最終更新日:2022年12月12日
※本稿はドラフトです。
私は古代国家の諸問題を考える際の前提条件として、神武天皇とそのあとに続くいわゆる欠史八代は、実在の人物か、あるいはモデルとなった人物がいたと考えています。まったく架空の人びとをでっちあげて、あれだけの系譜を造るのは相当難しいと考えます。ただし、書紀に記されている系譜がそのまま合っているとは考えておらず、最終的には書紀を編纂した際に整えたものと考えています。
また、邪馬台国は奈良ではなかったと考えているので、これも本稿を述べる際には前提条件となります。本当のところは、奈良の可能性もゼロではないと考えていますが、逡巡していては話が進みませんので、可能性の高さから北部九州であると考えて話を進めます。
神武天皇や欠史八代はいつの時代の人びとか
神武天皇や欠史八代を記紀(古事記と日本書紀の併称)が述べているように、代々親から子への相続だったと考えると、仮に崇神天皇を3世紀の天皇とした場合、彼らは弥生時代後期の人たちになってしまいますが、例えば、1世紀や2世紀の人びとの系譜が、文字の記録もないのに8世紀の日本書紀に掲載されるでしょうか。
埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘文によって5世紀には確実に系譜を文字化する文化が日本にあったことが分かりますが、仮に1世紀や2世紀の人たちの系譜が口頭によって伝わって、5世紀に初めて文字化されたとして、400年も口伝で伝わることがあるでしょうか。代数にしたら20代くらいになると思います。
400年以上口頭で伝えられた可能性も無くもないと思いますが、神武天皇から始まって9代目まで代々親から子へスムーズに相続されたということはあり得ないと考えます。私は、欠史八代の人たちはそこまで古い人たちではなく、もう少し新しい弥生時代末期から古墳時代初頭にかけての大体3世紀代に収まる人びとで、しかも系譜は記紀に書いてある通りではないと考えます。
ヤマト王権発足の契機は何か
ヤマト王権は、3世紀に発足したと考える研究者が多いです。考古学的に見た場合、古墳の造営を見れば今までになかった広域の政治勢力が3世紀に発生したことは間違いありませんし、都市的な遺跡である纒向遺跡の存在がそれを補強しています。
ただし、そういう政治勢力が発生するためには当然ながら巨大な敵対勢力の出現や異常な気候変動などの外部からのトリガーが必要で、北部九州の邪馬台国連合の場合は、魏志倭人伝に記されている通り、国ぐにが酷い戦争状態になったため、戦いに倦んだ人びとが卑弥呼を共立して収めたと考えるのが妥当でしょう。
邪馬台国からヤマト王権にシームレスに政権が繋がると考えている人は、ヤマト王権発足のトリガーについてあまり考える必要はありませんが、私はベースとして邪馬台国は奈良ではなかったと考えているため、そうすると、ヤマト王権成立には何かのトリガーが必要と考えます。
ヤマト王権は当初、吉備や丹波、そして播磨・讃岐・阿波などの瀬戸内東部勢力および尾張・美濃・伊勢などの東海西部勢力が中心となって成立したと考えており、それを私は、「本州西部広域連合」と呼んでおり、発足時点では、九州や出雲や越はそれに与していないと考えています。
2世紀末頃には卑弥呼を共立した邪馬台国連合が発足したと考えていますが、彼らと朝鮮半島の諸勢力は遼東の公孫氏に属していました。公孫度は、董卓政権のもと遼東太守として赴任しましたが、中央の目が届かない僻地で好き勝手に振る舞い、徐々に王のような存在になって行きます。中国の歴史で往々にして誕生する辺境軍事政権です。
邪馬台国連合には半島や大陸出身の人びとが多くおり、大陸的な発想である軍事侵攻は当たり前という考えを持った人びとが政治に参画していた可能性が高く、そうだとすると、彼らは間違いなく東へ向かって侵攻してきます。公孫氏をバックに持つ攻撃的な邪馬台国連合は、3世紀初頭から東への進出を開始しましたが、それこそが本州西部広域連合がヤマト王権を作った際のトリガーであると考えます。
ヤマト王権は、濃尾を筆頭とした東日本の軍事力を頼みとしていたため、東国の軍勢が集結しやすい奈良は本拠地としては最適です。
