最終更新日:2023年12月1日
第25回 享徳の乱勃発・関東地方における戦国時代の始まり
前回述べたように、持氏の遺児である春王・安王は亡き者にされたが、まだ持氏の子らは確認できるだけで男子だけでも6人生き残っていた。
持氏の死後、鎌倉公方の座は空席であったが、幕府もずっとそのままにしておくことはできず、ついに持氏の遺児の一人である四男・万寿王丸を鎌倉公方とすることに決め、文安4年(1447)8月、万寿王丸は第5代鎌倉公方に就任させた。成氏は2年後に元服して成氏(しげうじ)と名乗った(黒田基樹氏によると、成氏は元服時19歳)。
そして成氏を補佐する関東管領には憲実の子憲忠が選ばれたが、成氏は父を憲実に殺されていることから、当然ながら憲忠のことを憎む気持ちがあったことは容易に推測できる。この幕府による人事は非常に理解しがたいが、ともかくそうなった。
当たり前だが、成氏と憲忠の仲は当初から険悪で、宝徳2年(1450)4月には、江島合戦と呼ばれる成氏と上杉氏との局地的な戦いが行われた。そして、成氏が憲忠を殺害したのは、享徳3年(1454)12月27日のことである。
この事件により、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏一族との戦争が勃発した。これを享徳(きょうとく)の乱と呼び、これをもって関東地方の戦国時代の始まりとする。関東地方は136年後に豊臣政権によって平定されるまで、長い戦国時代を経験することになるのだ。
ちなみに、ここまで述べた通り、鎌倉幕府が滅亡した後、関東地方では戦いが断続的に行われたが、激戦区は、大雑把に言うと今の茨城県と栃木県であった。その証拠に、当該地域ではこの時代に築城された城が多い。もちろん、他地域でも戦いが無かったわけではないが、城を築いて長期にわたって戦うようなものではなく、野戦で一気に雌雄を決するような短期的・単発的な戦いが多い。
ところが、後述する通り、足利成氏が鎌倉から古河へ本拠地を移した後は、関東各地の諸勢力は両派に分かれ、関東各地で戦いが起き、築城ラッシュが起きた。関東全域で築城が始まったのは考古学的にも裏付けられており、これらの事実から享徳の乱をもって関東地方の戦国時代が始まったという評価は的を射ている。
第26回 山内上杉氏と扇谷上杉氏
享徳3年(1454)12月27日に、第5代鎌倉公方・足利成氏によって殺害された関東管領上杉憲忠は、関東地方の上杉氏のいくつかの流れのなかの山内(やまのうち)家と呼ばれる家系で、関東地方における上杉氏の嫡流であった。
上杉氏は元をただすと藤原北家勧修寺流の庶家である。
『関東管領・上杉一族』によると、鎌倉時代初期の人物である藤原重房は、承久の乱(承久3年<1221>)の後、宗尊親王が鎌倉幕府の第6代将軍として下向する際に、それに供奉して鎌倉に下り、鎌倉下向と同時に丹波国何鹿郡上杉荘(京都府綾部市上杉町)の所領を得たことにより苗字を上杉に改めたという。
これが通説となっているようだが、『地域の中世1 扇谷上杉氏と太田道灌』によれば、上杉を最初に苗字としたのは重房の子頼重で、頼重は足利氏の家領奉行人頭人を務め、足利氏領丹波国八田郷(綾部市)等を所領とし、同郷内の上杉村という地名を取って苗字としたという。「上杉荘」自体、存在しないという。
上杉 扇谷家祖
重房 ――― 頼重 ―+― 重顕 ――― 朝定 === 顕定
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| 山内家祖
+― 憲房 ――― 憲顕
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+― 清子
足利尊氏母
頼重の子である憲房は、妹が足利尊氏の母・清子であった関係もあり、尊氏に忠実に仕えた。
憲房の子憲顕は、鎌倉の山内(鎌倉市山之内)に居館があったことから山内上杉と呼ばれるようになり、憲顕の5代あとが憲忠である。
そして、関東地方の上杉氏を語る上で、もう一流、重要な家がある。それが扇谷(おおぎがやつ)家である。
扇谷家が鎌倉に下向したのは山内家よりも遅く、顕定(1351~80)が鎌倉へやってきて扇谷に居館を構えたことから扇谷上杉と呼ばれるようになった。
第27回 緒戦で大敗した上杉氏
22歳の若き当主憲忠を殺された山内上杉氏は、憲忠の父憲実がまだ存命だったものの政治権力はすでに放棄しており、また憲忠の弟たちも若かったため、上杉氏の成氏に対する報復戦は、扇谷上杉氏の隠居・持朝がリードして進めることになった。
持朝はこのとき39歳。憲忠の妻の父であり、永享の乱や結城合戦を戦い抜いてきた強者だ。
ところがその持朝率いる上杉軍は、翌享徳4年(1455)正月22日、相模島河原(神奈川県平塚市)の戦いで成氏の派遣した一色直清・武田信長の軍勢に敗退してしまった(なお、武田信長は甲斐国守・武田信重<信玄の5代先祖>の弟で、この後、上総武田家を興すことになる人物)。
一方、扇谷上杉氏の当主顕房(持朝の子)は、山内上杉氏の前の家宰・長尾景仲(太田道灌の母方の祖父)とともに武州一揆や上州一揆を率い、武蔵府中(東京都府中市)に侵攻し、鎌倉公方歴代の先例どおり高安寺(東京都府中市)まで出張ってきていた成氏軍と対峙した。
そして相模島河原と時を同じくして、21・22日に上杉軍と成氏軍は、立河原(東京都立川市)から分倍河原(府中市・国立市)にかけての多摩川の河畔で合戦となった。21日の戦いを第一次立河原合戦と呼ぶが、両日含めて、分倍河原合戦と呼こともある。
『東国の歴史と史跡』によると、この当時の多摩川の流路は現在とは違って、おおよそJR南武線と中央自動車道との間を流れていた。日新町のNECのところがちょうど河道である。上記のいわゆる「分倍河原合戦」は当時の多摩川の右岸、現在の府中市四谷で戦われたのである。
ちなみに、現在の四谷という地名は元々「四ツ屋」と表記し、近世初頭の多摩川の洪水によって村が流されたときに、踏みとどまった家(市川一族)が4軒あり、それで四ツ屋村と呼ばれるようになった。
なお、『東国の歴史と史跡』では現在の多摩川になっている流れが中世の頃どうなっていたかは述べていないが、現在の河道も中世当時も多摩川の支流(浅川)が流れていたと思われる。関戸の渡しは中世の頃からあるからだ。
したがって、中世の頃は、上記のNECのところの本流と現在の多摩川の河道とがあり、その二つの河道の間と言うことで中河原という地名がついたのではないかと思う。
基本的に当時の合戦は人家がない河原や原野などで行われた。分倍河原合戦が行われた府中市四谷も当時は人家がなかったと考えられる。
さて、上記の合戦は、またもや上杉軍の敗北となり、庁鼻和(こばなわ)上杉憲信は戦死、犬懸(いぬがけ)上杉憲顕(禅秀の子)は高幡不動(東京都日野市)で自害したと伝わり、扇谷当主顕房も深手を負い、24日に入東郡夜瀬(埼玉県入間市あるいは東京都八王子市)で自害した。
このように上杉氏は緒戦で惨敗を喫し、山内上杉氏は憲忠の弟房顕(21歳)が継ぎ、扇谷上杉氏は隠居していた持朝が再び当主に返り咲くこととなった。
なお、このときの戦いで、山内上杉氏の重臣である武蔵大石氏の当主憲儀も討ち死にしており、分家(駿河守家)の重仲も、黒田基樹氏が推測する通り、このときに受けた傷が元で死亡したと思われる。重仲はのちの長尾景春の乱の際に二宮城(東京都あきる野市)に拠った憲仲の父であり、大石氏は当時すでに東京都多摩地域で強い勢力を持っていた。
第28回 武蔵国に君臨した守護代大石氏
山内上杉家中の傑物・大石能重
前回、享徳4年(1455)正月22日に起きた分倍河原合戦において、大石憲儀が討死し、大石重仲もこの合戦で被った傷がもとで死亡したことを述べたが、今回は大石氏について簡単に述べてみる。
大石氏についての研究は、70年代までは八王子市下柚木の伊藤家に伝わる「大石系図」を元に進められていた。しかし、80年代からは史料性の低い系図を頼るのではなく、史料として確実な古文書を元に大石氏の姿を復元しようとする動きが興り、現時点での大石氏の研究の到達点は、『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』所収「総論 武蔵氏大石氏の系譜と動向」(黒田基樹著)に簡潔にまとめられている。本項の記述は、『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』に収められた各論文に大きく拠っている。
『大石氏の研究』(大石氏史跡調査研究会)では、大石氏のルーツについては、木曽義仲がまだ信濃にいるころに、大室(あるいは小室)太郎泰貞の娘との間にもうけた義宗が初代だという「大石系図」の記述を元に考察しているが、大石氏が木曽義仲の後裔であることを史料的に裏付けることはできない。
大石氏は、応安3年(1370)に現れる隼人佑能重(はやとのすけよししげ)が史料上の初見である。能重はその時、武蔵国守護代であった。
室町幕府の地方統治の仕組みは、律令時代に定められた国を単位として、各国に守護(しゅご)という責任者を任じた。ただし、守護は在京して現地には赴かず、関東の守護の場合は鎌倉に在住しているため、守護代(しゅごだい)を現地に派遣して、実質的には守護代が現地の最高権力者となる。つまり、大石能重は、武蔵国の最高権力者である。なお、守護代は目代(もくだい)とも称される。
重ねて述べると、室町時代の関東地方のトップは足利尊氏の子基氏の系統の鎌倉公方で、ナンバーツーは上杉氏が任じられる関東管領である。そしてその下に各国の守護がいて、それぞれの国の統治を受け持っていた。
能重が史料に登場した時点で、すでに事実上の武蔵国の統治者である守護代に任じられているということは、大石氏が木曽義仲の末裔であったかどうかは不明としても、能重の守護代就任は、大石氏が山内上杉氏の家臣として実績を積み重ねてきた結果であると考えられる。能重は、武蔵国守護代を務めると同時に、上野国と伊豆国の守護代も務めており、大変な傑物であったと想像できる。
大石氏の系譜
ところがその能重は、大石氏の嫡流ではなく、「石見守家」と黒田氏が呼称する大石氏の分家であった。本家は「遠江守家」と呼称される家で、史料で確認できる初代は、法名聖顕であり、能重と同世代の人物で年齢は少し上だったと推定されている。
【遠江守家】
某 ― 某 ― 憲儀 ―+― 房重か
聖顕 道守 |
+― 定重 ―+― 顕重か === 憲重 === 氏照
道俊 綱周 北条氏康子
心(真)月斎 駿河守家から
【石見守家】
能重 ― 某 ― 憲重 ― 石見守 ― 石見守 ― 石見守
二宮
道伯
大石氏はさらに駿河守家の憲重と同世代の重仲から始まる「駿河守家」も確認されており、重仲と憲重は兄弟であった可能性がある。
