2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2017年5月25日に投稿した記事です。
2017年5月20日(土)の探訪レポート
⇒ 【gooブログから】なす風土記の丘 湯津上資料館&上侍塚北古墳|栃木県大田原市 ~特殊潜行員らしく積極参加~【那須古代史探訪②】
古墳時代初期の前方後方墳である上侍塚北古墳を見た後は、すぐ南にある上侍塚古墳へ向かいます。
おや、上侍塚古墳から大勢の人々が降りてきますよ。

※後で知ったところでは宇都宮大学の生徒さんたちでした
左手には那珂川が流れており、私たちが歩いている場所は段丘の上になります。
上侍塚古墳の前に来ました。

さきほど遠景を捉えましたが、近くに寄ると何だかよく分かりませんね。
上侍塚古墳には説明板がありますよ。

図面を拡大します。

ご覧の通りの前方後方墳。
後方部の墳頂は正方形ではなく長方形なんですよ。
あと、段築はないようですね。
西側の田んぼは周溝の名残でしょうか?

ここで学芸員の鈴木さんの解説を聴きます。
上侍塚古墳は上の説明板にも書かれている通り、墳丘長114mの前方後方墳で国指定史跡です。
前方後方墳で100m級というのはかなり大きい部類に入り、栃木県内では足利市の藤本観音山古墳についで2番目、全国を見渡しても7番目に大きい古墳なのです。
あ、ちなみに藤本観音山古墳の墳丘長は117mなので僅差ですね。
周溝は私たちが古墳に近接してきた北側には痕跡がなく、東側はすぐに那珂川の段丘崖となってスペースがないため、そもそも周溝はなかったんでしょうか。
西側の田んぼの地割は何となく周溝の形をかたどっているようにも見えますが・・・
それでは、墳頂へ上がります。

墳頂の中央は少し窪んでいて、元禄期の調査の痕跡の可能性があります。
元禄期の調査というのは、那須国造碑のページに書いたことと関連しますが、黄門様が那須国造碑の存在を知った時に、おそらく碑の近くに国造の墓があるだろうと考えたわけです。
でも、黄門様は忙しい人なので自ら古墳に張り付いて調査をするわけにいかず、地元の大金重貞らがこの上侍塚古墳を発掘調査しました。
黄門様の発掘指示は非常に近代的で、担当者に遺物は一点一点スケッチさせ、きちんとした報告書を作成させたのです。
ですから、この地は「日本考古学発祥の地」とも呼ばれているんです。
こういう場所で黄門様の仕事を引き継いで働いている鈴木さんたちは幸せだろうし、とても誇れることだと思います。
さて、前方後方墳の墳頂へ上がった場合、一番見るべきポイントは、後方部の角の部分です。

もちろん現在の古墳は復元されたものもあるのですが、私はこの部分が綺麗であればあるほど「エッヂが効いてる」と喜ぶのです。
上侍塚古墳の後方部のエッヂは結構良い線行ってますよ。
参加者の方が侍塚という名前の由来を聞いていましたが、将軍塚という名前はよくありますが、侍塚というのは聞いたことがありません。
後方部から前方部を見下ろします。

かなり高低差がありますよ。
スペック的には後方部の高さは12mで、前方部が7mなので、5mも高低差があります。
角度を変えてみると、中世城郭の土塁のように見えますね。

さて、今日は集団行動なので、皆さんが退却するのに私だけ前方部の墳頂へ行くわけにはいきません。
参加されている方からも質問が相次ぎ、結構盛り上がってしまったので時間が押してしまっているようです。
急いで下侍塚古墳へ向かいましょう。
⇒ 【gooブログから】下侍塚古墳|栃木県大田原市 ~水戸黄門の遺志を偲ぶ美しい墳丘~【那須古代史探訪④】