そのヤマト王権が纒向において成立したのは、3世紀初頭と考えています。箸墓古墳の造営より半世紀前で、一般的には弥生末期と言われる時代ですが、私は3世紀初頭に築造される前方後円形あるいは前方後方形の墓はすでに古墳と呼んでよいと考えているため、古墳時代とします。
初代神武天皇
建国神話によると、初代神武天皇が即位した年は、西暦に直すと紀元前660年になります。よく言われることとして、大きな革命がおこる辛酉(しんゆう)の年に日本国設立の年を定めたという説があります。恐らくそれは当たっているでしょう。何事も始まりがありますから、建国の年をしっかりと決める必要があり、その年に決めました。
もう少し具体的に述べると、中国の讖緯説(しんいせつ)では、辛酉の年に起きる変化のことを「辛酉革命」といい、さらに21回に1度は、非常に大きな変化が起きるとされています。
書紀を編纂するときにはたくさんの資料が集められたはずですが、その中に推古天皇の時期に記された『天皇紀』がありました。ただし、当時はまだ「天皇」は存在していないため、本当の書名は違ったかもしれませんが、それが記されたのは、辛酉の年である推古9年(601)のころでした。そのため、そこから60年を21回遡った紀元前660年を神武天皇即位の年にしたというわけです(『日本神話と古代国家』<直木孝次郎/著>P.185)。
建国の年はこうして決められましたが、つづいて建国のエピソードが必要です。
神武天皇の事績は半ば神話のような内容です。東征の部分に関しては、大林太良氏によれば、日本書紀よりも古態を示す古事記の神話においては、神武の次兄・イナヒと三兄・ミケイリノは東征記事に出てこず、神武と長兄・イツセの描き方が山を侵攻して成功した神武と、海を侵攻して失敗したイツセという、山と海との対応になっており(海幸山幸の神話も同様)、これは高句麗や百済の建国神話と同様な形態をなしていることから、それらを元にして創作されたものであろうとしています(『日本神話の構造』<大林太良/著>P.228~)。
また、紀伊半島の熊野に上陸して奈良盆地へ向かうシーンに関しては、直木孝次郎氏は天武天皇の壬申の乱が元ネタであろうとしています。確かに、女性首長として名草戸畔(なくさとべ)や丹敷戸畔の名が見え、女性を「とべ」と呼ぶのは日本書紀を編纂した時代から律令時代にかけてのことでしょう。
直木孝次郎氏や大林太良氏は、神武天皇は実在しなかったという考えなのですが、気になる点もあります。女性が地域の首長として活躍していたのは、考古学的には古墳時代前期までで、神武東征の話の中には弥生末期的な社会の雰囲気を感じ取ることができます。そのため、私は神武東征の話のすべてを創作とするのは躊躇します。奈良盆地に盤踞する勢力の中での伝承で、最古まで遡ることができる実在の人物が神武天皇の原像かもしれません。
以降では、各天皇の名前をキーにして事績を考察していきますが、初代神武天皇の兄弟の名前は以下の通りです。
・彦五瀬(ひこいつせ)
・稲飯(いなひ)
・三毛入野(みけいりの)
・初代神武天皇:彦火火出見(ひこほほでみ)
神武天皇は別名が多いですが、彦火火出見の「見」が重要なので、それのみ挙げました。「見」については後述します。
第2代綏靖天皇から第4代懿徳天皇まで
記紀に記載される天皇とその兄弟の名前を確認しながら、そこからわかる古代史を復元します。「天皇(すめらみこと)」や「命(みこと)」は省略します。
【第2代綏靖天皇とその兄弟】
日本書紀:
・手研耳(たぎしみみ)
・神八井耳(かむやいみみ)
・第2代綏靖天皇:神沼河耳(かむぬなかわみみ)
古事記:
・当芸志美美(たぎしみみ)
・日子八井
・神八井耳
・第2代綏靖天皇:神沼河耳
称号と思われる「かむ(かみ)」が付くのはここまでのようです。この後の天皇のような長い称号は付きませんが、「神」という最高の称号を付加することにより存在を際立たせています。
【第3代安寧天皇】
日本書紀:
・第3代安寧天皇:磯城津彦玉手看(しきつひこたまてみ)
古事記:
・第3代安寧天皇:師木津日子玉手見(しきつひこたまてみ)
安寧天皇は、記紀ともに一人っ子です。磯城津彦(師木津日子)というのは、「磯城の立派な男子」という意味で、磯城と言えば奈良の磯城だと考えられ、欠史八代の中で初めて地名が冠されます。
