最終更新日:2023年2月9日
現在の京都府は、令制山城国と丹後国それに丹波国の一部分からなります。山城国は、律令以前は山背と表記されていました。
山城国は、淀川水系の流域ですが、桂川、宇治川、木津川が合流する地点の東側、つまり京都市街地の南側には巨椋池(おぐらいけ)という大きな池がつい最近まであって、それを挟んで、葛野(かどの)県主の北山城と栗隈県主の南山城に分かれます。
山城国内にも出現期の古墳があります。木津川流域右岸で当時の巨椋池の南岸の城陽市には、100基以上の古墳からなる久津川古墳群があり、とくに墳丘長180mで山城国内最大を誇る中期の大型前方後円墳・久津川車塚古墳が有名ですが、久津川古墳群の中の丘陵地帯には芝ヶ原古墳群があり、その中にある国史跡・芝ヶ原古墳が出現期の古墳として著名です。
本文で述べていることの一部を動画でも説明しています。
詳細を知りたい場合は、以下の文章をお読みください。
30くらい?
芝ヶ原古墳
芝ヶ原古墳は3世紀前半に築造された前方後方墳です。前方後方墳と聴くと、関東の人間は濃尾勢力かな?と思うかもしれませんが、西日本の場合は濃尾とは一旦切り離して考えたほうが良いです。前方後方墳の震源地に関しては、濃尾と考える人が多いですが、近江という考え方もあります。
残念なことに墳丘に関しては前方部はすでに破壊されており、現在は後方部の高まりが方墳のように残るだけです。
周辺は完全に住宅地になっており、前方部墳端の調査はできておらず、従って全長は分かりませんが、後方部は東西19m×南北21mの規模です。そう考えると、全長は30mくらいと考えて良いかと思います。主軸はほぼ南北方向で、前方部が南を向いています。前方部側はご覧の通りバッサリ。
墳丘は、地山削り出しで構築されており、丘陵から切り離すための溝が東側で確認されています。
主体部は墳丘主軸と並行するほぼ南北方向で、組合式木棺の直葬で頭位は北方向でした。墳丘に葺石は施されていませんが、後方部の墓壙上面には礫が敷かれていました。3世紀前半ですから埴輪は当然なく、墓壙上面の礫の上からは、庄内式の加飾二重口縁壺が4個体分、高坏が1個体分見つかっています。
木棺内の頭の周辺に副葬品として、銅釧、四獣形鏡、勾玉、管玉、ガラス製小玉がまとめて置かれ、その周囲には朱がまかれていました。鉄製の鉋(やりがんな)や錐も出土しています。銅釧はとくに素晴らしいです。
銅釧には朱が付着していますね。
芝ヶ原古墳の墳丘の現況は既述した通りなわけですが、ここには説明板が豊富に設置され、屋根付きの休憩コーナーやトイレなどもあり、周辺の遺跡をめぐる際の拠点として最適です。とくに地形ジオラマは大変ありがたい。
こういうのは大好きで堪りません。下の写真の中央やや右の前方後方墳が芝ヶ原古墳です。
2022年12月の現地講座ではここに見えている古墳の多くを歩いてめぐったんですよ。参加された方々は凄いですね。振り返ると参加者の方々には無理させてしまって申し訳なかったと思っています。一方、今週末の車versionの場合は、可能な限り車で移動しますが、駐車場が皆無に近いので、見られる範囲は限定されます。ただ、体力的には楽です。
それと、このジオラマを見ると、最大の久津川車塚古墳の後円部側の丘の上に大きめの前方後方墳が見えます。西山1号墳で、前方後円墳データベースによると3期の築造で80m。前期古墳としては注目すべき古墳ですが、すでに湮滅しています。
(一部)
上大谷古墳群
上大谷古墳群では、現地説明板によると、20基の古墳が確認されており、そのうちの9基が保存されているということですが、4か所に分散された「古墳公園」内に合わせて10基が確認できます。説明板の図を見ると、前方後方墳が2基、方墳が8基、円墳が10基あり、意外と「四角い世界」を現出しています。山背は後の畿内ですから、イメージ的には前方後円墳が多そうですが、城陽市内では「四角い世界」が見られて興味深いです。
