最終更新日:2024年2月2日
古墳時代前期
まずは、栃木県の古墳編年をご覧ください。
表の左側の列に「集成編年」という1から12までの数字がありますが、これは全国共通の表現方法で、1~4が前期、5~7が中期、8~10が後期、11~12が終末期です。
1期は、箸墓古墳などの出現期の古墳が築造された時期ですが、そういうものは栃木県全体で見つかっていません。栃木県では、古墳時代が始まってからワンテンポ遅れて古墳の築造が始まるのです。それを実年代で示すと、3世紀末頃と言えるでしょう。
上表で分かる通り、前期の栃木県は、前方後方墳が優勢の地域です。
栃木県は地勢的に大きく二つの地域に分けることができます。上表でも少し太い実線が縦に引かれていますが、常陸国内を流れて太平洋にそそぐ那珂川流域の那須地方と、東京湾にそそぐ渡良瀬川水系や香取海にそそぐ鬼怒川水系の下野(しもつけ)地方に分かれます。
64
駒形大塚古墳|那珂川町
那須地方で最初に築造された前方後方墳は、墳丘長64mの駒形大塚古墳(那珂川町)です。
前方部はかなり削平されていますが、辛うじて前方後方墳の態をなしています。
葺石は施されておらず、埴輪もありません。東日本は埴輪の樹立が遅れますが、埴輪より古いものとして底部穿孔有段口縁壺がみつかっています。埋葬施設は、後方部墳頂から地下1.5mの場所に、長さ3.2m×幅0.75mの木炭槨が確認されており、木棺の形跡と多量の朱がみつかっています。
前方後方墳は、前方後円墳に比べて副葬品が貧弱なことが多いのですが、画文帯四獣鏡が1面出土していることは特筆できます。
那須地方の弥生時代は、遺跡の数が非常に少ないです。つまり、あまり人が生活した痕跡がないのですが、駒形大塚古墳は古墳を造れるような基盤がない那須地方に突如として出現したといってよい古墳なのです。
50
吉田温泉神社古墳|那珂川町
那珂川町内では、駒形大塚古墳につづいて墳丘長50mの吉田温泉(よしだゆぜん)神社古墳が築かれました。
前方部には吉田温泉神社があります。
平成2年に墳形確認調査が行われましたが、主体部の調査はしていません。墳形確認調査の際に周溝内などから遺物が採取されています。
48
上侍塚北古墳|大田原市
吉田温泉神社古墳と同じ頃、大田原市内では墳丘長48mの上侍塚北古墳が築造されました。
その名の通り、上侍塚古墳の北側に築造されており、両者とも南向きで、後から造られた上侍塚古墳は、まるで上侍塚北古墳を意識して造っているように見えます。
詳しい調査がされておらず、実態があまり分かっていない古墳です。
84
下侍塚古墳|大田原市
そして大田原市内では次の段階で、森浩一が「日本で一番美しい古墳」と言った下侍塚古墳(墳丘長84m)が築造されます。
下侍塚古墳は、元禄5年(1692)に水戸光圀の命により発掘されたことで有名です。なぜ、水戸藩が那須の古墳を発掘したのかというと、この地に水戸藩の飛び地であったからですが、那須国造碑の存在を知った歴史マニアの光圀が、那須国造の墓が近辺にあるはずだ!と考え、下侍塚古墳と上侍塚古墳を発掘したわけです。
おそらく、光圀自ら移植ごてを使って掘って見たかったと想像しますが、光圀にはそんな時間が無かったため、現地の研究者と連絡を取りながら発掘作業を行いました。その連絡役となったのは、ドラマ水戸黄門の助さんのモデルになった佐々宗淳です。この辺の詳しいことは、近くにある大田原市なす風土記の丘湯津上資料館を訪れると分かると思います。
114
上侍塚古墳|大田原市
つづいて、墳丘長114mを誇る那須地方最大の前方後方墳である上侍塚古墳が築造されます。
なお、資料によっては、上侍塚古墳と下侍塚古墳の築造順が異なるのですが、大田原市では、下侍塚古墳の方が先としています。
63
那須八幡塚古墳|那珂川町