磯城という地名は現在も残っていますが、三輪山西麓の桜井市や天理市などで、そこには纒向遺跡やオオヤマト古墳群があり、まさしくヤマト王権発祥の地です。記紀編纂の時代でももちろんその知識はあったため、そのときに「磯城津彦」を付加した可能性がありますが、魏志倭人伝によると、対馬国と一支国の官名は、「ひこ(ひく)」ですし、狗古智卑狗(くくちひこ/きくちひこ)という人物もおり、3世紀の頃にはすでに「ひこ」という称号が存在していたのは確かです。「ひこ」は、身分が高い人に付ける称号のようなもので、その後も長く使用され、現代人にも見ることができます。
【第4代懿徳天皇とその兄弟】
日本書紀:
・息石耳(おきそみみ)
・第4代懿徳天皇:大日本彦耜友(おおやまとひこすきとも)
また、一書によると以下の通り。
・常津彦某兄(とこつひこいろね)
・第4代懿徳天皇:大日本彦耜友
・磯城津彦
古事記:
・常根津日子伊呂泥(とこねつひこいろね)
・第4代懿徳天皇:大倭日子鉏友(おおやまとひこすきとも)
・師木津日子
長男の「いろね」の「ね」については、後述します。
「大日本彦」は、安寧天皇の「磯城津彦」と似ています。記紀を編纂した際に、耜友という本名だけでは威厳がないため、その時代の知識で付加した称号と考えることもできますが、当時からの称号だとすると、「大日本」は、後世の大倭郷のもとになった地名の可能性もあります。ただし、大倭郷地名がどこまで遡れるかは分かりません。
また、磯城津彦に関しては、称号のみで本名が分からなくなっていますが、兄弟でそれぞれ天皇家の本拠地の地名を冠したと考えることができます。
魏志倭人伝によると、投馬国の官名は、「みみ」や「みみだり」です。そのため、上記の「み」が付く人びとは、弥生時代末期から古墳時代前期頃の身分が高い人に付けられる名前のフォーマットだったと考えられます。
問題はこれら3世紀頃の天皇たちの勢力がどこに存在したかですが、磯城という地名が見え、またあくまでも伝承になりますが、彼らの宮や陵の場所から考えて、桜井市から橿原市や御所市あたりにかけて盤踞していた勢力ではないでしょうか。彼らは、本州西部広域連合(ヤマト王権)に土地を提供した部族で、本州西部広域連合に土地を提供するまでは、奈良盆地内で他の勢力と角逐を繰り返していたと思われ、畝傍山に残る高地性集落などにその形跡を見ることができます。
ここまでの人たちは、「み・みみ」が付く人が多いです。これを「第1グループ」と呼びます。
私が欠史八代が決して「欠史」ではないと考える理由の一つが彼らの本名です。最終的には記紀編纂の際に整形されたわけで、その際に付いた「大日本彦」などは無視してよく、肝心な名前のコアの部分に注目すると、きちんと古代人のネーミングの規則に沿っているのです。そういうものを7世紀や8世紀の人びとがでっちあげることができるでしょうか。
なお、大山祇(おおやまつみ)などの「み」が付く神もいますが、「み」の音を様々な漢字で表している理由については、溝口睦子氏がいうように、音として伝わってきた「み」が付く名前をいざ文字化しようとした際に、すでに「み」の意味が分からなくなっていて、それが原因で様々な漢字があてられたと考えられます(『古代氏族の系譜』<溝口睦子/著>)。後に出てくる大吉備諸進(おおきびもろすすみ)もそうかもしれません。
欠史八代の配偶者については、別途述べるつもりですが、書紀と古事記ではまったく違い、また書紀でも「一書(あるふみ)」で複数の説があるため、系図化すると全然違うものが仕上がります。ここまでの4代に関しては、書紀の本文では、葛城地方の神である事代主の子孫と強く結びついており、書紀の「一書」と古事記では、磯城県主一族と強く結びついています。それを系図に表すと以下の通りになります。
神武から懿徳までの系図
※系図は環境によっては表示が崩れますがご了承ください(別途ちゃんとしたのを準備中)。
<日本書紀 本文系図>
吾平津媛
|
+ーーーーーー 手研耳
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神武
|
+ーーーーーー 神八井耳
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+ーーーーーー 神沼河耳
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事代主神 +ー 媛蹈鞴五十鈴媛 +ーーーー 磯城津彦玉手看
