【gooブログから】なす風土記の丘 湯津上資料館&上侍塚北古墳|栃木県大田原市 ~特殊潜行員らしく積極参加~【那須古代史探訪②】

 2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。

 当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。

 基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。

 ※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。

 ※本記事は、2017年5月23日に投稿した記事です。


2017年5月20日(土)の探訪レポート

 ⇒ 【gooブログから】那須国造碑|栃木県大田原市 ~日本三古碑の一つを見にフラッと那須に来ちゃいました~【那須古代史探訪①】

 笠石神社を出て、「なす風土記の丘 湯津上資料館」を目指します。

 目指します、といっても車ではすぐ。

 駐車場に入ると、なんか想像と違って車が多く、駐車場にいた職員の方(後で聞いたら館長さんということでした)から「今日のに参加される方ですか?」と尋ねられたので、「あ、いや、通りすがりの者ですが、今日は何かあるんですか?」と逆に聴き返してしまいました。

 ひとまず駐車場の隅に雷電號を駐めさせていただきます。

 敷地内には民俗資料館も建っており、左手が「なす風土記の丘 湯津上資料館」です。

 

 「大田原市」と書いてありますが、そうか、私は大田原市に来たんですね。

 

 と、素っ頓狂なことを言っているように思われるかもしれませんが、そもそも私は一体どこへ来たのかあまり考えていなかったのです。

 本当に行き当たりばったりな歴史探訪なわけですが、資料館のある場所は元々は湯津上村といいました。

 ※あとで調べたら、湯津上村は2005年に大田原市に編入されたのですが、なんと、明治22年(1889)4月1日の町村制施行以来、一度も合併をしたことのない独立不羈な自治体だったのです!

 資料館のコンテンツはこのようになっています。

 

 付近の歴史案内図も建っていますよ。

 

 さて、受付に行ってみると10人以上の方々が集まっています。

 受付で「たまたま東京の八王子というところから来たんですが・・・」と、今日の催し物について聴いてみると、付近の古墳を資料館の方が案内してくれるということだったので、「私も参加させてください」と頼んで今日の集まりに加わらせていただきました。

 東国を歩く会では、N島さんに「特集潜行員」と呼ばれていますが、私は結構厚かましいので、楽しそうな集団には積極的に加わってしまうのです。

 というわけで、今日の集まりはこれです。

 

 資料館のガイドボランティアを養成する一連の講座のうちの第3回目ということらしいですね。

 私は資料館を見学した後、近辺の古墳を見ようと思っていたので、まさに渡りに舟でした。

 午後は下野国府跡や国分寺跡へ行ってみたいので、午前の資料館の展示解説と付近の古墳歩きだけ参加させていただくことにします。

 最初は資料館の解説です。

 十数名の地元の方々に混ざって最後列から解説を聴こうと思っていると、「今日は東京の八王子市から参加された方もいまして」と言われてしまって、これでは潜行していることがバレてしまいますね。

 いや、別にここに来ていることがバレると不味いということはありませんよ。

 ちゃんと妻にも行き先を告げています。

 写真撮影はNGなので写真はありませんが、資料館は上(かみ)と下(しも)の両侍塚古墳に隣接し、先ほど拝観してきた「那須国造碑」も至近にあることから、そららが目玉となっています。

 つづいて、企画展示の解説もしていただき、いよいよ待ちに待った古墳歩きです。

 さきほどここに来るときに視界に入った古墳があったのですが、下侍塚古墳だったんですね。

 

 まずは、資料館から南の方角にある上侍塚古墳まで南下するようです。

 ちょうど横を歩いていた私と年齢が近そうな方に話しかけると、資料館へは公共交通機関を使って来る場合とても不便で、資料館のすぐ近くまで来る市営バスは駅とつながっておらず、その方(S藤さん)はそれとは別のバスのバス停から歩いて1時間かけて通っているそうです。