それらの中で古い古墳を探すと、古墳群最古と言われている方墳の6号墳からは中国製の鏡である夔鳳(きほう)鏡が出て、それを西晋時代のものとして、築造期は、4世紀後半とされています。
ただ、夔鳳鏡は後漢の頃から造られ、後漢後半が盛期と言われており、国内で夔鳳鏡が出土する古墳は4世紀後半よりももっと時代が古いため、6号墳の築造は3世紀ではないかと疑っています。ただし、夔鳳鏡の型式を専門家が西晋時代のものと確定しているのであれば、私の推測は外れます。6号墳は調査後に破壊されたためありません。
ちなみに下の写真は、栃木県那珂川町の那須八幡塚古墳から出土した夔鳳鏡の複製です。実物は、東京国立博物館が持っているようで、平成館に展示してあれば撮っているはずですが、自分が撮った写真を探しても見つかりませんでした。
那須八幡塚古墳は前期の前方後方墳で墳丘長は62m、那須地方では同じく前方後方墳の駒形大塚古墳と並んで最古級の古墳です。
話を戻して、上大谷古墳群では、2基確認されている前方後方墳のうち、古いのは8号墳です。ただし、6号墳よりは新しいとされています。
8号墳の現況は公園の築山のようになっていますが、とりあえず古墳の形が分かるだけでも良いのではないでしょうか。
ところで、上大谷古墳群は丘陵の高所に築かれているため、見晴らしが良い場所が多いですが、ここからの眺めも良いです。
2022年12月の現地講座で訪れた時は歩いてめぐりましたが、アップダウンが激しくて(しかも階段)結構皆さん疲弊して、最後の方は素晴らしい景色を眺める気持ちの余裕も萎えていたようです。
もう1基の前方後方墳は1号墳ですが、現地説明板では後期から終末期にかけての築造とあります。
その時期に前方後方墳を造ったとしたら極めて異例ですが、出雲では後期に前方後方墳を作りますし、上総では終末期の前方後方墳が複数確認されていますので、可能性はゼロではないです。今のところは、何とも言えません。
175
椿井大塚山古墳
山背の前期古墳ではもしかすると一番有名な古墳かも知れません。墳丘長175mの前方後円墳で、集成編年では1期とされ、箸墓古墳と同じ頃の築造ですから、上述した芝ヶ原古墳とは違って、古墳時代の古墳です(芝ヶ原古墳は、弥生末期の「古墳」)。
昭和28年の鉄道工事の際に、三角縁神獣鏡が32面以上出土したことで有名になりました。だいたい東西の軸で、前方部は西を向いており、JR奈良線が後円部墳丘の西寄りの部分をぶった切って通っており、まるで、主体部を調べるために鉄道工事をしたのではないかと邪推したくなります。現地説明板で墳丘図を確認してください。
前方部墳端がバチ形に開いていますが、中央史観の古墳好きが喜びそうな形になっていますね。でもこれは推測で、ストレートだと考える研究者もいます。鉄道工事の際の墳丘破壊は最小限だったようで、現地を歩くと北側の墳丘の残りはまあまあ良いです。
後円部は整備されていて、墳丘に登れるように階段も付いており、後円部には北側からでも南側からでもアクセスできるようになっています。上の説明板は後円部墳頂にあります。
前方部墳丘の上にはお屋敷が建っています。後円部から前方部側(西側)を眺めると古墳の大きさがイメージしやすいです。
築造時期は、集成編年では1期とされ、箸墓古墳とほぼ同じ頃と考える研究者が多いようです。つまりは3世紀中葉です。箸墓古墳の3分の2の相似形と考える研究者がいるようですが、本当に「相似形」が好きな人が多いですね。相似形好きは恣意的な考えの人が多いので注意するべきですし、そもそも相似形と言われている古墳の大部分が実際には相似形ではありませんので、相似形という言葉が出てきたときは、一歩引いて冷静に対処しましょう。
主体部の竪穴式石室(石槨)は、主軸と直交するほぼ南北方向で構築されており、全長は6.9m、北側小口幅が1.15m、南側小口幅が1.03mで、北側がやや広いため、頭位は北方向と考えられますが、たった12㎝の差ですから、微妙なところではあります。石室の特徴としては、天井高が3mもあるところで、普通はこんな天井は高くしません。棺はコウヤマキ製の割竹形木棺であったと考えられ、棺の下には粘土床が設けられていました。