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+ーーーーーーーーー 五十鈴依媛 +ーー 息石耳 ー 天豊津媛
| | |
| | +ー 観松彦香殖稲
| | |
| +ーーーーーーーー 大日本彦耜友
| |
+ー 〇 ーーーーー 鴨王 ーー 渟名底仲媛
日本書紀の本文を系図に表すと上記のようになりますが、代々事代主の子孫との結びつきを強調しています。ただし、欠史八代の場合は、妻の名前について別の説を掲載しており、それを系図に表すとまた違った風合いを帯びてきます。
<日本書紀 一書系図>
吾平津媛
|
+ーーーーーー 手研耳
|
神武
|
+ーーーーーー 神八井耳
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+ーーーーーー 神沼河耳
| |
事代主神 +ー 媛蹈鞴五十鈴媛 +ーーーー 磯城津彦玉手看
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磯城県主 ーー 川派媛 +ーーーー 息石耳
|
+ーーーー 大日本彦耜友
| |
+ー 磯城県主葉江 ーー 川津媛 +ー 観松彦香殖稲
| |
+ー 猪手 ーーーーーーーーーーーー 泉媛
こちらの系図では、綏靖以降3代とも磯城県主の娘を妻としています。その名前は本名ではないかもしれませんが、こちらの方が自然な感じがして、この系図では綏靖以下3代は、磯城の豪族との結びつきが強かったことが分かります。そして、さらに古事記の系図を示します。
<古事記系図>
+ー 阿多之小椅君
|
+ー 阿比良比売
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+ーーーーー 多芸志美美
|
+ーーーーー 岐須美美
|
神武
|
+ーーーーー 日子八井
|
+ーーーーー 神八井耳
|
+ーーーーー 神沼河耳
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三島湟咋 ー 勢夜陀多良比売 | +ーーーーーー 師木津日子玉手見
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+ー 富登多多良伊須岐比売 | +ー 常根津日子伊呂泥
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大物主神 | +ー 大倭日子鉏友
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師木県主之祖 +ー 師木津日子
+ー 河俣媛 |
| |
+ー 県主波延 ーー 阿久斗比売
神武天皇はここでも神の娘を娶っているのは仕方ないとして、書紀の一書系図と似ており、綏靖、安寧、懿徳の3代は磯城の豪族と結びつきが強かったと結論します。
第5代孝昭天皇から第8代孝元天皇まで
欠史八代の名前を見ると、孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇の4名は何故みな「孝」が付くんだろうと不思議に思うかもしれません。
中国漢王朝の皇帝の名には「孝」が付きます。そして、興味深いことに、この4人の天皇は、漢の皇帝と諡が一緒なのです。
・孝昭天皇と前漢第8代昭帝
・孝安天皇と後漢第6代安帝(ちなみに、安帝の西暦107年に倭国王帥升の遣使があった)
・孝霊天皇と後漢第12代霊帝
・孝元天皇と前漢第10代元帝
奈良時代に天皇の漢風諡号を考えた際に、なぜこの4名は漢帝国の皇帝を連想させるような諡号にしたのでしょうか。それは、この4人が漢帝国の皇帝の末裔だったからだと考えます。
後漢王朝では、184年の黄巾の乱のあと、都を制圧した董卓は献帝(後漢第14代)を擁立して政治を牛耳りましたが、このとき未曽有の政治的混乱が発生しています。大概、権力者には系譜に現れない子供がいるものですが、正史に登場しない皇族やその子孫たちの一部は大陸の辺境に四散した可能性があります。ここでは、観松彦香殖稲(孝昭天皇)と日本足彦国押人(孝安天皇)が漢帝国の皇帝・劉氏の末裔であると仮定して論を進めます。二人は兄弟だったかもしれませんが、同世代の人物と仮定します。