【駿河守家】
重仲 ― 憲仲 ― 高仲 ― 高仲
二宮道伯と二宮城
古代末から武蔵国二宮の地(東京都あきる野市)は二宮氏の支配下にあったが、室町時代に入ると大石氏がこの地を支配することになる。石見守家の当主の二宮道伯はその名の通り二宮を称していることから、二宮城に居して二宮を支配していたと考えられる。では、二宮城とはどこにあったのであろうか。
二宮神社の南東約1キロのところにある法林寺には、『秋川市史』が著された昭和58年の時点で土塁が残っており、中世の館跡のような景観を呈していたことから、小川氏あるいは二宮氏の居館であった可能性がある。そして二宮神社も、中世の城館跡であったという説があり、大正15年に「二宮神社並びに二宮城跡」として都の旧跡に指定されている。
『秋川市史』によると、昭和47年の発掘調査によって二宮城が城跡であることは否定されるに及んだが、その後の昭和58年に、法林寺の東約200メートルの河岸段丘上にある「御屋敷」と呼ばれる場所を調査し、そこでは土塁や空堀跡が確認され、14世紀の居館跡とされた。
また、『多摩のあゆみ 第十号』所収「秋川市の城址」に、二宮神社の北の平沢に小字「城の腰」という地名があったと記されている。具体的に平沢のなかのどこかは分からないが、平沢は二宮神社から見るとちょうど「腰」に当たるので、二宮神社境内が二宮城であれば地名として適当である。二宮神社の東側の多摩川河畔に屋城という地名があり、現在でも屋城小学校や屋城保育園、屋城旭通りなどがある。
北・東・南をそれぞれ、平井川・多摩川・秋川で守られた段丘上の二宮神社の地は、城地として見ても好適地であるが、考古学的に分かったのは14世紀の居館跡で、道伯が活動した年代とは合致しない。そのため、二宮城の具体的な様相についてはいまだ謎である。
道伯は、正長2年(1429)に死去し、二宮の地は「石見守家」の分かれと考えられる「駿河守家」に継承された。「駿河守家」の憲仲は、文明8年(1476)に勃発した「長尾景春の乱」で景春方として二宮城に在城する。ところがどうやら、憲仲は二宮城を追われたようで、その後は戸倉城(あきる野市戸倉)主であった小宮氏が東進し、二宮の地に入ってくる。小宮氏が二宮城を使ったかどうかは不明だ。
16世紀に入るころからは、また大石氏がこの地に復活してくる。『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』では、天文13年(1544)の小宮康明以降、小宮氏は多西郡での活躍が見られなくなり、岩付太田氏の家中に見えるようになるということだが、『五日市町史』で述べられている通り、その後も小宮氏の活躍はあきる野市域で見られる。小宮氏は大石氏の下で、相変わらず隠然たる力を保持してあきる野市域を支配していたと考えられる。滝山城には、小宮曲輪と呼ばれている曲輪があるため、氏照時代になっても小宮氏は在地の有力者として君臨していたのであろう。
その後、後述する通り、大石氏は氏照が継ぎ、二宮は北条の支配下に入ることになる。
道伯の子の憲重も引き続き二宮城を拠点に活動していたと考えられるが、その後石見守家は拠点を下総国葛西(東京都江戸川区)に移し、代わって二宮城を拠点にしたのは駿河守家であった。
柏の城から浄福寺城へ
既述した通り、享徳4年(1455)の分倍河原合戦では、大石一族は既述した通り本家当主の憲儀と駿河守家当主重仲の二人を失うという大変な打撃を被った。この時代の大石氏は武蔵国守護代の地位についておらず、一時期ほどの権勢は失っていたが、相変わらず山内上杉家の重臣であることには変わりなかった。
遠江守家は、討死した憲儀の跡を継いだ庶子の定重が柏の城(埼玉県志木市)を拠点として活動していたと考えられ、定重が大石氏として久しぶりに武蔵国守護代に任じられるのは、長享元年(1487)のことである。
定重の跡は子の道俊が継いだ。道俊は法号であり、実名は確実なことはいえないが、顕重の可能性がある。通説では、道俊の実名は定久で、その娘比佐の元へ北条氏照が婿入りして大石氏を継いだとされているが、定久という名前を史料で確認することはできず、氏照の養子入りに関しては後述する。また、比佐という名前についても史料でそれを証明することはできない。伝承のレベルで確実性に欠ける。
道俊には実子が無く、駿河守家から憲重を養子に迎えた。駿河守家からの養子とする根拠は、「北条氏照継承前の大石氏」(長塚孝/著)で述べられている通り、憲重の通称が駿河守家が名乗る源三であるからだ。
憲重は、北条氏綱の偏諱を受けて、綱周と改名したが、その時期は、『新八王子市史 通史編2』では、大永6年(1526)以降と見られるとしている。時期の根拠については述べられていないが、大永4年に氏綱は江戸城を落とし、それによって多摩地域の武士たちは氏綱に靡いたと想定できることによるのだろう。三田綱定、小宮綱明、平山綱景への偏諱も同じ頃としている。
ただし、この時期の大石氏の主家である山内上杉氏は、大永5年(1525)3月25日の当主憲房死去によって不安定な状態になっていたが、いまだ力を持っていた。山内上杉憲政が、河越合戦(いわゆる「河越野戦」)で北条氏康に大敗して大きく力が削がれるのは、天文15年(1546)4月である。そう考えると、大石氏や三田氏などが偏諱を受けたのは、のちに三田綱定が北条家と戦ったことからも分かるように、北条氏に対して低姿勢で臨んだ程度で、決して配下に加わろうとするものではなかった。北条家に少しでも弱みが見えたら襲い掛かかるつもりだったのだ。その証拠に、河越合戦の際には、大石氏や三田氏は上杉陣営に属している。なお、綱周は一般的には「つなちか」と読むとされているが、元の名が憲重であるので、「つなのり」の可能性はないだろうか。
道俊の年月日が分かる史料上での終見は、天文21(1552)年8月19日である。恐らくその後まもなくして、養子の綱周が継いだのだろう。弘治元年(1555)夏には、綱周は小田原城に出仕しており、その頃から氏照の養子入りに関して話が進んでいたのであろう。道俊・綱周の代には、大石氏は八王子市の浄福寺城を拠点としていたと考えられている。
第29回 足利成氏の古河入部と太田道灌の江戸入城
話を戻す。
享徳4年(1455)正月の分倍河原合戦で勝利した鎌倉公方足利成氏は、敵を追撃しつつ北上し、3月3日には下総国古河(茨城県古河市)に入った。古河を中心とした下河辺荘は鎌倉府の御料所だった。この後、鎌倉へ戻らなかった成氏は古河城を本拠地とすることになるので、成氏以降は古河公方(こがくぼう)と呼ばれることになる。
もともと古河は、既述した東京都府中市の高安寺と同様、関東に変事が起きた際に鎌倉公方が出張る場所であり、その場所を「古河御陣」と呼んでいた。地政学的に見ても戦略上の要地である。前面に流れる渡良瀬川(当時は太日川といった)は、利根川や香取海(かとりのうみ=現在の霞ヶ浦や印旛沼などを含む広範囲の内海)と繋がっており、水上陸上共に交通の要衝である。
鎌倉府にとって北関東に対する前線基地の役目を負っていた古河は、14世紀末の小山氏の乱(下野守護・小山義政およびその子若犬丸の鎌倉府への反乱)を機に、鎌倉公方が直接支配に乗り出していく。
その際に活躍したのが、簗田氏や野田氏といった家臣たちで、とくに簗田氏はその後、古河公方足利家内において最高の権力を得るに至る。簗田家中興の祖といわれる満助の「満」は、鎌倉公方3代目の兼満からの偏諱であり、満助の嫡子・持助の「持」は、鎌倉公方4代目持氏からの偏諱である。それだけでなく、満助の娘は持氏に嫁ぎ、それによって誕生したのが成氏であるから、簗田氏は成氏にとっては外戚にあたる。こういった忠実な家臣たちによって、成氏が古河に入部する以前から古河の基盤は整えられていた。
さらに、小山氏の乱によって嫡系が滅んだ小山氏は、鎌倉府に忠誠を誓う下野守護・結城基光の次男泰朝が再興した。祇園城の小山氏と結城城の下総結城氏の存在が、成氏にとっては非常に頼りになったのである。
ただし、簗田氏は既述した結城合戦では安王丸に味方したため、合戦後少しの間、歴史の表舞台から消えた時期があった。
さて、敗北した山内上杉氏の家宰長尾景仲らは、下野国天命(栃木県佐野市)・只木山(同足利市)に籠城したが、成氏と上杉氏との合戦を知った幕府は、3月末に後花園天皇から成氏追討の錦旗を下賜され、在京中だった亡き憲忠の弟・房顕に山内上杉家を継がせるとともに関東管領に任じ、関東へ向けて出陣させた。ここに成氏は朝敵となったのである。
また幕府は、越後守護の上杉房定を上野(群馬県)に向けて出陣させ、扇谷上杉持朝を支援する目的で、駿河守護の今川範忠も出陣させ、持朝・範忠勢は、6月中旬鎌倉に入り、鎌倉から成氏勢力を一掃した。
これにより、利根川(現在の古利根川)を挟んで、東側に古河公方の勢力圏が、西側に上杉氏の勢力圏が形成され、関東平野を東西に二分しての戦いに発展した。
なお、この頃の勢力図については、木更津市郷土博物館の展示パネルに分かりやすい図がある。
しかし、成氏はすぐさま利根川を越えて侵攻し、12月に庁鼻和上杉性順(憲信)と長尾景仲が籠る崎西城(埼玉県加須市)を落とし、上杉勢に脅威を与えた。
また上杉勢は、下総方面でも利根川の東側を流れる太日川(現在の江戸川)の東岸の市川城(千葉県市川市)を古河勢に奪われ、武蔵国南部を版図とする扇谷上杉氏持朝は、急ぎ防衛ラインを構築しなければならなくなった。
そのため扇谷上杉家宰の太田道真・道灌父子を始めとして、宿老の上田・三戸(みと)・萩野谷氏らは「数年秘曲を尽くして」、河越城(埼玉県川越市)と江戸城(東京都千代田区)を築城した。両城は、長禄元年(1457)には完成しており、河越城には当主持朝と道真が、江戸城には道灌が入部した。道灌は長禄元年の時点で26歳である。
江戸城は平安時代の終わりごろに、秩父平氏の一族が居館を定めた場所で、頼朝挙兵時に当初頼朝と敵対した当主・江戸重長は、『義経記』に「(関東)八箇国の大福長者」と記されたほどの富豪であった。
「大福長者」という表現は武士というより、商業で成功した者を表現しているので、利根川や入間川(現在の隅田川)などの大河川が集中する江戸湾を控え、関東はもとより日本各地から物資が集まる江戸は、非常に経済的に旨味のある土地であり、そこを舞台に江戸氏は経済的成功を収めていたことが分かる。
また、東京というとあまりご存じでない方は平坦な地形を想像するかもしれないが、東京の山手と呼ばれる地域は、非常に起伏に富んだ地形をしており、江戸城(現在の皇居)周辺も深い谷や高い丘が複雑に入り組んでいる。したがって、江戸城はそういった地形に守られた要害堅固な城なのである。