注目すべき遺物としては、銅鏡はもちろんのこと、7振以上みつかった鉄刀のなかには、素環頭大刀が1振含まれ、小札革綴冑も1領見つかっており、前期古墳の中でも特に格が高い古墳としての特徴を示しています。
素環頭大刀は、柄の先端が輪っかになっている大刀で、もっと後の時代になると輪っかの中に龍などの装飾が造られますが、この時期はただ単に輪っかになっているだけです。単純なものに思えるかもしれませんが、国産ではなく限られた人しか所持できませんでした。
小札革綴冑は、文字通り小札を革綴した冑(かぶと)で、これに関しても中国との繋がりが想定できます。やはりかなりの貴重品であまり見つかりません。
このように墳丘の大きさにしても、副葬品の内容にしても、被葬者はかなり力のある人物であったことが分かるのですが、一体どのような人物だったのでしょうか。それを考える前に三角縁神獣鏡について述べます。
三角縁神獣鏡
前期の古墳からは銅鏡が出土することが多いです。そのなかでも、三角縁神獣鏡は魏志倭人伝に記されている卑弥呼が魏の皇帝から下賜された「銅鏡百枚」にあたるという見解が大正時代以降、支持を集めてきたため、邪馬台国所在地論争をする際にはよく引き合いに出される資料です。
三角縁神獣鏡は畿内を中心に同范鏡(同じ鋳型で造った鏡)が列島各地に分布するため、その分布を見る限りでは、配布主はヤマト王権と考えるのが最も素直ですから、卑弥呼の「銅鏡百枚」とヤマト王権が繋がることによって、「邪馬台国畿内説」を語る際に有効なアイテムとなっています。
三角縁神獣鏡は、現状では560枚以上見つかっています。外国からもらったもの(舶載鏡)と国内で生産したもの(仿製鏡)の2種があると考えるのがポピュラーでしたが、最近の橿原考古学研究所での調査によると、重要な点として以下の2つの点が判明しています。
一つ目として、従来舶載鏡とされていたものと仿製鏡とされていたもので、同じ鋳型から造られているものが認められることが分かりました。従来の舶載鏡と仿製鏡を区別する考えをこれに当てはめると、外国で造ったあとに、鋳型を国内に持ち込んで造ったことになりますが、いったい誰が何の目的でそんなことをするのか不明瞭で、その可能性は極めて低いです。
二つ目として、舶載鏡と仿製鏡との間に技術的な連続性があることです。
以上のことからは、560枚以上見つかっている三角縁神獣鏡は、すべて外国産かすべて国産かのどちらかになり、研究者の中でも意見が分かれています。もし、すべてが国産だった場合、卑弥呼の「銅鏡百枚」と三角縁神獣鏡はまったく関係がなくなりますから、邪馬台国畿内説を唱える人にとっては大きなダメージとなる可能性があります。
ところで、三角縁神獣鏡は同じ鋳型で造った同范鏡がたくさんあることから、どの古墳の鏡同士が同范関係になるのかを調べ、古墳時代の社会について探った小林行雄の研究が有名です。
黒塚古墳の33面の三角縁神獣鏡が見つかるまでは、椿井大塚山古墳で見つかった32面以上(破片が多く正確な数は不明)の数が最大で、小林行雄は同范鏡の研究の結果、配布の中心は椿井大塚山古墳にあったと考えました。配布主体に関しては、その研究の流れで、椿井大塚山古墳や黒塚古墳の被葬者が配布主体と考える研究者がいます。
その一方で、三角縁神獣鏡はヤマト王権が一元管理しており、全国で見つかるものはそこから配布されたものであって、三角縁神獣鏡が多く見つかる古墳は、ただ単にヤマトからたくさんもらっただけという考え方もあって研究者の中で一致を見ていません。三角縁神獣鏡が大量に見つかった古墳としては、既述した通り、黒塚古墳の33面、椿井大塚山古墳の32面以上、それに桜井茶臼山古墳の26面が極端に多い部類ですが、他には、佐味田宝塚古墳の12面、新山古墳の9面など多数埋葬されている例があります。
