【gooブログから】那須国造碑|栃木県大田原市 ~日本三古碑の一つを見にフラッと那須に来ちゃいました~【那須古代史探訪①】

 2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。

 当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。

 基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。

 ※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。

 ※本記事は、2017年5月12日に投稿した記事です。


2017年5月20日(土)の探訪レポート

 5時に起床し、5時半に出発です。

 遠方に出かけるときは5時に出発することが多いのですが、昨日は寝たのが遅かったので、睡眠時間をどうしても4.5時間は確保したかったためいつもより30分遅い出発となりました。

 天候は快晴、絶好の歴史めぐり日よりです。

 今日も雷電號には活躍してもらうよ。

 

 今日は以前から行きたかった、下野国府跡や国分寺跡をメインにめぐろうと思ったのですが、急に那須地方に行ってみたくなりました。

 那須地方も以前から興味があり、書物を読んだ知識によって、皆さんにお話をするときに「栃木県内でも元々は違う国であり文化が独特」と話しているのですが、実際に現地に行ったことがないのでやはり現地へ行ってみたいのです。

 そのため、事前調査がほとんどできていないものの、那須と言えば「日本三古碑」の一つである「那須国造碑」であろうと思い付いたので、まずは碑がある笠石神社を目指すことにします。

 圏央道は今日も順調に巡航できます。

 久喜白岡JCTからは東北道に入りますが、我が家の至近にある高尾山ICから高速に入ると奥州へも楽にアクセスできるようになったため、近いうちに奥州へも行ってみたいです。

 笠石神社へは矢板ICで降りるようなので、宇都宮ICを越えた後、矢板ICの手前にある上河内SAで休憩を取ります。

 

 時刻は7時半なので、だいたい2時間くらいでここまで来れるんですね。

 上河内SAから直線距離で50kmも行けば、福島県、つまり奥州に入ります。

 雷電號の配備により、「浅い南奥」も日帰り調査の行動範囲として認識できました。

 ちなみに上河内SAにはこんなお店が入っています。

 

 休憩を済ませ再び出発。

 矢板ICを降りた後は、峠をいくつも越えるなどして笠石神社は意外と遠い。

 普段のお掃除のお仕事ではカーナヴィは使わないのですが、こうやって旅に出た時はカーナヴィは必須ですね。

 カーナヴィのお陰で無事に笠石神社へ到着しました。

 

 時刻は8時半です。

 お、説明板がありますぞ。

 

 説明板の写真を拡大します。

 

 私は記念すべき第一回那須探訪で、まずはこの「那須国造碑(なすくにのみやつこひ)」を見たかったのです。

 でも境内を歩いてみてもどこにもありません。

 ちなみに「日本三古碑」の一つである多賀城碑は昨年の5月13日に見ています。

 

 多賀城碑は覆屋の中にあって、写真を撮るのは難しいです。

 

 ちなみに、もう一つの日本三古碑は群馬県高崎市にある「多胡碑」ですが、私はまだ見ていません・・・

 那須国造碑は、このお堂の中にあるようですね。

 

 どうも見るためには社務所にお願いする必要があるようなので、社務所へ向かいます。

 あ、猫ちん!

 

 社務所へお伺いすると奥様がいらっしゃり、「那須国造碑」を見たい旨を伝えると宮司さんが来てくださいました。

 拝観料は500円です。

 はじめ宮司さんから碑についての解説があり、当初は20分くらいの説明ということでしたが、私は好奇心が旺盛なためついついオーヴァーしてしまいました。

 さて、碑は江戸期には横倒れになって放置されており、地元の人たちもその存在は知っていたものの、近づくと良くないことが起きると言われており、ずっとほっぽられていました。

 ところが、延宝4年(1676)4月に岩城出身の旅の僧である円順がこの地へやってきてその噂を聴きつけ、その場所を訪ねたことにより、この日本古代史上記念すべき碑の発見へと繋がるのです。

 

 ●黄門様はテレヴィジョンの中でなくても偉い人だ

 円順が碑を見てみるとどうも高貴な人物の石碑のように感じます。

 さすがお坊さんだけあってそういった勘に優れていたであろう円順は、里正大金重貞の屋敷を訪ね、このことを報告。

 重貞は学者としても名が知られていた人物であり、碑を実見するために現地へ向かいます。

 そして苔を落として良く見てみると、何と文字が刻されているではないですか。

 重貞はその後、碑の調査を進めたのですが、天和3年(1683)6月に水戸藩の水戸光圀、いわゆる黄門様がこの地にやってきたのをチャンスととらえた重貞は、黄門様に自著『那須記』を献上します。