道灌は江戸城に入る前は、品川館(東京都品川区)にいた。品川にも湊があり、品川湊の支配者で、非常に商業的に成功した鈴木道胤(すずきどういん)と道灌は親交があった。したがって、道灌は道胤からビジネススキルを学び、それを江戸湊で実践したものと考えられる。もちろん道胤もコンサルタントとして道灌の江戸支配に関わっていただろう。
道灌が入部してから江戸湊はさらに発展し、道灌の経済力もかなり向上し、それが主家である扇谷上杉氏に脅威として映ることになり、後年の扇谷上杉定正による道灌暗殺の原因の一つになったものと私は考えている。
第30回 堀越御所設置
既述した通り、幕府は鎌倉公方4代持氏を殺害しておきながら、少しして持氏の子・成氏に鎌倉府を復興させた。ところが、その成氏のコントロールに失敗すると、8代将軍義政は、江戸城が築城されたのと同じ年の長禄元年(1457)12月、天龍寺に入っていた異母兄の政知(まさとも)を還俗させ、鎌倉公方として送り込んだ。
義教 ――+― 義政
六代将軍 | 八代将軍
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+― 義尚
| 九代将軍
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| 女
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| +― 茶々丸
| |
+― 政知
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+― 義澄
| 十一代将軍
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+― 潤童子
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円満院
しかし、政知は力不足で鎌倉に入ることができず、伊豆の堀越(ほりごえ=静岡県伊豆の国市)に御所を設置して状況を見守ることにした。政知のことを堀越公方と呼ぶ。
主として政知を補佐したのは、関東探題渋川義鏡や上杉教朝・政憲父子であったが、関東の在地の武士たちからはほとんど見向きもされなかった。幕府とすれば古河公方を打倒して政知を鎌倉の主にしたい気持ちは十分あったが、そのうち応仁の乱が発生したりして、関東どころではなくなり、関東でも後述する長尾景春の乱が起きたりして、そんな戦乱状態の中、政知は伊豆の一画で孤軍奮闘を続けた。
その後、政知は関東よりも中央に関心を向けたようで、幕府重臣たちの内部抗争を利用し、甥にあたる10代将軍義材(よしき=後の義稙)を廃して、自身の子である清晃を還俗させて将軍職にすることを画策したりしている(清晃は、結局11代将軍義澄となった)。そして、明応元年(1491)に病没したが、政知の死は伊勢宗瑞(北条早雲)の活動と絡んでくるため、堀越御所のその後については後に記す。
第31回 道灌最大のライバル・長尾景春
26歳で江戸城主となった太田道灌は、文明18年(1486)に55歳で謀反の疑いありとして主に暗殺されるまで、扇谷上杉氏の家宰として関東各地に転戦して八面六臂の活躍を見せる。太田道灌が活躍した時代は、大雑把に言うと、西関東の関東管領・山内上杉氏と東関東の古河公方との戦いの時代で、関東の戦国時代の第一段階にあたる。
道灌が仕えた扇谷上杉氏の力は、関東管領・山内上杉氏と比べたら格段に劣る。だが、そんな家に仕えた道灌が関東管領勢力の中で目立った活躍ができたのは、道灌自身の人物が優れていたことは言うに及ばないが、江戸城を本拠地としたことによる経済的豊かさも要因である。
もとより多忙な道灌だったが、それが極端になるのは45歳からで、人生最期の10年間は戦いに明け暮れる生活だった。
その多忙生活の発端となったのが長尾景春(ながおかげはる)という人物の挙兵である。
長尾景春は、白井長尾氏の人物。山内上杉氏の家宰は、景春の祖父・景仲、父・景信が務めており、景信の死後は景春が任じられると、景春自身はそう思っていた。ところが、山内上杉家当主・上杉顕定(あきさだ)は、総社長尾氏当主・長尾忠景(景春の叔父)に家宰の地位を与えてしまった。
これには当然景春自身も大いに不満だったが、家宰という地位は本人だけでなく、その家臣たちも権益を得ることができる。景春の家臣たちからすると、自分たちの親分でない者が家宰になると、その者の子分たちが自分たちの権益を侵しにかかってくるに違いないと勘繰る。景春は自身の不満もあったが、家臣たちからの強い押し上げによって、力による解決を選択した。
景春は文明8年(1476)には、滞陣していた五十子陣(いかっこのじん/いらこのじん)から退去して、鉢形城(埼玉県寄居町)を取り立てて籠った。
このとき景春は34歳、道灌は45歳だった。このときの景春と道灌の立場は、例えていえば、景春は関東最大手企業の元専務(故人)の息子で、道灌はそのグループ企業の専務と言えるだろう。両者は遠戚でもある。道灌の有能さは景春も認知していたはずだ。鉢形城に籠る前、最初は手紙で、つぎは実際に道灌の元を訪れ、五十子陣襲撃計画を伝えて、道灌には五十子へ行かないように要請している。普通に考えたら、直談判でこういう相談をすることは命の危険を伴うため、両者はかなり親しい間柄であったものと考えられる。
景春の叛意は明確になったわけだが、上杉顕定らには危機意識が感じられない。それに反して、事態を憂慮した道灌は、景春と上杉顕定の調停に乗り出した。ところがそれは不首尾に終わった。道灌は、顕定からすると家臣のさらにその家臣にあたるため、道灌が直に顕定と口をきくことは難しく、道灌は父の道真を経由して顕定に進言しようとしたが、道真がそれを拒否した。道灌は自分の能力に自信があり、身分をわきまえずに動き回る傾向があるため、父からすると余計なことをさせて太田家の立場を悪くさせたくなかったのかもしれない。
そうこうしている内に、道灌は3月から10月まで駿河に出張った。景春にとっては、道灌が関東不在の方がいろいろと計画を進めるのに都合が良い。駿河から江戸城に戻った道灌は、そのまま江戸城で情勢を見守った。
すると、翌文明9年(1477)1月18日、景春はついに五十子陣にいる主家の上杉顕定を攻撃した(五十子の戦い)。挙兵した景春の勢力は大きく、武蔵では豊島郡の有力者・豊島泰経・泰明兄弟などが与した。
ここに至っても道灌はまだ調停を試みている。しかし、結局上手くいかず、道灌は武蔵在国の唯一の上杉派有力者として景春鎮圧に乗り出すことになった。
3月18日には、道灌は手勢を分けて相模に向かわせ、溝呂木城と小磯城を落とさせ、ついで小沢城を攻めさせた。4月10日には、河越城に派遣していた弟の資忠(すけただ)らが合戦に勝利し、これを受けた道灌は江戸城を出陣し、13日には豊島氏の練馬城を攻撃した。攻撃を終えた道灌勢が陣を退くと、城からは豊島勢が追い打ちをかけてきたが、道灌は武蔵国江古田原で迎え撃って撃破し、その勢いのまま、豊島氏の本拠である石神井城を攻撃した。
それに対して豊島氏は、4月18日に降伏を申し出たが、降伏の条件である城の破却を実施しないため、28日についに力で石神井城を落城せしめた。10日間も破却しないでいると、本当は降伏の意思がなく時間稼ぎの策略と思われても仕方がないのだ。しかし、豊島氏はこれで滅んだわけではない。
5月14日には、ついに道灌と景春が武蔵国用土原にて直接合戦に及び、景春は敗れた。
景春挙兵の時点では、そもそも関東管領と古河公方が敵対していた関係上、関東管領に叛した景春は当然ながら古河公方との提携を目論み、実際、足利成氏は、7月には景春援護の軍勢を古河から上野国方面に繰り出した。
しかし、関東管領側は奇策を考えた。翌文明10年(1478)1月1日に古河公方に和睦を申し入れたのだ。成氏はそれを受け入れ、景春は一気に劣勢に立たされる。
昨年4月に石神井城を落とされて没落した豊島氏であったが、その後再起し、平塚城(東京都北区)を取り立てて籠った。
しかしこれもすぐに道灌に落とされ、豊島氏は武蔵南端における景春勢の拠点となっていた小机城に逃れるが、道灌は4月10日に小机城を落とし、これによって豊島氏は歴史の表舞台から消え去った。
小机城を落とされたのは景春にとっては痛手で、景春はなおも抵抗を続けるが、ついに文明12年(1480)6月24日に秩父の日野城が落城し、没落することになる。
第32回 道灌に大きな代償を払わせた千葉氏
道灌の人生で最大のライバルと言えば長尾景春だが、千葉氏も道灌の人生に大きな影響を及ぼした。千葉氏というと千葉県を思い出すと思うが、千葉氏の影響力は令制下総国の各地に及んでいた。古代には千葉国造の存在が知られているが、中世の千葉一族は、桓武平氏・平良文の後裔である。平良文は、将門の叔父にあたり、親戚中を敵に回した感のある将門にとって数少ない理解者であったことが状況証拠から想定できる(「平将門の乱」に関しては、こちらにまとめてある)。
良文の子・忠頼は、将門の娘を妻としており、その女性が生んだ子の子孫が千葉氏であることから、千葉一族は将門の子孫であることを誇りにした一族だ。
では、以下に室町時代の千葉氏の略系図を記す。
14 15 16 17
満胤 ―+― 兼胤 ―+― 胤直 ―+― 胤将
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| | | 18
| | +― 胤宣
| |
| +― 胤賢 ―+― 実胤
| |
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| +― 自胤
| 19
| 馬加 20
+― 康胤 ―+― 胤持
※代数のカウントの仕方については諸説ある
成氏が鎌倉公方に任命されて以降、千葉氏は成氏に仕えていたが、享徳の乱では、当主胤宣(たねのぶ)は関東管領側に付いた。そのため、胤宣は、成氏派である重臣の原胤房や大叔父・馬加(まくわり)康胤によって攻撃され、胤宣や若い彼をサポートしていたその父・胤直、そして胤直の弟・胤賢(たねかた)らは死亡し、千葉宗家の嫡系は滅亡してしまった。この騒乱のあと千葉家当主を自称したのが馬加康胤である。この康胤の系統を下総千葉氏と呼ぶ。
一方、胤賢の子である実胤(さねたね)と自胤(よりたね)は辛うじて難を逃れて武蔵へ落ち延び、太田道灌によって庇護され、兄の実胤は石浜城(東京都荒川区)に、弟の自胤は赤塚城(東京都板橋区)に入部した。この系統が武蔵千葉氏と呼ばれる系統である。
ただし、いくばくもなく兄の実胤が退いたため、弟の自胤が石浜城に移った。
石浜城は隅田川の右岸に所在し、隅田川の対岸は下総国であるからまさに国境の最前線に自胤は居したことになる。