ところが、その著名な三角縁神獣鏡は、当時は意外と大事にされていないように思えることが多いです。例えば黒塚古墳の場合は、被葬者の頭の近くにあった画文帯神獣鏡が被葬者にとって最も大事な鏡だったようで、33面の三角縁神獣鏡は「その他大勢」のような扱いです。関東や東北では三角縁神獣鏡はあまり見つからないため、非常に貴重なものだったイメージがありますが、本場の畿内では貴重であるというイメージは薄れます。
ここまでをまとめると、以下の通りとなります。
・三角縁神獣鏡は、卑弥呼の「銅鏡百枚」ではない
・560枚以上見つかっている三角縁神獣鏡はすべて国産
・配布の中心は畿内
・三角縁神獣鏡は意外と大事にされていない
さらに全国に散らばった三角縁神獣鏡が見つかった古墳を調べると、その地の有力者の墓だからといって必ずしも三角縁神獣鏡が見つかるわけではなく、反対に有力者とは思えない小さな古墳から見つかることもあります。もっと確実なことを言うためには天皇陵の発掘が進むことが重要なのですが、それはなかなか望み薄ですね。
なお、椿井大塚山古墳の最寄り駅(と言っても遠い)である棚倉駅から徒歩数分の場所にある「アスピアやましろ(山城総合文化センター)」には椿井大塚山古墳の部屋があって、三角縁神獣鏡のレプリカが展示してありますので、椿井大塚山古墳を訪れた時は併せて必ず訪れることをお勧めします。
椿井大塚山古墳の被葬者は誰か
日本書紀の崇神紀に気になる記事があります。武埴安彦(たけはにやすひこ)の反乱伝承です。
簡単に言うと、武埴安彦は王位の簒奪を目論んで兵を挙げたのですが、日本書紀がいうには、武埴安彦は孝元天皇の子であり、崇神天皇の叔父となります。この系譜が正しいかどうかは即断できませんが、実際に王位に就く資格がある人物であったのでしょう。
武埴安彦は結局敗れ去るのですが、彼の本拠地には既述した椿井大塚山古墳があります。私は、椿井大塚山古墳の被葬者は武埴安彦ではなかったかと考えており、現在はその線で調査中です。この説は他にも採っている研究者がいますが、バッサリと否定する研究者もいます。
ヤマト王権のコアゾーンはもちろん奈良盆地ですが、それに河内平野や摂津・山背などの淀川(木津川)流域と紀州方面の紀ノ川流域が加わります。その初期ヤマト王権のコアゾーン内でも当初はなかなか一枚岩にならず、王権は武埴安彦の反乱を乗り越えて、ようやく木津川流域の支配を確固とするものに成功したという仮説です。
その場合、負けた人物が大きな古墳に葬られるのはおかしいと思う方もいると思いますが、私は反対に、負けた人物であってもそれなりの力があった場合は、大きな古墳に葬られても良いと考えています。力が強かったからこそ、それに見合う大きな古墳に葬ることによって敬意を表し、それによってその一般民衆の支持を得られると考えます。
木津川左岸の精華町にある祝園(ほうその)神社では、毎年正月に、いごもり祭が行われますが、そのルーツは、殺された武埴安彦の霊が悪さをしたため、村人たちがそれを鎮めたのが始まりとされます。また、棚倉駅の東側にある和伎坐天夫岐売神社(涌出宮)でも同様に、いごもり祭が行われており、棚倉で斬られた武埴安彦の首は祝園まで飛んでいき、胴体は棚倉に残ったと伝わっています。
このような怨霊に関わる話は、平安時代以降にできた話かもしれませんが、こういう伝承が残っていることや、武埴安彦が戦いの時に奈良を目指して山背方面から南下してきたことを考えると、武埴安彦は木津川流域を支配地域にしていた国主ではないかと思えるのです。武埴安彦の戦いでは、時代が合うとか合わないとか、そういう細かいことを気にする人もいるかもしれませんが、日本書紀の崇神紀に記されている内容を元に実年代の話をすることは難しいです。
以上、椿井大塚山古墳の被葬者は武埴安彦ではないかという話をしましたが、この地域では、椿井大塚山古墳の築造より前にそれを造営するような規模の集落は存在せず、突如として上述した中国系の小札革綴冑を持つ被葬者の大型前方後円墳が築造されることから、初期ヤマト王権が奈良盆地から南山城地域に進出して築いた古墳と考える研究者もいます。
91.2
五塚原古墳
