最終更新日:2022年8月3日

 関東100名墳は概ね決めたのですが、AICTのメンバーから全国の100名墳を決めて欲しいというリクエストがあり、選定作業に入りました。と言っても、私自身がまだ全国の古墳をくまなく見ているわけではないですし、全国に20万基とも30万基ともあると言われる中から選ぶのは非常い難しい案件ではありますが、自分自身が探訪して感動した古墳をチョイスしてみようと思います。

 私は背後に何かの思惑を持った業界の人びとがいるわけでもないので、完全に個人の趣味で決めますよ。

※現在11基を選定しています
※掲載順は所在地の都道府県コードの若い順です

 

江別古墳群

えべつこふんぐん/北海道江別市

 ヴィジュアル的には他の古墳たちには勝てませんが、日本の古代文化の多様性を表す史的に重要な古墳として北海道の江別古墳群を選出します。江別古墳群は、以前は「北海道式古墳」と呼ばれていた古墳で、北東北の末期古墳の仲間です。

 北東北では、7世紀以降に末期古墳が築造されますが、8世紀には石狩低地帯でも築造され、現在、道内で末期古墳を見ることができる遺跡はここしかありません。

 元々は20基以上の古墳がありましたが、現在残っているのは18基です。運が悪いと「モシャ子ちゃん」状態で、運が良ければちいちゃな可愛らしい墳丘をいくつか見ることができます。昨年8月に行った時はモシャ子ちゃんでしたが、11月に行ったときは床屋さんに行ったあとでした。

 後藤遺跡とも呼ばれ、江別市郷土資料館でジオラマや出土遺物を見ることができますよ。

 北東北や石狩低地帯の末期古墳が築造された地域には、外部からやってきた日本の文化を持った人びとと、続縄文人やその末裔である擦文人といった在地の人びとがともに混ぜこぜで住んでおり、末期古墳は外見的にはヤマトの古墳と同じですが、内部には在地の文化の影響を見て取れます。

 北海道で末期古墳が築造され始める8世紀、続縄文時代から擦文時代へ移行しますが、擦文文化では土器に縄文がなくなり、鉄器の使用が普及します。これらは北海道の人びとがヤマトの文化と濃厚な接触をしたことの表れですが、江別古墳群の被葬者に関しては、石狩低地帯に進出してきた古墳文化人と考えられます。

 ただし、その古墳文化人も遺物を見ると北東北からやってきたと考えられます。8世紀の時点では、岩手県や青森県はまだ日本ではありません。ということは、末期古墳を築造した人はエミシでしょうか?

 そうです。北海道にエミシが進出して古墳を築造したのです。

 

阿光坊古墳群

あこうぼうこふんぐん/青森県おいらせ町

 末期古墳。阿光坊古墳群というのは、国指定史跡の名称のことで、阿光坊遺跡、天神山遺跡、十三森(2)遺跡の墳墓群を併せた名称です。築造時期は7世紀から9世紀。2014年までに125基の末期古墳と8基の土壙墓が見つかっています。末期古墳は終末期古墳の影響を受けて造られた「和風」な墓ですが、8基の土壙墓は、ネイティヴな続縄文系の人の墓のことを言っているのではないでしょうか。

 末期古墳は、北東北3県ではメジャーな古墳ですが、太平洋側の南限は宮城県北部の迫川流域や北上川下流域で、日本海側では現状では秋田県内にとどまります。ただし、山形県の庄内平野には未調査の小円墳群があるため、その中に末期古墳も含まれているんじゃないかと思われます。前回も述べましたが、道央の石狩低地帯にある「北海道式古墳」と呼ばれるものも基本的な内容は末期古墳と共通です。

 末期古墳の被葬者はエミシです。北上川の各支流には、それぞれ末期古墳群があるのですが、それらは川の北岸にあるんですよね(和賀川沿いの江釣子古墳群がとくに有名)。彼らは律令国家の末端に繋がれてはいるんだけど、お墓の場所に関しては一定の距離を置きたい気持ちが現れています。

 

