最終更新日:2022年9月14日

文永の役までの時代の流れ

 朝鮮半島にあった高麗は、日本と正式な国交はなかったが、民間人の交易は行われており、魏志倭人伝に記されている通り昔から海の交易活動に従事してきた対馬・壱岐の人びとは、この時代も玄海灘に船を浮かべて活動していた。

 高麗は、隣に出現した強国であるモンゴル帝国からの圧迫に苦しめられており、1218年には同盟を組むものの、モンゴル帝国の横暴さに我慢できず1223年にはその盟約を一方的に破棄。それ以来、モンゴル帝国の高麗侵攻が行われ、1231年にはモンゴルは高麗の都・開京を攻め、高麗の王・高宗は300年来の都を放棄し、江華島へ遷都しモンゴルへの抵抗を展開した。

 それ以降のモンゴルの高麗侵攻は、1232年、1235~39年、1247~48年、1253~54年、というように執拗に行われ、1254年に高宗はついに江華島を出てモンゴルとの交渉を行い、王子を人質として差し出した。ここで一旦モンゴル軍は撤収したが、その後すぐに舞い戻ってきて容赦なく半島各地を蹂躙し、男女20万6800人を捕らえ、殺害された人びとも多数に及んだ。

 高麗はなおも完全に屈服することはなかったが、1255年、57年、58年にモンゴル軍の攻撃を受け、ついに1259年に降伏した。

 この後、元寇が始まり、その際の先兵として高麗軍が起用され、対馬や壱岐で残虐な行為に及んだが、その前史として高麗がモンゴル帝国から酷い仕打ちを受けていたことをまずは知る必要があるだろう。モンゴル帝国の核となっているモンゴル人は人口は少なかったが戦闘力は極めて高く、少数派の人びとが大多数の中国人や朝鮮人を支配するには、徹底的に恐怖心を与えておくのが得策だ。

 さて、高麗を屈服させたモンゴル帝国の4代ムンケは、高麗が降伏した1259年に崩じ、その弟で漢地大総督として中国の支配を任されていたフビライが翌1260年に「ハン」を称し独立した。

 フビライは一転して高麗に対して宥和政策をとった。フビライは東海に浮かぶ日本列島の侵略を目論んでいたため、高麗の力を利用したかったのだ。しかし、フビライとしては、日本の前に南宋を片付けなければならない。フビライは、南宋を攻めつつ日本に使者を送り、戦わずして日本を手中に収めようと画策した。1266年から1270年までの間に、日本には5回にわたり文書にて降伏を促している。

 その頃の鎌倉幕府の執権は北条政村で、次代の執権候補である若い北条時宗が連署(れんしょ)であったが、文永5年(1268)3月5日には時宗が第8代執権に就任した。18歳の若きリーダーは、かつて7世紀に白村江の戦いで唐・新羅に敗れた以来最大の国難に立ち向かうこととなる。

 フビライは、南宋をほぼ壊滅状態にさせつつ、日本侵攻の準備を着々と進めたが、半島から対馬に侵攻する前に片付けておかなければならない勢力が存在した。降伏した高麗の中にもモンゴル帝国に対抗してゲリラ活動を行う勢力が存在し、済州島に彼らの根拠地があったため、まずは済州島を落とさなければならない。済州島の勢力は、日本にも共同戦線の提携を求める使者を発していた。

 1273年、済州島が陥落。そして、その翌年の文永4年(1274)に「文永の役」が勃発した。

 

北方の脅威

 モンゴル帝国の勢力拡大による日本の危機は北方でも惹起された。1263年、モンゴルはアムール川下流域から樺太にかけて勢力を持っていた吉里迷(ギレミ)を配下に収めたが、吉里迷は隣接する骨嵬(クイ)や亦里于(イリウ)の侵入に困っており、それを助けるという態で、翌年モンゴルは骨嵬を討った。

 北海道や千島、樺太、そして沿海州には多種の民族がおり、一般的には吉里迷はギリヤーク(ニヴフ)で、骨嵬は、樺太アイヌ、亦里于は、ウィルタあるいは樺太アイヌとの説がある。

稚内市北方記念館にて撮影

稚内市北方記念館にて撮影

稚内市北方記念館にて撮影


 その後の北方での経緯は割愛するが、結果的にモンゴル帝国が樺太から先に侵攻することはなかった。この樺太での戦いは、文永の役より10年前の事件で、これが日本に対する挟撃作戦として画策されたことなのかは断定できない。当時のモンゴル人の地理知識では、樺太の先がどうなっているのかは分かっていなかったと思われ、その先に北海道があり、本州があることを知らなければ、挟撃作戦は立てられない。

