※本現地講座は無事終了しました。本ページでは、現地講座の開催内容を振り返ってご報告します。
講座概要
北海道は広大なため、旅行会社のツアーはもとより、AICTでも広範囲をめぐることが多いです。
今回はそんな北海道において、道央の「比較的」狭い地域の遺跡や展示施設を集中的にめぐります。
まず、テーマの一つ目は「橄欖(かんらん)岩」です。
橄欖岩は、地球の表層下にある人類未踏のマントルが地表面に現れたものとされ、国内でそれをみることができる場所は限られています。えりも岬に近い様似町の「アポイ岳ジオパーク」の一部をめぐり、橄欖岩を観察してみましょう。
つぎに、北海道では縄文時代に続いて続縄文時代が栄えましたが、縄文後期の周堤墓群から始まって続縄文時代にかけて独特な墓制が発達します。また、7世紀には末期古墳も造営されます。そのような、北海道の墓制や墳墓もテーマの一つです。
そして、アイヌの族長として有名な歴史上の人物として、コシャマインとシャクシャインがいますが、今回めぐる日高地方は、江戸時代前期に活躍したシャクシャインの本拠地です。江戸期におけるアイヌと松前藩との関係などを知り、アイヌと和人との関係を考えてみてください。
道央には多くの人に知られていない遺跡や資料館がまだまだあります。旅行会社のツアーでは行かない場所ばかりですので、この機会に道央の歴史をさらに深く理解しましょう。
なお、北海道の旧石器時代から土方歳三が活躍する幕末にいたる歴史は、本サイトのこちらをご覧ください。かなりの分量なので、興味がある方は気合を入れて読んでください。
※多少の上り坂や階段はありますが、登山はありません。
※本現地講座を企画した段階では、各館の休館予定はチェックしていますが、もし臨時休館になってしまった場合は、他の箇所で代替させていただきます。
※各館に展示してある遺物に関しては、タイミングによっては他館へ貸出している可能性がありますが、その場合はご了承ください。
※本現地講座は自動車でめぐります。
本講座のテーマ
AICTの掲げるテーマの内、本講座は主として「◎」に該当します。
| 旧石器時代 | 日本人のルーツと列島文化の始まりを探る | |
| ◎ | 縄文時代 | 土器と土偶を楽しもう・列島各地の多様な縄文文化に触れる |
| ◎ | 続縄文時代 | 末期古墳 |
| 弥生時代 | 列島各地における国ぐにの発生と邪馬台国の謎を追う | |
| 古墳~飛鳥時代 | リアル日本書紀・ヤマト王権の確立と古代国家成立への軌跡を探る | |
| 古墳~飛鳥時代 | 列島各地の古墳をめぐろう・諸国古墳探訪 | |
| 奈良~平安 | リアル続日本紀・列島各地に残る律令国家を見る | |
| ◎ | 奈良~平安併行 | 擦文文化 |
| ◎ | 中近世 | アイヌ文化 |
| ◎ | 岩石 | 橄欖岩、アオトラ石 |
開催日
2026年9月3日(木)~5日(土)
参加メンバー
皆さま、ご参加ありがとうございました。
・MTさん
・松山さん
・勝衛さん
他、女性1名様。
以上、男性3名様、女性1名様、合計4名様。
探訪レポート
【1日目・9月3日(木)】
新千歳空港にはレンタカーカウンターがあるため、そこを集合場所にしました。集合時刻は10時5分。ただし、ANAで来ると到着口から近いですが、JALで来ると一旦建物の外に出て少し歩かなければならず、ちょっと分かりづらいです。北海道は広大なのに、なぜか空港の建物はせせこましい感じがして不思議です。
※ちなみに、北海道を含めて雪の多い地方の博物館や資料館は冬季は休館や開館時間短縮の場所が多いです。訪れる際にはその辺を必ずチェックして予定を立てるようにしましょう。

① ウサクマイC遺跡|千歳市
ウサクマイC遺跡は、国史跡・ウサクマイ遺跡群を構成する遺跡のひとつです。「烏柵舞橋」という橋があるので、漢字ではそう書くようですが、遺跡名は片仮名です。
ウサクマイ遺跡群は、千歳川と内別川(苗別川)の合流地点近くの両川に挾まれた東西方向に細長く延びるウサクマイ台地上部とその裾部の川岸に展開しています。昭和の初め頃、河野広道が遺跡を確認して以来、7次に渡る調査が実施され、縄文時代早期からアイヌ文化期までの様々な時代の遺跡が見つかりました。A遺跡からW遺跡まで23ヶ所ありますが、B遺跡とN遺跡は国史跡に含まれていません。
今回は、ウサクマイC遺跡を訪れました。千歳川右岸で擦文時代の79基(現地説明板では75基)の竪穴住居跡が検出されており、森の中に竪穴住居跡の明瞭な窪みが残っています。

その一部分が見学コースとして整備されています。住居跡の窪みがたくさん展開している光景を見ると、北海道の遺跡に来たことを実感しますね。

窪みの形状はパッと見は円形ですが、擦文時代の住居の平面プランは方形です。そして、それ以前の続縄文時代の住居には炉が設置されていましたが、擦文時代になると炉に加えて南側に竈を設置するようになります。ただし、炉跡も竈跡も残っていません。
見学コースは平坦ですし、ゆっくり見ながらでも5分もあれば一周できます。ただし、北海道の遺跡めぐりはヒグマに遭遇する危険があり、千歳市によると本遺跡近くでも目撃情報が多発しているとのことですので、複数人で大声で話しながら歩くことをお勧めします。
すぐ近くを流れる千歳川は水量が豊富な印象を受けました。

なお、ウサクマイC遺跡は千歳川右岸に所在しますが、ここから1㎞ほど東の内別川右岸に所在するウサクマイA遺跡では、28基の墓壙が検出され、珍しい遺物としては、縄文時代晩期の男性土偶や擦文時代(平安時代併行)の鞘付の蕨手刀(わらびてとう)があり、千歳市埋蔵文化財センター展示室に展示されています。
土偶は原則的に女性を象ったものとされますが、この板状土偶は男性器のようなものが造形されていて、胸や正中線の造形もないことから全国的にも稀な男性土偶とされます。

一方、蕨手刀自体はそれほど珍しいものではありませんが、ウサクマイA遺跡では鞘に入っていた刀身と刀身のみの2振りが見つかり、鞘部が良好に残っていることが珍しいのです。
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ちなみに、蕨手刀の分布図は下図の通りで、東日本に多いことが分かります。

蕨手刀は地元で作るものではなく、経済力にモノを言わせて交易でゲットした人もいますが、原則的には朝廷から下賜されて入手するものです。上図を見ると、北海道では石狩低地帯に多く分布していますが、平安時代初め頃の石狩低地帯の首長たちは京都の朝廷と緩く繋がっていたと思われるので、朝廷から下賜されたものも多かったのではないでしょうか。平安時代になる少し前からは、日本人のフロンティアたちが石狩低地帯への進出を始めています。
道東・道北でも見つかっており、網走市のモヨロ貝塚や枝幸町の目梨泊遺跡などはオホーツク人の著名な遺跡です。オホーツク人の場合は、交易によってゲットしたか、あるいは戦争によって奪ったと考えられます。
また、ウサクマイA遺跡のすぐ東側にあるウサクマイN遺跡(国史跡範囲外)では、9世紀前半のオホーツク土器が出土し、千歳市埋蔵文化財センターに展示されています。この周辺ではオホーツク土器の出土はなく、大変珍しいものです。

さてここで、「擦文時代」や「続縄文時代」、それに「オホーツク人」といった聴き慣れないワードが出てきました。北海道の時代区分は本州~九州とは異なるのです。下図が分かりやすくて良いです。
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なお、今回探訪する範囲ではオホーツク文化やその後継のトビニタイ文化は関係ありません(上述のウサクマイN遺跡出土のオホーツク土器は例外です)。それらは、道東や道北に行ったときに重要になります。道東や道北には一時期、オホーツク人という日本人ではない人たちが住んでおり、そういう隠れた歴史があることが北海道の堪らない魅力のひとつなのです。
ランチ:道と川の駅 花ロードえにわ こな雪とんとん
個人的に気に入っているカレー屋にご案内しました。北海道は米も野菜も何もかもが美味しいですが、更にその上に希少な放牧豚「こな雪とんとん」のでっかいベーコンが乗っかったこのカレーが好きです。


② 千歳市埋蔵文化財センター展示室|千歳市
千歳市長都42-1 0123-24-4210 9:00~17:00 原則土日祝休館

千歳市内の遺跡から出土した考古遺物を展示。遥か昔の千歳がまだ海底だったころの話から始まり、旧石器や縄文時代から擦文時代までの土器などを展示しています。擦文時代や近世アイヌ・近世和人の墓についても解説しています。

キウス周堤墓群に関しては専用コーナーで詳しく解説。

当館のスター遺物である美々4遺跡出土の動物型土製品。愛称は「ビビちゃん」です。ただし展示されているものは複製品で、本物に出会える機会はあまりありません。

同じくスター遺物のママチ遺跡出土の土面も複製品です(実物は北海道埋蔵文化財センターに展示)。


③ 史跡キウス周堤墓群ガイダンスセンター|千歳市
千歳市中央1473-1 0123-21-9130 9:00~17:00(11月は16:00) 4月下旬から11月下旬の間に開館しその間無休
その名の通り、キウス周堤墓群のガイダンスです。以前は、プレハブ小屋のような簡素な佇まいでしたが、昨年(2025年)4月25日に立派な建物がオープンしました。

