初稿:2009年1月1日
最終更新日:2023年2月27日
本サイトで公開している「平将門の乱」と「北の南朝 ~南部師行・政長兄弟~」との間をつなぐ時代の解説として、本稿を掲載します。
※系図に関しては、テキストで打っているためスタイルがズレて変になっているので、後日きちんと作り直す予定です。
目次
第1章 関東武士の勃興
平将門の乱
9世紀以降、関東地方には中央から多くの貴族が下ってきて、もともと関東に根を張っていた有力者と婚姻関係を結ぶなどして、徐々に勢力を扶植していった。例えば、桓武天皇の孫(あるいは曾孫)の高望王(たかもちおう)は、寛平元年(889)5月13日、宇多天皇から平朝臣姓を授かり(臣籍降下)、昌泰元年(898)に上総介に任じられ、上総(千葉)に下向して地盤固目を始めた。高望王の系統を桓武平氏と呼ぶ。
平 桓武天皇 ─(1代または2代)─ 高望王 ─┬─ 国香 ─── 貞盛 ─┬─ 維将 ─── 維時 ─── 直方 → 北条氏へ │ │ │ └─ 維衡 → 平清盛へ │ ├─ 良将 ─── 将門 │ └─ 良文 ─┬─ 忠頼 ─┬─ 将常 → 秩父氏・豊島氏・葛西氏へ │ │ │ └─ 忠常 → 上総広常・千葉氏・相馬氏へ │ └─ 忠通 → 三浦氏・芦名氏・梶原氏へ |
このように関東地方に根を張った武士の中で、関東を自立させようと図ったのが平将門だ。将門は高望王の孫といわれている。将門は関東地方諸国の国衙を奪い、京都の天皇に対抗して自ら新皇と称し、京都朝廷からの独立を目指した。しかし、将門と同様に近畿に根源を持ち関東に根を張った藤原秀郷(左大臣藤原魚名の玄孫)や将門の従兄弟の平貞盛らに追討され、将門は滅亡した。天慶3年(940)2月14日のことだ。これを「平将門の乱」と呼ぶ。秀郷や貞盛の子孫はその後関東で大きく繁栄していく。
中臣鎌足 ─── 不比等 ─── 房前 ─── 魚名 ─── 藤成 ─┐ (藤原祖) (藤原北家祖) │ │ ┌───────────────────────────┘ │ └─ 豊沢 ─── 村雄 ─── 秀郷 → 小山氏・結城氏・奥州藤原氏・阿曽沼氏へ |
平忠常の乱
平将門の乱からおよそ90年後の長元元年(1028)、将門と同じく高望王を先祖に持つといわれる平忠常が反乱を起こした。忠常は上総・下総・常陸に勢力を誇った大豪族だ。忠常の反乱は将門の乱同様京都の朝廷を震撼させた大きな事件だった。
当初は、将門の乱を鎮定した平貞盛の曾孫直方と明法道(法律学)の専門家の中原成道が追討使に起用されたが、成果を上げることができずに更迭され、次に源頼信が起用された。頼信は忠常と交渉し、その結果忠常は降伏を申し出てきた。それだけ頼信の兵(つわもの・武士)としての武名ならびに信頼度が高かったのだ。頼信は陽成天皇の子孫といわれ、後の源頼朝や足利尊氏につながる河内源氏の祖である。
源 陽成天皇 ─── 元平親王 ─── 経基王 ─── 満仲 ─┬─ 頼光(摂津源氏)→ 源頼政へ │ ├─ 頼親(大和源氏) │ └─ 頼信(河内源氏)→ 源頼朝・足利尊氏へ |
前九年合戦
平忠常が乱を起こした頃、陸奥奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手)は、安倍頼良が治めていた。奥六郡は、坂上田村麻呂に討伐されたアテルイらの故地である。頼良の出自に関しては、祖父忠頼以来の俘囚(ふしゅう=朝廷に降った蝦夷<えみし>)という説と、中央から下ってきた貴族の末裔という説がある。