香殖稲と国押人(元の名は不明)は、一旦朝鮮半島南部の任那まで逃れ、そこを拠点としていた倭人勢力と結び、香殖稲は、「ミマツヒコカエシネ」と名乗り、彼らは倭人の手引きにより列島に渡ります。
以下に、孝昭天皇以下の人びとを列挙します。
【第5代孝昭天皇とその兄弟】
日本書紀:
・孝昭天皇:観松彦香殖稲(みまつひこかえしね)
また、一書によると、武石彦奇友背(たけしひこあやしともせ)もいる。
古事記:
・孝昭天皇:御真津日子訶恵志泥(みまつひこかえしね)
・多芸志比子
観松彦香殖稲は、観松彦と香殖稲に分解することができ、「みまつひこ」は、「みま」の立派な男子という意味の称号で、みまというのは、朝鮮半島南部の任那と考えることができ、任那において地盤を有した人物の可能性があります。
「かえしね」の「ね」は、既述した「み」と同様に弥生末期から古墳時代前期に身分が高い人に付けられる名前のフォーマットです。後になりますが、崇神朝での出雲振根(振根<ふるね>が名前のコアの部分)や、垂仁朝で五大夫の一人とされる物部十千根大連もそうですし(十千根<とおちね>が名前のコアの部分)、神の名前では、中臣氏や藤原氏の祖神の天児屋根もそうです。
書記の本文では、孝昭天皇の妻は瀛津世襲(おきつよそ)の妹・世襲足媛です。私は書紀の一書や古事記に見える通り、孝昭天皇は磯城の葉江の娘を娶ったと考えていますが、世襲足媛とも婚姻していたかもしれません。瀛津世襲は尾張連の祖とされていますが、それは系譜上での祖のことで、瀛津世襲が尾張出身の人物であるかは分かりませんが、「おき」という土地の豪族でしょう。葛城地方は尾張との繋がりが見えますが、それ以上のことは分かりません。
【第6代孝安天皇とその兄弟】
・天足彦国押人
・孝安天皇:日本足彦国押人(くにおしひと)
【第7代孝霊天皇とその兄弟】
・大吉備諸進(おおきびもろすすみ) 古事記のみに登場
・孝霊天皇:大日本根子彦太瓊(おおやまとねこひこふとに)
欠史八代を非実在の人物と考える人は、大日本根子という称号が時代が新しいことを根拠の一つにしますが、「ねこ」というのは、前述の「ね」と同類で、弥生末期から古墳時代前期の人物に冠されます。次代の孝元天皇もそうですし、崇神朝に登場する大田田根子もそうです。
【第8代孝元天皇とその兄弟】
・孝元天皇:大日本根子彦国牽(くにくる)
・千千速比売
・倭迹迹日百襲姫
・日子刺肩別(ひこさしかたわけ) ※前述した武渟川別よりも早く「わけ」がついている
・彦五十狭芹彦
・倭迹迹稚屋姫
・彦狭島
・稚武彦
この後漢霊帝の末裔たちを「第2グループ」とします。
孝昭天皇から孝元天皇までの系図
<日本書紀 本文系図>
観松彦香殖稲
|
+ーーーーーー 天足彦国押人
|
+ーーーーーー 日本足彦国押人
| |
+ー 世襲足媛 +ーー 大日本根子彦太瓊
| | |
| 尾張連の遠祖 押媛 +ーー 大日本根子彦国牽
+ー 瀛津世襲 |
細媛
<日本書紀 一書系図>
観松彦香殖稲
|
+ーーーーーー 天足彦国押人
|
+ーーーーーー 日本足彦国押人
| |
磯城県主 | +ーー 大日本根子彦太瓊
葉江 ー+ー 渟名城津媛 | |
| | +ーー 大日本根子彦国牽
+ーーーーーーーーー 長媛 |
春日千乳早山香媛
or
十市県主等が祖が女・真舌媛
ここでも磯城県主葉江の娘が現れ、孝昭天皇に嫁していますが、葉江の別の娘は安寧天皇にも嫁しており、書紀の系図通りであれば安寧天皇と孝昭天皇は祖父と孫の関係ですから、葉江という同名の人物がいない限りその関係は難しいでしょう。
葉江の3名の娘たちを中心に系図を作ると以下のようになります(数字は記紀での代数)。
① ② ③
神武 ーー 神沼河耳 ーー 磯城津彦玉手看
|
| ④
+ーーーーー 大日本彦耜友
|
葉江 ー+ー 川津媛
|
+ー 渟名城津媛
| |
| | ⑥
| +ーーーーー 日本足彦国押人
| | |
| ⑤ | ⑦ ⑧
| 観松彦香殖稲 +ー 大日本根子彦太瓊 ーー 大日本根子彦国牽
| |
+ーーーーーーーー 長媛