道灌は自身の与党である自胤を千葉氏の当主に据えるべく、文明10年(1468)4月に小机城(横浜市港北区)が落ちたあと、下総方面への進出を企図した。12月には、自胤を伴って国府台(こうのだい=千葉県市川市)に在陣し、東進の構えを見せる。後年、有名な「国府台合戦」の舞台となる千葉県市川市にある国府台城は、このとき初めて築城された可能性がある。
道灌の下総進出に対して、下総千葉孝胤(のりたね)は、本拠の千葉平山城(千葉市緑区)を出陣し(長崎城から出陣したという説もある)、両軍は12月10日に境根原(千葉県柏市)で激突した。
打ち負けた孝胤は、臼井城(千葉県佐倉市)に退却して籠城。それに対して道灌勢は、翌文明11年1月18日から攻撃を仕掛けたが、孝胤は粘り強く抵抗する。道灌は、現場を弟の資忠や千葉自胤に任せて、山内上杉顕定に出陣を要請するべく出向いたが、承諾を得られず臼井城攻撃に戻り、城攻めはそのまま弟たちに任せておいて、自身は下総・上総各地の孝胤与党の攻略にかかった。
夏の間、上総方面にまで出張って城を落としまくって臼井城攻囲に戻ってきた道灌だったが、城攻めがかなり長引いてしまったため、体制を立て直すために7月15日から退陣を始めた。ところが、それを見た孝胤勢が突出してきたため、その隙を衝いて反対に城を攻略した。この辺の臨機応変の作戦の巧妙さは素晴らしいが、残念なことにこのとき道灌の右腕とも言って良い弟の資忠(図書)が戦死してしまったのである。
また、道灌には資雄(すけかつ)という男子がいたが、彼も戦死した模様だ。千葉攻めは道灌にとってかなり大きな代償を払うことになってしまった。そして、せっかく攻略した臼井城であったが、自胤はそこには入部せず、代官を置いて自身は石浜城に戻ってしまった。
一方、負けた孝胤は行方をくらましたが、この系統は滅亡することなく、本佐倉城を本拠地として天正18年(1590)の豊臣政権の小田原侵攻まで存続する。
なお、最終的には、道灌が暗殺されたことにより、武蔵千葉氏が本宗家の当主に戻ることはなかった。
第33回 長享の乱
道灌は、文明18年(1486)7月26日に主である扇谷上杉定正に暗殺された。それを機に、山内上杉氏と扇谷上杉氏との戦争が始まる。これを長享の乱(ちょうきょうのらん)と呼ぶ。
翌長享元年(1487)、山内上杉顕定は、扇谷上杉家に与した長尾房清の勧農城を奪い、翌長享2年(1488)2月には、顕定は道灌の子・資康や三浦高救らと共に、定正の本拠である糟谷館を落とすために鉢形城を出撃した。両軍は、糟谷館郊外の実蒔原(さねまきはら=神奈川県伊勢原市)で戦っている。
3月には、上野国白井城(群馬県渋川市)に滞在していた上杉定昌が自害し、6月に顕定は河越城を攻めるが、そこに長尾景春が古河公方2代政氏の軍勢とともに現れて定正軍に加わった。
長尾景春は、文明12年(1480)6月に秩父の日野城を落とされて没落したが、その後は古河公方に仕えていた。長享の乱の頃には出家して、其有斎伊玄と号している。
両軍は、須賀谷原(すがやはら=埼玉県嵐山町)で戦い、定正軍が勝利した。そして、11月には今度は定正が鉢形城を攻め、顕定は高見原(小川町)・鷹野原(寄居町)で迎撃したが敗れた。
第34回 伊勢宗瑞の伊豆侵攻と足利茶々丸の抵抗
伊勢宗瑞(いせそうずい)は、北条早雲という名前の方が有名だが、北条を名字にするのは子の氏綱からであり、今は歴史ファンの中でも伊勢宗瑞で呼ぶことが定着してきたように思える。
宗瑞は、幕府政所執事伊勢氏の一族で、備中国荏原荘(岡山県井原市)が地盤である(生まれ自体は京都である可能性が高い)。姉(かつては妹と言われていたが、宗瑞の実年齢が二回り若かったことが判明したため、現在は姉とされる)の北川殿は駿河の今川義忠の妻で、その関係から宗瑞は幕府の命によって今川家に政治顧問として出向し、今川家中では、氏親を当主とする際にそれを主導した。
桶狭間の戦いで信長に討たれた義元は氏親の子であるから、義元から見ると、宗瑞は大伯父にあたる。
今川義忠
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+― 氏親 ――― 義元
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+― 北川殿
|
+― 宗瑞
宗瑞はその後、今川家の武将として活躍する。
明応2年(1493)、宗瑞は伊豆に侵攻して堀越公方政知の跡を継いだ茶々丸を攻撃した。この年の4月、室町幕府管領細川政元は、クーデターを起こして義澄を新将軍にしたが、義澄にとって茶々丸は異母兄であった。つまり、新将軍義澄は異母兄の茶々丸を殺すべく、今川家に命じ、それに応じて宗瑞が出陣したわけだ。
義教 ――+― 義政
六代将軍 | 八代将軍
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+― 義尚
| 九代将軍
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| 女
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| +― 茶々丸
| |
+― 政知
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+― 義澄
| 十一代将軍
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+― 潤童子
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円満院
義澄と茶々丸は、ただの異母兄弟同士なら仲良くできそうなものであるが、実は茶々丸は、父政知によって廃嫡され、軟禁されていた過去があり、政知が没すると、父によって後継者に指名されていた異母弟の潤童子とその母・円満院を殺害して第2代堀越公方に実力で就任していたのだ。
この円満院は、新将軍義澄の生母である。つまりは、茶々丸は義澄にとっては、母と実弟を殺した憎き敵なのである。
戦国時代のスーパースター・宗瑞のことなので、あっという間に伊豆を平定したと思われがちだが、意外と手間取っている。伊豆侵攻開始から2年後の明応4年(1495)に、ようやく宗瑞は茶々丸の堀越御所を奪った。宗瑞が生涯愛した城である韮山城は、堀越御所を陥落せしめた後に築城されたのであろう(韮山城については後述)。
その年の8月には、宗瑞は甲斐の郡内地方に侵攻しており、茶々丸を追ってのことと思われる。茶々丸は、山内上杉氏に庇護されており、宗瑞と提携していた小田原城の大森氏が宗瑞との提携をやめて山内上杉氏側に転向したのと同じ頃、茶々丸は大森氏の領国であった駿河御厨地方に進出し、その地を拠点に伊豆奪還を目論んだ。
ところで、茶々丸という名前は幼名であるが、諱(いみな=成人した後の本名)は分かっていない。一説には、後継者から外されて軟禁された後、継母の円満院の意向(意地悪)で元服もさせてもらえなかったと言われているが、生年が分からずその辺りの真偽は不明だ。素行不良のため軟禁されたと言われているが、宗瑞を向こうに回して健闘している状況を見ると、意外と傑物だったのかもしれない。
しかし思わぬ形で茶々丸は最期を迎えることになる。
明応7年(1498)8月25日、太平洋側で大地震が発生した。それによって、各地の武士たちは戦争どころではなくなり、甲斐では抗争していた武田信縄とその父である信昌が和睦。このタイミングで、茶々丸は切腹して果てている。
状況的には、武田家の抗争が収まったことにより、茶々丸への支援は打ち切られ、それによって茶々丸は進退窮まった可能性がある。実際のところは不明だが、数年に渡って宗瑞を手こずらせた茶々丸はいなくなり、伊豆平定の件は一段落に至った。
その後の流れ
伊勢宗瑞と戦うために、両上杉氏は再び結束するが、宗瑞の子の北条氏綱は、今川家から独立を果たし、小田原城を拠点として関東制覇の野望を持って武蔵へ侵攻。大永4年(1524)には、扇谷上杉氏の手から江戸城を奪取する。
扇谷上杉氏は、天文15年(1546)、当主・朝定が氏綱の子・氏康との河越城での合戦で討ち死にし滅亡した。また、山内上杉氏が保っていた関東管領職は、越後の長尾景虎が永禄4年(1561)に上杉氏の名跡とともに上杉憲政から継ぎ、景虎は上杉政虎と改名(のちの上杉謙信)。
後北条氏の勢力拡大に伴って、権威を有する古河公方家は、その政治的利用価値の高さから後北条氏に取り込まれていった。氏綱、氏康、氏政とつづいた後北条氏は、伊勢宗瑞から数えて5代目の氏直のときの天正18年(1590)に豊臣政権の侵攻の前に敗れ去り、関東地方における戦国時代はここに終わりを告げるのだが、それについては後述する。
第35回 松山城をめぐる戦い
松山城は数々の軍記物に戦いの舞台として登場し、伝承の類も多く、それらを勘案すると戦国時代には10年に1回は城攻めがあったのではないかと思うくらいに頻繁だ。ただ、軍記物の記述は錯綜していることもあり、実際にどうだったのかは、史料を参照したり、関東の政治状況と照らし合わせて考察することが必要である。
城は戦争がなければ造られない。そのため、武蔵の場合、最初の築城の契機は、享徳の乱(1455)となる。ただし、松山城のある場所は、古河公方と上杉氏との戦いの最前線ではないので、このときに在地の豪族が拠点城郭として築城したとしても、享徳の乱においては戦いの舞台になった可能性は低い。
つづいて、長享の乱。長享元年(1487)から始まった山内上杉氏と扇谷上杉氏との戦いである。「鎌倉九代記」には、長享2年に松山にて両上杉氏が小競り合いをしたとあるが、城攻めがされたかは不明である。
明応2年(1493)、伊勢宗瑞は伊豆に侵攻し、自らの力で堀越公方になっていた足利茶々丸を敗走させたが、この頃、伊勢宗瑞と扇谷(おおぎがやつ)上杉定正(道灌を暗殺した人)は手を結んでおり、「松陰私語」によると、翌年には定正は松山に在陣し、宗瑞への救援を依頼している。恐らくこの時、定正は松山城に入ったのだろう。
宗瑞の援軍を得た定正は、この年の10月に武蔵国高見原にて山内上杉顕定と対陣するが急死する。高見原は埼玉県小川町だが、そこで決戦が行われたということは、この当時松山城は両勢力の最前線に位置していたことが分かる。
定正が死亡したことにより扇谷上杉氏の勢力は減退するので、この直後、松山城は山内上杉氏の手に入ったのだろう。その際、山内上杉勢による城攻めが行われた可能性がある。
扇谷
定正 == 朝良 == 朝興 ーー 朝定(滅亡)
その後、扇谷上杉定正の跡を継いだ養子の朝良は河越城を本拠とする。そして北条氏綱の勢力が急成長するに及び、両上杉は和睦して、共同して氏綱に当たることになる。