ガイドさんがいらっしゃり、詳しい説明を聴くことができました。


④ キウス周堤墓群|千歳市
縄文時代後期の遺跡。世界遺産にもなっていますし、旅行会社の世界遺産ツアーでは必ず訪れるので、今回の参加者の中にもすでに行ったことがある方もいらっしゃいますが、千歳市内の遺跡としては外すことができないので訪れました。
周堤墓(しゅうていぼ)というのは、周りをドーナツ状の堤で囲んだ集団墓地です。石狩低地帯に集中し、道内他地域にもわずかながら見られる北海道独特の遺跡で、縄文時代後期の中の約300年間という短い期間に集中して造営されました。
北海道各地の周堤墓群のなかでもキウス周堤墓群は最大規模を誇ります。写真だと分かりづらいですが、窪みのように見えるのは、周りに堤がめぐっているためです。

周堤墓は単独では存在せず、複数基が隣接して一定期間並存したと考えられ、その期間、その場所は墓域として利用されました。キウス周堤墓群の場合は9つも周堤墓が集まっており、はっきりとした年代は言えませんが、イメージ的には100年くらいの間にこれらの周堤墓を作ったとされています。
最大の1号周堤墓の外径は何と83ⅿもあり、2号周堤墓は73ⅿもあるのです。縄文人は石器を使ってかなりの土木工事をこなしたのですね。
キウス周堤墓群の配置は下図の通りで、4号周堤墓は国道337号によって串刺しになっています。見学コースとして整備されているのは、国道東側(右側)部分で、6号周堤墓と14号周堤墓は含まれていません。ガイダンス施設や駐車場は2号周堤墓の南側にあります。
AICTでは、2021年9月3日に第16次現地講座で訪れています。個人的に最後に行ったのは、2022年8月6日で、私にとっては今回は5度目の探訪でしたが、4年ぶりに訪れて見ると木道の整備が進み、5か所に「見学ポイント」として説明板が設置されており、以前と比べて見学しやすくなっていました。

さて、キウス周堤墓群の存在は明治末期には知られていましたが、当初はアイヌのチャシ跡だと思われていました。ところが、1964年以降の調査により、縄文後期の集団墓地であることが明らかになったのです。
4・5・12号周堤墓の西側には南北方向に道状遺構が見つかっており、南300mの地点にあるキウス4遺跡と繋がっていたようで、両遺跡は一体のものと考えられます。
キウス4遺跡の縄文時代後期後半の住居は、円形で掘り込みがほとんどありません。周堤墓も作られていますが、住居と規模が同じであるため、住居をモデルとして周堤墓が発案されたとの考えがあります。キウス4遺跡は周堤墓発生の候補地のひとつで、周堤墓は堂林寺式土器の分布域に拡散していきました。キウス4遺跡の周堤墓はしだいに大型化しますが、大型化した後にキウス周堤墓群へ墓域が移ったと考えられます。
北海道にもいわゆるストーンサークルがいくつか散見できますが、周堤墓が造られた地域は、配石遺構や環状列石の分布域と重なることはなく、北海道内においても地域によって異なる墓制が発達したことが分かり、それらのお互いの関連性は分かっていません。
ちなみに、2021年に世界遺産となった「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産のうち、北海道の遺跡はキウス周堤墓群を含めて下記のとおりです(これらの加え、関連資産として森町の鷲ノ木遺跡があります)。
・垣ノ島遺跡(函館市)
・大船遺跡(函館市)
・北黄金貝塚(伊達市)
・入江貝塚(洞爺湖町)
・高砂貝塚(洞爺湖町)
・キウス周堤墓群(千歳市)
どこも素敵な遺跡です。まだ訪れたことが無い方は、初心者であればクラツーなどの旅行会社のツアーに参加するのが楽ちんでお勧めです。よりマニアックで、少し変わったツアーに参加したい方は、ぜひAICTにリクエストをください。

⑤ 北海道博物館|札幌市
札幌市厚別区厚別町小野幌53-2 011-898-0466 9:30~17:00(16:30) 月曜休館

北海道についての総合的な博物館です。常設展示にあたる総合展示は、「北東アジアのなかの北海道」と「自然と人とのかかわり」をコンセプトに、北海道の自然・歴史・文化を5つのテーマに分けて紹介しています。
5つのテーマのうち、本現地講座と関連が深いものとしては、「第1テーマ 北海道120万年物語」と「第2テーマ アイヌ文化の世界」が当てはまります。
「第1テーマ 北海道120万年物語」は、旧石器時代から現代にいたる北海道の歴史を考古遺物やパネル展示などで詳しく説明しており、ここに来れば北海道の歴史の全体像が分かるようになっています。考古遺物は複製品が多いのですが、美術鑑賞ではないのでそれほど問題ではありません。

「第2テーマ アイヌ文化の世界」は、モノを展示するだけでなく、その歴史背景や現代のアイヌの人たちについても詳しく説明しており、アイヌについて知りたい人は必訪です。
私たちが訪れたときは、世界遺産登録5周年記念展示「北海道・北東北の縄文遺跡群とカックウ・ビビちゃん&その仲間たち」が開催中で、函館市・著保内野遺跡出土の国宝土偶「カックウ」と上述の「ビビちゃん」を展示していました。ただし二つともレプリカです。

AICTの場合、博物館を見学する際に私が順番に解説しながら館内を歩くことは稀です。特にここのような総合博物館の場合は、参加者によって深い興味の対象が異なるため、基本的には皆さん自由に見ていただいています。私と話しながら見学したい方は私の傍にいますし、質問がある場合に私の元に聴きに来る方もいます。あるいは、必見の展示があった場合は、私の目に届く範囲にいる方へは私から声を掛けます。
ここのように大きな施設の場合は、最初は一緒にいてもそのうちバラけてしまい、飽きるのが早い方はロビーや外で待つことになりますが、私は知識欲・好奇心が旺盛な方のペースに合わせますのでご了承ください。
今回は見学時間に1時間半確保しましたが、展示のヴォリュームが多くて、かつ内容が素晴らしいので、私個人はほとんど「第1テーマ」の見学だけで終わってしまいました。
宿泊:新苫小牧プリンスホテル「和~なごみ~」
AICTでは、宿は私の方で「〇〇駅の徒歩圏でお願いします」と伝え、参加者は好きな場所を取っていただくようにしています。食事の有無や大浴場の有無など人によって趣向が違うからです。1泊目は、偶然皆さま同じホテルでした。

部屋は私基準では高級ビジホです。コンセントは枕元にもあります。

私はテレヴィは見ないのですが、テレヴィ画面は部屋の広さからすると適切でしょう。

お風呂はシャワーのみですが、温泉大浴場がありますのでそちらへ行くと良いです。

私は節約のために原則として朝食を付けませんが、食べたメンバーの話によると結構豪華だったそうですよ。

北海道だからと言って駐車場が無料とは限りませんが、ここは無料です。歩いてすぐの場所にセコマもありますし、このホテルはお勧めです。
飲み:和み処 華ぶた
AICTでは、日帰り版・宿泊版に関わらず皆で飲みに行くことがありますが、決して強制参加ではありません。常連のメンバーの場合は、飲むのが好きな方とそうでない方は私の方で把握しているので、私の方でデフォルトの飲みメンバーとして認識している方もいれば、絶対にお誘いしない方もいます。
初参加の方にも確認させていただきますが、はっきり言っていただかないと好きか嫌いか分からないので、曖昧な態度はご遠慮願いたいです(以前、私はそれで不愉快な思いをしたことがあります)。
さて、今回はホテル近くにある「和み処 華ぶた」にお邪魔しました。

住宅街の中にある地元の方々が集う家庭的な雰囲気の居酒屋です。

「ホッキバター」が美味しすぎてお替りしてしまいました。

北海道は貝も美味しくていいですね。
たまたま歴史好きなお客さんがいて、話が盛り上がりました。
私は地元の方々と触れ合うのが好きなのです。
〆の鮭のおにぎりも美味しかった。
【2日目・9月3日(金)】
毎回必ずというわけではありませんが、宿泊地の近くに現地講座では行かない気になるスポットがあった場合は、早朝からひとっ走りして見てくることがあります。基本的にはソロプレイです。
温泉大浴場のオープンが6時だったので、一番風呂を浴びて6時半にチェックアウト。
ところが、外に出ようとしたらいきなり結構な雨が降り出しました。
でも、にわか雨だろうと思って待っているとすぐに止んだので駐車場へ向かいます。
ふと気づくと大きな虹が出ていました。
しかも二重!

