最終更新日:2023年9月30日
本サイトでは都道府県別に歴史の叙述を進めているため、伊達家に関してもその中に含めることができれば良いのだが、伊達家の歴史をその時々の本拠地があった県で見てみると、茨城県、福島県、山形県、宮城県となってしまうため、県を横断した叙述が必要になる。見方を変えると、伊達家は室町時代以降は常に奥州における「台風の目」的存在であるので、伊達家を中心に歴史を述べると南東北の通史的な話ができる。
伊達家の先祖は不詳
伊達家は江戸期には東北地方を代表する大名となったため、先祖についてもはっきり分かっていると思われがちであるが、実は違う。多くの大名と同じく、先祖については不明確な部分が多い。
伊達家には自家に伝わる系図がきちんとある。伊達家の公式の見解をもとに初代から独眼竜政宗までを単に直列で示すと下記のとおりである。
初代 朝宗(念西公)
第2代 宗村(念山公)
第3代 義広(覚仏公)
第4代 政依(願西公)
第5代 宗綱(真西公)
第6代 基宗(誠志公)
第7代 行宗(行朝=念海公)
第8代 宗遠(定叟公)
第9代 政宗(儀山公)
第10代 氏宗(受天公)
第11代 持宗(天海公)
第12代 成宗(瓊岩公)
第13代 尚宗(香山公)
第14代 稙宗(直山公)
第15代 晴宗(保山公)
第16代 輝宗(性山公)
第17代 政宗(貞山公)
しかし系図が残っているからといってそれが正しいとは限らない。同時代の史料(古文書など)と照らし合わせながら逐一裏を取る作業が必要であるが、はっきりしてくるのは室町時代からである。
一応、系図上では朝宗が初代とされているが、彼の実在を史料で裏付けることはできない。鎌倉時代に著された『吾妻鑑』によると、文治5年(1189)8月の奥州藤原氏討伐における阿津賀志山の戦いで、常陸入道念西は、子息である常陸冠者為宗・同次郎為重・同三郎資綱・同四郎為家らとともに活躍しており、伊達家では、この確実に実在人物であることがわかる念西が朝宗と同一人物であるとしており、この説が通説化している。しかし、念西と朝宗が同一人物であることを証拠立てることはできない。
ただし、系図上に登場する朝宗以下の人物の幾人かはとりあえず無視するとしても、念西にわざわざ結び付けているわけだから、すでに系譜は不明になっているとしても、伊達家は実際に念西の子孫である可能性は高いと考えている。そして、その念西はその名乗りから常陸の有力者であることが分かる。本貫地は、伊佐郡(茨城県筑西市)の可能性が高く、念西は伊佐を名字としていた可能性があるが、これも確実に証明することはできない。伊佐氏は、平安時代には常陸国の在庁官人を勤める家系であった。
南北朝・室町時代の伊達氏
伊達家歴代の当主のうち、歴史の表舞台での活躍がはっきりと記録されるのは、7代目の行朝(ゆきとも)からである。
鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇による政治が行われたが(建武の新政)、後醍醐天皇は奥州に政治拠点としていわゆる奥州小幕府を設立した。そのときの幹部に行朝が名を連ねている。
この時点での奥州小幕府の目的は、奥州の諸勢力を建武政権下に糾合することである。鎌倉幕府が滅んで、後醍醐天皇が君臨した以上は、日本中の有力武士たち(彼らは実質的な地方の長)が素直に後醍醐天皇の言うことに従うようになれば全く問題はない。国内は平和となり、みんなニコニコして暮らせるはずだ。
しかし、世の中そう単純ではないのだ。
奥羽はとくに北条得宗家の影響が強い地域で、幕府が滅亡した後も依然として幕府に忠誠を誓う武士たちが多く、また、どうしてよいか分からずに右往左往する武士も多かった。そういった人びとを時には戦って撃破し、うまく話し合ったりして味方にしていき、奥州を安定化させるのが行朝らの主な仕事である。
普通に時代が推移すれば奥州も平和になったはずだが、その後、足利尊氏が後醍醐天皇に叛したことにより日本は戦乱の時代に突入する。南北朝時代である。行朝は南朝(後醍醐天皇)側として北畠顕家の西上に2度とも従軍して活躍した。
次の宗遠(むねとお)は、置賜(おきたま)地方(山形県の米沢盆地)への経略を図り、天授6年(康暦2年・1380)7月には、家臣・茂庭行朝に置賜侵攻を命じた。そして10月には宗遠自ら軍勢を率いて置賜を攻めた。奸智に長けた宗遠は、子の政宗と共に攻め続け、元中2年(至徳2年・1385)には、長井氏を武蔵へ追い落とし、米沢盆地の支配者となった。
系図上では、宗遠は行朝の子となっているが、これを史料で裏付けることはできず、両者の活躍年代がやや離れていることから考えると、二人の間にもう一人挟まるか(つまり「親と子」ではなく「祖父と孫」)、あるいは親戚である可能性が高い。伊達家はこの時代になっても、まだ系譜がはっきりしないのだ。
その次の政宗(まさむね)は、独眼竜と同じ名前だが別の人物。伊達家歴代の中でも英主といわれており、独眼竜の方がこちらにあやかって名付けられた。
応永5年(1398)11月4日、鎌倉公方氏満が薨じ、子の満兼が第3代鎌倉公方になった。満兼は公方に就任すると奥羽の経営に力を入れ、翌年には、弟・満貞を稲村(須賀川市)へ、同じく弟・満直を篠川(郡山市)へ派遣し、支配を任せた。
「結城文書」によると、応永7年3月8日、稲村御所満貞は、伊達政宗・蘆名満盛らの陰謀が露見し逃亡したので、白河結城満朝に追討を命じている。政宗が反したのは、「余目氏旧記」によると、鎌倉府が所領寄進を命じたことによるという。
この時代、伊達家は幕府との結びつきが強かったため、鎌倉府から攻撃対象にされた可能性があるが、歴代の鎌倉公方は、絶えずターゲットを探しては攻撃する病的ともいえる習性を持っていた。ともかく、ターゲットにされた政宗の籠る陸奥国赤館(福島県桑折町)に対して、上杉氏憲(のちの禅秀)や白河結城満朝らが遠征し、政宗は激しい抵抗を見せた後降参した(伊達政宗の乱)。