永正15年(1518)に朝良が死に養子の朝興(31歳)が継いだ。氏綱(32歳)は朝興を倒すべく武蔵に侵攻し、大永4年(1524)正月13日、江戸城を落とし、翌日、河越城にいた朝興は松山城に後退した。しかし朝興も反撃を画策し、6月には河越城を復興させて本拠地とした。
朝興は江戸城を落とされたあと、彼の持つ本来のアグレッシヴさがようやく発揮され出して、氏綱は押され気味になる。扇谷上杉氏というと弱いイメージがあるかもしれないが、朝興は結構強く、しばらくの間、両者は一進一退の駆け引きを展開することになる。
しかしその朝興は、天文6年(1537)4月27日、河越城にて50歳で亡くなり、嫡子で13歳の朝定が跡を継いだ。
今で言えば中学生の朝定だったが、父の喪に服す暇もなく積極的に攻勢に出て、同年7月には氏綱を倒すべく深大寺城を取り立てて武蔵南部の攻略を目論む。しかし氏綱は、その間隙を縫って本城である河越城を攻撃して落としてしまった。
朝定は、重臣難波田氏の松山城に逃れる。氏綱は、余勢をかって松山城も攻めているが、落とすことはできなかった。これ以降、扇谷上杉氏は、松山城を本拠地とする。それに対して、後北条氏は河越城を最前線の拠点として相対することになった。
河越城を失ってしまった朝定だったが、積極的に失地回復を目論み、これ以降、河越城をめぐっての駆け引きが展開され、朝定は、山内上杉憲政や古河公方と連合を組み、大軍をもって河越城を包囲した。
天文15年(1546)4月20日、河越城を守る北条綱成(北条家最強武将)は、当主氏康の援軍を得て上杉連合軍を撃破した。朝定は討死して扇谷上杉氏は滅亡し、山内上杉氏も力を大きく削がれる。このときの戦いが有名な「河越夜戦」だが、実際には夜戦ではなかったという説が有力である。ただし、私はその元になった夜中の戦いがあったと考えており、それに関しては後述する。
氏康はこの直後、松山城を奪っているようで、この後は後北条氏の城になり、氏康は版図をガンガン伸ばす。
伊勢 北条
宗瑞 ―― 氏綱 ―― 氏康 ―― 氏政 ―― 氏直(滅亡)
山内上杉氏や古河公方に反撃能力はなく、少しの間、松山城周辺は平和だったようだが、永禄4年(1561)正月、越後の長尾景虎が小田原城を目指して武蔵に侵攻して来て、その途中に松山城下を通過し、河越城に籠城していた後北条勢が迎撃を試みている。
松山城も抵抗したようだが、2月27日までには落城し、景虎が入った。
翌永禄5年(1562)11月11日、氏康は松山城を奪回すべく出陣し、軍事同盟を結んでいた武田信玄とともに松山城を攻撃。松山城をめぐって大激戦が繰り広げられた。
翌永禄6年2月4日、氏康は松山城を奪還した。武力で攻略したのではなく、信玄が松山城に人質を差し出し仲介したことによる攻略である。長尾輝虎(上杉謙信)は、松山城を奪回すべく攻めてきたが、氏康は松山城に籠って応じない。輝虎は何とかして野戦で雌雄を決しようとするが、氏康や信玄はその手に乗らず、氏康は引きこもったままで、信玄は帰国した。松山城攻略を諦めた輝虎は、この年の間、ずっと関東各地を荒らしまくった。
永禄12年(1569)の信玄による小田原侵攻の際の松山城の動向は不明。
そして最後、天正18年(1590)の豊臣政権の侵攻では、北国勢によって攻められた。総大将は前田利家、搦手大将は上杉景勝(直江兼継もいる)、軍師として真田昌幸(信繁<幸村>もいる)、徳川家からは松平康国、そして軍監(目付)に大谷吉継という錚々たるメンバーだ。
松山城は城主・上田朝広が小田原城に入っており、守備の将は即開城した。
第36回 河越夜戦は史実か
ここでは前回少し出てきた「河越夜戦」について述べる。
河越夜戦は、桶狭間の戦い、厳島の戦いと並んで、「日本三大奇襲」と呼ばれている。
具体的に述べると、扇谷上杉朝定は河越城の奪回を目論み、関東管領山内上杉憲政や古河公方晴氏ら、総勢8万余騎とともに天文14年(1545)に河越城を囲み、籠城側は北条綱成ら3000人。翌年4月に北条氏康が8000人を率いて援軍に来て、氏康は4月20日の夜中に連合軍を奇襲し、連合軍は崩壊し、扇谷上杉氏当主朝定が討死して扇谷上杉氏が滅亡した戦いとされている。そしてこの戦いでは氏康配下の忍者集団である風魔党が活躍したとも伝わる。
ポイントは連合軍8万余騎に対して、氏康が8千で奇襲をかけてやっつけたという点と夜襲だったという点で、いかに連合軍の諸将が間抜けで氏康が傑物だったかを強調した内容になっていることだ。
しかし実は、この合戦を詳細に伝えた記録は軍記物に限られ、しかもこの戦いの際に氏康が発給した感状(合戦で手柄を立てた者に与えられる手紙)が一通も残っていないのだ。そのため、『シリーズ・中世関東武士の研究 第五巻 扇谷上杉氏』所収「中世の河越城 -その成立と景観-」で述べられている通り、河越城での連合軍対北条軍の戦いは無かったとまで言い切ってしまう研究者もいる。
河越合戦(夜戦かどうかは検討を要するのでひとまずこう呼ぶ)に関するもっとも詳細な一次史料は、「歴代古案」所収「天文12年(15年の誤り)4月某日付け北条氏康書状写」(『戦国遺文 後北条氏編 第一巻』に収録)だろう。
その文書は、合戦の後に氏康が古河公方足利晴氏の重臣である簗田高助に充てた手紙で、内容は河越合戦の経緯を述べるとともに、上杉に加担した公方を非難したものだ。そこに記された内容から河越合戦を最大公約数的に述べると、ことの発端は、駿河の今川義元と甲斐の武田晴信が組んで、北条領内である駿河東部のいわゆる河東地域に侵攻したことである(第二次河東一乱)。そしてそれに呼応する形で、扇谷上杉朝定・山内上杉憲政・古河公方足利晴氏が武蔵北部の北条領に侵攻し、対する氏康は砂窪まで打ち出し、そこに諸軍(上杉連合軍)が押し寄せ、氏康は憲政の馬廻をはじめ倉賀野三河守を討ち取り、古河公方を仲間に引き入れた張本人である扇谷上杉氏家臣難波田入道と小野因幡守も討ち取った、となる。
上記の文書を読んで私がまず不思議に思ったのは、氏康は確かに砂窪に陣し、そこに上杉連合軍が攻めよせてきたのを迎撃したと記されているのに、どういうわけか後世の軍記物や記録には、上杉憲政が砂窪に陣し、それを氏康が夜襲をかけて撃滅したと記されていることだ。 砂久保稲荷神社の説明板にはきちんと「歴代古案」の文書の内容が反映されているので、それを信用しよう。
ただし、この文書には年月日が書かれていないので、『北条氏年表』を使用して年月日を特定するとともに事件そのものの裏付けを取ると、まず義元と晴信が河東に侵攻したのは天文14年(1545)の夏で、これはまさしく「氏康包囲網」の構築であり、氏康は窮地に立たされる。そこで氏康が取った戦略は、二方面作戦の放棄だ。つまり、前と後ろに敵を受けて戦うことの愚を悟った氏康は、10月下旬に駿河東部の領有を諦め、その地を義元に割譲することを条件に義元と和睦し、上杉連合軍との戦いに集中することに決めたのだ。
このことは北条氏が関東地方の制覇に戦略を切り替えたことを意味し、北条氏にとっては大きな戦略転換となる。しかし氏康はすぐに河越城を包囲する連合軍に対して軍事行動を起こさず、翌天文15年(1546)3月に扇谷上杉氏の重臣である岩付城主太田全鑑を調略する。これはまず全鑑の家臣上原出羽守を味方にして、出羽守の働きにより全鑑が寝返ったので、おそらく前年からすでに氏康は調略の手を各地に伸ばしていたに違いない。
さらに同月、相模一宮である寒川神社の社殿を再興し、4月17日には江ノ島岩本坊に神馬を奉納し戦勝を祈願した後、いよいよ出陣する。
河越城が包囲されてから半年以上も経っているので、果たして連合軍は包囲しっぱなしだったのか疑問だが、『北条氏年表』には、河越城は昨年秋以来ずっと包囲されていたとある。そこで包囲するとしたらどのように包囲したか、河越城周辺の地形を見てみよう。
河越城の実質的な外堀であった赤間川の外側にもし連合軍が陣地を敷いたとすると、そこは背中に入間川を背負ってしまい、まさしく背水の陣となり、普通はその地域に滞陣することはあり得ない。そのため、連合軍は上戸陣に滞陣し、河越城を虎視眈々と狙っていたと考えるのが素直だと思う。
そして砂窪で合戦が起きたのは4月20日。砂窪に氏康が陣を敷いたのを知った連合軍は、上戸陣を出て入間川を渡り氏康の陣地を最重要目標としたはずだ。なぜならば敵の総大将がすぐそこまで来ているのだから、河越城なんかより総大将の首の方が欲しいからである。氏康を倒せば河越城は自ずと手に入る。
そしてまんまと上杉連合軍は氏康に撃退されてしまったわけだが、「歴代古案」には上杉軍は3000人も討ち取られたと記されているものの、これは氏康による誇張かもしれない。
さて、この時の戦いが夜戦であったかどうかだが、「歴代古案」所収の文書を信じるのであれば、氏康が砂窪まで打ち出し、そこに上杉連合軍が押し寄せたわけなので、数の上で勝っている連合軍がわざわざリスキーな夜襲を仕掛けてくるはずはない。
では反対に数で劣る氏康勢が連合軍に対して積極的に夜襲を掛けたかと言うと、「歴代古案」を読む限りではそのような気配はない。
どこでどうして「夜戦」になってしまったのか。
『川越市史 第二巻 中世編』では、天文6年(1537)の氏綱による河越城攻略の三ツ木原合戦が満月の夜に行われたといわれていたため、それが先入観となり河越城の戦いも夜戦になったと推測しているが、ちょっと安直過ぎる気がする。
「歴代古案」を読む限りでは氏康が夜襲をした気配はないと言っておきながら論をひっくり返すが、実は夜戦は事実じゃないだろうか。
河越夜戦が事実かどうかの鍵を握るのは、東明寺だ。
実は江戸末期には赤間川の対岸に東明寺村があり、『新編武蔵風土記稿 巻之百六十八 入間郡之十三 東明寺村』によると、東明寺は最初そこにあり、東明寺の山号の田谷山というのは、東明寺村の小名である田谷から取ったとある。そうだとすると、難波田善銀が討ち死にしたのは、現在の東明寺の境内ではなく、旧東明寺村にあった東明寺であり、それが寺が移転するとともに伝承も現東明寺の境内ということに変わったのではないだろうか。現在の東明寺だと城内、往時の東明寺だと城外となる。
ここからは私の勝手な推測になるが、河越合戦の主戦場は上述した通り4月20日の砂窪で、その戦いで負けた連合軍の中で難波田善銀が主戦力である扇谷勢は、東明寺村にあった東明寺までひとまず撤退したところ、その日の晩に城内の綱成が夜襲をかけたのではないかと考える。おそらく扇谷勢は東明寺に陣を張った段階ではそれほどダメージを食らってはいなかったものの、地黄八幡・猛将綱成の攻撃によって壊滅的な打撃を被り、夜中だったため難波田善銀は誤って井戸に落ち、当主朝定も乱戦の中で討死したのではないだろうか。この夜襲の事実が、「河越夜戦」として後世に残ったと考えるのだ。