葉江という人物をこれほどまで信用して考察してよいのかは危険な感じがしますが、2系統に分かれる欠史八代が磯城県主と呼ばれる磯城の在地勢力によって結合していたということで結論とします。さらに、私は既述した通り、観松彦香殖稲と日本足彦国押人が兄弟であったと考えるため、以下のように修正します。
① ② ③
神武 ーー 神沼河耳 ーー 磯城津彦玉手看
|
| ④
+ーーーー 大日本彦耜友
|
葉江 ー+ー 川津媛
|
| ⑤
| 観松彦香殖稲
| |
+ー 渟名城津媛
|
| ⑥
| 日本足彦国押人
| |
| | ⑦ ⑧
| +ーーーー 大日本根子彦太瓊 ーー 大日本根子彦国牽
| |
+ー 長媛
本州西部広域連合と出雲勢力
観松彦香殖稲と日本足彦国押人は、二人とも160年頃の生まれと仮定し、彼らは奈良盆地に進出し、磯城の豪族である葉江のもとに迎えられ、奇貨居くべしと考えた葉江によってそれぞれ彼の娘を与えられ、二人は至近の距離に拠点を構えます(下図⑤と⑥)。
ところが、観松彦香殖稲はほどなくして亡くなり、日本足彦国押人の子の大日本根子彦太瓊が跡を継ぎます(185年の生誕と仮定)。太瓊は、母の実家である磯城勢力の力を借りて勢力を伸ばし、盆地中央に拠点を設けるほど躍進しますが(上図⑦)、その頃、吉備や播磨・讃岐・阿波などの勢力が結集し、ヤマト王権成立の動きが生まれます。
磯城勢力も時代の流れに逆らえず、本州西部広域連合の要請によって支配地域を割譲せざるを得なくなり、磯城勢力の拠点近くにヤマト王権の拠点が設けられました。纒向遺跡です。これにより、威勢の良かった太瓊の勢力も力を失い、元の葛城地方に逼塞することになり、210年に生誕したと仮定する大日本根子彦国牽の代になった頃には、葛城地方に存在する小さな勢力と化してしまいました(上図⑧)。
第9代開化天皇は、書紀の系譜がいうように孝元天皇の子ではなく、丹波の有力者です。吉備勢力が中心となってヤマト王権を設立した際に、並み居る群雄たちと対立しえない人畜無害な人物ということで代表者に祭り上げられました。時として、代表者は力を持っていない方が都合がよいことがあります。
彼は奈良では物部氏(正確には物部氏の先祖)と婚姻を結び、盆地北部の今の奈良市内に居館を構え(上図⑨)、必要な時は纒向に出御して政治を行いました。没後は、纒向に墓を造らず、居館の近くに墓を造りましたが、現在の開化天皇陵は違うので、平城京建設の際に失われたと思われます。
以上のような弥生末期の奈良盆地の動乱では物部氏の動向が重要でした。ただし、神武紀に記されている通り、物部氏は天皇家よりも先に奈良盆地内で力を付けていましたが、彼らも奈良地生えの勢力ではなく、他所からやってきた勢力です。
奈良盆地内には唐古鍵遺跡のように大きな弥生集落はありましたが、王墓と目される権力者の墓はありません。ただし、規模の小さな弥生墳丘墓は見つかっていますし、現在は古墳といわれている中にも弥生墳丘墓が存在している可能性が高いため、在地勢力は存在しました。
開化天皇の跡を受けて本州西部広域連合の代表者となった崇神天皇の課題は、出雲を傘下に収めることでした。出雲は2世紀までの威勢はすでに失われていましたが、北部九州の邪馬台国勢力と結びついているためその力は侮れません。
謀略を用いて強引に出雲のレガリアを奪い、傘下に収めることに成功しましたが、疫病が多発しました。これまで巫女として大活躍してきた倭迹々日百襲姫の占いによると、疫病発生は出雲の神の祟りと出たため、出雲の神を三輪山に祀りました。ところが、出雲の神を三輪山に奉斎した直後、モモソビメは急死します。時の人びとは、モモソビメが出雲の神の祀り方を失敗したから神の怒りにあって死んだと囁きあいました。無念に亡くなったモモソビメの大きな力を恐れた人びとは、今までにない巨大な墓を造り祀りました。それが箸墓古墳です。
記紀に神武から欠史八代の系譜が載っているのは、このような3世紀の人びとの系譜が磯城を支配下に置いたヤマト王権によって受け継がれ、文字化される5世紀までの200年ほどの間、口伝によって伝わっていたからだと考えます。記紀を編纂した際に完成した最終段階の系譜では、紀元前660年の建国まで系譜を架上する必要がありましたが、系譜を創作するのは容易なことではないため、口伝された人びとで家系を繋げつつ、一人当たりの寿命を延ばすという大胆な編集方針を定めたと考えます。普通に考えたら百数十年の寿命はあり得ないのですが、天皇という存在は普通ではないということを律令時代の官人や外国の貴族に思い知らせるためには、それくらいのインパクトはむしろあった方が良いと考えたのかもしれません。