上侍塚古墳と同じ頃、那珂川町では墳丘長63mの那須八幡塚古墳が築造されました。
墳丘には葺石が施され、周溝も確認されています。
後方部墳頂下1mの地点に木棺直葬が認められ、夔鳳鏡(きほうきょう)が出土しています。夔鳳鏡は、鳳凰が翼を広げた意匠があしらわれた鏡です。おそらく中国で2世紀に製作された銅鏡で、夔鳳鏡自体、全国でも二十数面しか出土していない珍しい鏡であり、東日本では4面、関東地方ではこの1面のみです。
上侍塚古墳と那須八幡塚古墳の築造をもって那須地方での大型古墳の造営が終焉を迎えます。
以上が那須地方の前方後方墳です。
117.8
藤本観音山古墳|足利市
下野地方の鬼怒川流域を見ると、鬼怒川支流・田川の右岸では、茂原古墳群が築造されます。大日塚古墳(35.8m)から始まり、愛宕塚古墳(50m)、権現山古墳(63m)というように、3基の前方後方墳が連続して造られました。
また、田川下流の鬼怒川との合流点近くでは、山王山南塚古墳群の2号墳(50m)と1号墳(46m)が連続して築造されましたが、2号墳のすぐ西にある方墳の3号墳(規模不明)は、2号墳よりも古い時期の築造と考えられています。もしそうだとすると、栃木県には出現期の古墳はないと述べましたが、この2号墳がそれに該当する可能性があります。
なお、現在は栃木県の下野地方に入るものの本来は上野国であった足利市藤本町では、渡良瀬川本流域に藤本観音山古墳という117.8mの前方後方墳(前方後方墳としては全国で6番目の大きさ)が築造されており、被葬者は、渡良瀬川流域を治めていた王であると考えられます。
96
山王寺大桝塚古墳|栃木市
渡良瀬遊水地の北側には山王寺大桝塚古墳という96mの前方後方墳が築造されています。
山王寺大桝塚古墳は、渡良瀬川支流・巴波(うずま)川の右岸にありますが、その史的意味づけについては、今はまだ自分なりの評価ができておらず、何とも言えません。
古墳時代中期
古墳時代中期(集成編年5~7期)になると、那須地方では首長墓級の古墳の築造がありません。上侍塚古墳の後継者の墓と思われる古墳が無いのです。
一方、下野地方の渡良瀬川支流・巴波(うずま)川流域では、山王寺大桝塚古墳の対岸に鶴巻山古墳という径53mの円墳が築造されました。上掲した編年では、山王寺大桝塚古墳の次に綺麗に位置していますが、研究者によっては、山王寺大桝塚古墳の築造時期からはやや間隔が開ていると考えています。
鬼怒川支流・田川の流域では、茂原古墳群の近くに、径58mの円墳である上神主(かみこうぬし)浅間山古墳が築造されます。ただし、こちらも茂原古墳群との間に築造の間隔があると考える研究者もおり、後継者の墓かどうかは分かりません。
山王寺大桝塚古墳と鶴巻山古墳の被葬者像については、引き続き同系統の在地の有力者が支配をしていたとしても、墳形が前方後方墳から円墳に切り替わっていますから、それまでの伝統的な文化は半ば放棄して、ヤマト王権の方針により強く従うようになったことが想定できます。
しかし、前方後方墳に代わって前方後円墳が築造されたわけではなく円墳であるため、ヤマト王権からはそれほど重要だと思われていなかった可能性があります。ただし、円墳であっても径50m以上というのは大きな部類に入りますから、それなりの権力は保持していたと考えられます。
98
塚山古墳|宇都宮市
つづいて、中期も中葉になると渡良瀬川支流・姿川のさらに支流域に塚山古墳群の塚山古墳(墳丘長98m)が築造され、鬼怒川支流・田川の左岸には、東谷(とうや)古墳群の笹塚古墳(墳丘長100m)が築造されます。この2基はほぼ同時期に築造されますが、両古墳とも栃木県を代表する中期の大型前方後円墳です。
塚山古墳は、3段築成で、葺石は全体ではなく前方部と後円部の一部分に施されており、円筒埴輪と朝顔形埴輪が見つかり、また土師器と須恵器も見つかっています。畿内的な古墳と言うか、全国的に標準的な古墳だと言えます。
