最終更新日:2022年12月4日

駿河の古墳時代の始まり

 

62
高尾山古墳

 東国の古墳時代の幕開けを語る上では、数年前から絶賛話題沸騰中である沼津市の高尾山(たかおさん)古墳についてまずは語るべきでしょう。「沸騰中」は大げさかもしれませんが、その熱はいまだ冷めておらず、90℃くらいで保温されていることは間違いないと考えられます。90℃あればカップラーメンが作れます。

 墳丘長62mの前方後方墳である高尾山古墳の何が一体凄いのか。

 この前方部周辺をシートで覆われた古墳の何が一体凄いのか。

高尾山古墳

 高尾山古墳は未盗掘でした。それもベリーグッドでしたが、墳丘内、墳丘上、周溝内から数多くの土器が見つかり、墳丘東側の周溝からは廻間Ⅱ式の高坏が見つかり、築造年代は230年頃と決まりました。そして、築造から時間が経って、初葬者は250年頃に葬られています(埋葬時期の土器に関しては、大廓Ⅲ式期 ≒ 廻間Ⅱ式後半からⅢ式 ≒ 布留0式期)。

 230年の築造というと、箸墓古墳よりも確実に古いです。そうなると、研究者によっては古墳と呼ばず、弥生墳丘墓と呼ぶ人もいると思いますが、私は3世紀初頭から、すなわち纒向石塚古墳の築造以降は、古墳と呼びます。弥生墳丘墓とか、そういうケチなことはいいません。

 現状では東国で高尾山古墳よりも古い前方後方墳は見つかっておらず(註)、長野県松本市の前方後方墳・弘法山古墳は、廻間Ⅱ式の土器が見つかっていることから高尾山古墳とほぼ同時期、そして千葉県木更津市の高部30号墳と同32号墳も同じころになります(高部は消滅)。

弘法山古墳(AICTでは過去3度探訪)

 弘法山古墳も66mありますが、高尾山古墳も62mで、これ以前の方形周溝墓や前方後方形周溝墓と比べると一気に3倍近い大きさになっており、この大きさを見ても高尾山古墳が画期的なことが分かります。

 高尾山古墳から見つかった土器は、もちろん在地のものもありますが、パレススタイル土器を含めた伊勢湾岸の土器が多く(S字甕もたくさん)、また、近江系、北陸系、東京湾岸系の土器が見つかり、古墳祭祀の際に東国各地の勢力からの人の派遣がありました。もちろん、普段から付き合いがない人たちが葬儀の時だけ来るというのは考えられないため(現代ではそういう人はいるでしょうけど)、高尾山古墳の被葬者は東国各地の有力者と生前から親交があったと考えられます。

 そして重要なことは、外来系の土器の中に畿内の土器が目につかないことです。つまり、高尾山古墳の被葬者はヤマト王権とは付き合いがなかったのです。

 この突如として出現した画期的な古墳の被葬者は一体何者だったのでしょうか。ヤマトとは付き合わず、東国の広範囲の人びとと仲良しだった被葬者は、一体何者だったのでしょうか。その人物は卑弥呼と同時代を生きた人でした。

 ※高尾山古墳は、駿河の現地講座にて探訪します。

(註)

 前方後方墳ではなく、東国で古い前方後円墳を探すと、3世紀初頭の纒向石塚古墳とほぼ同時期の築造と考えられる古墳があります。千葉県市原市の神門5号墳です。

神門5号墳(AICTでは、2022年3月25日および26日に探訪)

 墳丘長は42.6mで、庄内系装飾壺、庄内系高坏、廻間Ⅰ式4段階もしくは狭間Ⅱ式1段階相当の高坏、それに北陸系の小型壺が出土し、それらの土器から3世紀初頭の築造と考えられます。

 高尾山古墳の被葬者は、ヤマトと付き合いがなかったと考えられますが、沼津を通り越した千葉県市原市の勢力は、高尾山古墳の被葬者より一世代前には、ヤマトと親しい関係にあったことが分かります。こういう諸地域同士の複雑な関係が伺える所が弥生末期から古墳時代初頭の時代の特徴と言えます。

 

