2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2017年9月23日に投稿した記事です。
1998年12月30日(水)の探訪レポート
⇒ 【gooブログから】会津・鶴ヶ城 ~城の面白さに目覚めた記念すべき城郭~【歴史活動・初期の記録①】
96年と97年の年末は立て続けに会津の鶴ヶ城を訪れましたが、今年(98年)は、ちょっと気分を変えて山形へ行ってみようと思います。
なにしろ私は伊達政宗よりも最上義光の方が興味がありますからね。
最上氏の居城であった山形城は絶対に訪れるとして、あとは山形へ行く途中の米沢と上山に立ち寄ってみましょう。
東京駅から山形新幹線「つばさ」に乗車します。
実は先日、三鷹駅のみどりの窓口に切符を買いに行ったところ、結構日にちが押し迫っていたこともあり山形新幹線はグリーン車しか空いていませんでした。
出費が嵩んでしまいますが、背に腹は代えられません。
グリーン車で行きましょう。
ということで、「つばさ」のグリーン車のシートは右が2列で左が1列でした。
1列の独立シート、なかなか座り心地が良い。
おー、コーヒーもサーヴィスで付くんですね。
仙台までは東北新幹線の線路を走りますが、仙台からは在来線の線路を走るんですね。
しかし奥羽山脈のトンネルは長い。
トンネルを抜けるとすぐに最初の目的地である米沢駅でした。
乗車の記念に「つばさ」をパシャリ。


米沢駅からテクテクと30分ほど歩き、米沢城にやってきました。

※ここからは絵図を元に米沢城の解説をしたいと思います。
* * *
①「日本古城絵図」所収「奥州米沢城」(「国会図書館 デジタルライブラリー」)より加工して転載)

米沢城の中心は本丸の周りを二の丸が囲んでいる形態で、完全な平城です。
本丸の規模は南北60間(108m)×東西75間(135m)ですので、鎌倉時代の武士の館と同等で、その周りの二の丸を合わせても非常にコンパクトなお城に思えます。
二の丸東側の門は桝形になっており、南側の門は外側に馬出を設けていますね。
面白いのは二の丸の北西の隅で、うまく仕切りを使って桝形のような構造にしているところです。
本丸の南側も桝形になっていますが、二の門をくぐった先に空間を設けてもう一つ門を構えているところがチャームポイントではないでしょうか。
米沢城がいつからあったのか確実なことは言えませんが、鎌倉幕府政所別当の大江広元の次男時広が当地の地頭職に補任されたタイミング(暦仁元年<1238>)で築城されたといわれています。
時広は兄親広が承久の乱(1221年)で後鳥羽上皇方に加わって失脚していたため、父広元が嘉禄元年(1225)に亡くなると大江氏を継いでいました。
時広は当時鎌倉で活動していたため、当地には代官を派遣して統治させたはずですが、もしそのときに居館を建てるとなると、規模的には本丸の大きさがちょうどいいでしょう。
時広は仁治2年(1241)に没し、嫡男泰秀が長井荘を継承します。
それからしばらく長井氏の置賜支配が続きましたが、南北朝時代の末期、康暦2年(1380)に伊達宗遠が置賜郡の攻略に成功します。
そして、米沢城が伊達家の本拠地となったのは、天文17年(1548)の時で、第15代晴宗の時です。
晴宗は独眼竜政宗のお祖父さんで、政宗はここで生まれました。

晴宗の統治以降、大町以下の城下町の形成が進んだようです。
しかし、天下の独眼竜政宗の本拠地としては小さな城に見えますし、防御力も貧弱に思えるのですが、政宗は城に閉じ籠っているよりもガンガン外へ攻めに行くタイプなので、攻撃こそ最大の防御だったのかもしれません。
ちなみに、政宗の終焉の地は日比谷公園内に説明板があります。