塚山古墳群では、石製模造品が見つかりますが、それを生産していたのは小山市南部の向野原遺跡やそれにほぼ隣接する中久喜遺跡です。塚山古墳群と向野原遺跡は、直線距離で22㎞ほど離れていますが、塚山古墳の被葬者は、渡良瀬川流域のかなりの広範囲を支配地域とした人物だと考えられます。
一方の笹塚古墳は、3段築成で葺石が施され、周溝は二重で外堤を設け、それを含めた総長は210mもあり、全体の大きさでは栃木県最大の古墳となり、こちらも非常に畿内的な古墳であるといえます。なお、笹塚古墳の北東約500mの位置にある権現山遺跡は、古墳時代中期から終末期にかけての鍛冶遺構を含む206軒の竪穴住居跡が見つかっている大規模集落です。そこでは、豪族居館跡も見つかっており、笹塚古墳の被葬者と関係がありそうです。
塚山古墳と笹塚古墳とでは、支配水系が異なっているため、別系統の王だと考えられ、笹塚古墳の場合は、田川右岸の茂原古墳群以来の系譜の支配者が左岸に墓域を設けた可能性があります。
塚山古墳群からは、銀杏葉形線刻を持つ円筒埴輪が見つかり、秋元陽光氏は、「壕山系埴輪」と呼んで系統を設定しており、米澤雅美氏は、それを3段階に分けています。それを元に、塚山古墳群と東谷古墳群の首長墓を述べると以下の通りになります。
第1段階の5世紀中葉は、渡良瀬川流域の塚山古墳(同98m)と鬼怒川流域の笹塚古墳(前方後円墳・100m)。
つづいて、第2段階の5世紀後葉には、塚山西古墳(帆立貝形・63m)と舞鶴塚古墳(円墳・53m)。
そして、後期に入った第3段階には、塚山南古墳(帆立貝形・61m)と松の塚古墳(円墳・周溝を含め101m)。
つまり、大型前方後円墳が造られたあと、第2段階では、下野の首長墓は、前方後円墳を築造せず、帆立貝形あるいは円墳となっています。ただし、円墳になったとしても、むしろ前期の頃よりかは規模は増しています。
なお、下野の古墳を語る上では、下野型古墳と言う独特な古墳が登場しますが、中期が終わった段階では、まだ下野型古墳の登場はありません。
古墳時代後期
まずは、後期・終末期の下野地方の古墳編年をご覧ください。
この図が示している通り、後期(6世紀)に入ると、墳丘長120.6mを誇る栃木県で3番目の大きさの前方後円墳・摩利支天塚(まりしてんづか)古墳が築造されます。
120.6
摩利支天塚古墳|小山市
墳丘は前方部・後円部共に2段築成とされていますが、後円部は3段築成のように見えます。周溝は一部が2重になっています。埴輪は樹立されていますが、葺石は施されていません。主体部は未調査です。
摩利支天塚古墳は、以前から剣菱形であると囁かれていますが、現在のところは何とも言えません。
摩利支天塚古墳が築造された姿川右岸地域は、これまで古墳の築造が乏しい地域で、中期後半には桑57号墳という墳丘長38mの帆立貝形古墳が築かれた程度でした。
その地に「突如として」大型前方後円墳が築造されたのです。関東地方には「突如として」古墳が築かれる地域が結構あり(有名な埼玉古墳群もそのひとつ)、その場合は、在地の勢力が築いたというより、ヤマト王権が何らかの政策意図によって、まとまった数の移民を送り込んで開発し、そのリーダーが古墳を築造した可能性が高いです。
しかし、その「何らかの政策」が推定できる場合とできない場合があり、例えば長野県や群馬県などは、馬の生産のためという推測ができたりします。トラックでもあり戦車でもありスポーツカーでもある馬を増やすことは王権にとって非常に重要です。
では、下野地方に王権がテコ入れする理由は何だったのでしょうか。
可能性としては、王権の東北進出と関連がありそうですが、まだそのストーリーを明確に語れる段階ではありません。
124.8
琵琶塚古墳|小山市