 そして他の参加者の方もおっしゃっていましたが、こんな素晴らしい史跡とそれを丁寧に説明している資料館があることを地元の方も意外と知らないそうです。

 もちろん、地元の方のみならず、私のような歴史好きにももっと知って欲しいなあと思います。

 歩いていると、遠くに大きめの古墳が見えてきました。

 

 上侍塚古墳ですね。

 その左手には小さな前方後円墳のような墳丘も見えます。

 

 上侍塚北古墳です。

 

 上侍塚北古墳の前で立ち止まりました。

 

 まずは上侍塚北古墳の解説からですね。

 学芸員の鈴木志野さんがポータブルなホワイトボードを使って解説を始めます。

 どんなことを説明しているのかというと、上侍塚北古墳の墳丘の土の中には、すぐ横の元々は地表だった部分の土が検出されていることから、周溝を掘った土で墳丘を造ったということが分かるという話をしているところです。

 主として前方後円墳の新旧を見た目で判断するうえで、おおざっぱな見方が2点あるのですが、つづいてそれについても説明いただきました。

 

 絶対そうとは言い切れないので、あくまでも傾向として考えていただきたいのですが、まず、古い古墳は前方部の幅が細く直線的です。

 一方で新しい古墳はくびれが強調されます(ただし、畿内の最古級の古墳<例えば箸墓古墳>は、前方部が三味線のバチのように開いています)。

 そしてもう一点、古い古墳は前方部と後円部の高低差がかなりあるのに対し、新しい古墳は両者の差が少ないのです(そのため、前方部と後円部の高さがそれほど変わらない古墳は、横から見ると二つの山に見えるので「二ツ塚古墳」とか「二つ山古墳」のように呼ばれていることがあります)。

 これをちょうど、かわいらしい絵で解説していただけたわけです。

 ※あとで鈴木さんの図に関してはご本人から写真掲載の許可をいただきました

 でも古墳自体その名のとおり古いものなのに、「古い古墳」とか「新しい古墳」という言い方は(私もしますけど)面白いですね。

 そういえば、石室を見ると「古臭い」とか「最新鋭でカッコいいねえ」とか思うことがありますよ。

 古墳時代前半は竪穴式石室なので、非常に原始的という感じがするんですが、後半は横穴式石室になって、とくに切石積みの石室は近世城郭の石垣に匹敵するくらいの美しさがありますし、終末期の古墳はかなり仏教の影響がデザインにも現れており、当時のことを想像すると、流行の最先端である仏教の要素を取り入れてかなりモダンだったんだろうなあと思います。

 ところで、上侍塚北古墳は、全長が48.5mの前方後方墳です。

 遠目には前方後円墳に見えたのですが、ここは何を隠そう、前方後方墳の聖地である那須地方なので、本日のファースト古墳は前方後方墳でした。

 上侍塚北古墳の特徴としては、葺石が無く、周囲からは赤色顔料が付着した有段口辺壺(ゆうだんこうへんつぼ)が見つかっていることから、古い形式の古墳であることが分かります。

 古いというのは、具体的には3世紀後半から4世紀前半の可能性があるかもしれません(私見)。

 東国の初期古墳は埴輪を並べず、底に穴のあいた壺を並べることがあります。

 その壺が那須地方では「有段口辺壺」であり、例えば東国の古墳の中でも最古級である群馬県高崎市の元島名将軍塚古墳では「二重口縁底部穿孔壺(にじゅうこうえんていぶせんこうつぼ)」が並べられていたわけです。

 

 ↑高崎市歴史民俗資料館所蔵の元島名将軍塚古墳出土二重口縁底部穿孔壺

 それでは次は、侍塚古墳群の中で最も大きい、上侍塚古墳へ行きますよ。

 ⇒ 【gooブログから】上侍塚古墳|栃木県大田原市 ~全国屈指の大型前方後方墳~【那須古代史探訪③】

 

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