「これは瑞兆ぞ!勝利は間違いなし!者共続け!」と、意気揚々と出発しました。
いやいや、こんな早朝から付き合ってくれる人なんていませんよ。

勇払会所の跡
私は今は元々何の縁もゆかりもない東京都八王子市に住んでいます。
かれこれもう四半世紀以上になります。
「住めば都」とはよく言ったもので、長く住んでいるとそれなりに地元愛みたいなのが芽生えてくるのですが、江戸時代の八王子には戦国時代の武田の遺臣から構成された八王子千人同心という文字通り1000名からなる組織がありました。
半分農民で半分武士みたいな人たちです。
いざ江戸城が落城の危機に瀕した際、脱出した将軍を警固して甲州道中を甲府城まで送る役目がありました。
その八王子千人同心の50人は、寛政12年(1800)に蝦夷地の開拓と警備のためここ勇払にやってきました。それが現在の苫小牧市の開拓のルーツなのですが、環境があまりにも過酷すぎて、何と2年目には16名も命を落として、病気になって故郷に帰るものも多く、4年で撤退してしまったのです。
八王子市民としては、本当はここで八王子千人同心の凄まじい活躍を語りたいところですが、残念ながらこのような結末です。
この「勇払会所の跡」は、八王子千人同心が拠点とした場所ではありません。八王子千人同心の拠点から少し離れたこの場所に文化元年(1804)に新築移転された会所の跡で、幕府の役場のような機能を持っていました。

勇払会所の跡の南側を走る道道781号線から東を見ます。

画面右手にはすぐ海が迫っています。
反対の西方向。

北海道らしい景色と空気感。
というか、781号線って数字大きすぎませんか?
道道は1181号まであるのです。
北海道のスケールの大きさが分かりますね。

勇払2遺跡
勇払会所跡を出発すると、目の前に遺跡の発掘現場がありました。

実はこの道路をナヴィが指示したんですが、道路の下を掘っています。

帰宅後に調べたら、江戸時代後期の遺物が出土しており、勇払会所に関係する遺跡のようです。

勇払千人同心 苫小牧開拓記念碑
既述した通り、八王子千人同心は僅か4年で苫小牧から撤退しましたが、市役所の近くには記念碑が建っています。
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ただし、タイトルは「勇払千人同心」とあって、八王子とは書かれていません。
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勇払千人同心という組織は存在しなかったはずなので、見た人に誤解される恐れがあります。八王子市民としてはちょっとガッカリしましたが、これはこれで地元の方々が考えた結果の表現方法ですから八王子市と苫小牧市の関係を伝える記念碑として大切にしていただきたいです。なお、八王子市と苫小牧市とは姉妹都市です。
というわけで、現地講座は8時スタートですので、給油してから皆さんを迎えに戻ります。
15分前にホテルに戻ってきました。
昨日は北海道の魅力に触れ、北海道の歴史や文化の様相が大体掴めたと思いますので、今日からはいよいよ本題に入りますよ。

⑥ 植苗貝塚|苫小牧市
2日目の最初に向かったのは、縄文時代前期末から中期初頭にかけて形成された植苗貝塚です。昭和47年の道路工事の際に偶然発見されました。
建物内に貝層が展示されており、建物の外からガラス越しに見学できるようになっています。

窓に近づくと電気が点きました。

見つかった貝殻はヤマトシジミが主体で、マガキ、アサリ、ウバガイも見られます。
崖面を見ても草ぼうぼうです。

残念ながら貝殻の散布は見られませんでした。
周囲の地形を見ると落ちているのが分かり、ここが台地の先端部分であることが分かります。
事前に市に連絡しておけば建物内に入れてもらえるそうですが、そこまですることは無いかなと思って連絡していません。でも、窓の外からでも貝層は明瞭に見れたので良かったです。
ここでは住居跡は検出されていません。史跡未指定です。

⑦ 苫小牧市美術博物館|苫小牧市
苫小牧市末広町3-9-7 0144-35-2550 9:30~17:00(16:30) 月・祝の翌日休館

樽前山と勇払原野の自然および歴史・考古・アイヌ文化に関する展示があり、美術展示もある総合博物館。博物館部門の常設展示は、自然史・地学エントランスに入ると、まず実物大のマンモス親子が出迎えてくれ、アンモナイトの化石や苫小牧の地層模型、勇払原野に生息するヒグマやキタキツネなどのはく製が展示されています。
考古展示は、市内の遺跡から出土した縄文時代早期以降の土器を豊富に展示し、柏原18遺跡から出土した土偶はナイスです。

続縄文時代の遺物としては、タプコプ遺跡から出土した続縄文時代前半のクマの意匠のある浅鉢がなかなかのもので、恵山文化の特徴を表していると評価されており、静川22遺跡の頸飾りも同じく恵山文化式期の所産です。
アイヌ文化については、各種遺物と共に北海道指定有形文化財である大きな丸木舟(チプ)の実物を展示。上述した八王子千人同心の展示もありますが、「しかし、厳しい風土の中で倒れる人も多く、開拓は失敗しました。勇払には現在、ここで死んだ八王子千人同心とその家族の墓しか残っていません」という説明文が悲しいです。
なお、静川遺跡に関しては無料ゾーンにコーナーを設けてジオラマなどで紹介しています。ただし、今現在は土器の展示もほとんどなく寂しい状況です。静川遺跡は全国的に見ても大変珍しい遺跡であり、縄文マニアが知れば飛びつく遺跡ですから、立派な形にリニューアルされることを期待します。
館内の写真撮影は原則NGですが、受付で申請書を書けばOKです。
全体的に見ごたえのある良い博物館ですよ。

⑧ 静川遺跡|苫小牧市
環壕(環濠)集落と言えば弥生時代の遺構のイメージがあり、縄文時代にはそのような遺構は存在しないと考えられていました。ところが、昭和57年に静川遺跡で日本初の縄文時代の環壕が見つかったのです。それは縄文時代中期(余市式土器の時代)に構築された物でした。
※一般的に「かんごう」の「ごう」は、「濠」の字を当てますが、静川遺跡の現地説明板では「壕」の字を当てています。水堀ではないことが明確なので「壕」が妥当です。
遺跡は地図で確認したところちょっと分かりづらい場所にあります。でも、国史跡ですから国道235号線沿いに看板が出てるかな?と期待して進むとありました!
その後は北海道らしく未舗装の道路に入りましたが、所々に遺跡を指し示す看板があるため安心です。
しかし、迷わずたどり着けると思いきや!
目の前に池のような水たまりが・・・

ちょっと車で入って行くのは嫌なので、ここから歩くことにします。
北海道の大自然の中をヒグマの恐怖に怯えながら歩きます。静川遺跡は丘の上にあるはずなのですが、ずっと平坦な道が続き不安になります。
でも、5分くらい歩いたら前方に墳丘のようなものが見えてきました。

着きました!
まずは、説明板を読んでみます。
遺跡の全体はこうなっています。

私たちの目の前にある丘は、西地区の丘です。西地区からは、33棟の竪穴住居跡や土壙墓、貯蔵穴、落とし穴などが検出されています。つまりは集落跡なんですが、環壕は東地区にあります。つまり、弥生時代の環濠集落とは異なり、環壕は集落を囲むために構築されたものではないのです。
とりあえず、西地区の丘を登ると、これまた素晴らしい景観が。

振り返って、今歩いてきた道を見下ろします。

北海道らしい景色だなあ。
西地区から東地区を見ると、細尾根で繋がっているのが分かります。

しかも平坦ですね。
皆さんも追いついてきました。

東地区にも説明板があります。

東地区も環壕を含めて、現在は地表面で見られる物は何もありません。

断面V字型の環壕は、東地区をぐるりと取り囲むように総延長138.5ⅿに及んで掘られています。上幅は2〜3m、深さは1〜1.8mに及びます。台地の出入り口にあたる2ヶ所には、土橋のようなものが見つかっています。
環壕内からは、2軒の大きな建物跡が見つかりましたが、炉跡がなく、生活の臭いを感じさせません。でもなぜか、落し穴の跡は見つかっています。
いったい何のための場所でしょうか?
なお、縄文時代の環壕遺構は、静川遺跡のほかは千歳市の丸子山遺跡や恵庭市の島松沢8遺跡の計3ヶ所しか見つかっていません。こういった構築物が一般的になわったわけではなく、地域も比較的狭い範囲です。しかし、キウス周堤墓群もそうですが、北海道の縄文人はパワープレイを好みますね。本当に面白い。
さて、また車まで歩いて戻らないとなりません。
皆さん、速足なのが面白い。
ランチ:自然喰処 灯泉房
お昼は、むかわ町の「灯泉房」にお邪魔しました。
カウンター席のほか、小上がり席があります。
私は最もリーズナブルは日替わり定食をチョイス。
小鉢の数も多くて彩りも奇麗ですね。

比較的大食いの私にはおかずの量がちょっと足りませんでしたが、味はとても良いですし、お店の人の感じも良かったので、我が家の近くにあれば通いたいお店だと思いました。

⑨ 厚真町軽舞遺跡調査整理事務所|厚真町
厚真町軽舞205-2 0145-28-2733 9:00〜17:00 土日祝休館(事前連絡で対応可)

厚真町内の遺跡から出土した考古遺物や民俗資料などを展示しています。
原則として平日の日中は開館しているのですが、滅多にない偶然が重なって完全お留守でした。でも、町に電話したら急遽職員さんがやってきて開けてくれました。発掘作業中のお忙しいところをありがとうございました。
通常は、入口でこのどれかの道具を使って呼び出します。

私は見た瞬間太鼓を叩いてしまいました。

この施設の大きな特徴は、ハンズオン展示です。細かいことは書きませんが、超貴重な遺物も触れるのです。私も勿論のこと、メンバーもみな大興奮でした。

パネル展示の説明も丁寧で、作った方の情熱を感じます。
民俗関係の部屋も充実していますよ。

おっとNゲージ!
私が子供の頃は、TOMIXのコントローラーを2台持っていましたが、ここはKATOだ。

もちろん遊びました。

このように色々楽しい施設です。
見学に来る、というよりかは、遊びに来るという感覚で来れる施設ですが、基本的な展示がちゃんとしているので勉強しに来るのにも最適です。
またいずれ、個人的に再訪してもっとじっくり楽しみたいと思っています。