頼良は中央に税を納めず、労役にも就かなかった。それどころか、奥六郡の南限である衣川を越えて南進する構えを見せたため、翌永承6年(1051)に陸奥守の藤原登任は数千の兵を率い、秋田城介平重成を先鋒として頼良を攻めた。
頼良は鬼切部(宮城県大崎市鳴子温泉鬼首)で朝廷軍を打ち破り、朝廷軍は多くの戦死者を出した。おそらく、出羽方面から奥羽山脈を越えて登任軍と合流しようとした重成軍を峠で待ち受けて撃破し、その勢いをもって本隊である登任軍を粉砕したのだろう。
敗軍の将・藤原登任は陸奥守を更迭され、それに代わって陸奥守となって多賀城へやってきたのが源頼義だった。頼義は、既述した平忠常の乱を鎮圧した源頼信の子だ。
源頼信 ─── 頼義 ─┬─ 義家 ───┬─ 義親 ─── 為義 ─── 義朝 ─── 頼朝 河内源氏 │ 八幡太郎 │ │ │ ├─ 義綱 └─ 義国 → 足利尊氏・新田義貞へ │ 賀茂次郎 │ └─ 義光 → 佐竹氏・甲斐源氏(武田氏・小笠原氏・南部氏)へ 新羅三郎 |
すると頼良は今度は大人しく頼義に従い、頼良は、名前の音が同じ「よりよし」であったことから、頼時に改名し、恭順の姿勢を見せた。
ところが、頼義が陸奥守の任期を終えて都に還る直前、トラブルが発生した。頼義の陣地が何者かによって襲われたのだ。頼義はそれを頼時の子・貞任の仕業と断じ、貞任を差し出すように命じた。息子をむざむざと刑死させるわけにはいかない頼時は、頼義と戦うことを決意し、両者に戦いが勃発した。天喜4年(1056)のことである。
頼義は、奥六郡の更に北方の銫屋(六戸町の金矢か)・仁土呂志・宇曾利(下北)の指導者であった安倍富忠のもとに金為時や下野興重らを送り、朝廷軍につくことを説かせた。頼時を南北から挟み撃ちにする作戦だ。富忠は安倍を名乗っていることから頼時の同族と考えられるが、それ以上のことはわかっていない。富忠の治める地域は、その頃北海道から青森県に南下してきた擦文文化の影響を受けていたと考えられ、頼時の治める奥六郡とはまた違った文化を持っていたと想像できる。富忠は北海道との交易で力をつけた一族かもしれない。
頼時は、頼義の富忠懐柔の報を得て、自ら2千の兵力を率いて富忠を説得しに行った。ところが、富忠は伏兵を設けて迎撃に出てきた。その場所は判っていないが、後世、九戸合戦で政実軍が防衛線を張った一戸町の浪打峠かもしれない。頼時が率いた兵について、『陸奥話記』は「衆は二千人に過ぎず」と書いているが、おそらく当時の北奥の人口からすると2千人というのは大軍だったと考えられ、富忠は頼時が合戦に来たものと誤解した可能性もある。
その戦いは2日間に及び、頼時が流れ矢に当たったことにより頼時軍は撤退した。頼時は鳥海の柵まで戻ったが、矢傷が元で死亡してしまった。
その後、頼義は安倍氏を滅ぼした。これを「前九年合戦」と呼ぶ(1051~62年)。この戦いで、安倍氏に味方して戦った武将に藤原経清がいるが、経清の妻は幼い男子を連れて源氏とともに戦った出羽の清原氏に再嫁した。この男子は後の藤原清衡である。
頼義はこれより以前、平忠常の乱を当初鎮圧に向かった平直方の娘をもらいうけていた。直方は祖父維将が鎌倉を領していたことから、その地を継承していたと考えられ、この縁組によって鎌倉は頼義の手に渡ったと考えられる。これより以降、鎌倉は河内源氏の重要拠点として各代によって重視されることになる。
後三年合戦