日本武尊の東征と駿河

 『日本書紀』の「景行紀」によると、駿河に遠征してきたヤマトタケルは、悪意を抱いた在地の有力者に鹿狩りに出かけるように唆され、出かけたところを火攻めにあいましたが、迎え火を焚いて辛くも難を逃れました。その後、ヤマトタケルは自分に危害を加えた在地勢力を焼き殺したため、その場所を焼津と呼ぶようになったという地名伝承を述べています。『日本書紀』の地名伝承はほとんどあてになりませんが、大井川の北岸に焼津市があり、その地が古代から焼津と呼ばれていたのは確かです。

 面白いのは、焼津市から日本坂という丘陵を越えた先の静岡平野に流れる安倍川北岸の静岡市清水区には草薙という地名があり、式内社の草薙神社もあります。『日本書紀』の上述の説話には、別説としてヤマトタケルが差していた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が自ら抜け出して傍らの草を薙いだため火攻めの難を逃れることができ、そのためその剣を草薙剣と呼ぶようになったとあります。その南側に展開する丘陵には、日本平という名前が付いていますし、静岡市側にもヤマトタケル伝承は広がっています。

 東名高速には「日本平PA」があるので、そこに立ち寄ったことがある方もいるでしょう。焼津市内には「日本坂PA」もあります。

日本平PA

 剣が勝手に抜け出して働いてくれるのはファンタジーの世界だけのお話しですから、ヤマトタケルの側近の誰かの活躍を表しているかもしれず、そうだとしたら、天叢雲剣に仮託された人物が誰であったかは興味深いです。しかしこれを考察するには今は時間が無さすぎます。

 

廬原(いおはら)国造

 ところで、『古事記』によると、吉備武彦がヤマトタケルの東征に副将として付き従っています。それに関連する話として、『新撰姓氏録』「右京皇別」の廬原公の項には、「笠朝臣同祖、稚武彦命之後也、孫吉備建彦命、景行天皇御世、被遣東方、伐毛人及凶鬼人、到于阿部廬原国、復命之日、以廬原国給之」とあります。つまり、景行天皇の御世に東方に派遣された吉備武彦は、阿倍廬原国に至り、復命した日に廬原国を賜わったわけです。また、『先代旧事本紀』の「国造本紀」では、吉備武彦の子の思加部彦(別の箇所には意加部彦とある)が、成務天皇の御代に廬原国造に任じられたとあります。

 私は国造の設置は継体以降と考えているため、吉備武彦を系譜上の祖とする意加部彦(おかべひこ)が、6世紀半ばから後半の頃に廬原国造に任じられたと考えます。焼津市の隣の藤枝市には岡部という地名が残っており(旧岡部町が2009年に藤枝市と合併)、意加部彦は、岡部という部民を率いる現地統率者が抽象化された名前で、岡部辺りに住していたかも知れません。では、「おか」とは誰か、あるいは何かということを考察しないとなりませんが、これを考察するには今は時間が無さすぎると再び言い訳をして逃げ去ります。

 上述した草薙という住所から日本平にかけては、数多くの古墳が築造されました。その中で最大の西の原1号墳(ひょうたん塚古墳)は、現地説明板によると墳丘長49.2m、『静岡県の前方後円墳』によると63mの前方後円墳で、現地説明板によると5世紀後半の築造です。周囲には、かつては200基を超える小円墳があり、ひょうたん塚古墳で出会った土地の古老も「昔は古墳だらけだったのがいつのまにか家ばっかりになった」と話していました。

ひょうたん塚古墳(西の原1号墳)

 小円墳群は後期の群集墳だと思いますが、そうすると廬原国造の支配領域の中でもこの地域は重要地域だったと考えられます。

 では、その廬原国造の支配領域の範囲ですが、令制庵原郡や庵原川という川の名前からして、庵原川流域が本拠地でしょう。ヤマトタケル伝承繋がりと、岡部という地名からして、焼津市や藤枝市が廬原国造に入りそうな感じがありますが、そちらの大井川北岸地域は、珠流河国造領域に入る可能性もあって、今私の心は揺れています。

 というのは、「国造本紀」に記載された東日本の国造は、原則として西から順番に掲載されており、珠流河国造のつぎに廬原国造が現れるのですが、令制駿河郡という行政地名の存在から、沼津市周辺に珠流河国造の地があったと考えられ、そうすると「国造本紀」の記載順と矛盾してしまい、焼津市や藤枝市の方は珠流河国造の飛地だったかもしれないと考えているからです。

