柊塚古墳は埼玉県南部に残る古墳では最大級で、帆立貝式古墳として見た場合も全国的にも大きな部類に入る墳丘長72mの古墳です。

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【本ページの目次】

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

1.基本情報  

所在地

埼玉県朝霞市岡3-29-1ほか

https://www.google.com/maps/d/embed?hl=ja&mid=1QfWAZnUO8ZiVLjwIfMQTMO5hZRIFDk8F&ll=35.80950905505179%2C139.60578206441807&z=19&ll=35.80956864839506,139.6057761989131&z=18

現況

柊塚古墳歴史広場

史跡指定

埼玉県指定史跡
指定日:平成14(2002)年3月14日

築造時期

6世紀前半

墳丘

形状:帆立貝式古墳
墳丘長:72m、後円部径:48m
墳高:8m
段築:
葺石:
埴輪:あり

主体部

竪穴系
後円部に粘土槨と木炭槨の2基の埋葬施設

周堀

あり

出土遺物

家形埴輪など
朝霞市博物館に遺物の展示がある

2.探訪レポート

2015年1月17日(土)


この日の探訪箇所
柊塚古墳 → 岡城 → 朝霞市博物館 → 滝の城


 2015年になり、先日は「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」で開催する八王子城跡めぐりの下見のために、「城はじめ」を兼ねて八王子城跡に行ってきましたが、ちょうど国分寺に行く用ができたので、今年の史跡めぐり第2回目を遂行することに決めました。

 国分寺に近いところを考えた結果、埼玉県朝霞市にある岡城跡や所沢市の滝の城跡がちょうど良いロケーションです。

 実は両城とも、2003年11月8日に埼玉県在住の知人に連れて行ってもらいましたが、滝の城跡に到着したときはもう日が暮れかけていて、ほとんど見れていません。

 そのため、岡城跡と滝の城跡を再訪することに決め、出発の前日にWebで調べていると、岡城跡の近くには柊塚古墳や朝霞市博物館があることが分かったので、それらを含めると時間的にもちょうど良いということで、これで当日のコース設計は完了です。

*     *     *

 国分寺で用が済んだ後は、西国分寺まで一駅乗って、武蔵野線に乗り換え、北朝霞駅までやってきました。

 武蔵野線を降ります。

 ところで、私はお腹が空いているのだ。

 北朝霞駅の改札をくぐり、まずは昼飯が食べられる場所を探すとしましょう。

 ガード下にラーメン屋がありました。

 寒い日はラーメンがことのほか美味しいですね。

 ちなみに右手が武蔵野線の北朝霞駅で、正面が東武東上線の朝霞台駅です。

 東上線沿線には面白い城跡がたくさんあるのですが、それらを探訪するときはここで東上線に乗り替えて行きますよ。

 ラーメンを食べた後は甘い缶コーヒー。

 いやー、それにしても今日は風が冷たいです。

 時期的には1年で一番寒い時期ですが、それでもカメラの操作がしにくくなるので手袋は着けません。

 歩きだしてすぐに道は下り坂になり、黒目川の段丘を一段降ります。

 浜崎分署前の交差点を左折。

 黒目川の堤の上を進みます。

 あ、ちなみに桜並木で有名な「目黒川」ではないですよ。

 犬の散歩やジョギングをしている人たちとすれ違いながら、テクテクと歩いていると川の向こう岸に岡城跡が見えてきました。

 今日は岡城にも行きますが、その前に柊塚古墳を見たいと思っています。

 河川敷を10分くらい歩くと、左手に何か城郭遺構のようなものが現れました。

 うわー、何だこれは!

 杉山城跡のように丸裸になった遺構を見ると、本城郭は二つの曲輪からなり、左手の一段高いのが本曲輪、右手のすり鉢状になっているのが二の曲輪と推測されます。

 位置的には岡城に対して黒目川の対岸にあるので、岡城を攻撃するために作られた向城と考えられ、築造年代は・・・

 「朝霞どろんこ保育園」は、園庭に面白いものを作っちゃいましたね。

 おそらくここに通った子供の体内には中世城郭の面白さが染み付いてしまい、将来城郭研究家になる子もいるかもしれません。

 というわけで、岡城のすぐ近くに到着しました。

 城跡の北東側の黒目川沿いには駐車場があるので、車で来る人はここに停めるといいですね。

 なんだあの看板は!

 ビジネスはスピードが命ですが、何の会社かは分かりませんが仕事が速そうですね。

 丘の上にあるあの森が古墳かな?