安倍氏の滅亡後は、出羽(秋田)の清原氏がその地を継承したが、しばらくして清原氏内部で争いが発生する。頼義の子義家はその争いに介入したが、今回は父の場合と違い国家権力を背負っての討伐ではなく、あくまでも私兵を率いての個人的な介入だった。これを「後三年合戦」と呼ぶ(1083~87年)。
義家は、祖父頼信、父頼義、外祖父(母の父)平直方という錚々たる兵の血を引いた、いわば血統書付きの兵(つわもの)だ。義家の戦力の中心となったのは、外祖父から引き継いだ相模(神奈川)の武士団である。
その武士団には武勇の士が揃っており、例えば、鎌倉景政は目を矢で射られて倒れていたが、それを見つけて引き抜いてやろうとした従兄弟の三浦為継が景政の顔に足をかけると、景政は「顔を踏むとは許せない!」と叫び、為継を斬ろうとした。そういった勇猛な家臣団に義家は助けられたのだ。為継の父為通は「前九年合戦」で源頼義に従ったとされている。
平 三浦 桓武天皇 ─(1代または2代)─ 高望王 ── 良文 ── 忠通 ┬─ 為通 ── 為継 │ ※三浦氏の系譜は諸説ある │ │ │ 鎌倉 └─(不明)── 景政 ※景正の系譜は諸説ある |
義家には東国での勢力拡大を狙っていた弟義光の援軍も駆けつけ、清原氏は滅ぼされる。清原氏のあとには、藤原清衡がその地を受け継ぎ、平泉を都に定めました。清衡は平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷の子孫といわれる陸奥亘理の豪族亘理経清の子で、母は安倍政権の指導者安倍頼時の娘だ。
藤原秀郷 ── 千常 ── 文脩 ┬─ 文行 → 山内首藤氏・波多野氏・河村氏へ │ │ └─ 兼光 ─┬── 正頼 ── 経清 │ │ │ ├─ 清衡 ── 基衡 ── 秀衡 ┬─ 国衡 │ │ │ │ 安倍頼時 ── 女 └─ 泰衡 │ │ ├── 頼行 → 藤姓足利氏・佐野氏・阿曽沼氏へ │ └── 行則 → 小山氏・長沼氏・結城氏・下河辺氏へ |
平泉の藤原政権は京都朝廷と適度な距離を保持しながら独自の発展を遂げ、東北地方において自立した政権として繁栄した。
藤原氏は、清衡の没後、基衡、秀衡と代を重ねたが、その頃関東地方では、武士が更なる成長を遂げていた。その武士たちが主役となる政権の誕生はもう間近に迫っている。
第2章 鎌倉幕府の成立
やがて後三年合戦で活躍した義家の曾孫義朝が平治元年(1159)に中央での政争に敗れると(「平治の乱」)、その子頼朝が伊豆に流されてきて、その周囲に小さな武士の集団が集うようになった。
その後、平清盛を頂点とした平氏政権は権力を高めていったが、治承4年(1180)にはそれに対する不満から、後白河法皇の第3皇子であった以仁王(もちひとおう)が源頼政(摂津源氏)と組み平氏打倒の兵を挙げ、各地にそれを促す令旨を発した。
以仁王の令旨を受けた頼朝とそれを取り巻く小さな集団は、治承4年(1180)8月17日の夜中に挙兵し、伊豆目代の山木兼隆を滅ぼし、相模(神奈川)の雄族三浦氏を頼りに相模に軍勢を進めた。
そして23日には石橋山に到着し、迎撃してきた大庭景親と戦い大敗する。三浦介義明の援軍は間に合わなかった。義明は「後三年合戦」で鎌倉景政の目に刺さった矢を抜こうとした為継の孫だ。
三浦 杉本 和田 桓武天皇 ─(略)─ 忠通 ┬─ 為通 ── 為継 ── 義継 ── 義明 ┬─ 義宗 ── 義盛 │ │ │ ├─ 義澄 ── 義村 ── 泰村 │ │ │ │ 佐原 │ ├─ 義連 → 奥州芦名氏へ │ │ │ └─ 女 │ ├──── 義平 │ 源頼義 ── 義家 ── 義親 ── 為義 ── 義朝 │ ├──── 頼朝 │ 藤原季範 ── 女 │ │ 梶原 ├─ 景通 ── 景久 ── 景長 ── 景時 │ │ 鎌倉 大庭 └─ 景村 ── 景明 ── 景宗 ┬─ 景義 │ └─ 景親 |