9月10日に東国を歩く会で訪れています。

そしてもう一つのちなみですが、伊達氏によって長井荘を追われた長井氏は、各地にあった所領の一つである東京都八王子市に逃れてきて、高乗寺(初沢町)や廣園寺(山田町)を建立して、1504年に伊勢宗瑞(北条早雲)に滅ぼされるまでの百数十年の間、八王子市周辺を治めていました。
その当時の長井氏の本拠地は、我が家の近所にある初沢城だったと思われます。
②「諸国城郭絵図」所収「出羽国米沢城絵図」(「国立公文書館 デジタルアーカイブ」より加工して転載)

図の東側に流れている川が最上川で、その内側に城下町の地割が見えます。
いちばん外側の水堀は全周しておらず、西から南西部分は自然の川を堀と見立てていますね。
西へ向かって一直線に向かう道の先には歴代米沢藩主の廟所があります。
③「日本古城絵図」所収「米沢図」(「国会図書館 デジタルライブラリー」)より加工して転載)

こちらはもっと広く取った図で、福島県会津地方からはるばる山を越えてくると、この図に描かれている米沢盆地の南側に出てくることになります。
天正18年(1590)に政宗が岩出山城に移ると、会津鶴ヶ城に入った蒲生氏郷の家老蒲生郷安が3万5千石で米沢城に入部しました。
ちなみに、郷安は元々は赤座隼人という六角家の部将で、六角家が滅んだ後氏郷に仕官した人物です。
氏郷が死に秀行の代になると朋輩との確執が深まり、秀行に寵愛されていた小姓の亘理八右衛門を殺害したことにより蒲生家を追放されました。
その後は、関ヶ原合戦で死亡したとも伝えられていますが、確かなことは分からないようです。
さて、慶長3年(1598)には、氏郷の跡を継いだ秀行が宇都宮に移り、鶴ヶ城には上杉景勝が120万石で入部、米沢城には景勝の側近である直江山城守兼続が入ります。
兼続は城の一部を改修し、名前も舞鶴城と呼ぶようにしました。
米沢城と鶴ヶ城との直線距離は49kmもあり、その間には深い山々が横たわっていますが、蒲生時代も上杉時代も米沢を会津の前線基地と位置付けているところが興味深いです。
ところで、120万石という大大名となった景勝でしたが、それからわずか2年後には関ヶ原合戦の敗者としてここ米沢城に30万石に極端に減らされて入ることになってしまいます。
収入が4分の1になった殿さまが家臣の城に転がり込んできたわけですね。
翌慶長6年(1601)11月には景勝が入城し、それと同時の兼続は城の大改修を始め、外郭を囲む外堀も掘られました。
『日本城郭大系』によると、米沢城の西南西約3kmの地点にある羽山(②図の西側に描かれている)の丘陵先端部分には館山城という別個の城があったのですが、兼続はこれも米沢城の一部に取り込んでおり、矢来という地名は館山城の二の丸土手の外側にあった矢来の名残です。
なお、江戸時代を通じて天守は築かれず、①図で見ると本丸の北東と北西に3階建の櫓が見えますが、これらが最も高い建物だったようです。
景勝以降、上杉家が代々城主を務めたため、奥御殿跡には上杉謙信を祭神とする上杉神社があります。
米沢には来たことがないであろう景勝の叔父謙信の銅像。

※この時の探訪ではまったく城の遺構(堀など)を撮影していないので、まだ城の見方がよくわかっていなかったのでしょうが、探訪の記録の続きを記します。
* * *
お腹が空いたので上杉城史苑で奮発して米沢牛ステーキを食べます。
米沢駅まで戻りますよ。
相生橋から最上川を見ます。

冬の最上川は寒々しい・・・
雪の降る中、30分ほど歩いて米沢駅に到着。

つづいて上山城を見に行きましょう。
⇒ 【gooブログから】上山城 ~ダメだ・・・当時のことはほとんど思い出せない・・・~【歴史活動・初期の記録③】