⑩ むかわ町郷土資料保管庫|むかわ町
むかわ町美幸3-9-3

むかわ町内の遺跡から出土した考古遺物や民具などの民俗資料を収蔵しています。常時解放している施設ではありませんが、事前に電話してお尋ねしたところ開けてくださいました。

電話した際には下の動画で解説している田代さんが対応してくださったのですが、こちらにも田代さんが来てくださりいろいろお話をお伺いすることができました。お忙しいなか、どうもありがとうございました。
この施設は元々武道場だったのを床をコンクリートに仕立て直し、町に関連する様々なものを展示しています。考古遺物コーナーには解説パネルもあります。

北海道の資料館には大抵鉄道関連の展示があって、ここにもありました。この近くには日高本線の鵡川駅がありますが、2015年の高波で大打撃を被り、鵡川駅より東の116㎞の区間が2021年3月末で廃止されました。

なお、本施設と鵡川盛土墳墓群に関しては、むかわ町教育委員会が制作したこちらのYouTube動画をご覧ください。

⑪ 鵡川盛土墳墓群|むかわ町
鵡川盛土墳墓群は、田代さんによると珍川左岸の堤防上を進んだ場所にあるということなので、ひとまず車で行ける場所まで行ってみようと思います。
堤防の前まで来ると、さらに堤防上も車で行けそうです。
もう少し行ってみます。
あ、説明板らしき白い看板が見えました。
車を停めて行ってみましょう。
ただ、そこに行くためには堀のようなものに一旦降りてから登って行かないとならず、若干傾斜がきついです。

はい、着きました。

盛土墳墓群という名前の遺跡は珍しいです。つまりは、盛土がある墳墓群のことを言っているわけですが、古墳なのでしょうか?北海道にも末期古墳は築造されており、おそらく唯一目で確認できるのが江別市の江別古墳群で、AICTでも訪れたことがあります。
最初の発掘は昭和38年に北海道大学が行い、前例のない遺構であったため「盛土墳墓群」と命名されたのです。その時の発掘調査では、周溝跡が確認されており、その後、むかわ町が発掘調査時の資料を元に検証し直しています。
結局どんな遺跡なのかと言うと、元々続縄文時代前期の土壙墓が複数構築されていた墓域に、続縄文時代の終り頃か擦文時代初め頃にいわゆる「末期古墳」が築造されたと考えられます。なお、擦文土器片も見つかっています。
写真だと分かりづらいですが、遠くにソーラーパネルが見えており、その辺までが遺跡の範囲です。

もし末期古墳だったとすると、末期古墳は群集しますので、この範囲内に複数の古墳が築造されていたと考えて良いと思います。
しかし良い景観だ!

北海道っていう感じがします。
風も強くなく、穏やかな晴れ模様で、本当に良いタイミングに来ました。
目視はできませんが、この場所は鵡川の河口近くで、したがって海も近いです。
遺跡って現地に行っても何もないことが多いですが、こういった景観を目で見て確かめることは非常に大切だと考えています。
さて、戻ろうと思いますが、ここでは車を転回できません。
土手の上をさらに進んでもナヴィ上では行き止まりだし、行った先でどうなっているかも分からないので、安パイでバックで戻ることにします。
土手の上をひたすらバックする車をもし近所の人が見たら不審がるでしょうね。
少し下がったところで遺跡を見ます。

もしかしたら、正面に見えている低い丘の上に墳丘がいくつも並んでいたかもしれません。
普通の道路に戻り、前を向いて走り出すとすぐ右手の児童公園に末期古墳のような佇まいの築山がありました。

近くに鵡川盛土墳墓群があることを意識しているかどうかは分かりませんが、末期古墳群は、こういうイメージで良いかと思います。

⑫ 沙流川歴史館|平取町
平取町二風谷227-2 01457-2-4085 9:00~16:30 月曜休館

二風谷(にぶたに)ダムの建設に伴い、昭和51年から平成8年にかけて、約20年間にわたり周囲の発掘調査が行われました。本館はその発掘調査の成果を中心として、沙流(さる)川流域の自然や考古について解説した資料館です。旧石器・縄文・続縄文・擦文時代、そしてアイヌ文化の考古遺物が大集合しています。

今回の現地講座のテーマの一つは橄欖岩ですが、ここから沙流川を遡った額平川(ぬかびらがわ)流域は、橄欖岩とは兄弟のような成り立ちのアオトラ石(緑色岩)の原産地です。変質していない新鮮な橄欖岩は鮮やかな緑色をしており、アオトラ石も緑色です。アオトラ石の露頭に行くことは難しいのですが、本館ではアオトラ石に関する展示もあります。
以前、2組催行した北出羽の現地講座で訪れた秋田県立博物館で、東成瀬村の上掵(うわはば)遺跡から出土した世界最大級の磨製石斧を見学しました(縄文前期の所産)。
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この磨製石斧は、アオトラ石で作られています。展示されている4本は実物ですが、それらの中の最大の長さ60.2㎝・重さ4.4㎏のレプリカを持たせてもらいました。
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北東北の縄文遺跡では、アオトラ石で作られた磨製石斧が見つかることがあり、何と三内丸山遺跡で出土した磨製石斧の75%は、アオトラ石で作られています。位置的には偉く遠いですが、その原産地が今回訪れる場所の近くの額平川流域なのです。その南限は、南東北にまで及び、福島県会津美里町の冑宮西遺跡や同磐梯町・猪苗代町の法正尻遺跡からも出土しています。
アオトラ石は堅くて丈夫なのに粘り気があり、磨製石斧の石材としては最高級です。見た目も大変美しいですね。本州中央部では、透閃石岩が石斧の素材となることが多いのですが、アオトラ石は、透閃石岩と並んで、「日本列島における旧石器・縄文時代における2大石斧石材だといえよう」との評価もされています(「秋田県東成瀬村上掵遺跡出土の大型磨製石斧の石材について」中村由克・吉川耕太郎/著)。

⑬ 平取町立二風谷アイヌ文化博物館|平取町

沙流川歴史館に隣接した博物館です。アイヌ文化の民具の展示がメインで、チャシ跡から出土した考古資料も展示しています。

ちょうど今は、特別企画展「萱野茂のあゆみ」が開催中でした。時間の都合で、近くにある萱野茂二風谷アイヌ資料館と平取町アイヌ工芸伝承館ウレㇱパの見学はできないので、この特別展示で萱野茂について知ることができました。
※萱野茂(かやの・しげる)は、大正15年に平取町二風谷で生まれたアイヌ文化研究者です。その当時もネイティヴなアイヌ語を話せる人は少なくなっていたのですが、アイヌ語を話す祖母のもとで育ちました。アイヌ語や民話の継承に情熱を注ぎ、アイヌの民具の保存にも力を入れました。平成6年には、アイヌ民族で初めて参議院議員となり、国会史上初めてアイヌ語で質問を行ったことで有名です。明治32年に制定された「北海道旧土人保護法」の廃止を強く訴え、平成9年の同法の廃止と「アイヌ文化振興法」の成立に繋がりました。平成18年、79歳で死去。
本ページ最後の方の「補足」もお読みください。
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文字を持たないアイヌ語を記録する上では、19歳で亡くなった知里幸恵さんがした仕事も重要です。こちらの動画もどうぞ。

⑭ 日高町立門別図書館郷土資料館|日高町
日高町富川東1-3-1 01456-2-3746 10:00~18:00(火~金)/17:00(土・日) 月曜休館

図書館に併設された郷土資料館。常設展示コーナーは沙流川をメインテーマにしており、町内から出土した考古遺物を展示しています。

図書館には、馬産地である日高ならではの競走馬関連の蔵書が充実しています。
なお、このあと、日高町内にある門別富仁家墳墓群を探しに行きましたが見つけることができませんでした。久しぶりの玉砕です。遺跡の場所や現況についてご存じの方がいらっしゃれば、ぜひ教えてください。
宿泊:静内シティホテル
私は北海道は、利尻・礼文島、奥尻島を含めて多くの場所をめぐっていますが、実は日高地方は初めての探訪です。静内の町は想像していたよりも大きいです。各地の地方都市と一緒で、現在は多くの人たちが集まるのは大型店が密集している国道沿いのようです。
そんな中で、静内シティホテルは大型店舗が密集している場所から少し離れた静内駅跡に近い場所にあります。

地方のビジホでよく見かける昭和な感じの室内です。

テレヴィ画面は小さく、ユニットバスも最小サイズですが、私的にはまったく問題は無く、値段が安いので助かります。駐車場は事前予約制で無料です。
ただ、無料朝食が付くことになっていますが、曜日によっては付かないので、その辺は事前にちゃんと確認した方が良いです。コンビニは一番近いローソンでも徒歩6~7分掛かります。
飲み:鳥一
2泊目のディナーはホテルの近くにある「鳥一」という焼鳥屋に行きました。

店内は意外と奥行きがあって結構賑わっています。カウンターの席が空いており、そこに通されました。

食べ物メニューはほぼ焼き鳥オンリーです。でも、焼き鳥が食べたくて来たので全然OK。

久しぶりに美味い焼き鳥が食べれた!

