2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2017年4月17日に投稿した記事です。
2017年4月15日(土)の探訪レポート
⇒ 【gooブログから】松山瓦窯跡 ~城跡に来たと思ったら古代の瓦窯跡だった~ 【常陸国”枢要部”探訪②】
志筑城跡を見つけようとして場所を間違ったのにもかかわらず、偶然古代の瓦窯跡である松山瓦窯跡を発見していい気分になった後は、今度こそ志筑城跡を探訪します。
詳細な地図は持っていませんが、カーナビを見ながら慎重に運転し、ニョロッと入った道に看板発見!

台地上へ登っていくと、元々学校の敷地だったような雰囲気の場所に到着。
雷電號を適当に止めて徒歩で近接すると、ありました!

志筑城跡!

お、意外と広い。

時計回りに歩いてみましょう。
これは西側の土塁ですね。

北側の土塁は一部だいぶ低くなっていますが、形跡は残っています。

中央には大きなクスノキが立ち、その下にはベンチなどが置いてあって憩いのスペースになっているようです。

立派な石碑がありますね。

海軍の有馬大将ってどなたかご存知ですか?

あ、なんか北側の眺望が見れるみたい。
おー、素晴らしい。

しばし散策。

説明板によると、鎌倉時代に茨城南郡の地頭職を務めた下河辺(しもこうべ)政義の館がルーツのようですね。
広さ的には当時の居館跡として適当かと思います。

政義から数えて6代目の国行のとき南朝方に付いて府中城の大掾(だいじょう)高幹と戦い、興国2年(1341)11月に国行は破れ、その後一旦は廃城になりました。
それからだいぶ経って、江戸時代の初めの慶長7年(1602)、この周辺は本堂茂親の領地となり、正保2年(1645)この場所に陣屋を構えました。
本堂氏は8500石という石高のため、ギリ大名扱いではなかったのですが、ついに明治になってすぐに1万110石となって念願の大名に列します。
この、本堂氏が大名になったというのは、実は私にとっては非常に感慨深いことなのです。
というのも、本堂氏は中世に奥州和賀郡(岩手県北上市周辺)を治めた和賀氏の一族であるのですが、和賀氏は豊臣政権による奥羽仕置によって領地没収となり、徳川大名になることはできませんでした。
ところが、それから270年後、そのときの無念を一族である本堂氏がついに晴らしたわけなのです。
和賀氏については、以前岩手に通っていた頃にだいぶ調べたことがあり、それなりに思い入れがありますので、今日は偶然にも本堂氏の陣屋跡に来ることができ、それで感慨を味わっているというわけです。
さて、時刻は8時。
今日はまだまだ行けるね。
次なる目的地である石岡市の片野城跡を目指しますよ。
さきほど城内から見下した道路から今度は反対に城を見ます。

今いる城の北側は恋瀬川の河岸で往時は深田だったようです。
深田は城の西・北・東を囲むようになっているので、この方面から攻めるのは大変でしょう。
南側には堀があったようですね。
視点を少し右にずらすと筑波山が見えます。

よし、再び出発!
⇒ 【gooブログから】片野城跡 ~流転の猛将・太田三楽斎の居城~ 【常陸国”枢要部”探訪④】
