらせていただけるようになりました。
ただ、滝山の会では私は滝山城についてビギナーですので、あくまでもサブという形で加わり、中田先生ほか、会の方々のガイドの仕方をひそかに学習して虎視眈眈と策謀を練っていたのです。
そしてついに、滝山の会のヤマセミさんと「東国を歩く会」を立ち上げ、先日その第1回「歩く日」を開催して初めてメインでガイドをやらせていただきました。
その様子はすでのこのブログでもお伝えしていますが、これは実は私にとっては夢の一つが実現したことなのです。
ただ、「歩く日」に参加された方々からは、「稲用さん、歩くの速い!」と指摘され、最初から自分の気の利かなさというか、思いやりのなさというか、そういう点が残念で、別に根がドSだからという訳ではなく、中田先生以下の滝山の会の人たちと歩く基準で歩いてしまったため、ついつい先日のようなクレームが惹起されたものと思われます。
そんなわけで、最近は歴史スポットに行ったときにボランティアガイドの方がいるときは、ガイドをお願いしてガイドされながらガイドのやり方を勉強したり、滝山の会では八王子市がいろいろと支援してくれてボランティアガイド養成講座も受けさせていただいています。
ただ今までは無料かそれに近いガイドしか体験したことがなかったところ、今回のシロキチ企画では初めて有料の歴史歩きに参加してみて、有料でやるということはどういうことかを学ばせていただくことができました。
今日の会の参加費は3,500円ですが、これを高いと見るか安いと見るか。
解説は大河ドラマ「真田丸」で戦国軍事指導をやられている西股総生先生なので、まず、城の縄張の世界ではかなり突き抜けているマッド・西股先生に案内していただけるということがメリットの一つ。
そしてこれだけの金額を払ってくる参加者は、よっぽどの城好きで、かつ比較的お金に余裕がある人たちが多いはずなので、そういう人たちと知り合えることがメリットの一つ。
もちろん企画した方とは以前一緒に城を巡ったことがありますし、西股先生にも昨年、多摩地域史研究会の例会で津久井城を案内していただいているので、元々そういう縁もあったことと、上記のメリットを考えれば私的には3,500円はペイできると思い参加したのです。
昨日の記事のように、100円の野菜を買うお金がないのに3,500円を払うということはどういうことか?と意味が分からない方もおられると思いますが、私は貧困であってもその少ない金銭の使い方に関しては熟慮しているのです。
どうでもよい会社の飲み会などにはもったいなくて参加できません。
あ、言い過ぎた。
結果として今回の城めぐりはとても楽しく、お友達も何人かできて参加して良かったなあと思っています。
さて、前振りが長くなりました。
それでは今日のレポートです。
* * *
朝10時に小川町駅に集合。
小川町と言っても都心の地下鉄の駅ではないですよ。
埼玉県比企郡小川町にある駅です。
小川町駅には池袋から来る東武東上線と八王子から来るJR八高線の二つが乗り入れています。
このブログの読者の中にはご存知の方もおられると思いますが、小川町には一昨年(2014)の12月28日に訪れています。
そのときは嵐山町の杉山城を見て、ついで「嵐山史跡の博物館」と菅谷館を見学し、次は大蔵館に行こうかなと思っていたところ、たまたま菅谷館の中で話した方が西股先生と萩原さちこさんの共著『超入門 山城へGO!』を持っており、該書に掲載されていた小川町の中城が良いということを聞き、急きょ予定を変更し小川町へ急行したわけです。
そうしたところ、予期せぬことに埼玉県内の方墳としては最大規模の穴八幡古墳を偶然見つけてしまい、中城ともども充実した歴史めぐりをすることができました。
なので、中城は再訪になるのですが、腰越城は見たことがなかったので、今回は楽しみにして参加しました。
話を戻します。
出発時刻になり、中城へ向けて出発です。
たまたま話しかけた方が嶺雲さんの友人で、某歴史バーに毎週通っているそうで、「お城業界も狭いですねえ」なんて話しているうちに、駅から徒歩10分くらいで着いてしまいました。
このお山がそうだよ。

探訪レポートは前回とだぶってしまうところもあると思いますがご了承ください。
皆でズラズラとお城に入って行きます。

本当はここで縄張図を掲載できれば今後の説明がスムーズに行くと思いますが、著作権の関係もあり勝手に使うわけにはいかないので、こういうときは頼もしい助っ人を呼びます。
著作権フリーの余湖図です!

「余湖くんのホームページ」から転載させていただきました(いくらフリーと言っても、きちんと余湖さんが書いたということを明記して使わないとダメですよ)。
余湖さんとはもう17年くらい前にネット上でお互いのホームページをリンクし合う「相互リンク」で知り合ったのですが、何とまだ一度もリアルでお会いしたことがありません。
ですので、今年こそは会いに行きたいなあ、何て考えています。
さて、見ての通り、中城は単郭の城です。
単郭というのは、郭が一つしかないということです。
つまり見掛け上ワンルームなのです。
我々は余湖図の右上から登ってきました。
前面に土塁が見えます。

そしてそのままテニスコートを右手に見ながら進み、右に90度方向転換すると前方に立派な土塁が立ちはだかっています。

この土塁と繋がっている櫓台(仙覚律師堂)の前まで来ました。

ここで西股先生から説明の開始です。
先生はとりあえず、こういった中世城郭をあまり訪れたことが無い人がいても、そういう方にも分かるように説明をしようと考えていたようですが、そこまでのビギナーさんは一人もいないようです。
ただそれでも、知識や経験にバラつきはありますので、その点は注意深く話し始めました。
そして櫓台に上がります。
ここから眺める土塁のフォルムは素晴らしいです。

中城の最大の魅力はこの重量感溢れる土塁だと私は思います。
余湖図でも分かる通り、土塁の外側には空堀があり、さらにその外側に土塁を構築している箇所もあり、これは珍しいのではないでしょうか。
ただその先は畑地になっており、とくに遺構は無いようです。
土塁から城外を見下ろすと、何やら人影が見えます。

注視すると本日のアシスタント・いなもとかおりさんが、あろうことか師匠である西股先生のいる方向に対し攻撃を仕掛けてきたではないですか!