私は「タレ派」なんです。でも、私のまわりの人たちは「塩派」が多いですね。タレの場合は、そのお店独自の味が楽しめるので、その味が自分の好みだったときは喜ばしい気分になります。ここのタレは好みです。
手羽先は塩で食べましたが、これもまた美味い。

お通しの甘辛く煮付けたコンニャクが美味しいと言ったら出してくれました。

お店の奥の方で盛り上がっているグループは常連の方々で、打ち上げ兼打ち合わせをしているそうです。カウンターにも代わる代わる地元の方が来て、軽く飲み食いして帰っていきますし、テーブル席では地元のお父さんらしき人がひとりで焼き鳥をつまみにビールを飲んでいます。
カウンターに通されたため、お店の方々といろいろな話ができて楽しかった。
鳥一や静内シティホテルがあるストリートは、元々は町一番の繁華街だったそうです。いまでもスナックや居酒屋などの多くの看板がありますが、営業している店は少ないです。駐車場や空き地になっている場所にも元々はお店があったそうです。
全国どこもそうですが、やはりコロナの影響は大きく、代行会社のいくつかはそのときに無くなってしまったそうです。

おにぎりも美味しかった。
また静内に行くことがあったら飲みに行きたいです。
食事:レストラン介
静内シティホテルの1階には、「レストラン介」というお店が入っており、〆を食べに入りました。
若干、追加で飲みますが、飲み屋ではないのでつまみになりそうなものはあまりありません。
とりあえず頼んだ出汁巻き玉子は、ちょっと変わった風味がして、それが何かは酔っぱらっていたため分析ができなかったのですが、とにかく美味しい。

そして、ナポリタンも超絶美味い!

雪化粧したように粉チーズがふんだんにかかっており見た目も奇麗ですね。
このナポリタンもまた食べたい!
私の父が飲食店経営だったことも関係しますが、飲食店も本当に頑張って欲しいです。
コロナによって飲食業界は大打撃を受けましたが、全国にいる腕の良い料理人の中には現在は廃業してその技術を活かせてない人も多いんじゃないかと想像します。そういう方々が復活すれば、国民はもっと美味しいものが食べられるはずです。あるいは、今現在経営が苦しいお店も多いと思います。「食」は、人間の心を豊かにする重要な要素ですから何とかならないものかと考えたりします。
【3日目・9月5日(土)】
3日目も出発は8時です。
今日も5時に自然に目が覚めました。
ちょっと暇です。

資料の整理などをしていたら時間が経ち、7時30分にチェックアウトし、付近の散歩を始めました。
静内シティホテルや鳥一があるストリート。

静内駅跡の方へ歩きます。
駅側から見たストリートの入り口。

静内駅跡。

既述しましたが、日高本線は、2015年の高波で大打撃を被り、その後、鵡川から様似までの116㎞の区間が復旧しないまま2021年3月末で廃線になったのです。こういう掲示を見ると悲しくなります。

今は鉄道の代わりにバスが走っており、静内駅跡はバスターミナルの待合所になっています。
鉄道関連や馬関連の展示があります。

ホームには行けないようです。

美味そうなラーメン屋もありますよ。
では、ホテルへ戻ります。

目抜き通りを歩いて駅を振り返ります。


それでは、3日目はいよいよ橄欖岩に大きく迫りますよ!

⑮ アポイ岳ジオパークビジターセンター|様似町
様似町字平宇479-13 0146-36-3601 9:00~17:00 4月~10月に無休で開館

アポイ岳ジオパークの拠点施設。日本国内には、「ユネスコ世界ジオパーク」に認定されているジオパークが11ヶ所あり、アポイ岳ジオパークものそのうちの一つです。
アポイ岳の登山口に位置し、地形模型や映像を交えて解説しています。私たちのテーマ的には橄欖岩についての情報を得ることを目的として訪れました。

実際の岩石を交えて展示パネルで詳しく説明しており、ここだけでもじっくり見学するとなると結構な時間を要すると思います。職員の方も親切ですし、かなり楽しめる施設ですよ。
新鮮な橄欖岩と言われる橄欖石(「岩」ではなく「石」)が9割以上含まれた「ダナイト」も展示されています。また、この地域のアイヌ文化についても知ることができます。アポイ岳ジオパークについて詳しく知りたい方は、公式サイトをご覧ください。
ところで、「アポイ」は、アイヌ語の「アペ・オ・ポイ」で「火のあるところ」ですが、標高810ⅿのアポイ岳は、火山によって造られた岩石から成る山ではなく、ほぼすべてが橄欖岩でできているという大変珍しい山です。
日本列島は4枚のプレートの上にありますが、東側の北米プレートが西側のユーラシアプレートに乗り上げてできたのが日高山脈です。その際に、プレートの一番低い場所にあった上部マントルが地表に押し上げられたことによって偶然にもアポイ岳ができちゃいました(ただしこれは説です)。
地形図で日高山脈を見ると、プレートがぶつかったときの様子が想像できるでしょうか?

私には想像できませんが、列島全体でプレートの衝突が起きたわけですから、他でも同様な橄欖岩の山があってもおかしくないですね。でもそれはアポイ岳以外には皆無に等しく、しかも地球全体で見ても稀な場所なのです。アポイ岳は普通は見られないマントルをマニアのためにチラッと見せてくれた地球のちょっとしたサーヴィスです。

⑯ かんらん岩露頭(第二発電所)|様似町
幌満峡にある露頭の一つで、車で簡単に行ける場所です。
想像していたよりも岩が露出しており、岩石に関しては私は知識はほとんどありませんが、それでも見たことが無い様相だと思いました。美しい石もありました。

もっと新鮮な橄欖岩を見るには幌満峡の上流に行くか、アポイ岳を登山する必要があります。
ところで、地球を卵に例えると、中心にある核(内核・外核)は黄身で、その上にあるマントルは白身、そして地殻はその名の通り殻にあたります。地球の半径は約6400㎞ありますが、地殻は70㎞ほどの厚さしかなく、そこには古代史マニアにはお馴染みの花崗岩や玄武岩などがあり、普段から見慣れています。
地殻の下、約70㎞から約2900㎞にかけて、今回のテーマである橄欖岩によって造られたマントルがあります。マントルは個体ですが、液体のような性質も持っており、マグマの元になります。その下の核は主として鉄からなる金属でてきていて、外核は液体、内核は個体です。意外と地球はぐにゃぐにゃな雰囲気がします。
石器を見ているとたまに蛇紋岩に出くわしますね。これは実は橄欖岩の成れの果てなのです。橄欖岩はすぐに変質してしまう性質を持っており、地表に上がってくる過程で水に触れたらアウト。というと、まるで蛇紋岩は出来損ないのように思えてきますが、決してそんなことはありませんよ。蛇紋岩で作られた石器や装飾品もとても美しいです。


⑰ かんらん岩広場|様似町
様似町大通1-21-21 0146-36-2111(様似町役場)

様似町役場の前庭にある岩石の野外博物館です。日高山脈を構成する様々な岩石を切断研磨して展示しており、もちろん橄欖岩もあります。
例えば、橄欖石(「岩」ではなく「石」)が6割以上含まれている「ハルツバージャイト」も展示されています。

⑱ 様似郷土館|様似町
様似町会所町1 0146-36-3335 10:00~16:00 月・祝休館

様似町の歴史民俗資料館的な施設です。昭和41年に日高管内最初の郷土館としてオープンしました。続縄文時代の冬島遺跡から出土した遺物やアイヌの儀式道具などを展示しています。

ランチ:御食事処 女郎花
事前に調べたら民宿がランチをやっているとのことだったので、きっと間違いはないと思い訪れました。
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美味しそうなメニューがたくさんあります。貝好きの私はリーズナブルな「つぶとじ丼」(ご飯大盛り)をチョイス。
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想像以上につぶ貝がたくさん入っていて美味しい。
食感が堪りません。
ここもお店の方々が親切で、民宿にも泊まってみたいなあと思う店でした。

⑲ 浦河町立郷土博物館|浦河町
浦河町字西幌別273-1 0146-28-1342 9:00~16:30 月・祝休館

「大昔の浦河コーナー」に町内から出土した縄文・続縄文・擦文時代の遺物を展示しています。それ以外では、アイヌに関する資料の展示が充実しています。また、浦河町は国内有数の馬産地で、博物館入口には32頭のサラブレッド像が乗る「優駿の門」という門があります。


⑳ 馬事資料館|浦河町

浦河町立郷土博物館と同じ敷地内にあります。競走馬に関する展示のほか、ウマのルーツについてもパネル展示で説明しており、古代史好きな人も興味のある内容だと思います。


㉑ 新ひだか町アイヌ文化交流センター|新ひだか町
新ひだか町静内真歌7 0146-49-2900 9:00~17:00 月曜休館

もともと真歌公園内にあった「シャクシャイン記念館」、「アイヌ民俗資料館」、「多機能型生活館」を増改築することによって一体化し、2025年5月1日にオープンしました。その名の通り、アイヌ文化を次代へ継承すべく展示・解説しています。