角塚古墳

つのづかこふん/岩手県奥州市

 本州最北端の前方後円墳として有名ですね。5世紀後半に築造された墳丘長45mの前方後円墳で、岩手県内で唯一の前方後円墳です。

 被葬者はこの時期にヤマト王権の影響下に入っていた人物であることが分かりますが、おそらく被葬者一代のみの加盟でしょう。なお、主体部の発掘はされていないので、何人葬られたかは不明です。

 従来は、5世紀後半から6世紀一杯まで、北東北は土器片すら見つからなくなる時代といわれており、その時代、古墳文化は南に撤退したと言われていましたが、近年では角塚古墳のすぐ東側に、5世紀末から6世紀前葉にかけて営まれた墓域である沢田遺跡が見つかり、そこでは周溝のみの検出ですが円墳が4基と、土壙墓11基が見つかっています。

 しかし、やはり人びとの痕跡が相対的に薄くなるのは確かで、北東北でこの次に人びとの活動が活発になるのは7世紀です。なお、奥州市よりもさに北の滝沢市(盛岡市の北隣)では、5世紀のS字甕が見つかっていることから、古墳時代中期における濃尾勢力末裔の北上を伺うことができ、非常に興味深いです。

 角塚古墳が築造された場所は、後に活躍するアテルイの本貫地ですが、被葬者はアテルイの先祖ではないでしょう。アテルイは関東もしくは南東北から7世紀以降にこの地に移住してきた人の子孫だと考えます。ただし、アテルイの「大墓公(たものきみ)」という姓は、角塚古墳から来ているのかもしれず、そうだとすると、この地が「大墓」と呼ばれていたことがあったのかもしれません。

 角塚古墳のすぐ北側には中半入遺跡という集落跡および豪族居館跡が見つかっており、角塚古墳の被葬者が生前住んだ場所であると考えられます。

 なお、岩手県域が日本国の領土になるのは、9世紀初頭のアテルイの降伏を待たなければなりません。

 

雷神山古墳

らいじんやまこふん/宮城県名取市

 4世紀後半に築造された墳丘長168mの前方後円墳で、東北地方最大を誇り、またその時代の東日本全体の古墳を見ても最大級です。後円部径と前方部幅が同じで、このデザインは渋谷向山古墳(現景行天皇陵)と同じで非常にヤマトチック。前期ヤマト王権の影響力がこの時代には宮城県域にまで及んでいたことを如実に表しています。

 4世紀には、雷神山古墳のすぐ西側に飯野坂古墳群の前方後方墳が継起的に築造されました。

 南東北の古墳文化はそれ以前の弥生文化を継承しておらず、土器を見ると、弥生時代の末期頃、太平洋側は南関東から、日本海側は北陸から多くの移住者があったことが分かります。古墳時代初頭の関東地方には濃尾の人びとが大量に移住してきていますが、彼らは東北にも進出しています。

 この時代の仙台平野では、南から移住してきた古墳文化人と、北海道から南下してきたアイヌ語を操る続縄文人(江別文化人)が混在していました。続縄文人の目には、自分たちの集落の近くに築造された大型古墳はどのように映ったのでしょうか。王権にとっては、古墳はその権力をアピールする装置として機能しました。

 4世紀後半にヤマト王権が東北南部に積極的にアプローチしたのは、南下してきた続縄文人との交易が最大の目的ではなかったかと思います。反対に続縄文人も交易によってメリットを享受できたはずです。

 東北地方での前方後円墳の築造は、4世紀のうちには宮城県北部まで及び、少しの間を空けて、5世紀後半になると岩手県奥州市に角塚古墳が築造されます。宮城県北部では、4~5世紀の住居跡が多数検出されており、大型古墳を築造するための経済的・労働力的基盤があったことが分かります。

 

法領塚古墳

ほうりょうづかこふん/宮城県仙台市若林区

 法領塚古墳は、7世紀前半に造られた径55mの円墳です。径55mというのは、宮城県内の円墳としては、雷神山古墳の隣にある小塚古墳と並んで最大級です。ただし、現在は墳丘はかなり削られてしまっています。横穴式石室も東北地方最大級で、現在残っているのは玄室のみですが、元々は10m以上はあったはずです。

 古墳は、聖ウルスラ学院の構内にあるため、平日であれば事前の予約で見学することができ、かつ、横穴式石室の扉の鍵も貸してくれます。学校の方はとても親切に応対してくださいます。