摩利支天塚古墳につづいて、前方後円墳の琵琶塚古墳が築造されました。
琵琶塚古墳は、墳丘長124.8mで栃木県で2番目に大きい古墳です。前方部は2段、後円部は3段築成で、周溝は不正形で一部2重。埴輪はありますが、葺石はありません。主体部は未調査です。
実は現在は上の写真と違って、墳丘上の樹木はすべて伐採されてしまい、寂しいヴィジュアルになっています。樹木をすべて伐採したことに関しては、地元の方を含めて、ちょっと反感を買っているようですが、整備の一環です。
現在はこんな感じです。
樹木伐採後に初めて訪れた時は、最初は琵琶塚古墳だとは思いませんでした。
琵琶塚古墳は段築テラス部分がかなり広くなっており、後述する下野型古墳のルーツとされます。
127
吾妻古墳|壬生町
琵琶塚古墳につづいて、栃木県最大の前方後円墳である吾妻古墳が築造されます。時代は6世紀後半に入っていますが、この時期に墳丘長127mあるというのは、全国的に見ても大きな部類です。
北側には駐車場と呼べるようなものはないのですが、普通自動車であれば停められるスペースがあります。そこから入っていくと説明板が見えてきます。
説明板を読んだ後、何も考えずに目の前に見える墳丘に向かって歩いて行くと、今度は標柱が現れます。
ここから見ると目の前の丘が古墳に見えるのですが、実はこの時点ですでに二段築成の下段上のテラス部分にいるのです。すなわちこれが、下野型古墳の特徴のひとつで、テラス部分が異様に広いため、墳丘の一部であることに気づかないのです。
いや、気づく人は気づくかもしれませんが、私は初めて訪れた時に気づきませんでした。
いったん周溝まで下りてみると良くわかると思います。
右手に二段築成になった墳丘が見えるでしょう。
なお、これらの写真は2018年2月11日訪れた時に撮ったもので、このように下草が枯れている時期に行くのがベストです。例えば、GW頃に訪れた時はもう草ぼうぼうでした。
墳丘の南側(前方部側)に回ると、墳丘が大きく抉れているのが分かります。
ここには横穴式石室があったのです。
このテラスが異様に広いのと、埋葬施設である横穴式石室を前方部に作り、前方部墳端方向に開口していることが下野型古墳の大きな特徴です。
また、「下野型石棺式石室」と呼ばれる石室構造を持つことも特徴のひとつで、例えば、吾妻古墳の横穴式石室はこのような構造になっています。
吾妻古墳の場合は、前室と玄室の複室構造ですが、玄室のみの単室構造の古墳もあります。
上の図の前門や玄門と呼ばれるものは、1枚岩をくり抜いて「門」を作っており、吾妻古墳の玄門は、壬生町立歴史民俗資料館がある壬生城址公園内に露天展示されています。
なお、天井石も同じく壬生城址公園内に露天展示されています。
以上見てきたとおり、下野地方では、後期に入った頃から摩利支天塚古墳、琵琶塚古墳、吾妻古墳といった大型前方後円墳が一世代一基といった、いかにも「首長墓系列です」と言わんばかりにちょうど良い塩梅に築造されます。
この3基が築造された近くには、後に下野国府や国分寺、それに下野薬師寺が置かれており、ずっと古代下野の中心地であり続けるわけですが、吾妻古墳の築造と同じ頃、少し西側の黒川流域に新たな古墳群の造営が始まります。
86
富士山古墳|壬生町
羽生田(はにゅうだ)古墳群を形成する1基です。上掲した編年図を見ても分かる通り、下野地方では古墳時代後期後半から終末期前半にかけて80m前後の超大型円墳が4基も築造されています。
大きさもさることながら、そのうちの3基が終末期の7世紀前半に築造されているという点は特異で、この時期は全国的に見ると古墳は小型化が著しく、大王の墓でさえ小さくなり、単に大きさだけを見たら下野に大王がいたのか!と錯覚するほどの大型円墳築造エリアと化すのです。