シャクシャイン記念館には、展示などはありません。

敷地北側には「北海道」の名付け親である松浦武四郎の記念碑が建ち、さらにその北側には「英傑シャクシャイン像」が建っています。

写真だと大きさが分かりませんが、銅像のみで4.4ⅿもあるのです。

以前は戦っている勇ましいシャクシャイン像があったのですが、2018年9月に手の平を天に向けて平和と共生を祈る「オンカミの姿」の像に代わりました。

実際に起きたシャクシャインの「闘争」を正しく表現していないとの地元民の意見もあるようで、いろいろな考え方があって当然だと思います。

㉒ シベチャリチャシ跡|新ひだか町
江戸前期、北海道の松前藩は、アイヌに対して不公平なビジネスを展開していました。それにアイヌの部族間での関係も絡み、寛文9年(1669)6月、シャクシャインはアイヌの各部族に呼びかけ、松前藩に対して武力蜂起を起こしたのです。それを「シャクシャインの戦い」と呼びます。
国史跡「史跡シベチャリ川流域チャシ跡群及びアッペツチャシ跡」は、シャクシャインの戦いに関連するか、あるいはそう推定できるもので構成され、新ひだか町のシベチャリ川流域チャシ跡群(シベチャリチャシ跡・ホイナシリチャシ跡・メナチャシ跡・オチリシチャシ跡・ルイオピラチャシ跡)と、日高町にあるアッペツチャシ跡から構成されます。
シベチャリチャシ跡は、上述のアイヌ文化交流センターがある真歌公園の西側の舌状台地の先端にあります。台地基部を掘り切って切断することにより区画しているのです。

遺構としては、堀跡のみ残っています。

チャシを知らない人はびっくりするかもしれませんが、いわゆる「城」と比較するとあまりにも簡素で小さいです。しかしそれでも、シベチャリチャシは最大級なのです。道内のいくつものチャシ跡を見ている参加者が「今まで見たチャシのなかで一番でかい!」と喜びました。
空堀を越えるといわゆる「主郭」になるので、これだけを見ると単郭です。北東北の中世の館跡と似た構造で、戦前は岩手や青森の中世の館跡も「チャシ」と呼ばれていたことがあります。もちろん今ではそれは違うことが分かっており、北東北のそれは在地土豪の居館跡です。

チャシ跡には真歌山展望台があります。
残念ながらスカッとした空気感ではなく、靄がかかっていましたが、静内の町を見下ろす雄大な景色を見ることができました。

昨夜泊った「静内シティホテル」はここからでもよく目立ちます。

焼き鳥もナポリタンも美味しかったな・・・
断絶した日高本線跡の鉄橋も見えます。

眼下の川は静内川で、上流はシャクシャインのライバルであったオニビシの勢力範囲になります。

現代の行政区画である新ひだか町には、シャクシャインの本拠地があるだけでなく、オニビシの勢力も及んでいたのです。
とかく、シャクシャインがクローズアップされがちですが、オニビシについてももっと知りたい。
ところで、チャシはよく「砦」と説明されることがありますが、アイヌの首長も普段は麓の集落(コタン)に住んでいて、戦いの際にチャシに籠ったとされています。中世城郭でいうところのいわゆる「詰の城」ですね。普段は首長とその家族は住んでいなくても、基本的にチャシは眺望が良い場所に造られるので、監視員が常駐していたことは間違いないでしょう。
しかし、チャシの役割として最も重要なのは、カムイ(神)への祈りを捧げる神聖な場であったことです。沖縄のグスクにも必ず御嶽(うたき)がありましたが(今でもありますが)、信仰を支える場であったことが最も重要であると考えます。また、公的な行事を行う際の「ハレの場」としても機能していたようです。
この場所で先ほど見た「英傑シャクシャイン像」のようなイメージでカムイへの祈りがささげられていたのでしょう。
チャシを考古学や文献から見た場合、その発生は13世紀頃とされます。鎌倉時代併行期です。ちょうどその頃の北海道は、擦文文化からアイヌ文化へ切り替わる時期ですから、チャシは擦文文化ではなく、アイヌ文化の所産であると言えるでしょう。
ただし、チャシを発掘すると、チャシが作られる前は擦文遺跡であったケースが見受けられます。つまり、アイヌ文化が発生する前から人びとが住んでおり、もしかすると擦文文化人もその場所を神聖な場所として考えていて、それをアイヌ文化人が引き継いだ可能性があります。
チャシは道内で約500ヶ所ほど見つかっていますが、最盛期は17世紀で、まさしくシャクシャインの戦いの頃です。横暴な松前藩との軋轢がチャシの増加と関連すると考えることは自然だと思います。
そして、江戸時代の終り頃には築造されなくなりますが、松前藩の支配力が強化された結果と見ることができます。
※シャクシャインの戦いに至る経緯に関しては、詳しくは本ページの最後の方の「補足1」と「補足2」をお読みください。

㉓ 新ひだか町博物館|新ひだか町
新ひだか町静内山手町3-1-1 10:00~18:00 月・祝休館

新ひだか町の歴史について縄文時代から現代まで紹介する施設です。アイヌ文化についての展示が豊富で、シャクシャインの戦いについての解説もあります。


考古関係としては、静内御殿山墳墓群から出土した遺物が特に俊逸です。


㉔ 静内御殿山墳墓群|新ひだか町
今回の現地講座の最後の探訪箇所です。新ひだか町博物館に遺物が豊富に展示されていた御殿山墳墓群へ行きます。
北海道指定史跡ですが、北海道は遺跡に説明板すら設置しない場所が多く、昨日も同じく道史跡の日高町内にある門別富仁家墳墓群を探しに行きましたが見つけられませんでした。門別富仁家墳墓群はグーグルマップに場所がプロットされていませんが、静内御殿山墳墓群もプロットされていません。事前調査では力尽きて正確な位置を把握できず仕舞いです。KKD(経験・勘・度胸)で探すとしましょう。
大体の場所は推定できているので、その方向へ行こうと思うのですが、牧場密集地帯で公道なのか個人の敷地内なのか一見分かりづらいです。
ここかな?と思って入って行った先は見事にお屋敷でした。
引き返します。
再度、Webで行ったことがある方のレポートを読んで確認し、岡田牧場の方へ行ってみました。そのレポートに記されている稲田屋敷跡もあります。少し進むと、左手に白い説明板らしきものが見えました。きっとあれでしょう。
通行の妨げにならない場所に車を停めて歩いて向かいます。

ここで当たりでした!

静内御殿山墳墓群は、昭和27年に発見された縄文時代後期から晩期にかけての大規模な墳墓群です。円形あるいは楕円形の墓が約80ヶ所検出されています。

周囲は牧場だらけ。

ちなみに、現代の牧場と言った場合は、私の常識では「牛」なんですが、日高では「馬」ですね。
遺跡はとくべつ地表面に見られる物がなく、景観を観察して車へ戻ろうとしたらお馬さんたちが近づいてきました。

野次馬とはよく言ったものです。
何か食べ物をもらえると思ったのか、好奇心が旺盛なのか分かりませんが、みなお腹の大きい牝馬です。
今回の現地講座の2日目と3日目は至る所でお馬さんを見ましたし、馬の資料館にも行きましたので、裏テーマは馬だったかもしれません。
旅の最後は可愛いお馬さんたちを間近で見れました。
なお、今回は訪れる時間がありませんでしたが、静内御殿山墳墓群のすぐ東側にはメナチャシ跡があり、シャクシャインのライバルであったオニビシの勢力がそこまで進出してきています。メナチャシとシベチャリチャシとは直線距離で4㎞ほどしか離れていません。
というわけで、いつもよりも少ない24ヶ所をめぐり終え、新千歳空港へ戻りますよ!
※今回の走行距離は最終的には628㎞で、北海道にしては少なめでしたが、いつもの現地講座と比べると少し長めでした。
解散
AICTは現地解散です。参加者には復路で使用する飛行機や新幹線の便名をお伝えしており、それに間に合うように解散場所に戻ってきます。解散場所には、遅くても飛行場の場合は1時間前、新幹線の駅の場合は30分前までに戻るようにしており、以前はギリギリのときもありましたが、最近ではなるべく余裕をもって戻ってくるようにしています(以前、私たちの力の及ばないアクシデントが発生して空港到着がギリギリになり怒った参加者がいましたが、そういう性情の方の参加はご遠慮ください)。
今回は、新千歳18:30発・羽田20:10着の「ANA076便」に乗ることを想定して、17時15分に新千歳空港に戻ってきました。ただし、どの便で帰るかはお客様が選ぶもので、これよりも前は困りますが、後であれば何でも良いのです。
今回は飛行機に乗る前に少し時間があったので、搭乗口近くにある「富川製麺所 新千歳空港店」で、海老塩ラーメンを食べました。

私は「海老味噌ラーメン」が好きですが、あまり出しているお店は無いので見つけ次第食べるようにしています。ここは「味噌」ではなく、「塩」ですが珍しいので食べてみました。ちょっとしょっぱく感じましたが、ラーメンの味はそのときの自身のコンディションに影響されることが大きく、過去にも別の日にもう一度食べてからハマったラーメンもありました。
さて、エアバスA350-900に乗って「惑星イノウエ」を見ながら羽田に帰ってきたら、ちょうどよく21時15分発のリムジンバスに間に合い、帰宅してシャワーを浴び、23時過ぎにはひと段落です。午前様になることも多いので、早く帰ってこれて良かった。
以前は帰宅後に「夕飯Vol.2」をガッツリ食べていましたが、最近は食が細くなってあまり食べなくなりました。今回は、セコマ(セイコーマート)で買ってきた「茹でとうきび」です。
現地講座の際にはセコマには何度も寄りましたが、なかなかこれを食べるチャンスがなく、最後に寄った店で1本だけ売っていました。残り1本かと思ったら、レジのお母さんが「ちょっと待ってて!」と言って、裏に走って行ってもう2本持ってきました。そして、私の前に3本並べて「好きなの選んで!」と言ったのです。
私はトウモロコシについては素人なので、どれが良いのか分からない!
カットの仕方がどうとか、大きさがどうとかなどの簡単な説明を受けて、これを選びました。