我々も本日のツアーを成功させるためには大将を討ち死にさせるわけにはいかないので、必死に反抗していなもとさんの撃退に成功しました。
さて、中城はだいたい200m四方くらいなのですが、長い防御線は単なる一直線ではなく、きちんと折りをつけてうまく横矢が掛かるようになっています。

そして余湖図をご覧になると分かりますが、櫓台が2か所あます。
一つはさきほど紹介した、仙覚律師堂が建っている場所で、もう一つは最初に入口として入ってきた場所にあります(こちらは余湖図では強調されていないですが)。

この二つの配置が巧妙。
西股先生曰く、城は少ない人数で守らなければならないことが多いので、なるべく少ない人数で効果的に守れるようにきちんと設計するそうです。
ですから、この二つの櫓台というのは、その道のプロが寝ないで考え抜いた結果の配置なわけです。
そして、現在郭に入ることのできる進入路、つまり土塁が切れている場所がいくつかありますが、我々が歩いて入ってきた箇所を含め、北西側の3箇所(余湖図では2箇所の表記となっています)は元々は切っておらず、仙覚律師堂の横が虎口として考えられ、あとは今は住宅が建っている南側にもあった可能性があると先生はおっしゃりました。
それと、現在でも城の北側には本日の参加者曰く「湖」がありますが、そちら方面は往時は湿地帯で、おそらくそちら方面からの侵入はできなかったということです。

さて、中城の城主については、『日本城郭大系』によれば、鎌倉時代に猿尾(ましお)太郎種直という土豪が居館を構え、室町時代初期になると斉藤六郎衛尉重範という人物が居城していたという伝承があるようですが、それを史料で確認することはできません。
西股先生がおっしゃる通り、日本中に3万とも4万ともあると見られる戦国時代の城のほとんどは、城主不明・来歴不明の城です。
中城も要するにそういった「謎の城」の一つになるわけですが、城というものは意味があってそこに造られるわけで、まずは当時の歴史背景をよく調べ、この近辺で勢力争いがあったのはいつ頃なのかをピックアップしていくのも解明の糸口になり得ます。
中城の場合は、確かに土豪の居館としても良いかもしれません。
なので伝承のように鎌倉時代から土豪の居館であったと見ることもできます。
ただし、現在見ることのできる遺構からすると、どうみても戦国時代チックなので、戦国時代にこの地に君臨した領主の城だと考えても良いですが、上述の話だと室町時代初期の人物は出てきても、その後は出てきません。
ですので、一つの仮定として、戦国時代に合戦時における臨時の城として使われた城だとすると、この地が戦乱の巷と化した時期はいつになるでしょうか。
一番考えられるのは、関東管領山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った長享の乱(1487~1505)が考えられます。
この地域は国内でも有数の城の密集地域です。
ちなみにこの周辺の城の配置図を腰越城の説明板から紹介するとこんな感じです。

例えば近隣では、嵐山町の杉山城や菅谷館などが長享の乱に関わってくると思いますが、実は長享の乱という時代設定に対して西股先生は否定的なのです。
多分これは西股先生だけではなく、縄張研究家の人たちの共通認識だと思いますが、縄張を見る限り、長享の乱の時代というのは時期的に早すぎるというのです。
ですから、今のところは決定的な証拠が出ない限り、「謎の城」でいいと思います。
城の名前が古文書に出てくることはそんなに多くなく、そもそも「中城」という名前も江戸期以降につけられたものと考えられます。
同時代の人はおそらく「猿尾の要害」とか「○×の山」とか呼んでいたはずです。
以上、中城は小粒な城ですがとても面白い城で、なおかつ駅から徒歩圏という立地も恵まれていますので、もし興味のある方(とくに「土の城」ビギナーの方)は、ぜひ訪れてみることをお勧めします。
仙覚律師堂のある櫓台からの西側の眺望も素晴らしいですよ。

青山城が見えています。
なお、中城は舌状台地の先端部分にあり、現在見ることのできるパーツの配置も鑑みるとこれで完全体なので、他に郭があったこと(つまり複郭であったこと)は考えられないそうです。

さて、以上で中城の見学を終え、一旦小川町駅まで戻ってきました。
朝は写真を取り損ねたので少し撮影。

駅前ロータリー。

ローソンがあるよ!
メインストリート。

前回の探訪レポートでも書きましたがここの商店街は結構賑やかで、郷土出版物を置いてある本屋さんもあります。
見たことが無い塗装の東武線。

フェンスが邪魔だなあと思いつつ電車を撮っていると、さきほど撃退したはずのいなもとさんが現れ、「稲用さんって鉄ですか?」と聴かれました。
(お、来た。)
「単なる鉄道好きで、決してマニアではありません」といつものように答えます。
「単なる好き」と「マニア」のニュアンスの違いが分かるでしょうか。
マニアというと相当詳しくないといけないと思うのですが、私は鉄道についてはその外観が大好きなだけで他の知識はないのです。
ただ、日本史に関しては大きな声で「マニアです」と言い切れるように昨日も今日も明日も日々精進していく所存であります。
さて、バスが来ましたので、これに乗って次の目的地である腰越城を目指しましょう。
⇒ 【gooブログから】西股総生先生&いなもとかおりさんによる腰越城跡ツアー|埼玉県比企郡小川町