ヤマト王権と邪馬台国連合との角逐
出雲をも抱き込んだ崇神天皇は、いよいよ邪馬台国連合との交渉に入ります。崇神は武力で邪馬台国連合と対決することはしませんでした。卑弥呼以下の邪馬台国連合の強みはバックに魏王朝が付いていることと、朝鮮半島との交易に有利な北部九州の港を抑えていることです。
崇神天皇は、まずは朝鮮半島との交易拠点を抑えることを目論み、今の博多の西新町遺跡にある当時の日本で最大規模の交易拠点を管理する権利を邪馬台国から得ました。魏志倭人伝に記されている市を監する「大倭」はヤマト王権のことです。
西新町遺跡は奴国の領域内にあります。奴国王の難升米は卑弥呼を打倒して自らが盟主になる野望を抱いており、そのためにヤマト王権の力を借りようと思い立ち、西新町遺跡をヤマト王権に任せることにより協力を取り付けました。247年ころに卑弥呼は難升米に殺害されます。魏志倭人伝に「以て死す」とありますが、それは前の文章に掛かっていますが、魏が黄どうを難升米に渡したことに掛かっており、それによって卑弥呼が難升米に殺されたことが分かります。難升米がいったん邪馬台国連合のリーダーとなりましたが、まとまることがなく殺害され、台与(あるいは名前が壱与であれば伊都国王か)がリーダーとなりました。
やがて魏王朝が滅び、晋王朝が興りましたが、卑弥呼の跡を継いだ台与は晋王朝設立時に使いを送ったものの、その後は晋王朝自体がグダグダになってしまったため、台与は晋王朝を頼みにできなくなりました。中国王朝の後ろ盾がなくなった邪馬台国連合は、ヤマト王権の調略によって徐々に解体していきました。
話は少し飛びますが、邪馬台国連合が最終的に消滅したのはまだ先です。景行天皇の九州巡幸の際に、邪馬台国連合の土地には行っていないため、景行天皇の時点ではまだ独立勢力として存在していた可能性が高いです。
北部九州の前方後円墳について、ヤマトの前方後円墳との対比を行って、ヤマトとの政治的関係を考察していく必要があります。なお、前方後円墳が築造されているからといって、その土地がヤマト王権の支配下に入ったと単純に考えることはできません。古墳は確かに政治的な構築物ですが、基本的に墓は文化であるので、副葬品を含めて文化を具体的に考察する必要があります。
邪馬台国連合の後裔勢力を考える上では、神功皇后の働きが重要です。応神天皇はもしかすると小林惠子説のように、大陸出身の符洛かもしれません。北部九州勢力は歴史的に半島勢力と絶えず交渉を持っており、神功皇后と応神がタッグを組んで、半島勢力をバックにして、東征を行った可能性があります。
応神はヤマトを制圧して、新たな政権を確立しますが、それまでの景行系王朝と応神王朝を系譜的につなげて、万世一系のつじつま合わせに利用されたのが北陸の王である仲哀天皇です。仲哀天皇は接着剤なのです。
考古学的に確実に言えることは、応神天皇の支配がはじまった古墳時代中期は、古墳の副葬品を見ると前期とはあまりにも内容が違い、まるで別の文化の人びとが列島各地の支配者になった印象を持ちます。
応神天皇によって、渡来人による列島支配が本格的に始まりました。
※以下はさらなるなぶり書きですので、読んでも構いませんが、多分あんまりよく分からないと思います。
⑨開化天皇 稚日本根子彦大日日 おおひひ
大彦
少彦男心
倭迹迹姫
彦太忍信
武埴安彦
なぜ、欠史八代の系図は、本文、一書、古事記でそれぞれ別の綺麗な系図ができてしまうのか?
⑩御間城入彦五十瓊殖 いにえ
御真津比売
彦湯産隅
彦坐王
建豊波豆羅和気王
「いり」がつく。
女性は必ず「ビメ」がつく。
男性の「ビコ」は頭についても最後についても良い。
⑪活目入彦五十狭茅 いさち
彦五十狭茅
国方姫
千千衝倭姫
倭彦
五十日鶴彦
豊城入彦
豊鍬入姫
大入杵
八坂入彦
渟名城入姫
十市瓊入姫
「いり」がたくさん。「いり」ってなんだ?
誉津別 ほむつわけ ・・・ 応神は日本書紀ではホムタワケだが、『上宮記』逸文では、凡牟都和希王(ほむつわけのみこ) 九州に下向したのち力を蓄え、上京して大王の地位を奪取して応神天皇になったと考えたいが年齢が合わない?