 黄門様は自ら日本の歴史をまとめた『大日本史』を編してしまうくらい非常に歴史に造詣が深かったため、碑について大変興味を持ち、歴史的な重要性を察知しました。

 また当時の人としては珍しく文化財の保護にも理解がある人だったので、碑を護るためにお堂を建ててくれたのです。

 それが元禄4年(1691)のことでした。

 そして翌年、碑を御神体として笠石神社が創建されたというわけです。

 ところで、今まで私は「那須国造碑」を「見る」と表現していましたが、碑は笠石神社の御神体ということなので「見る」という表現は不適切であり、今後は「拝する」という言葉を使います。

 ちなみに、黄門様の指示で大金重貞とやり取りをしたのはドラマでも有名な助さんですよ。

 と言うと、ちょっと違うかもしれませんが、助さん・格さんはモデルとなった人物がおり、助さんは佐々介三郎宗淳、格さんは安積澹泊がモデルであり、宗淳と重貞がやり取りした手紙が今も残っています。

 さて、碑は明治44年に国宝に指定され、戦後一旦重要文化財に下がったものの、昭和27年に再度国宝に指定されました。

 「日本三古碑」の中では唯一の国宝です。

 では、その国宝那須国造碑を拝ませていただきたいと思います。

 碑は先ほど境内を歩いたときに思った通り、この中に安置されています。

 

 御神体なので当然のことながら写真撮影はダメですよ。

 碑は日本の古代史を解明する上で非常に貴重な文字資料なわけですが、この花崗岩に刻した文字が大変美しいことから、書画の方面の方々からも絶賛されているそうです。

 確かにとても綺麗な文字で、しかもジーッと見ていると、薬研掘り(断面を見るとV字になっている)で掘られているせいか光が反射して文字が浮き出てくるのです。

 すごい、1300年前に3D技術を駆使しちゃったよ!

 使われている漢字自体も現在の字とは微妙に違うものがあって、それを探すのも楽しいですよ。

 

 ●那須国造碑とは何か

 さて、ではこの碑は一体何なのかというと、那須国造に任じられていた那須直韋提(なすのあたいいで)の子とされる意斯麻呂(おしまろ)たちが、亡き父を顕彰するために造営した墓碑です。

 そのため、碑には韋提を顕彰する言葉が刻されているわけですが、その中に古代史のロマンがたくさん含まれているのです。

 まずは、のっけから出てくる「永昌」という元号ですが、これは日本のものではなく唐の国で使われたものです。

 西暦にすると689年に当たるのですが、しかも永昌は10ヶ月しか使われなかった元号で、日本国内の全史料をあたってもここにしか出てきません。

 さらに文章自体とても難しい漢文なので、当時この文章を考えることができた人はやはり渡来人と考えて良いでしょう。

 その証拠に、この笠を頭にのっけた形状の碑は、新羅の500年代の碑として半島に5~6個あるそうです。

 

 ●「評」と大化改新

 そして私が最も惹かれるのは「評」の一文字です。

 『日本書紀』を読むと、645年以降の大化改新にて日本国内では「国-郡」という行政区画がすぐにも完成したような印象を受けるのですが、それがきちんと制度として確立するのはまだまだ数十年かかったと考えるのが現在の一般的な考え方です。

 以前は大化改新当初から「郡」という行政区画があったとされていたのですが、戦後の研究により、どうも当初は「評」と呼ばれていたらしいことが分かってきました。

 「郡」も「評」も「こおり」と読むので読みは一緒なんですが、郡の長官は郡司であり、評の長官は評督(こおりのかみ)と呼ばれていたのです。

 いつから評が郡になったのかとか、そもそも評って信用していいのかとか、喧々諤々の議論があったところ、那須国造碑に「評」が使われていることと、奈良平城京で見つかった木簡などの考察から、大化改新によって発足した孝徳政権によって「天下立評」が行われ全国に「評」という行政区画が誕生し、その後それらが「郡」に変わったことがはっきりしました。

 ちなみに、国造(くにのみやつこ)というのは大化改新以前の蘇我政権の時代に列島各地を治めた有力者で、彼らはまだ半独立的な勢力で、彼らがいるがために中央政府は地方から直接税金を取ることができなかったのです。

 大化改新のコンセプトのなかでもっとも重要なのはそういった地方の有力者の支配を解体させ、中央集権的な国家を作ることでした。

 つまり列島各地から直接税金を取りたかったのですね。

 そして列島各地の中でもとくに東国の支配を強化しようとしたことが読み取れます。

 ですので、国造という人たちは大化改新後は評督、そして郡司へと、つまり「地方の王」から「地方公務員」へ転換して行ったわけですが、碑で顕彰されている国造の韋提は689年に評督に任じられたわけなので、大化改新以降の行政改革の進行度合いはそれほど早くなかったことが伺えます。

 なお、国造という役職はその後も完全に無くなったわけでなく、旧来の権力者が宗教面を引き継いで存続したケースもありました。

 というわけで、予備知識が無く来たため、宮司さんから聴いた内容の受け売りと、以前から大変興味を持っている大化改新前後の知識を織り交ぜてご説明しました。

 

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