話を北山城に転じ、桂川右岸の乙訓(おとくに)古墳群について述べます。
乙訓古墳群は現地に行って歩かないとなかなか把握のしづらい古墳群なのですが、その原因の一つは範囲の広さにあって、南北8㎞、東西2㎞の広がりがあります。自治体を列挙すると、北から京都市、向日市、長岡京市、大山崎町があります。また、古墳の数も多くて、研究者が首長墓として判断する古墳だけでも37基もあります(残存は18基)。
このような古墳群ですから、地域ごとに支群として分類したほうが現代人には分かりやすいと思いますが、そういう表現は普及していないため、外部の人間には複雑に見えてつかみどころが無いのです。私も当該地には今まで3度訪れていますが、訪問した古墳はまだまだ一部にすぎません。
2016年には、首長墓と目されている古墳が11基一括で「乙訓古墳群」の名称で国指定史跡に登録されましたが、さらにもう5基の追加を目指しているようです。
現在のところ、前期の首長墓系列としては、「五塚原古墳(前方後円墳・91.2m) → 元稲荷古墳(前方後方墳94m) → 寺戸大塚古墳(前方後円墳・98m) → 妙見山古墳(前方後円墳・114m) → 伝高畠陵古墳(円墳・65m)」となっています。
さて、乙訓古墳群には、上記したように前期の大型前方後円墳が複数ありますが、前期の大型前方後方墳として元稲荷古墳もあります。一つの地域に前方後円墳と前方後方墳がある場合は、一般的には前方後方墳の方が古いのですが、この地は、例外的に前方後円墳である五塚原古墳が最古の古墳だとされています。
ところが、その根拠に関しては、五塚原古墳は発掘調査においても、埴輪や土器が一点も見つかっていないことから、墳丘の形態と構築方法のみからの判断です。
段築は、後円部が3段、前方部が2段ですが、前方部のくびれ部付近ではまだ段築はなく、途中から平坦な面がせり出してきて段築となり、しかもそれは水平ではなく、墳端に向けて高度が上がる構造となっていることが特徴的で、これは箸墓古墳とは同じであっても、類似する古墳は日本中探してもないそうです。この特徴を箸墓古墳からの影響と捉え、元稲荷古墳よりも古い古墳として評価されています。
墳丘はほぼすべて盛土で造っていますが、丘陵上の100m四方を平坦にならしてから、その上に盛土をして墳丘を造っています。古墳を造るのであれば地山を利用すればよいと思うのですがそれをせず、わざわざ大変な作業をしているのです。この工法は中山大塚古墳と類似していると指摘されています。
このように、箸墓古墳や中山大塚古墳との墳丘の形態や構築方法の比較で築造時期を決めているのですが、築造時期に関しては、つぎの元稲荷古墳と絡めて考えたいと思います。
そんなわけで、今後のさらなる調査に期待したいですが、墳丘長は従来言われていた94mではなく、91.2mであることが分かっています。
かなり重要な古墳なのですが、現地に行くとガッカリします。以前は墳丘に登れたそうですが、今は墳丘へは立入禁止になっています。倒木などもあって内部は荒れており危ないために入ってはいけないそうです。
うがった見方としては、実は今はこれ以上五塚原古墳について詳しく知られては不味い状況になっているのではないでしょうか。築造時期に関してかなり大々的に元稲荷古墳より古いとぶちまけたのに、結局元稲荷古墳より新しいことが分かってしまったとか・・・。そのため、立入ができないのではないかと邪推します。まるで陰謀論ですね(笑)
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元稲荷古墳
集成編年で1期とされる前方後方墳です。後方部は3段築成、前方部は2段築成という前期古墳のスタンダードな段築を持っており、前方部の墳端は開き気味で、墳丘に葺石が施され、墳丘長は94mです。出現期の古墳でこの大きさは、全国的に見ても大型の部類に入ります。
古さの証としては、特殊器台から円筒埴輪に変わる境目の特殊器台形埴輪(都月型特殊器台)が出土していることを挙げることができます(ただし、都月型でも新しいもののようです)。それ以外には、布留古式の壺が1つみつかっています。