五十瓊敷入彦
⑫大足彦忍代別 おしろわけ
大中姫
倭姫
稚城瓊入彦(わかきにいりひこのみこと)
鐸石別(ぬてしわけのみこと)
胆香足姫(いかたらしひめのみこと)
息速別
稚浅津姫(わかあさつひめのみこと)
袁那弁王
磐衝別
両道入姫(ふたじいりひめのみこと、石衝毘売命)
祖別(おおちわけのみこと、落別王・於知別命・意知別命)
五十日足彦(いかたらしひこのみこと)
胆武別(伊登志別王)
円目王(つぶらめのみこ)
「いり」がつく。
「わけ」が現れる。この時代、ヤマトフォーマットの前方後円墳が列島各地にでき、諸王が各地に下向した可能性があり、「わけ」を冠した王たちが諸国に封じされたか。だとすると、景行天皇も本来は跡継ぎではない。五十瓊敷入彦が本来の跡継ぎだったが、虚弱か何かで神祇担当になり、景行が継ぐことになったか?実際に書記では二人が候補者として垂仁に試されている。
櫛角別
大碓
日本武尊 ・・・ 尊が付いているのは天皇
⑬成務天皇 ・・・ 本名無し 武内宿禰と同一人物か 成務の時代に国造はいないが「わけ」を地方に任じるのが進んだか。
五百城入彦
忍之別
稚倭根子
大酢別
神櫛
渟熨斗
五百城入姫
香依姫
五十狭城入彦
吉備兄彦
高城入姫
弟姫
「百済記」より
364年 百済が卓淳に使者を派遣した。
366年 百済に倭人(斯麻宿禰の従者爾波移)が卓淳人(過古)といっしょにやってきた。
367年 百済が倭に久氐らを派遣した。 こののち、倭が職麻那那加比跪を百済に派遣してきた。
369年 百済王近肖古王はそれを厚遇し、さらに久氐らをつけて送った 久氐らは七枝刀・七子鏡などを記念としてもたらした
東晋の「太和四年」(369年)と符合
百済三書は、『百済記』・『百済新撰』・『百済本記』の3書の総称。いずれも現在は伝わっていないが、逸文が『日本書紀』にのみ引用されて残されている。
広開土王と応神天皇
好太王碑には以下の通り。
高句麗は、百済と新羅を属民にしていたが、391年に倭が海を渡ってやってきて、百済、不詳、新羅を破って臣民とした。
応神紀3年(392)では、百済記からの引用で、辰斯王が倭に対して礼を失したため、紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、つくの宿禰を派遣して百済を責めた。百済国は辰斯王を殺して陳謝した。紀角宿禰らは、阿花を立てて王として帰還した。この記事と広開土王碑文が合っているように思える。
応神が倭王となったため辰斯王は態度を変えたように見える。応神は元々辰斯王と敵対していた人物ではないか?辰斯王は385年に王位に就いている。
稲荷山鉄剣(471年):意富比垝 多加利足尼 弖已加利獲居 多加披次獲居 多沙鬼獲居 半弖比 加差披余 乎獲居臣
オワケ臣が445年生まれとすると、タカリ宿禰は、6代前で、295年生まれ。宿禰は3世紀末から5世紀初頭まで100年以上使われたか?
399年(応神10年)、百済が誓いを違えて倭と和通した。王は平壌に出向いた。新羅から使者が来て「倭人が国境に満ちて、城や池を破壊し、百済の民を臣下とした。高句麗王に助けて欲しい」と言ってきた。
応神紀8年(397)、百済人が来朝し修好している。9年には武内宿禰を筑紫に遣わせているので、朝鮮半島での作戦行動の指揮を執ったと思われる。ただし、書紀ではこのあと、弟の讒言にあって、くがたちをしている。
400年(応神11年)、歩騎5万にて新羅を救援。新羅王都に満ちていた倭兵が撤退。
404年(応神15年)、倭が帯方界に侵入。それを撃破。
応神紀15年は、王仁と辰孫王(辰斯王の子)の来朝。稲用説では、これ以降国内に文字が普及。朝鮮半島での戦いを有利にするための政策の一つ。また、馬の生産もアップさせたはず。
倭の五王の時代
5世紀 倭の五王 倭王は将軍として将軍府(幕府)を開いた この時点では倭王は、「倭」という姓を持っていた 倭王は、単なる王から大王になり、列島各地の王たちは、相対的に力が下がり、国主(くにぬし)と呼ばれるようになった 各平野や盆地、あるいは水系ごとに国主がいた
「百済記」由来の毗有王代の史実としては429年に百済の将木羅斤資が倭の沙沙奴跪とともに卓淳国に集結して新羅・加羅を討った
442年、倭が沙至比跪を派遣して加羅を討った 百済の木羅斤資は加羅の乞師により沙至比跪らの倭兵を討った
百済が主導し倭国も参加した加羅・新羅に対する軍事行動が加羅に対する倭国の軍事行動の起源としてわざわざ干支三運下げた神功紀に記載されたと推測される。
室宮山古墳の築造年代が5世紀初頭だとすると、半島で活躍した沙至比跪の墓にするには厳しい。通説通りに襲津彦の生存年代を日本書紀に合わせると、室宮山でもいいが、そうすると沙至比跪と時代が合わない。百済記を信用して襲津彦と沙至比跪が同一人物だったとするとその辺を再考する必要がある。
近肖古王は百済の第13代の王(在位:346年 - 375年)。中国史料及び日本史料にはじめて名の現れる百済王である。
5世紀後半、稲荷山鉄剣により、杖刀人の首 江田船山鉄刀により、典曹人 人制
氏姓制度
屯倉制度 日本書紀では安閑天皇の時に大量設置だが制度としてはもっと古い
6世紀前半、継体天皇により国造制
6世紀中ば、国家として仏教を受け入れ
蘇我稲目の台頭
645年乙巳の変
国造制の解体
国郡里制
694年藤原京へ遷都
701年大宝律令の制定
710年平城京へ遷都
784年長岡京へ遷都
794年平安京へ遷都