 この問題はもう少し考えますが、庵原川流域が廬原国造の支配地域であったことは間違いないと思います。

 ところで、『日本書紀』「斉明紀」によると、660年に、倭国は百済のために新羅を討とうとし、駿河国に造船を命じています。「天智紀」によると、663年、百済王豊璋は、新羅が攻めてきた際に、倭国から援軍の将・廬原君臣(いおはらのきみおみ)が1万余りの軍団を率いてやってくるので、白村(錦江の河口)で出迎える旨を諸将に伝えています。このあと、有名な白村江の戦が起きて、倭国軍は敗退することになるわけですが、戦った軍勢の中には廬原の豪族もいたわけです。今の清水港から出陣したのかもしれません。『日本書紀』には東国の話や人物はあまり出てこないですが、駿河国には造船技術があって、特筆すべき水軍(海軍)がいたことがこれで分かります。

 なお、直接の末裔かどうかは分かりませんが、中世の頃は庵原氏が当地の支配者として活躍し、今川義元の軍師で、駿府に人質として滞在していた幼少時の徳川家康にも影響を与えた可能性のある太原崇孚雪斎は庵原氏の出です。

 

駿河の後期・終末期古墳

 

32
賤機山古墳

 賤機山(しずはたやま)古墳が築造された場所は、安倍川左岸の静岡平野の只中で、現在では静岡県の中心地となっています。戦国時代には駿河・遠江・三河の地を支配した戦国大名今川氏の居城・駿府城がありました。また、令制駿河国の国府は駿府城跡の下層に眠っていると想定されており、このように古代から現代まで駿河(あるいは静岡県)の中心地であったことが分かります。

 ところが、古墳時代まで遡ると少し様相が違い、古墳時代前期後半(4世紀)にこそ、駿河最大の谷津山古墳(110mの前方後円墳)が築造されたものの、その後の古墳造営は低調で、後期後半(6世紀後半)になって突然、賤機山古墳が築かれます。

 

 両袖式の横穴式石室は、前庭部を含めると、18.2mという長大なものです。

 玄室には石棺が置かれていましたが、位置が玄門寄りで、奥壁側には木棺の形跡はないものの違う被葬者が眠っていました。位置的に見ると石棺の被葬者は初葬者ではない可能性が伺え、副葬品の耳環の数から、石室内には5名埋葬されたと考えられています。

 石室内からは豊富な副葬品が見つかり、その豪華さでは東海地方で比肩できる古墳がなく、飛びぬけた存在となっており、比較する際には奈良の藤ノ木古墳がよく引き合いに出されます。石室の構造や副葬品の種類から、非常に畿内的色合いの強い古墳と評価されています。

 この古墳の登場により、ついにこの地は駿河の中心地となりました。

 なお、石室内を見学することはできませんが、外から中の状況が観察できるようになっています。

 

 

 

16
原分古墳

 静岡県内では、後期以降に古墳の造営が盛んになりますが、後期や終末期の古墳の中には、横穴式石室が観察できる状態になっているものもあり、長泉町にある原分(はらぶん)古墳もその一つで、7世紀に築造された、径16mの円墳です。

 

 石室の長さは7.6mで、無袖型の「玄室ワンルーム」の石室です。賤機山古墳は、石室内に入ると少し登りのスロープになっていますが、こちらは反対に玄室に入るとき床面が一段下がっています。

 

 中に入ることはできませんが、電気が付きます。カメラを突っ込んで中を撮ると、玄室の奥壁の鏡石は結構な大きさであることが分かります。

 

 石室について、説明板で確認してみましょう。

 

 室内にあった刳抜式の家形石棺が敷地内に展示してあります。

 

 玄室の入口を塞いでいた閉塞石も展示してあります。

 墳頂に上がると、天井石が見えるようになっており、こういう復元の仕方もいいですね。

 

 原分古墳は、元々は北側の現在道路になっている位置にあったのですが、道路建設の際にこちらに移設されました。横穴式石室を備えた古墳の場合、古墳マニアの多くは墳丘よりも石室を知りたいため、移築であっても石室が残されているのは良いことだと思います。