ところで、『新編武蔵風土記稿』「巻之百六十二 入間郡之七 志多町 東明寺」には、宝暦の頃まで境内の南の方に塚があり、それを壊してみたところ髑髏が4~500出たと記されている。「中世の河越城 -その成立と景観-」では、中世の河越城が築城される前は、この地は宗教的空間で墓地も沢山あり、その関係で遺骨が沢山発見されたのではないかと考察しており、それが河越合戦をフィクションとする理由の一つでもあるのだが、私が着目したのは、風土記稿に「髑髏」とあることだ。 髑髏であれば、首だけのはずだ。もし普通の墓域であるのなら、他の部分の骨も出てきたはずなので、「髑髏」という記載はしないはずである。 出てきたのが首だけだとすると、なぜ首だけが4~500も出てきたのだろうか。 これはやはり、この周辺で合戦が行われたことの明らかな証拠だと私は見る。ただ、これだけの首の数は尋常ではない。
しかしそれだけの髑髏が実際に出たということは、連合軍8万と軍記物伝えられるほどの大軍(実数はもっと少ないだろうが)が戦った天文15年の戦いに間違いないと思う。そしてそれらの髑髏は、もちろん東明寺周辺での戦死者だけでなく、砂久保も含めて全域での死者が集められ、この地で大々的に法要を営んで供養されたものだろう。
ところで、東明寺では激戦が繰り広げられ、扇谷上杉氏の重臣である難波田弾正左衛門尉善銀が境内の古井戸に落ちて死んだと伝わっている。ただし前述した通り、善銀が死んだのは城外の旧東明寺村にあった東明寺でのことで、この場所ではないと思う。善銀は松山城(埼玉県吉見町)の城主で、善銀というのは入道名で、諱は憲重といい、「憲」は関東管領上杉憲政からの偏諱だ。
天文6年(1537)に、家督を継いだ直後に本拠地である河越城を奪われた扇谷上杉朝定は、善銀の松山城に逃げ込み、それ以来、扇谷の軍事力の中心となったのが難波田氏だ。 『シリーズ・中世関東武士の研究 第五巻 扇谷上杉氏』所収「国人難波田氏の研究」によれば、軍事力の中心どころか、難波田氏の軍事力が扇谷上杉氏の軍事力のすべてだという表現をしているほど、難波田氏は扇谷上杉氏にとってはなくてはならない家臣だった。
山内上杉氏と古河公方を外交して巻き込んだのも善銀だし、天文15年の河越合戦の後の氏康の書状にも、「今回の張本人である難波田入道と小野因幡守を討ち取った」とあることから、善銀がいかに重要な人物であったかが分かる。
第37回 北条氏照の大石家継嗣
弘治2年(1556)5月、相模国座間郡の鈴鹿明神の社殿再興の棟札に、北条藤菊丸(ふじきくまる=氏照)が大旦那として記されている。座間郡は大石氏の所領であるため、このときには藤菊丸の大石氏継承は決まっていたと考えられる。
そして、永禄2年(1559)11月10日、あきる野市の三島神社禰宜職を六郎太郎に安堵した文書が、氏照の多摩地域における政治活動の初見史料である。そこには「如意成就」の朱印が押されている。氏照の生年は判明していないが、天文10年説を採った場合、このとき19歳である。
氏照が大石氏を継いだ際に入部したのは、八王子市の浄福寺城説と同市滝山城説がある。ただし、滝山城説だとしても、氏照が新規に築いて入城したのではなく、すでに城はあったとみられる。道俊・綱周は浄福寺城を本城としつつ、滝山城や高月城を支城として築いたと考える。そしてその大石氏時代の滝山城は、今見られるような広大な城ではなく、主郭近辺だけのコンパクトな城であったことが、縄張を見ることにより推定できる。
滝山城の築城時期は分かっていない。八王子市では2021年に「滝山城築城500年」として大きくPRしていたが、1521年築城説を史料で証明することはできない。正確には、滝山城は、いつ誰によって築城された城なのか不明なのである。
駿河守家の憲重が大石氏本家を継いだ時点で、本家と駿河守家は統合が取れた可能性があり、その場合は、その後の行動は同歩調を取った可能性もあるが断定はできない。
氏照が大石氏を継承して間もない永禄3年(1560)秋、長尾景虎(上杉謙信)が、小田原城を目指して進軍を開始した(いわゆる謙信の「越山」)。関東平野に入って以降の詳しい行程は不明だが、八王子市域を通過していることは確実で、市内で戦闘があったことは発給された感状からも分かる。ところが、昔から謎とされているのは、このとき、滝山城や浄福寺城がどんな文書や古記録にも登場しないことだ。
通常、武蔵国内を通過する際は、この当時の幹線ルートである「河越道」を通るはずで、その場合は、滝山城の東側にある多摩川の「平の渡し」を渡河するはずだ。それなのに戦闘が起きていないとしたら不審だ。景虎は滝山城を無視して素通りしたということだろうか。普通、そんなことをしたら、景虎勢が通過後、氏照は背後から景虎勢に攻撃を浴びせるはずだし、景虎とすればそうされないためにも滝山城を落城させるか痛撃を与えてから通過するはずである。
『上杉謙信』(花ヶ前盛明/著)によると、このときの先陣はのちに各地を流浪することになる太田資正で、その他武蔵の国人が続き、越後から景虎に従ってきた武将たちは、直江実綱、柿崎景家、斎藤朝信、本庄慶秀、中条藤資、甘粕長重、本庄繁長、鮎川清長、安田長秀、新発田長敦、桃井義季、黒川清実、宇佐美定満、大川忠秀といった錚々たるメンバーで、北条側が戦慄したことが想像できる。
長尾景虎は、翌永禄4年3月13日、小田原城の攻撃をはじめ、しばらく包囲したのちに撤退し、閏3月16日には鶴岡八幡宮で上杉憲政から上杉家の名跡と関東管領を引き継ぐセレモニーを行ってさっさと越後に帰り、6月28日は春日山城に戻っている。このとき景虎は、憲政からの偏諱で政虎と改名し、上杉政虎と称するようになるが、この年の12月には、将軍・足利義輝からの偏諱で輝虎と改名している。
なお、このとき、滝山城や浄福寺城がどんな文書や古記録にも登場しないことは既述したが、『新編武蔵風土記稿』の浄福寺の項には、大永4年(1524)12月14日の夜、上杉憲政が襲ってきて城郭を放火し、大石父子は北条氏康を頼ったとの記述がある。憲政や氏康の名前があるということは、大永4年ではありえず、これは永禄4年の誤りで、景虎の小田原城攻めの際に浄福寺城が攻められたのではないかと考える研究者がいる。ただそうなると、12月に攻められたというのは時期が合わなくなるが、単なる伝承であると切り捨てるのは勿体ない気がする。
永禄12年(1569)の武田信玄による小田原攻めの際、信玄は拝島に本陣を置き、勝頼が滝山城を攻撃している。これは確実である。
仮説としては、景虎侵攻時、氏照はまだ浄福寺城におり、滝山城は存在していたとしても景虎からすると無視しても良いほどの小規模な城郭で、兵も大して配備されていなかったのではないか。
氏照は、景虎侵攻に際し、景虎方に寝返った青梅の三田氏に対してすぐさま報復を行い、永禄4年9月には三田氏を滅ぼしている。
従来、三田氏は永禄6年(1563)に滅亡したと言われていたが、史料を確認すると永禄4年が正しい(『新八王子市史 通史編2 中世』)。三田氏を滅ぼして支配領域を拡大したことは、氏照にとっては画期的なことであり、先の景虎侵攻の教訓と三田氏滅亡が契機となって滝山城を大幅拡張しそこに本拠を移したのではないか。
氏照が滝山城を居城にしていたことが史料上で最初に確認できるのは、永禄10年(1567)である。
第38回 佐倉千葉氏の起こりと本佐倉城の築城
千葉氏について、戦国時代初めの内紛や太田道灌との戦いについては本稿「道灌に大きな代償を払わせた千葉氏」で述べた(こちら)。
享徳の乱の勃発後、千葉一族の馬加(まくわり)康胤が当主となったが、その跡は子の胤持が継ぎ、ついで岩橋輔胤(すけたね)が継いだ。輔胤は、康胤の庶子との説があるが、千葉氏庶流・馬場氏の系譜である可能性が高いようだ。
氏胤 ―+― 満胤 ―+― 兼胤 ― 胤直
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| | 馬加
| +― 康胤 ― 胤持
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| 馬場 岩橋
+― 重胤 ――― 胤依 ― 輔胤 ― 孝胤
輔胤は、印旛郡印東庄岩橋村を所領していたことから岩橋を名字にしたといわれている。千葉を称したことはなく、千葉氏の庶流の馬場氏のこれまた庶流の岩橋氏の人間なので、そもそも千葉を称することは、周囲を納得させることが難しいため困難であっただろう。
輔胤は、文明3年(1471)頃に出家隠居し、子の孝胤(のりたね)が継いだ。孝胤も父同様、千葉を称することは困難な立場であったが、その実力と古河公方の権威によって千葉氏の名跡を継ぐことができたと考えられる。孝胤は嫡流からはかなり遠い存在ではあったが、千葉氏の中興の祖といえよう。
さて、この頃、幕府は鎌倉公方として足利政知を下向させ、政知は伊豆の堀越に進出していた。古河公方成氏とすれば、鎌倉公方の座をめぐってライバル関係にあるため、文明3年(1471)3月、成氏は政知を討つべく、伊豆国へ侵攻した。その際、孝胤は古河公方軍に参加している。
ところが、政知には関東管領山内上杉氏が味方し、下野の小山氏や常陸の小田氏などがそれに従い、戦いは古河公方軍の敗北だった。山内上杉軍は余勢をかって6月24日には、成氏の古河城を攻略。成氏は、孝胤を頼った。この時の孝胤の居城は、平山城(千葉県千葉市緑区)と考えられており、そうだとすると、成氏も平山城にいたことになるが、すでにこのとき本佐倉城があったとの説もあり判然としない。
孝胤は、文明4年(1472)2月に常陸の結城氏広や下野の那須資実らとともに成氏を助け、古河城を奪還。成氏は古河に戻ることができた。
ついで、長尾景春の乱が発生すると、孝胤は景春に味方した。この時期、千葉家の当主は、公式には関東管領山内上杉氏がバックアップし、武蔵国石浜城(東京都荒川区)に拠っていた千葉自胤で、自胤の下総帰還を太田道灌が軍事的に支援して戦っていた。
「道灌に大きな代償を払わせた千葉氏」で述べた通り、孝胤は、文明5年(1473)に本拠地を長崎城へ移し道灌と対峙するが、文明10年(1478)12月10日の境根原合戦で大敗し、長崎城から後退。臼井城(佐倉市)で道灌軍を迎え撃つ。しかし、翌文明11年(1479)7月15日に臼井城は落城し、孝胤は逃亡。その後は、小篠塚城(佐倉市)を築城して本拠地にして戦った。
孝胤にとって幸運だったのは、文明14年(1482)に関東地方の争乱の火種であった古河公方成氏が幕府と和議を結び、またその4年後に道灌が暗殺されたことであった。これによって、下総奪還を目論む自胤は後ろ盾を失い没落し、孝胤は下総の維持を続けることができ、重ねて述べるが、実力と古河公方の権威によって千葉氏の名跡を継ぐことができた。
孝胤は、晩年(文明年間の終り頃)に、本佐倉城を築城して本拠地としたとするが、本佐倉城の築城時期については確定していない。