コンビニのレジでこんな会話が楽しめる北海道って本当に面白いですね。
甘くて美味しい!
ちなみに私は北海道から東京へ帰ってからの数日間、「セコマロス」になります・・・
補足0:アイヌ民族を「分断」した江戸幕府
アイヌ民族と言うと北海道の人びとというイメージがあると思いますが、戦国時代の16世紀の時点では、青森県北部にも住んでいました。
戦国時代の青森県は、最終的には天正18年(1590)の豊臣政権による仕置によって、西側の津軽地方を津軽氏(津軽藩/弘前藩)が、東側の南部地方を南部氏(南部藩/盛岡藩)が領有することになりました。その両地域にアイヌが住んでいたのです。

津軽藩内にいたアイヌは、津軽アイヌと呼ばれます。
江戸幕府が正保元年(1644)に作製を命じた正保国絵図には、津軽半島先端の三厩や今別、小泊といった沿岸部、それに夏泊半島の沿岸部に「犾村(えぞむら)」の記載が見られます。それらはアイヌの集落(コタン)です。上の地図でも津軽半島や夏泊半島の先端が黒く塗られていますが、そこが居住地です。
津軽アイヌは米を作らず、基本的には漁猟を生業としており、藩の中では特殊なポジションにいましたが、後に述べる松前藩が行ったような残虐なほどの搾取はなかったようです。しかし、そもそも「犾」という文字は差別文字ですし、同化政策は普通に進められて、宝暦6年(1756)には、「犾」とする政治的な扱いが正式に廃止され、アイヌ特有の髪型や衣服、風習、そしてアイヌ語の使用の禁止が推し進められ、やがてアイヌ文化は消滅しました。文化的な征服がなされたことは松前藩と一緒です。
一方、南部領内の下北半島(むつ市・大間町・佐井村など)の沿岸部にいた下北アイヌは、津軽藩よりも同化の速度が速かったようです。下北半島には古くから和人も多くいたため、雰囲気的には多数派を占める和人による同調圧力で同化したような印象があります。同化が早かったため、南部藩の記録にはアイヌに関する資料は少ないようです。
いずれにしても、結局は「同化」によって、青森県のアイヌ文化は江戸時代のうちには消滅しました。
江戸幕府は成立直後にアイヌ民族が住んでいた場所を上図のように、津軽藩、南部藩、それに北海道の中の松前藩の和人地、そして松前藩が管掌する蝦夷地の4つの区域に分け、アイヌ民族を分断しました。そして、松前藩は和人地とその外側との境に番所(関所)をおき、人や物の流れを厳しく管理しました。
アイヌからすると、偉く遠い地方で江戸幕府とやらの良く分からない組織ができて、そこが突如として自由な通行を「力」で妨害してきたのです。今まで普通に行っていた交易や交流ができなくなって困った人びとが沢山いたことが想像できます。
このように、日本政府も他の民族に対して「力」で「民族の分断」を行ったことがあるということを覚えておきましょう。
補足1:松前藩の初期北海道統治とヘナウケの戦い
北海道渡島半島の戦国土豪たちの生存競争に生き残った蠣崎慶広(かきざき・よしひろ)は、文禄2年(1593)1月、豊臣秀吉より松前での交易の独占を朱印状で保証されました。慶広は慶長4年(1599)、氏を松前に改め、慶長9年(1604)には、徳川家康から蝦夷地全域の交易権掌握保証の黒印状を得ます。
アイヌ民族は、狩猟や漁労が主たる生業ですから、面的な「領土」的な発想はありません。狩猟をする場所や魚を捕るための河川の使用権利は近隣の部族間で取り決めがありましたが、農耕民とは発想が違うのです。
一方の江戸幕府は農耕民の集まりですから、支配地域を面的に決めたいのです。それは松前藩も一緒ですし、江戸幕府は松前藩に対してそれを明確にしろと要求しました。その結果、松前藩は和人地というのを設定し、その外側との明確な境界を決め、幕府に報告しました。

和人地といってもその中には上図のようにアイヌ民族のコタンもたくさんありましたが、上述した通り、和人地のアイヌたちは、その外側のアイヌとの交易・交流が厳しく制限されました。
さて、松前藩が成立したころは、各地のアイヌは松前城下に赴いて自由な商売を行っていました。ところが、アイヌの活動が制限されると、今度は松前藩の家臣たちが各地へ赴き交易を開始します。
松前氏は販路を道内に広く拡張しつつ、最初はアイヌの出方を伺っていました。アイヌとしても正当な取引であればまったく願うところでしたが、和人はアイヌと接触するうちに「アイヌ組し易し」と判断しました。和人が交易に際し、えげつない行動を取るようになったことは容易に想像できます。
松前藩は道内各地にアイヌ支配のための代官所を設けたわけではありません。その代わり、沿岸の重要箇所に商場(あきないば=のちの場所)と呼ばれる交易拠点を設けました。それが徐々に広がっていき、米が収穫できない「無高(石高ゼロ)」の松前藩の特殊な事情で、商場知行制というのを作って、家臣には給与として商場での交易権を与えたのです。この体制は寛永年間(1624~44)には確立されたと考えられています。
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アイヌからの搾取は寛永年間の頃から激化したと考えられています。松前藩が有利なレートでの交易を強要し、「俺ら以外とは交易するなよ!」と恫喝しました。逆らったら腕力を発動しました。
この時期、北海道内各所では和人による砂金掘りが流行し、ある種のゴールドラッシュが起きていました。寛永8年(1631)からはシマコマキ(島牧村)でも砂金採取が始まり、和人が河川を掘り返したことで、鮭の遡上が妨げられ、アイヌは冬の食料に窮するようになります。河を汚されることはアイヌにとっては重大なダメージなのです。

また運悪く、寛永17年(1640)には内浦岳(渡島駒ヶ岳)が大噴火を起こしました。これによって、アイヌ社会と和人社会の両者が食糧難に見舞われたのです。
そして、アイヌの不満が頂点に達した寛永20年(1643)、シマコマキのアイヌの首長ヘナウケが武力蜂起を起こしました。
松前藩3代藩主・氏広は、すぐに佐藤権左衛門らの鎮圧隊を現地へ派遣しました。セタナイ(せたな町)で激戦が繰り広げられ、松前藩の南條安右衛門が戦死。最終的には藩主一族である蠣崎利広が赴いて和睦を結び、この戦いは終息しました。史料上からは、ヘナウケがその後どうなったのかは分かりません。
シャクシャインが蜂起したのはこの26年後です。
補足2:シャクシャインの戦い
メナシクルとシュムクル
江戸時代のアイヌの部族は、決して一枚岩ではありませんでした。
松前藩や和人たちは、日高地方のアイヌを2つの集団に分けて呼んでいました。東方衆(ひがしかたしゅう)と西方衆(にしかたしゅう)です。「東の・にいる・人」を意味するメナシクル(menas-un-kur)と、「西の・にいる・人」を意味するシュムクル(sum-un-kur)というアイヌ語で呼び分けることがありますが、アイヌ自身がそう呼んでいたかは分かりません。
ただし、歴史的推移を見ると日高地方のアイヌは実際に二大勢力に分かれていたことがわかり、その勢力間の争いがシャクシャインの戦いに発展していくのです。
メナシクルは、シベチャリ(新ひだか町静内)を拠点とし、その勢力範囲は日高山脈を越えてトカチにまで及んでおり、この勢力はカモクタインが率いており、副将格としてシャクシャインがいました。