特殊器台の編年に関してはこちらをご覧ください。
今では3世紀半ばの築造だと言われるようになった箸墓古墳からは、宮山型と都月型が見つかっています。そうなると、元稲荷古墳は箸墓古墳からワンテンポ遅れて築造された古墳となり、危険を承知で実年代を示すと、270年くらいの築造になると考えられ、さすがに4世紀に降ることは無いと思います。現地説明板では、3世紀後半ごろという無難な表記になっています。
興味深いのは、後方部で讃岐に由来する大型の二重口縁壺が見つかっていることですね。説明板に見える「まるで石の山のように」という表現が前期の積石塚が見られる讃岐との関係を示唆していそうです。
五塚原古墳が元稲荷古墳より古いというのであれば、五塚原古墳は箸墓古墳や中山大塚古墳と同期の古墳として考えていいですし、首長墓系列などに惑わされなければ、元稲荷古墳と同時期の古墳と考えてもいいと思います。
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寺戸大塚古墳
後円部は3段築成、前方部は2段築成で、葺石が施され、円筒埴輪や朝顔形埴輪が樹立されていました。後円部墳頂では、円筒埴輪を建て並べて一辺8mの正方形の区画を作り、この近くからは家形埴輪や鳥形埴輪が見つかっています。
主体部は後円部と前方部に一つずつ竪穴式石室が構築され、出土遺物は三角縁神獣鏡を含めて3面の銅鏡。
長岡京跡
古墳時代前期の4世紀からいきなり8世紀末に飛びます。
中国の長安の都や北京の紫禁城のようなイメージの宮城を日本が作り始めたのはいつでしょうか。
6世紀までの天皇の宮殿に関しては、ほとんど見つかっておらず、詳細は不明です。
7世紀になると飛鳥の地で造られた宮の様相が明らかになってきて、有名な乙巳の変が起きた飛鳥宮跡は発掘の結果、7世紀後半の天武天皇や持統天皇の宮殿があったことが分かっています。飛鳥浄御原宮というのがそれです。
飛鳥浄御原宮の段階になると、宮の完成度もだいぶ高まってきますが、ついで694年に正式オープンした藤原京(新益京<あらましのみやこ>)が中国チックな1st都城です。そして794年に正式オープンした平城京が2nd都城となり、これ以降を奈良時代と呼びます。
つづいて3rd都城の話に行きたいところですが、奈良時代の都城に関しては、聖武天皇が宮作りが好きで、同時に複数の宮が稼働しており、それをどう捉えるかは研究者によって考え方が違います。
奈良時代は天武天皇の系統の人びとが天皇になりましたが、光仁天皇で天智天皇系統となり、その子の桓武天皇に至って、平城京から長岡京へ遷都します。延暦3年(784)のことです。
まずは想定復元図をご覧ください。
今後の調査研究によって、例えば京の範囲などが今度変わる可能性もありますが、ひとまずこれで覚えておけば大丈夫です。
長岡京は、延暦13年(794)には平安京への遷都のため、廃都となりますので、足かけ11年稼働した都でした。平安京の位置は長岡京のすぐ北側ですから、隣に引っ越したようなものです。
長岡「京」と言った場合、上の図で示す東西4.3㎞、南北5.3㎞の範囲ですが、その中心となる天皇が居住するエリアや国政や国の大事な儀式が行われる場所を長岡「宮」といいます。上手には朝堂院と大極殿の場所を示していますが、その辺りから北辺までが長岡宮の範囲となります。
長岡宮跡は結構整備が進んでいて、阪急の西向日駅を降りて、半日かけてそれらをめぐると大変面白いコースになります。西向日駅は、まさしく宮の朝堂院南門の前ですから、駅名を「朝堂院南門前」にしても良いかもしれません。駅の北側にはご覧の通り、長岡宮のコアゾーンが展開していました。
史跡長岡宮跡朝堂院公園案内所
西向日駅には築地塀のオブジェがありますので、それを見て北へ向かうと、朝堂院跡が公園として整備されていて、そこには史跡長岡宮跡朝堂院公園案内所があります。