その4基の超大型円墳のなかで最初に築造されたのが径86mの富士山古墳で、時期的には吾妻古墳と同じ頃です。円墳としては、全国で7位の大きさになります。
富士山古墳は、テラス部分が広い下野型古墳です。
富士山古墳から出土した遺物として特筆すべきことは、墳頂で見つかった家形埴輪が巨大であることです。
技巧の点では劣りますが、日本一大きいと言われている今城塚古墳の家形埴輪とほぼ同じ大きさなのです(数センチ負けてる)。
91
茶臼山古墳|壬生町
羽生田古墳群において富士山古墳の次に築造された前方後円墳です。
下草が深い時期は歩きづらいのですが、テラスが広いところは下野型古墳の特徴をよく表しています。
82
長塚古墳|壬生町
羽生田古墳群を形成する1基です。私が始めて下野型古墳を意識したのがこの長塚古墳でした。
墳丘上段に登ると、頂部が痩せ尾根状になっていて、最初は何かの間違いではないかと思ったのですが、頂部が細くて、テラス部分が広いのが下野型の特徴であることがそのあと分かったのです。
築造時期は7世紀初頭にかかるころだと考えられ、畿内や西日本の多くの地域では6世紀末をもって前方後円墳の築造が終わります。しかし、関東地方では、もう一世代は前方後円墳が造られる地域が多く、下野地方もその一つです。
63
桃花原古墳|壬生町
羽生田(はにゅうだ)古墳群を形成する1基です。時代はすでに終末期ですが、いまだに大型円墳を造っています。
石室を見学することはできませんが、複室の下野型石棺式石室を備えています。
82
壬生愛宕塚古墳|壬生町
今まで述べた4基の古墳は、羽生田古墳群と呼ばれ、その名の通り羽生田という土地に造られています。そこから少し離れた壬生という地域にも継起的に古墳が築造されています。その中のトップバッターが、6世紀第4四半期に築造された壬生愛宕塚古墳です。
壬生愛宕塚古墳も下野型古墳らしく広いテラスが展開しています。
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壬生牛塚古墳|壬生町
壬生愛宕塚古墳につづいて6世紀末から7世紀初頭頃には、牛塚古墳が築造されます。
前方部が短く、帆立貝形と呼ぶ研究者もいますが、前方部が短い中期・後期古墳をなんでも「帆立形」と呼ぶのは私は嫌いで、古墳は立体的な構築物ですから平面形だけ見てもダメです。もういい加減、帆立貝形とか呼ぶのはやめにしませんか?と思いますが、そう思いつつもいまだ私も使っている体たらくです。
84
壬生車塚古墳|壬生町
径84mの超大型円墳です。
円墳ですがテラスが広く、下野型の特徴をしており、周溝が深く、周堤が高いため、まるで山城のような外見をしています。
主体部は、横穴式石室で、いつでも気軽に入ることができます。
構造は、上述した吾妻古墳と同様な造りになっていますが、玄室のみの単室構造です。
現状見ると、羨道と玄室の単室構造に見えるのですが、羨道に見える場所は前室で、吾妻古墳と同様な複室構造になっています。
ただし、玄門は吾妻古墳のように刳り抜き式ではなく、組合せ式となっています。
一度、大雨の中見学したことがありましたが、石室内は快適でしたよ。
60.9
判官塚古墳|鹿沼市
以上、下野型古墳をたくさん紹介してきましたが、面白いことに、羽生田古墳群の西側に流れる黒川を渡った対岸にある鹿沼市の判官塚古墳は、少なくとも外見は全然下野型ではないのです。
川一本を挟んで文化が違うというのはとても面白いことだと思います。
参考資料
・『前方後方墳の世界』 栃木県立なす風土記の丘資料館/編 1993年
・『栃木県埋蔵文化財調査報告第299集 東谷・中島地区遺跡群 7』 栃木県教育委員会・(財)とちぎ生涯学習文化財団/編 2006年
・『宇都宮市埋蔵文化財調査報告書第78集 笹塚古墳』 宇都宮市教育委員会/編 2012年
・「未来をひらけ!しもつけ古墳群」 下野市教育委員会/編