一方、シュムクルは、オニビシが率いており、ハエ(日高町にある波恵川流域)を本拠地としていたので、ハエニクル(ハエの人)とも呼ばれ、サッポロ地域までを勢力下に置いていました(勢力範囲には異説あり)。
ただし、勢力範囲という言い方はしても、既述した通り、アイヌは面的な領土的概念はありませんので注意してください。
なお、オニビシのチャシは、アッペツチャシ跡に比定されていますが、一般公開はされていません。
シャクシャインとオニビシの抗争
ヘナウケの戦いから5年後の慶安元年(1648)春のある日、シャクシャインはオニビシと会合しましたが、3日にわたる酒宴の末にシャクシャインはオニビシの下僕1人を殺してしまいました。理由は不明です。
これが発端となって同年冬より両勢力の間で戦いが始まりました。この戦いは商場交易に支障をきたしたため、松前藩は数度に渡って双方に使者を送って和解を図りましたが、戦いは長引きました。
戦いが始まって6年後の承応2年(1653)、メナシクルのリーダーであるカモクタインがオニビシと戦って戦死しました。これにより、メナシクルは大敗し、副将であったシャクシャインは松前藩の調停を受け入れてオニビシと和解します。これ以降は、シャクシャインがメナシクルを率いました。
寛文3年(1663)7月11日、東蝦夷地宇須岳(有珠)が噴火し、大地震と降灰によって、付近のアイヌに多数の死者が出て被害は甚大でした。
噴火から3年後の寛文6年(1666)、メナシクルとシュムクルが、お互いの狩猟の縄張りや漁撈権(イオル)を侵しあい、確執が再燃してしまいます。災害の後、食糧難に陥っていたのでしょうか。両者はその後、戦闘を繰り返し、翌寛文7年(1667年)、オニビシは不意を衝かれてシャクシャイン側に殺害されます。
シャクシャインの決起
オニビシ死亡から2年後の寛文9年(1669)4月、オニビシの姉婿のウタフ(ウトマサ)が、松前藩主の帰藩を聞き、福山城へオニビシの仇討ちのための兵具・俵物の借用を陳情しに行きますが、拒否されました。ウタフは、帰り道に疱瘡に罹ってしまい、ノタオイで急死してしまいます。
するとなぜか、ウタフの死因は松前藩の毒殺であるとのデマがアイヌの間で広がり、それを聴いたシャクシャインは、各部族に結束を呼びかけ、商船を襲うなどして松前藩への復讐を始めます。今まで争っていた勢力同士が結束したのです。
ここまでの話の筋は松前藩側の記録であるため、松前藩について不利なことは書いていません。シャクシャインが敵対勢力の親族が殺されたことにより蜂起して、しかも融和するという流れも変です。実際にはこの間、松前藩がアイヌに対して横暴な振舞を続けていたことは想像に難くなく、ついにシャクシャインたちの堪忍袋の緒が切れたと解釈するのが一般的です。
松前藩はこれを幕府に急報し、幕命により弘前藩が援軍として松前領に出兵し、盛岡藩なども出兵の準備を始めました。そして、旗本の松前八左衛門泰広が幕命により松前藩にやってきて、松前藩兵を率い東部に進出し、8月3日、クンヌイ(長万部町・国縫<くんぬい>)においてアイヌと交戦し、シャクシャインは敗走します。
松前藩は、9月4日にクンヌイを出撃し、シベチャリを目指しました。
松前藩は、シャクシャインに和睦の提案をし、10月23日、シャクシャインたちはシベチャリの直ぐ近くのビボクの松前藩陣営に招かれ、酒宴でもてなされました。そして酒に酔って油断しているところを突如として躍り出た松前勢によって殺害されたのです。戦国時代のだまし討ちとまったく同じ手法でした。
翌日には松前藩はシベチャリチャシを焼き払いました。発掘調査の結果、火災の痕跡が見つかっています。
補足3:北海道の人口推移とアイヌ文化の衰退
アイヌの人口は、江戸時代には2万人から2万6千人ほどだったと言われています。狩猟採集を主たる生業とした場合、北海道の面積からするとこれくらいが妥当との考えがあります。
それが幕末になると状況が一変します。和人が続々と蝦夷地の奥地へ入り込み、彼らが持ち込んだ天然痘や麻疹、結核などの感染症によって、明治に入る直前のアイヌの人口は、1万8千人ほどに減少していたと言われています。
幕府が倒壊した後、明治政府(薩長政府)は早くも明治2年(1869)に開拓使を設置し、今まで蝦夷地と呼んでいた土地を北海道と名付けました。この頃、政府が把握していた人口は、アイヌ・和人を含め約6万人でした。

明治8年(1875)にはロシアの脅威に対抗する意味もあり、屯田兵の入植を開始し、明治19年(1886)には北海道庁を設置し、この辺りから北海道の社会インフラが急激に整い始め、その結果人口が爆発的に増え始めます。

これより前の1860年にロシアは極東の前線基地としてウラジオストクを造営し、1880年にはウラジオストクは都市へ昇格し、1891年にはシベリア鉄道の建設が始まりました。
ロシアのシベリア鉄道建設開始から6年後の明治30年(1897)には、北海道国有未開地処分法が施行され、開墾を条件に広大な土地が無償で貸し付け・付与されるようになり、その翌年の明治31年(1898)には、北海道の人口は約85万人に達します。翌年には、平成9年(1997)に廃止されるまで98年もの長きに渡ってアイヌを苦しめることになる北海道旧土人保護法が制定されました。
そしてついに、明治36年(1903)には100万人越えの107万人となり、大正9年(1920)の初の国勢調査の結果は、235万人と、東京・大阪に次ぐ全国第3位の自治体となりました。異常な増え方で、迫りくるロシア(ソ連)の脅威から北海道を防衛したい政府からすると大成功でしょう。
しかしこの発展の陰で、アイヌは虐げられていたのです。アイヌの人口は横ばいで、とくに明治32年に制定された「保護してやるぜ!」と言った、いかにも「上から目線」な名前の「北海道旧土人保護法」という法律の下、同化政策が推し進められ、アイヌ独自の文化は衰退の一途をたどりました。
※土人という言葉は「土地(ところ)の人」という意味で、本来は「地元民」を表し、悪い意味はありません。ただし、この法律の名前や植民地政策の影響もあって悪いイメージが定着し、今では「差別語」とされています。
当時、政府には国防上の理由を含めて様々な政策上の都合があったわけですが、それにしても文化を奪うというのは酷い話です。現代の私たちからするともっと良い方法は無かったのか?と思うのですが、畑を耕すことが苦手な人たちに強制的に今までの生業を捨てさせて農地を与えて、十分な収穫が得られないことを理由に酷い仕打ちをするという大日本帝国のやり口は、蝦夷(エミシ)を同化させた律令国家と本質的にはなんら変わりがありません。
その北海道の現在の人口は、500万人をやや下回った数ですが、現在アイヌは何人いるのでしょうか?
実は国としての公式な統計が存在しないため、正確な数は分からないのです。ただし、内閣官房および北海道による令和5年の「北海道アイヌ生活実態調査」によると、11,450人となっています。しかし、北海道に住んでいる人全員が調査対象になったわけでもなく、北海道から出ている人もいますし、調査の対象になった人が「私はアイヌです」と言った場合にカウントされただけです。
アイヌに対する差別は、地域によっては(あるいは人によっては)根深いものがあると考えられるので、不利になるのを承知でわざわざ自分からアイヌであることを告げる人は少ないでしょうし、婚姻によって分からなくなったり、アイデンティティを喪失したりして、現代では「アイヌ人の定義」を決めることも難しくなっていると思います。
最終的には本人のアイデンティティとコミュニティへの帰属意識ということになりそうですが、このようにアイヌ文化が凋落してしまった大きな原因のひとつが、明治32年に制定された「北海道旧土人保護法」だったのです。
補足4:北海道旧土人保護法について
北海道旧土人保護法の内容については、こちらのサイトがテキスト化されていて読みやすいです。
生活困窮者や病気になった人、身体障碍者などを「保護」し、集落には学校を建てるといった「良いこと」が書かれており、一読すると素晴らしい福祉法に思えます。また、第一条には、農業をしたい人には農地を無償で下付けするとあります。しかも、最大1万5千坪!
広大な土地をタダで貸してくれるわけですから、こんないい話は無いですね。それに、農業をしたくなければ無理してしなくて良いのです。
でも、実はそれは欺瞞であり、この時点でアイヌは今までの自分たちの伝統的な狩猟方法を禁止されていて、従来のライフスタイルが不可能な状態に追い込まれていたのです。つまりは、農業をするしか道が残されていなかったのです。
しかも、良い土地はすでに和人が占めていて、アイヌに与えられた土地は広大な不毛の土地で、15年間で成功しなければ没収です。農業の経験がない人たちが家族だけの力で広大な土地を畑にすることは不可能に近いのです。
アイヌが土地を担保に融資を受けることは禁止されていて、和人たちが融資を元にハードウェアを近代化できたのに対し、アイヌはそれもできなかったのです。諦めて手放したいと思っても、相続以外には他人に土地を譲ることは禁じられていました。
今回の現地講座で訪れる二風谷は、この「世紀の嫌がらせ」を潜り抜けて成功した数少ない地域ですが、多くの土地でアイヌは失敗しました。失敗したあとは、奴隷のように働かされる肉体労働者に身を落とした人もいました。
これは律令国家の話ではなく、この法律は平成の世まで生きていたのです!
アイヌからすると、なんで他所からやってきた人たちが勝手に我々の土地を支配して、法律を押し付けてくるんだ?と不条理極まりない話でした。そもそも、アイヌが自由に狩猟活動を行っていた場所をいきなり占領されて、「農業をやりたかったらタダで貸すよ」と言ってきたわけです。和人は侵略者なのです。これもエミシの話と通じるところがあります。
ただしこれもまた複雑な話で、「侵略者」と言ってしまうと、現代の北海道の住民の方々を怒らせることになります。明治や大正に入植して血の滲む努力をした結果、今の北海道の繁栄の礎を築いた人びとの子孫が今でも北海道で頑張っているケースが多いからです。アイヌの惨状を知りつつも、フロンティア・スピリットを持った方々もリスペクトしないとなりません。それに入植者の中にも多くの困窮者が発生し、アイヌに負けず劣らず大変な目に会った方も多いのです。
歴史は見る角度を変えると違う物が見えることの典型例ですね。私たちは、善とか悪とか、そういった二項対立の単純な話として見るのではなく、その時代や環境において最善を尽くした人たちへの尊敬の念を忘れてはいけないと思います。