案内所には各種パンフレットが置いてあり、多少の展示があります。ボランティアガイドの方もいらっしゃるので、いろいと教えてもらいましょう。
史跡長岡宮跡 朝堂院跡
公園になっている朝堂院跡としては、西第四堂と西側の楼閣の基壇が復元され、柱跡もあり、スマホのARアプリで往時の様子を楽しむことができます。もし、スマホを持っていなくても、案内所でタブレットを借りられます(ただし、台数に限りがあります)。
なお、この楼閣というのは上図で見ても分かるかもしれませんが、こちらの方が分かりやすいと思います。
右側の門の外側に2つの楼閣が取りついてるんですよね。中国チックでカッコいいですが、これと似た空間構成は多賀城にもありました。
多賀城東門跡ですが、この場所の想定復元図はこちらです。
ただしこちらは、櫓が突出しているわけではなく、櫓に築地塀が接続しているところが違います。
長岡宮跡 大極殿跡
いったん道路に出て北上すると、今度は大極殿跡公園があります。公園全体図はこちらです。
大極殿は大事な案件の際に天皇が出御する場所ですが、ちょうど道路がL字型に走っているんですよね。復元された基壇があります。また、天皇が大極殿に出御する前にスタンバっていた小安殿跡には天皇の玉座である高御座をイメージしたものがあります。
公園の南側入り口には、宝幢跡があります。
元旦の儀式の際には、7本の幢(はた)が建てられたのですが、ここに幢が立つイメージです。
公園北側には回廊跡が地表面表示されていて、建物の復元もあります。
長岡宮跡 第二次内裏跡
以上の朝堂院跡と大極殿跡はぜったいに訪れるべき場所ですが、最近は新たなスポットができました。第二次内裏跡です。
桓武天皇は長岡宮には10年位しか住んでいなかったわけですが、プライヴェートでいろいろあって落ち着かなかったようで、その間に3つの内裏を使っています。そのうちの第二次内裏は、江戸期以降の上田家の下に眠っていたのですが、それが整備されて公開されています。
旧上田家住宅も見られるので、古民家好きの方にお勧めですが、この建物の下に内裏内郭築地回廊がめぐっていました。説明板を見ると分かりやすいです。
現地では地表面表示で回廊の場所が分かるようになっています。
現地説明板を見ると、この場所がどこなのかが分かると思います。
史跡長岡宮跡 内裏外郭築地
もっと長岡宮を感じたいという方には、上の場所からすぐ南にある「南内裏公園」が良いです。
第二次内裏の外郭築地が少しだけ復元されていますが、場所はここです。
史跡長岡宮 築地跡
さらに長岡京のナチュラルテイストを楽しみたいという方には、築地塀の跡が土塁のように残っている場所がありますよ。
長岡宮や長岡京関連のスポットは実は他にもまだあるのですが、ひとまずここで紹介した場所をめぐれば、長岡宮跡に関しては十分ではないかと思います。
それと、上で紹介した以外にもぜひ訪れていただきたい施設があるのでご紹介します。
向日市文化資料館
まずは地元向日市にある向日市文化資料館です。
長岡京に関して詳しく説明してありますので、ここはぜひ訪れて欲しいです。上述したスポットからも歩いて行ける距離ですし、こららに向日丘陵の古墳探訪も加えれば、古代史を満喫できる立派な1日コースができますよ。
展示室の中央には立派なジオラマがありますが、上述した楼閣が明らかになる前の製作ということで、それはご了承ください。
長岡京市埋蔵文化財センター
京都にはそのものズバリの名前の長岡京市という自治体があります。ところが、長岡京のコアゾーンは、向日市域なのです。長岡京市民としては悔しいと思いますが、長岡市埋蔵文化財センターにも長岡京に関する展示がありますので、こちらも併せて探訪することをお勧めします。
長岡京市埋蔵文化財センターは、長岡京市内から出土した遺物が集まっていて、とくに恵解山古墳に関する展示が素晴らしいですし、素敵な埴輪も沢山ありますので、古墳好きの方にはとくにお勧めです。
こんな可愛い顔をした水鳥形埴輪にも出会えますよ。
京都市考古資料館
京都市考古資料館にも長岡京に関する展示が少しだけあります。