頼朝は命からがら箱根権現に逃れ、数日後海岸に出て、土肥実平の手引きで海を渡り安房(千葉県南部)に向かった。25日には平家軍が甲斐(山梨)に攻め込み、甲斐源氏の安田義定や、工藤景光、市川行房らが迎撃した。しかし甲斐源氏を率いる武田信義はまだ兵を挙げていない。
源頼信 ─── 頼義 ─┬─ 義家 ───── 義親 ─── 為義 ─── 義朝 ─── 頼朝 河内源氏 │ 八幡太郎 │ ├─ 義綱 │ 賀茂次郎 │ 佐竹 └─ 義光 ───┬─ 義業 ─── 昌義 新羅三郎 │ │ │ ├───── 隆義 ─── 秀義 │ │ │ 藤原清衡 ─ 女 │ │ 逸見 └─ 義清 ─── 清光 ─┬─ 光長 │ │ 武田 ├─ 信義 │ │ 安田 ├─ 義定 │ │ 加賀美 ├─ 遠光 → 秋山氏・小笠原氏・南部氏へ │ │ 浅利 └─ 義成 |
安房に渡った頼朝軍は、そこで同じく海を渡ってきた三浦氏の軍勢と合流し、戦闘を行いながら北上、下総の有力者平千葉介常胤(平忠常の子孫)と、上総最大の勢力平上総介広常(同じく平忠常の子孫)を味方につける。特に2万騎を率いる上総介広常が味方になったことは状況を更に好転させた。
安房・上総・下総の順で北上してきた頼朝軍は、今度は西に向かい、太井川(今の江戸川)と隅田川を渡り武蔵(東京)に入り、10月2日には豊島清元とその子葛西清重が馳せ参じ、続いて4日には、一度は敵対した武蔵の畠山重忠・河越重頼・江戸重長らも味方に加わった。そして6日には鎌倉に入る。葛西清重の曽祖父常家は、前九年合戦で源頼義に従ったといわれているので、河内源氏との関係は深いものがある。
平 桓武天皇 ─(1代または2代)─ 高望王 ── 良文 ── 忠頼 ─┐ │ ┌────────────────────────┘ │ │ 秩父 畠山 └─ 将常 ┬─ 武基 ── 武綱 ── 重綱 ┬─ 重弘 ── 重能 ── 重忠 │ │ │ │ 秩父 葛貫 河越 │ ├─ 重隆 ── 能隆 ── 重頼 │ │ │ │ 江戸 │ └─ 重継 ── 重長 │ │ 豊島 葛西 └─ 武常 ── 常家 ── 康家 ── 清元 ── 清重 |
13日には、甲斐源氏のほぼ全軍が出陣し、駿河(静岡)の平家方に攻め込んだ。これは頼朝の要請によるものではなく、甲斐源氏独自の動きと見られている。しかし、これが結果的に頼朝に利益をもたらし、甲斐源氏も頼朝の軍閥に吸収されていく。
11月には常陸の佐竹氏を討ち、ついに頼朝の集団は関東地方の一大軍閥に発展した。
頼朝の私的なその集団は、寿永2年(1183)の暮れに、軍閥成長に貢献した上総介広常を粛清するなどしながら組織の形を整え、やがて西国の平氏政権を打倒し、文治元年(1185)に朝廷から日本国惣追捕使・日本国惣地頭に任命されて全国の警察権を与えられ、公的な権力、政権として認証された。後世、鎌倉幕府と呼ばれる政権だ。しかし、いくら全国の警察権を任されたといっても、この時点ではまだ西日本に対してはあまり影響力を持っていない存在だった。西日本は京都の朝廷の影響が強かったのだ。
その西日本と共に頼朝の権力の及ばない地域が存在した。奥州だ。奥州では約百年前より藤原氏が君臨しており、文治3年(1187)10月29日に第3代秀衡が没すると、子の泰衡が跡を継いだ。