 法領塚古墳の周辺も6世紀の頃は人口が希薄になるのですが、7世紀になって再び活性化してきて、このような大型の古墳を築造するだけの有力者が出現してきました。

 その時代は全国的には国造の時代ですが、先代旧事本紀を読む限りでは、断定はできないものの、仙台に国造がいたようには見えません。おそらく、国造の配置の北限は阿武隈川下流域です。つまりは、国造の範囲外に、国造級の墓が造られたことがとても面白いわけです。ただし、その後の歴史を見ても分かる通り、東北地方の行政は他地域と違って特殊なことが多いため、国造ではない何か違う地方首長が蘇我氏によって任じられていた可能性もあると思います。

 6世紀末から7世紀中葉にかけて、のちに初代陸奥国府ができる郡山遺跡に集落跡が形成され、その集落を作った人々は出土する土器を見るに千葉県の印旛沼周辺からやってきたと思われ、印波国造などが仙台の開発に活躍した可能性があり、そのような人びとの中からこの地で権力を得た者があったのだろうと思います。

 

甲斐銚子塚古墳

かいちょうしづかこふん/山梨県甲府市

 4世紀後半に築造された墳丘長169mの前方後円墳で、築造された時期だけ見たら東日本最大級の古墳です。おそらく先日亡くなった大塚初重先生も思い入れが強かった古墳だと思います。

 いろいろ凄い古墳ですが、現状の整備された状態の美しさでは、国内最高レヴェルです。

 

弘法山古墳

こうぼうやまこふん/長野県松本市

 前期前半(3世紀後半)に築造された墳丘長66mの前方後方墳です。

 弥生時代末には、東海や北陸や畿内から関東甲信、そして東北南部への人びとの動きが活発化していましたが、ヤマト王権の運営が軌道に乗る前(古墳時代に入った頃)に東日本の覇者となったのが濃尾勢力でした。弘法山古墳の被葬者も濃尾勢力あるいはその影響下の人物でしょう。ただし、濃尾勢力は王権とか国家などと呼べるような組織を形成するには至らず、奈良盆地で発足したヤマト王権に吸収されていきます。

 なお、松本ではこの古墳の後が続かず、大きな古墳の築造はされませんでした。長野県域を見渡すと、古墳時代後期には、長野市などの北の方や飯田市などの南の方にたくさんの古墳が築造されます。

 

森将軍塚古墳

もりしょうぐんづかこふん/長野県千曲市

 前期の前方後円墳で、長野県最大の墳丘長100mを誇ります。この古墳に関しては、山の上にあって古墳周辺を見るためには多少の体力が必要となるため、私が案内するときはいつもそれほど丹念に見てません。でも、短時間の探訪でも独特な設計思想はよく分かると思いますし、何しろ眺望が良い!日本で最も眺望の良い古墳の一つです。

 

三ッ城古墳

みつじょうこふん/広島県東広島市

 隣の岡山県は古墳王国ですが、広島県はちょっと寂しい。でもその中で他県の古墳と互角に渡り合える素晴らしい古墳として、広島県最大の墳丘長92mを誇る三ッ城古墳があります。葺石と埴輪での積極的復元がなされています。

 

柳井茶臼山古墳

やないちゃうすやまこふん/山口県柳井市

 山口県には前方後円墳はそれほどないのですが(前方後円墳データベースによると21基)、瀬戸内海沿いの要所要所に目立つ古墳が築造されていて、政治的な配置が良くわかります。柳井茶臼山古墳もそのうちの一つで、墳丘長は90m、山口県内では3番目に大きい古墳です。前方後円墳集成編年では3期、前期後半の築造とされます。写真の通り、積極的復元がなされていて、海が見える素敵な古墳ですよ。

 

野田院古墳

のたのいんこふん/香川県善通寺市

 香川県は前期の積石塚が多いことで有名、というか特殊ですが、野田院古墳もその仲間です。復元の写真だと前方部が緑色になっていますが、本来は後円部が積石塚で、前方部は土盛ですが葺石を施していました。標高400mの場所に築造されていますが、麓から車で登れますし、説明板などがしっかりと設置してあり、地元の方がとても力を入れているのが分かります。

 

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