そしてこれ以降、天正18年(1590)の豊臣政権による小田原侵攻までの間の約100年間、孝胤の系は、下総支配の第一人者として君臨することになる。
このように、古河公方成氏から無二の忠誠を賞された孝胤だったが、明応6年(1497)9月30日に成氏が亡くなった後、古河公方との関係が悪化する。成氏の跡は、子の政氏が継いだが、当時は長享の乱の最中だ。古河公方家は当初は扇谷上杉家を支持していたのだが、扇谷上杉定正が亡くなったことによる同家の弱体化を見て、山内上杉家を支持することにした。この時、孝胤は政氏の命に反し、扇谷上杉氏の支持を続けたため、政氏から攻撃を受けた。
文亀2年(1504)から始まった古河公方家の孝胤攻撃は、足掛け3年に渡ったが、その間、古河公方家は篠塚(佐倉市)に在陣した。対する孝胤は六崎(佐倉市六崎か)に陣を構えて対抗したが、最終的には古河公方勢は撤退し、孝胤は所領を守ることができた。この戦いの際に本佐倉城が攻撃されたかどうかは分からない。
第39回 小弓公方の成立と真里谷武田氏
室町時代の関東地方には、当初鎌倉公方が存在し、その後裔が古河公方だ。そして、古河公方を倒すべく幕府が派遣したのが堀越公方。公方だらけだが、また新たな公方が登場する。小弓(おゆみ)公方である。公方好きの歴史マニアには堪らない展開だ。
第2代古河公方足利政氏とその嫡男高基は、永正3年(1506)から不和が表面化し、周囲のとりなしがあったものの根本的な解決には至らなかった。そんなさ中、鶴岡八幡若宮別当(雪下殿と通称される)を勤めていた高基弟の空然(こうねん)が突如挙兵し、小山城(栃木県小山市)に入った。
古河公方
成氏 ――― 政氏 ―+― 高基 ――― 晴氏
|
| 小弓公方
+― 義明
永正7年(1510)6月以降には、古河城には公方政氏がおり、関宿城には父と敵対している高基が住し、そして第三極として小山城には空然が存在するという鼎立状態が現出したのだ。そして永正9年7月には、公方政氏が小山城へ走り、主不在となった古河城には高基が入り、もともと小山城にいた空然は城を出て小山領のどこかに移動した。
つづいて、空然が兄の高基の味方をすることにより大勢が決まり、永正13年(1516)12月27日、政氏は小山城を出て岩槻城へ遷り、さらには久喜甘棠院(かんとういん)に隠遁し、政治生命が断たれた。古河公方の3代目は高基が継いだ。
高基からすると、つぎに邪魔になるのは弟空然だ。急に俗世に戻ってきた空然だったが、佐藤博信氏が言うように、空然は花押を足利様のものから独自のものに変えたり、還俗して義明と称したが、その「義」の字は源氏の始祖ともいえる頼義・義家などの通字をから自ら採用したことが明らかなことから、俗世に戻っての政治活動に大変意欲的だった。
そして義明は、上総国真里谷(まりがやつ)城(木更津市)の城主・真里谷信清(恕鑑)の支援を受け、永正14年(1517)には、千葉氏の家宰・原胤隆の居城である生実(おゆみ)城を落とし、翌永正15年(1518)7月には生実城を本拠地として政治活動を続行する(千葉市中央区には、北生実城と南生実城があるが、このときの生実城がどちらかは判然としない)。義明は、自ら小弓公方と称し、兄の古河公方と対立した。
義明弟の基頼は、古河公方の長兄でなく小弓公方の次兄に付いた。そして義明には雪下殿時代からの社家奉行衆が付き従い、小弓城近辺には関東足利氏の伝統的被官層が多く住んでいたが、彼らも義明を支援した。また真里谷武田氏以外にも安房の里見氏などの有力な領主層が後援した。このような人びとのバックアップを受けて、義明は小弓城を拠点に最大の目標である古河公方の地位の奪取に邁進する。
公方を自認している義明は当然ながら周囲の武士たちへ政治介入をする。自身を支援してくれた真里谷信清が亡くなった際には、長子であった信隆を追放し、その弟の信応(のぶまさ)を当主に据えた。
真里谷氏は、上総武田氏の流れで、真里谷武田氏と呼ぶこともある。上総武田氏は、あの武田信玄と同祖である。
既述した通り、応永23年(1416)に勃発した上杉禅秀の乱の際、甲斐守護・武田信満は姉妹が禅秀の妻であったこともあり、禅秀に加担して死んだが、それによって甲斐はまとめる存在がいなくなり混乱状態に陥った。信満の子・信長は、甲斐において他の有力国人である逸見氏や穴山氏、跡部氏らと勢力争いを続け、兄・信重が甲斐国守護となったあと、古河公方足利成氏に仕えた。
信長は、成氏の命を受け、康正2年(1456)頃に上総に侵攻し、長禄2年(1458)頃に庁南城、真里谷城を築城(築城時期に関しては異説あり)し、文明9年(1477)頃に上総で亡くなった。この家系を上総武田氏と呼び、信長の孫・信興を真里谷武田氏の祖とする。上述した真里谷信清はこの家系である。
話を戻して、義明の行動に対して古河公方高基は当然危惧を抱き、永正16年8月に高基は自ら出陣し、千葉勝胤らとともに真里谷武田氏の属城である椎津城を攻撃した。それに対して義明は高基側の関宿城の攻撃を執拗に画策する。
高基は、義明からの積極的な「外患」に加え、子の晴氏と不仲になったり思い通りに動かない家臣が現れたりして「内憂」も抱えることになり、天文4年(1535)10月に亡くなってしまった。跡を継いだ晴氏は、古河公方の地位とともに義明から攻撃されるという負の遺産も相続し、義明のしつこさに手を焼くことになる。
そこで晴氏が目を付けたのが後北条氏だった。氏綱は大永4年(1524)に江戸城を奪ったが、真里谷城を追放された信隆が古河公方と併せて氏綱にも頼ってきたため、氏綱と義明との関係は悪化していた。
晴氏は「小弓御退治」の御内書を氏綱に与えた。晴氏としてみれば、自身が命令するだけで義明のことを滅ぼしてくれればありがたいし、氏綱としても自身の勢力を拡大するための大義名分を公方からもらえることはありがたいわけだ。
ただしすぐには義明と氏綱の決戦の機会は生まれずしばらく時間が流れた。
第40回 第一次国府台合戦と小弓公方の滅亡
動きがあったのは、天文7年(1538)のことで、氏綱は2月には山内上杉氏の重臣である大石氏の居城・葛西城を落城させ、太田資正の岩付城にも打撃を与えた。これを知った義明は奉行人筆頭である逸見山城入道祥仙らを国府台へ派遣して在城させ、氏綱も江戸城や河越城の防備を強化する。なお、この時点で義明にとって癪に障るのは、この前年の9月には北条側に付いている高城氏の本拠地・小金城(松戸市)が完成していることで、関宿城や古河城を攻撃する際に非常に邪魔な存在である。
義明の先遣部隊はおそらく2月には国府台に在城していたと考えられるが、それから両者のにらみ合いが続き、9月下旬になり義明は、嫡子義純や弟基頼などの親族や、自身の後援者である真里谷武田信応や里見義堯などを率い小弓城を出陣し、10月初旬には国府台に到着する。
一方、氏綱も10月2日には氏康らを引き連れ小田原城を出陣し、江戸城に入城して準備を整え、国府台城から肉眼でも確認できる位置にある葛西城には旗ばかりをなびかせて、さも葛西城に進出してきているように見せかけておいて、北方に迂回し、松戸方面で太日川(今の江戸川)を渡り松戸台に先鋒部隊を上げた。
それを知った義明は松戸台へ向かい、氏綱勢に攻撃を仕掛ける。
義明は足利尊氏の子孫らしく武勇に優れた猛将であったが、結果はあっけなく、義明は義純や基頼らとともに討ち死にしてしまった。小弓公方は敢え無く義明一代で滅亡してしまったのである。
大将やその跡取りまでもが簡単に討ち死にしてしまうというのは普通はあり得ないのだが、そうなってしまった理由としては、義明勢はほとんど親族や馬廻りと呼ばれる親衛隊、それに山城入道などの奉行衆という少数の兵力で戦ったことが挙げられる。
一緒に戦うはずの武田氏は、このときは武田氏自体の内訌のために多くの兵を引き連れてくることはできなかったと考えられ、本来であれば最も頼りになる里見義堯(よしたか)は、義明が国府台から松戸台に向けて進発した時に、国府台を動かずに傍観していたのだ。これではどう考えても義明が氏綱に勝つことはできない。しかも、義明は負けと悟って退却する暇もなく袋の鼠になって瞬殺されているような状況だから悲惨だ。そう考えると、氏綱の作戦の巧妙さに鳥肌が立つ。
もちろん江戸城から葛西城に進出して、そのままストレートに国府台に登ろうとするのは愚策だからそれはしないとしても、少し離れた松戸台にわずかな手勢だけを率いた義明をおびき寄せているのは上手くいきすぎだ。もしかすると、義堯の軍勢が国府台から動かないことを見越していて、そうしたのではないだろうか。
なお、義明の次男・頼純は生き残り、その家系は政治生命は断たれたものの存続した。
第41回 北条氏政が豊臣政権を敵に回すまでの流れ
甲斐の武田勝頼が猛威を振るっていた天正7年(1579)9月、北条氏政と徳川家康は同盟した。その3年後の天正10年(1582)6月2日、織田信長が本能寺の変で横死し、羽柴秀吉が台頭してきて、天正12年(1584)3月には、秀吉と家康との戦いである小牧長久手の戦いが発生。4月6日以前には、家康は氏政に救援を求め、北条方では援軍の準備を整えた。援軍が実際に戦地に向かったかは不明だが、軍事的には家康優位のまま11月に戦いは終結した。
その後秀吉は、翌天正13年(1585)1月には中国地方の覇者・毛利氏を従属させ、6月には長曾我部氏が統一した四国の平定を始めた。その際、秀吉は佐竹・宇都宮・水谷氏らに書状を送り、「富士山一見」の際に対面すると伝えている。富士山を見に行くのでその時に会おう、ということだが、これは暗に北条氏討伐の意思を表明しているのだ。
四国地方は8月に平定された。翌天正14年(1586)3月には、家康は秀吉への臣従について、自身の考えを説明するため氏政のもとへ自ら出向いて相談している。家康と氏政の会談は、3月8日に三島で、ついで10日は三枚橋(沼津)で行われた。
家康はこのとき、氏政にも秀吉への臣従を暗に勧めたと思うが、その後の状況を見ると、氏政は基本的に秀吉のことが嫌いだったようなので、おそらく氏政はそういう話は無視したと考えられる。なお、この時点では北条氏の家督はすでに氏直が継いでいたが、氏政は依然として北条氏の代表者に君臨していた。
10月26日、家康は大坂城の秀吉のもとに出向き、臣従が決まった。
翌天正15年(1587)、秀吉は、島津氏がほぼ統一を完了していた九州へ攻め込み、5月には九州を平定した。秀吉にとって、残る敵対者は関東の北条氏と奥羽の伊達氏ほかの諸大名のみだ。
秀吉と北条氏との間は険悪な雰囲気で推移していたが、翌天正16年(1588)閏5月10日、両者に和睦が成立した。それに伴って北条氏側は氏規(氏政の弟)を上洛させてお礼を述べることになったが、氏規はなかなか上洛しない。元々北条氏と仲の良い家康はそのことを危惧して、早く上洛しないと秀吉の機嫌がどんどん悪くなると警告し、8月初旬になってようやく氏規が小田原を出発し、22日には秀吉と対面した。