頼朝は自らの権力を奥州に及ぼすために、文治5年(1189)7月19日、鎌倉を発ち、奥州征伐に向かった。関東地方の武士団を総動員した出陣だ。その関東武士団の先陣を務める葛西清重・三浦義村・工藤行光・狩野親光、そして畠山重忠らは、8月10日の早朝、泰衡の異母兄国衡が守る阿津賀志山の防塁を攻撃、それを撃破した。そして更に北進した頼朝軍は、日ならずして平泉を陥落させた。泰衡は9月3日、先祖代々の家臣であった河田次郎に殺害され、その首は頼朝の元に届けられた。
こうして奥州を手に入れた頼朝は、藤原氏領のほとんどを没収し、勲功の有った家臣たちに分け与えた。まさしく東北地方は関東武士の植民地の様相を呈したのだ。藤原政権の都だった平泉とその周辺には、奥州惣奉行として葛西清重を配置し、戦後処理に当たらせた。奥州の地を与えられた関東武士たちは、一族や重臣を統治のために派遣したが、それらの子孫がこれから約4百年に渡って勢力を伸ばし、奥州の支配者となっていく。
葛西清重らの戦後処理が進む中、その年の12月、出羽で泰衡の旧臣大河兼任が蜂起した。兼任は平泉を奪還するなど一時は優勢を誇る。しかし、翌建久元年(1190)2月に鎮圧された。2月15日には、伊沢家景が奥州留守職に任じられ、清重と奥州の行政を分担する。
建久4年(1193)11月、頼朝は自分と先祖を同じくする甲斐源氏の有力者安田義定の子義資を自害させ、翌年8月19日には義定も自害させた。頼朝は自らの政権が安定してくると、邪魔な有力者を消していく。
関東地方の武士たちの代表であった頼朝は、西日本を完全に手中に収めることなく、正治元年(1199)に死去した。
頼朝の跡は嫡男で18歳の頼家が継いだ。そして、その年の暮には、頼朝第一のお気に入りだった御家人(頼朝と精神的な繋がりを持った家臣)梶原景時が大勢の御家人の不興を買い追放される。景時は翌年駿河狐崎で討ち取られた。
頼朝の死去は奥州にも動揺をもたらした。正治2年(1200)9月、陸奥柴田郡の豪族芝田次郎が病気と称して鎌倉に参勤しなかったのだ。芝田次郎は謀反人として追討を受けた。芝田次郎は身長8尺2分(2.46メートル?)、700人力という豪傑で、追討に向かったのは奥州留守職伊沢家景の弟の宮城四郎家業だ。芝田次郎の館は9月14日に陥落した。
第3章 北条氏の台頭
建仁2年(1202)7月、頼家が征夷大将軍に任じられたが、政情は不安定で、翌建仁3年5月には、頼朝の異母弟阿野全成(あのぜんじょう)が謀反の疑いをかけられ常陸で殺害された。
9月2日には北条時政によって比企能員が謀殺され、頼家の嫡子一幡と比企一族が滅ぼされた。時政は頼朝の妻政子の父で執権(将軍の補佐役)に任じられている。一方の能員は頼朝の乳母比企尼の甥で比企尼の養子になった人物で、一幡の母若狭局は能員の娘であり、その関係から比企氏は大きな力を持っており、権力の掌握を狙う時政・政子親子からすると比企氏は一番邪魔な一族だった。
この混乱で頼家が幽閉されると弟の実朝が第3代の征夷大将軍となった。
時政は比企一族についで、元久元年(1204)、畠山重忠を滅ぼした。重忠も頼朝の代からの有力御家人だ。北条家は邪魔者を次々と消していく。
時政のあと執権に就いた子の義時は、建保元年(1213)5月、幕府の侍所別当和田義盛の挙兵を誘発させ、それを滅ぼした。武蔵から相模にかけて勢力を持っていた横山党も和田氏に加担したことにより壊滅的な打撃を受けました。幕府の有力者和田一族を滅ぼし、北条氏は権力を更に増大させる。