 坂道を登ります。

 柊塚古墳歴史広場に到着!

 台数は少ないですが、駐車場もあります。

 馬形埴輪のレプリカも飾ってありますね。

 柊塚古墳は黒目川の沖積地から比高17mの台地上にあります。

 標柱と案内図がありました。

 こう見ると、後円部側は残りが良さそうですが、前方部側は削られてしまっていますね。

 朝霞市は「埼玉県南部に唯一残る前方後円墳」と謳っていますが、この平面形を見る限りでは帆立貝式古墳です。

 ただし、古墳は立体的な構造物ですから平面形だけで判断してはダメなのです。

 この形状で前方部が著しく低ければ帆立貝式となり、そういった古墳は主に5世紀に築造されますが、6世紀になると、通常の前方後円墳のように前方部がそれなりの高さがあるのに極端に短い古墳が築造されるようになります。

 一般的にはそういった古墳も帆立貝式古墳と説明することが多いのですが、立体構造物としてみた場合は明らかに別物ですから、私はそれを新たな類型として考えるようにしています。

 柊塚古墳が帆立貝式古墳かどうかを確かめるには実物を見るしかないですね。

 階段を登っていくと、目の前に墳丘が現れました!

 いいねえ。

 ただ、墳丘の周囲は生垣で囲ってあり、登ることはできません。

 説明文もありますよ。

 お、立体模型がありましたよ。

 この模型を見る限りでは前方部を低くしていますからこの造形で間違いなければ帆立貝式でいいでしょう。

 出土遺物から見て築造時期を6世紀前半とするなら帆立貝式の中でも最新式のものとなります。

 あとは、周堀が全周していないのが面白いです。

 周堀も絶対に全周しなければいけないということもありませんが、通常は全周するものですから、もしかしたら発掘調査の範囲外で確認できなかっただけかな?

 規模は説明板に書いてある通り、墳丘の長さは72mで、後円部の径は48m、前方部の長さは18m、墳丘の高さは8mです。

 72mというのは、帆立貝式古墳の中では全国的に見ても大型の部類に入り、柊塚古墳から比較的近い場所では東京都世田谷区にある野毛大塚古墳が82mの帆立貝式古墳で見ごたえがあります。

 周堀跡は分かるように表示されていますね。

 前方部は後円部と比べて少し雑な扱いで草茫々ですが、対して高さがなく、帆立貝式古墳の特徴を示しています。

 東側の荒川方面の往時が開けており、やはりこういった眺望の良い場所を選んで築造していることが分かりますね。

 柊塚古墳は現在の地図で見ると荒川水系の新河岸川の支流の黒目川沿いにありますが、荒川や新河岸川も近世以降にかなり河川改修をして人工的に河道を作ったりしており、柊塚古墳は築造当時は入間川水系と見ていいです。

 当時の入間川は今の隅田川に接続して東京湾に注いでおり、荒川とは別水系です。

 柊塚古墳の被葬者は6世紀前半にこの地域に新たに進出してきて入間川下流域を治めた人物でしょう。

 6世紀前半というと、荒川水系の埼玉古墳群の王族が相当な力を持っており、彼らは无邪志(むざし=後の武蔵)南部の多摩川流域にまで影響力を及ばせていたと考えられるため、この柊塚古墳の被葬者も「埼玉の王」の影響の外にいたとは考えられません。

 柊塚古墳からは家形埴輪が出土しており、これから行く朝霞市博物館で見られるようですが、それを模したトイレがあります。

 柊塚古墳のすぐ南西側には、かつては並び立つように一夜塚古墳というのがあったのですが、戦時中に朝霞第二小学校の校舎を建設するために破壊されました。

 一夜塚古墳は直径50m・高さ7mの円墳で、柊塚古墳などとともに根岸古墳群を形成していましたが、一夜塚古墳の埋葬施設は木炭槨であり、一方柊塚古墳の方は、後円部に粘土槨と木炭槨の2基の埋葬施設が確認されています。

 おっと、小学生がワラワラと集まってきてボールなどで遊び始めました。

 彼らの邪魔になるので退散しましょうか。

 公園の西側の入口はこんな感じ。

 それでは次は、岡城跡を目指しましょう。

 (つづく)

4.補足

 

5.参考資料

・朝霞市のホームページ
・現地説明板
・『新編埼玉県史 資料編2 原始・古代 弥生・古墳』 埼玉県/編 1982年