 ただし、もし樺太が取られ、モンゴル軍が北海道にまでなだれ込んできた場合は、異様な戦闘力を持つ彼らのことなので北から鎌倉を落とし、余勢をかって京都を蹂躙することも可能だっただろう。そうならずに日本はラッキーだった。

 

文永の役勃発!対馬・小茂田浜の戦い

 当時の日本はもちろん朝廷は存在していたが、国防は鎌倉幕府の責務であった。度重なるモンゴル帝国からの遣使に対して、鎌倉幕府は無視をし続けた。その無礼に怒った使者が対馬の農民を拉致して帰国したこともあったが、果たして無礼なのはどちらだろうか。

 幕府が動員できる武力は全国にいる御家人である。頼朝以来の家来が多いが、中には頼朝よりも前から代々河内源氏に仕えてきた家もある。幕府は忠実なる東国の御家人を西に移住させる計画を立案したが、当面は九州の御家人に防衛を託さなければならない。豊後守護・大友頼泰と筑前・肥前の守護・武藤資能を防衛の責任者に任じた。

 1271年に国号を「大元」としたフビライ王朝(以降、元と称す)は、ついに日本侵攻を開始した。1274年10月3日、兵力3万数千が900余艘の軍船に乗り合浦を出撃。船団は6日(他説ある)の寅の刻(4時)に対馬西岸の佐須浦沖に姿を現した。しかし、姿を現したといってもまだこの季節の4時であればその姿は海岸からはすぐには視認できなかったはずだ。

 それを迎え撃ったのは対馬国守護代として対馬の統治を任されていた宗助国。68歳の老将だ。

 助国は手勢80余騎を率いて、小茂田の海岸に近い「ひじきだん」に本陣を構えた。

小茂田の海岸

 助国はやがて、姿が明らかとなった元の大軍を認めた。一瞥しただけで勝敗は分かった。助国は覚悟を決めた。

 実際の戦場は、今の佐須浦ではなく、少し内陸に入った金田小学校付近と想定されるが定まっていない。

 元軍の軍船からは1000人ほどの兵が上陸したという。助国らは少ない人数で多数の敵を相手に大いに気を吐いたが、辰の下刻(9時)、ついに玉砕した。衆寡敵せずという表現にも程がある兵力差である。

小茂田浜神社の説明板

 現在、小茂田浜には助国らを祀る小茂田浜神社が建っており、今でも祭典の時は「鳴玄の式」が行われ、元軍に対して弓矢で応酬している。

小茂田浜神社

 なお、討死した助国の首と胴体は別々の場所に葬られた。

現地説明板

 対馬を制圧した元軍は、つづいて壱岐を攻めた。

 

壱岐の戦い

 対馬を屠った元軍は、続けざまに壱岐を呑みこむべく軍船を進めてきたが、対馬・小茂田浜の戦いで宗助国が討死した9日後(諸説ある)の10月14日には、壱岐の浦海海岸に上陸した。

 壱岐でも守護代の平景隆が100余騎を率いてそれを迎撃したが、庄ノ三郎ヶ城の前面に展開する唐人原で大敗を喫し、翌15日、景隆は守護の拠点である樋詰城にて自刃して果てた。樋詰城のすぐ近くには、新城古戦場がある。

 対馬には元寇を偲ぶ遺跡などはあまり残っていないが、壱岐はとても多い。例えば、壱岐には千人塚というものがいくつもある。

 ただしこれは文永の役ではなく弘安の役の際の犠牲者の塚であると思うが、説明板にはこのように記されている。

 これでもだいぶソフトに書いたのだろう。

 対馬の場合は壱岐よりも相対的に韓国人の観光客が多いため、それを慮ってのことかもしれないが、きちんとした歴史を伝えたうえで両国民はそれを乗りこえて仲良くなる必要があると考える。

 註:最近ではフビライのことを「クビライ」と表記することが多いですが、私は昔勉強したときの習慣で「フビライ」と言ってしまいます。「クビライ」が慣れてきたらそう呼ぶかもしれませんが、自然の流れに任せます。

 

参考文献

・『普及版 日本歴史大系4 武家政権の形成』所収「蒙古襲来と鎌倉政権の動揺」(新田英治/著)
・現地説明板