これによって、北条氏は秀吉へ従属したことになるので、このまま何もなければ北条氏は豊臣政権下の一大名として存続したはずだった。
秀吉に臣従した場合は、国分(くにわけ)といって、その大名の領域が秀吉によって確定される。以後は、秀吉の許可なく周辺勢力と戦争をすることは禁じられる。ところが、翌天正17年(1589)11月、北条氏麾下の沼田城の猪俣邦憲が、隣の真田氏の名胡桃城に攻め込んで、それを奪ってしまったのだ。
この事件は秀吉が北条氏を潰すための陰謀との見方があるが、激怒した秀吉は、11月24日に、「来春北条氏征伐に踏み切る」と宣言し、12月4日には諸大名に対して出陣の準備を命じ始めた。
第42回 小田原征伐
天正18年(1590)2月10日、まず家康が駿府を出陣、ついで22日には秀吉の甥の秀次が京都を出陣し、3月1日には、秀吉が後陽成(ごようぜい)天皇から権限移譲の証である節刀(せっとう)を授かり出陣した。天皇の命によって出征するわけなので、敵対する北条氏は朝敵扱いである。なお、朝廷の権威を最大限に利用したい秀吉と、朝廷の権威を復活させたい後陽成天皇は、お互いの利害が一致したため関係は良好だった。
3月3日には三島にて先発した徳川勢と北条勢との戦いが始まったが、まだ本格的な戦いには至らず、3月19日秀吉が駿府に到着し、前線に出ていた家康がいったん駿府に戻り、翌日秀吉を饗応。そして、3月29日には、北条氏が防衛の最前線として戦力を集中していた山中城と韮山城への攻撃が始まり、本格的な戦争開始の火蓋が切って落とされた。
山中城
山中城は、東海道の関所ともいった趣の城で、秀吉が九州を平定した半年後の天正15年(1587)11月には普請(修築)が始まっており、松田康長(老臣松田憲秀の甥で松田家は早雲以来の家臣)が城番として詰めていた。戦いが始まる8日前に康長が箱根別当に宛てた書状では、康長は情勢を楽観視し、城の防衛に自信を見せているが、これは本心ではないと考える。恐らくこの時、玉砕の覚悟はできていたのだろう。
また、山中城には、玉縄城(神奈川県鎌倉市)の城代北条氏勝が援軍として入っていた。氏勝の祖父は猛将として知られた綱成(つなしげ)で、父は氏繁である。この家系は玉縄北条氏と呼ばれ、氏勝は兄の氏舜(うじとし)が早世したため、その跡を継ぎ玉縄城代になっていた。山中城に籠った兵力は、4000ないしは5000名と言われている。
対する攻め手の大将は、秀吉の甥・秀次。このとき23歳。従二位権中納言という上級貴族に列していた。
秀次に付き従う武将は、中村一氏・山内一豊(後の土佐藩主)・田中吉政(後の関ヶ原合戦直後、石田三成を捕縛)・堀尾吉晴(松江藩祖)・一柳直末といった面々である。兵力は6万7800名との記録もあるが、これらの武将たちの動員兵力を考えると多すぎる感がある。
戦いは10時頃から始まった。豊臣勢はまず、山中城の南側の岱崎(たいざき)出丸に取り付いた。岱崎出丸は、前年からの大改修によって新たに設置された場所であったが、この時点ではまだ完成の域まで達していたなかったと言われている。氏勝麾下の老将・間宮康俊が大軍を引き受けた。
戦いが始まってすぐに、一柳直末が康俊勢の放った鉄砲に当たり戦死した。
この報告を聴いた秀吉は大変なショックを受けたと伝わる。直末は秀吉の周囲を固める最強集団である黄母衣衆(きほろしゅう)に選抜されたこともある剛の者で、秀吉から大変可愛がられていた。圧倒的な人数差で攻め込むわけなので、通常は将官が戦死する可能性は極めて低いため、秀吉とするとまさかの事態であったと考えられる。
岱崎出丸での戦いは激戦であったが、極めて短時間で終わった。陥落寸前、ときに73歳であった康俊は、白髪首を敵に献ずるのを恥として髪を墨汁で黒く染めると、突撃を敢行して討死した。
直末を失った豊臣勢であったが、怯むことなく本城に攻めかかった。まずは三ノ丸を落とし、つづけて二ノ丸へ攻めかかる。
三ノ丸側から二ノ丸に入る虎口(こぐち=出入口)は、西側に1か所しかない。攻め手はそこに集中したであろう。
二ノ丸虎口は、同時に西ノ丸とも繋がっている。
攻め手は虎口を打ち破り、二ノ丸になだれ込んだ。
そして二ノ丸を占領。この先、残るは本丸と北ノ丸のみである。
ここに至り、すでに城の運命は尽きたと考えた氏勝は切腹を試みるが周囲に制止され、玉縄城に向けて落ちて行った。
追い詰められた松田康長は、本丸の奥の北ノ丸ではなく、西ノ丸にて最後の戦いに挑んだ。康長に付き従う兵は200名。攻め手は万の桁であるので、倒しても倒しても新たな敵が康長らの前に現れる。
西ノ丸の南西側には、城外へ突出して攻撃する際の構えである馬出(うまだし)が造られ、そこを現地では西櫓と呼んでいる。構造は下図の通り。
ここは山中城の遺構の見どころのひとつだが、北条氏の城に良く見られる畝堀や障子堀が綺麗に整備されているところも山中城の魅力である。
堀はロームを掘って造っているため、ブリッジ状になっているところは滑って歩けたものではない。そして、転落したら自力では抜け出すことは不可能だ。こんな堀を乗り越えて、豊臣勢は攻めたのである。
康長が戦死し、部隊が全滅したのは12時頃と伝わる。
攻撃開始から2時間で山中城は落ちたのであった。
韮山城
天正18年(1590)3月29日、韮山城は山中城と同時に豊臣勢によって攻められた。
城主は、氏政の弟・氏規(うじのり)である。
氏康 ―+― 新九郎 早世
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+― 氏政 ーーー 氏直
|
+― 氏照 八王子城主
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+― 氏邦 鉢形城主
|
+― 氏規 韮山城主
攻め手側は、信長の二男・信雄を大将として、信長の弟・信包(のぶかね)、細川忠興(後の熊本藩主)、蒲生氏郷(秀吉に才能を評価されつつ警戒された)、福島正則(秀吉子飼の猛将)、蜂須賀家政(秀吉の盟友・蜂須賀正勝の子で後の徳島藩主)、中川秀政(清秀の子)、森忠政(森蘭丸の弟でのちに津山藩主)といった錚々たるメンバーである。氏規からすると、随分とタレントを集めてきたものだと感嘆したに違いないが、それと同時に名誉なことだとも思ったはずだ。
韮山城は、既述した通り、北条氏初代・伊勢宗瑞(北条早雲)が、明応4年(1495)に、堀越公方の足利茶々丸を堀越御所から駆逐した頃に築城し本拠地とした。その後、小田原城を奪取し、小田原城が北条氏の拠点となったあとも韮山城を愛し、永正16年(1519)、韮山城にて64歳で没している。
その後、小田原城の西側を守る重要拠点として維持され続け、宗瑞没後71年にして、宗瑞の曾孫の氏規が豊臣政権の大軍を引き受けることになったのである。
韮山城は、その周辺の砦群と一体のものとして考えるべき城であるが、韮山城本体としては、本丸・二ノ丸・権現曲輪・三ノ丸の4つの曲輪からなり、南北400m・東西100mという細長い城である。大して大きくないし、それほど堅固な城にも見えない。
西側の低地から攻め上がれは簡単に落とせそうだが、西側は頼朝が幽閉されていた「蛭ヶ小島」の地名から分かる通り、湿地帯となっていて接近が難しく、本丸直下は比高30mほどの断崖となっていて、西側から攻めることは難しい。そのため、尾根続きの東側から攻撃することになり、豊臣勢は東側の山の中に各々陣城を構えた。
それに対して城側は、天ヶ岳内に造られた砦群で対応したのである。
氏規の3600名に対して、攻め手の兵力は4万4000名といわれており、孫子は城攻めをする際には10倍の兵力が必要と言っているが、本当に10倍の兵力で攻めたのである。氏規には万に一つも勝ち目はあるまい。瞬殺されると誰もが思った。
ところが、氏規軍の士気は極めて高く、上方の猛将たちの攻撃を持ちこたえ、山中城が2時間で落ちたというのにこちらはびくともしなかった。これは想像だが、攻め手の武将たちは物凄く強い反面、個性も強烈なので、なかなか意見がまとまらなかったのではないか。彼らをまとめる責任のある大将は信雄であるが、決断力がない彼にはそういう仕事は難しいかも知れない。
しかし、氏規が持ちこたえているなか、関東各地の北条側の城は猛烈な速度で落城して行った。いや、ほとんどが落城ではなく、開城だ。つまり、戦う前から白旗をあげたのだ。
4月5日には、本来の大将であった織田信雄や織田信包、細川忠興、蒲生氏郷らは小田原城攻囲にまわり、残った部隊が引き続き包囲を続けた。信雄の場合、私は更迭の意味が含まれているのではないかと思っている。
韮山城を攻めあぐねた豊臣勢は、6月7日に家康配下の朝比奈泰勝が氏規の説得に乗り込んだ。元々、氏規は家康と相性が良いので、家康側から説得するのが良いだろう。
それを受けて、氏規はようやく24日に降伏し、家康の陣に赴いた。前日には兄・氏照の本城である八王子城が落城している。氏照自身は小田原城にいるが、八王子城落城の知らせは氏規の気持ちを固めさせたのかもしれない。
なお、氏規は生きながらえ、後に秀吉に召し出され、河内で6900余石を給された。そして、関ヶ原の戦いの直前の慶長5年(1600)2月に没している。この家系は狭山藩主(大阪府狭山市)として残った。
参考資料
・『新田義貞』 峰岸純夫/著
・『足利尊氏と直義』 峰岸純夫/著
・『日本の歴史9 南北朝の動乱』 佐藤進一/著
・『関東公方足利氏四代』 田辺久子/著
・『高安寺とその文化財』 井原茂幸/著
・『関東管領・上杉一族』 七宮涬三/著
・『地域の中世1 扇谷上杉氏と太田道灌』 黒田基樹/著
・『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』 黒田基樹/著
・『シリーズ・中世関東武士の研究 第五巻 扇谷上杉氏』 黒田基樹/著
・『北条早雲とその一族』 黒田基樹/著
・『立川市史 上巻』 立川市史編纂委員会/編
・『府中市史 上巻』 府中市/編
・『東国の歴史と史跡』 菊池山哉/著
・『図説 太田道灌』 黒田基樹/著
・『日本城郭大系5 埼玉・東京』 児玉幸多・坪井清足/監修
・『日本城郭大系9 静岡・愛知・岐阜』 児玉幸多・坪井清足/監修
・『続中世東国の支配構造』 佐藤博信/著
・『古河公方足利氏の研究』 佐藤博信/著
・『新八王子市史 通史編2 中世』 八王子市市史編集委員会/編
・『北条氏年表』 黒田基樹/編
・『静岡県 古城めぐり』 小和田哲男ほか/著
・『松山城合戦』 梅沢太久夫/著
・『敵を阻む城、にぎわう城下 戦国時代の本佐倉城と千葉氏の歴史』 佐倉市・酒々井町/編