承久元年(1219)正月27日、将軍実朝が兄頼家の子公暁によって暗殺された。2月には、さきに滅ぼされた阿野全成の子時元が挙兵したがすぐに鎮圧される。
この頃朝廷は徐々に実権を幕府に奪われていきましたが、武力の増強に努めて王権の集中に意欲を燃やしていた後鳥羽上皇は、幕府内で北条家による反対派粛清が続いたことにより幕府が弱体化したと見て、承久3年(1221)5月15日、ついに北条義時追討の院宣・宣旨を諸国の守護・地頭に発した。
しかし怒涛のごとく攻め上った幕府軍により京都は蹂躙され、上皇軍は完敗した。首謀者の上皇は隠岐に流され、そのほか関係した皇族たちがそれぞれ配流の処分を受けた。これを「承久の乱」と呼ぶ。
幕府は上皇に加担した者から没収した3千箇所に及ぶ土地を戦功のあった諸氏に分け与えた。これらは新補地頭といわれる。
承久の乱で勝利し、武家政権を確立した北条義時は、元仁元年(1224)6月に死去した。義時の跡は子の泰時が執権となり、北条氏の権力を更に向上させたが、泰時も仁治3年(1242)6月に死去した。その跡は、経時、時頼と続く。
粛清を繰り返し対抗者を屠ってきた北条家にとって、最後の雄族が残っていた。三浦氏だ。時頼は三浦氏を挑発し、それに乗せられた三浦泰村以下は宝治元年(1247)6月に滅亡した。これを「宝治合戦」と呼ぶ。
陽成天皇 ─── 元平親王 ─── 源経基 ─── 満仲 ─┬─ 頼光(摂津源氏) │ ├─ 頼親(大和源氏) │ └─ 頼信(河内源氏)→ 源頼朝・足利尊氏へ |
これで北条家の天下が確立されたわけだが、建長6年(1254)には、北辺で蝦夷の反乱の噂が立ち、文応元年(1260)3月中旬には、実際に反乱が起こった。そんな不穏な情勢の中、次の脅威は予想もしない方向からやってきた。その方向とは中国大陸だ。
執権時頼死後、政村が暫定的に執権となり、時宗が長ずるに従い執権に就いた。その時宗の代に、日本がかつて直面したことも無い国難が襲ってきたのだ。中国大陸に建国された元が日本征服を画策しているというのだ。
元の脅威に晒されている最中の文永5年(1268)、またもや蝦夷の反乱が起こった。そして、それが治まったのも束の間、いよいよ元の日本侵攻が開始された。
しかし、幸いなことに文永10年(1273)と弘安4年(1281)の二度に渡る元の攻撃は、元軍が台風に見舞われて壊滅的打撃をこうむるなどして失敗に終わり、日本が元の植民地になることはなかった(台風による壊滅というのは間違いとの説もある)。
元寇の際の対馬・壱岐での戦いについては「元寇と対馬・壱岐」をご覧ください
これでひとまず西の脅威は去ったのだが、北からの脅威には依然として晒されていなければならないでした。蝦夷が相変わらず蠢動しているのだ。
そんな最中の弘安7年(1294)、執権時宗が没し、貞時が家督を継いだが、まだ14歳だったので実権は貞時の母の兄の安達泰盛と、貞時の乳母夫の平頼綱が握りった。しかし両雄並び立たず、弘安8年(1295)11月17日、武装した頼綱らにより泰盛が逮捕され、その場で殺害された(「霜月騒動」)。
それから暫く経った文保2年(1318)2月、京都では後醍醐天皇が即位し、父の後宇多法皇が院政を開始した。後醍醐は政治への意欲に満ち溢れた天皇で、特にその政治思想には中国の朱子学(宋学)の影響が見られる。
元応2年(1320)、出羽で蝦夷が蜂起した。これが後の「安藤氏の乱」へと関わっていく。