最終更新日:2023年5月5日
古墳時代前期
古墳時代前期の栃木県は、前方後方墳が優勢の地域です。栃木県を大きく二つの地域に分けた場合、那珂川流域の那須地方と渡良瀬川あるいは鬼怒川流域の下野地方に分かれますが、那須地方は、大型の上侍塚古墳(114m)や、水戸光圀が発掘したことで著名な下侍塚古墳(墳丘長84m)など、規模の大きな前方後方墳が目立ちます。

一方、下野地方の鬼怒川流域を見ると、鬼怒川支流・田川の右岸では、茂原古墳群が築造されます。大日塚古墳(35.8m)から始まり、愛宕塚古墳(50m)、権現山古墳(63m)というように、3基の前方後方墳が連続して造られました。また、田川下流の鬼怒川との合流点近くでは、山王山南塚古墳群の2号墳(50m)と1号墳(46m)が連続して築造されましたが、2号墳のすぐ西にある方墳の3号墳(規模不明)は、2号墳よりも古い時期の築造と考えられています。
なお、下野地方に分類されるものの本来は上野国であった足利市藤本町では、渡良瀬川本流域に藤本観音山古墳という117.8mの前方後方墳(前方後方墳としては全国で6番目の大きさ)が築造されており、被葬者は、渡良瀬川流域を治めていた王であると考えられます。

さらに言うと、渡良瀬遊水地の北側には山王寺大桝塚古墳という96mの前方後方墳が築造されています。山王寺大桝塚古墳は、渡良瀬川支流・巴波(うずま)川の右岸にありますが、その史的意味づけについては、今はまだ自分なりの評価ができておらず、何とも言えません。

以上の話を編年図で示すと以下の通りです。
_栃木県内の古墳時代前期の編年_モノクロ-1024x606.jpg)
これを見ると、4世紀半ばに大型の古墳が3基ほぼ同時に出現しているため、ここに画期を認めることができますが、那珂川流域の上侍塚古墳の次に築造された下侍塚古墳は規模が縮小されており、渡良瀬川本流域の藤本観音山の場合は、その次は墳丘規模が半分以下の前方後円墳・小曽根浅間山古墳となっています。渡良瀬川支流・巴波川流域の山王寺大桝塚古墳に至っては、その前も後も首長墓級の古墳の築造は認められません。
古墳時代中期
古墳時代中期になると、那須地方では首長墓級の古墳の築造がありません。下侍塚古墳の後継者の墓と思われる古墳が無いのです。渡良瀬川支流・巴波(うずま)川流域では、山王寺大桝塚古墳の対岸に鶴巻山古墳という径53mの円墳が築造されました。これが山王寺大桝塚古墳の後継者の墓であるかどうかは、築造の間隔がやや開ているため何とも言えません。
鬼怒川支流・田川の流域では、茂原古墳群の近くに、径58mの円墳である上神主(かみこうぬし)浅間山古墳が築造されます。ただし、こちらも茂原古墳群との間に築造の間隔があるため、後継者の墓かどうかは分かりません。

山王寺大桝塚古墳と鶴巻山古墳の被葬者像については、引き続き同系統の在地の有力者が支配をしていたとしても、墳形が前方後方墳から円墳に切り替わっていますから、それまでの伝統的な文化は半ば放棄して、ヤマト王権の方針により強く従うようになったことが想定できます。ただし、その場合も、外見と中身は別問題ですから、単に形状を見るだけでなく、出土遺物を詳細に検討しないことには判断を下せませんし、円墳に切り替わっても、径50m以上というのは大きな部類に入りますから、それなりの権力は保持していたと考えられます。
つづいて、中期も中葉になると渡良瀬川支流・姿川のさらに支流域に塚山古墳群の塚山古墳(墳丘長98m)が築造され、鬼怒川支流・田川の左岸には、東谷(とうや)古墳群の笹塚古墳(墳丘長100m)が築造されます。この2基はほぼ同時期に築造されますが、両古墳とも栃木県を代表する中期の大型前方後円墳です。

塚山古墳は、3段築成で、葺石は全体ではなく前方部と後円部の一部分に施されており、円筒埴輪と朝顔形埴輪が見つかり、また土師器と須恵器も見つかっています。畿内的な古墳と言うか、全国的に標準的な古墳だと言えます。
塚山古墳群では、石製模造品が見つかりますが、それを生産していたのは小山市南部の向野原遺跡やそれにほぼ隣接する中久喜遺跡です。塚山古墳群と向野原遺跡は、直線距離で22㎞ほど離れていますが、塚山古墳の被葬者は、渡良瀬川流域のかなりの広範囲を支配地域とした人物だと考えられます。
一方の笹塚古墳は、3段築成で葺石が施され、周溝は二重で外堤を設け、それを含めた総長は210mもあり、全体の大きさでは栃木県最大の古墳となり、こちらも非常に畿内的な古墳であるといえます。なお、笹塚古墳の北東約500mの位置にある権現山遺跡は、古墳時代中期から終末期にかけての鍛冶遺構を含む206軒の竪穴住居跡が見つかっている大規模集落です。そこでは、豪族居館跡も見つかっており、笹塚古墳の被葬者と関係がありそうです。
塚山古墳と笹塚古墳とでは、支配水系が異なっているため、別系統の王だと考えられ、笹塚古墳の場合は、田川右岸の茂原古墳群以来の系譜の支配者が左岸に墓域を設けた可能性があります。
塚山古墳群からは、銀杏葉形線刻を持つ円筒埴輪が見つかり、秋元陽光氏は、「壕山系埴輪」と呼んで系統を設定しており、米澤雅美氏は、それを3段階に分けています。それを元に、塚山古墳群と東谷古墳群の首長墓を述べると以下の通りになります。
第1段階の5世紀中葉は、渡良瀬川流域の塚山古墳(同98m)と鬼怒川流域の笹塚古墳(前方後円墳・100m)。
つづいて、第2段階の5世紀後葉には、塚山西古墳(帆立貝形・63m)と舞鶴塚古墳(円墳・53m)。
そして、後期に入った第3段階には、塚山南古墳(帆立貝形・61m)と松の塚古墳(円墳・周溝を含め101m)。
つまり、大型前方後円墳が造られたあと、第2段階では、下野の首長墓は、前方後円墳を築造せず、帆立貝形あるいは円墳となっています。ただし、円墳になったとしても、むしろ前期の頃よりかは規模は増しています。
なお、下野の古墳を語る上では、下野型古墳と言う独特な古墳が登場しますが、中期が終わった段階では、まだ下野型古墳の登場はありません。
参考資料
・『栃木県埋蔵文化財調査報告第299集 東谷・中島地区遺跡群 7』 栃木県教育委員会・(財)とちぎ生涯学習文化財団/編 2006年
・『宇都宮市埋蔵文化財調査報告書第78集 笹塚古墳』 宇都宮市教育委員会/編 2012年