2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2017年4月18日に投稿した記事です。
2017年4月15日(土)の探訪レポート
【gooブログから】志筑城跡 ~奥州和賀一族本堂氏、ついに大名となる~ 【常陸国”枢要部”探訪③】
志筑城跡で奥州和賀一族本堂氏に思いを馳せたあとは、片野城跡へ向かいます。
事前に手元にある『日本城郭大系』で調べたところでは、片野城跡は結構広大なので、今日は全部を見ることは不可能でしょう。
ですから、説明板を探してそれを写真に収め、その周辺をチョロッと見ることを目標にします。
しかし説明板のある場所がどこなのかも分からず、城跡へ向かうにあたり目標物も特にないので、とりあえず適当に走っていきます。
大体この辺かなー?と思いつつ、細い道を走行。
雷電號はコンパクトカーなので決して大きな車ではありませんが、普段運転しているDeathK!Nの軽ワゴンのようにクイクイと狭い場所へ入っていくのにはあまり向いていないですね。
何となくグルーっと、それらしい場所を回り、ここかな?と思って登った切り通しのような道の右手に標柱らしきものが見えました。
車を止めて確認するとやはりそうでした。
片野城跡です。

説明板もきちんとありますよ。

ここでスニーカーからトレッキングシューズに履き替えます。
詳細な探訪はしないつもりですが、城跡を歩くときはやはりそれなりの靴を履きたいです。
説明板の後ろ側へ行ってみると、郭のようなスペースになっていますね。
直進して後ろを振り返ります。

西側の視界は開けていますね。

おっと、ここは虎口でしょう。
ここでも振り返ります。

枡形状にはなっておらず、単純な坂虎口のようにも見えますが、少し屈曲しているようにも見えます。
この郭は結構広いですね。

このまま奥まで行きたい衝動に駆られますが、片野城跡探訪は早くもこれで切り上げることにします。
元来た道へ向かい、さきほどの虎口を内側から見ると土塁の様子が良くわかります。

土塁の断面は後世切ったのでしょうか。

説明板の場所まで戻ると、説明板の後ろも土塁であることが分かりました。

この説明板の場所も虎口のようですね。

説明板の前のちょっとしたスペースに雷電號を止めています。

切り通しになっていますよ。

※右手がⅣ郭、左手がⅤ郭
さて、今日は古代史がテーマなので、今回は片野城跡の場所を確認できただけで収穫とし、詳細な踏査はまた後日にしましょう。
では車へ戻ります。
上の写真の坂を下ると、すぐ右手に小さな駐車スペースがありました。

片野城跡を探訪するときはこちらのスペースに車を止めたらいいですね。
ところで片野城の歴史ですが、上の説明板に書かれている通りです。
私的には岩付城主の太田三楽斎資正が佐竹氏を頼って落ち延びてきたあとに居城した城というのがグッドです。
三楽は太田道灌の曾孫の代に当たり(正確な血縁関係は不明)、奥さんは斜陽の扇谷上杉家を支えた松山城主難波田弾正の娘ですよ。
三楽は関東を転々としながら打倒北条氏を目論み、かなりドラマティックな人生を歩んだので、映画やドラマの主人公に起用してもいいと思います。
どうも私は各地を転々としながら自分の志を曲げずにタフに生きた武将が好きで、長尾景春なんかは大好きですし、斎藤龍興とか足利義昭などにも興味をそそられます。
※この日の午後、ふるさと歴史館に行ったのですが、ちょうどそこで石岡市内の城跡についての展示をやっており、いただいた資料に片野城の縄張図が掲載されていました。それによると、説明板の位置は城内のほぼ真ん中にあたる、Ⅳ郭とⅤ郭の間の堀跡になり、説明板の後ろの土塁はⅣ郭南側の土塁、そしてⅣ郭の先にあったのはⅠ郭、すなわち本丸でした。郭の数は合計10個あります。
さて次は、もういっちょ城跡を巡ってみましょう。
⇒ 【gooブログから】柿岡城跡 ~太田三楽の次男梶原政景や伊達政宗の叔父国分盛重らの居城~ 【常陸国”枢要部”探訪⑤】
