最終更新日:2023年2月13日
目次
駿河の古墳時代の始まり
駿河の古墳の編年を知るには、沼津市文化財センターに掲載されているこちらの表が便利です。
一点補足すると、駿河ではなく北伊豆になりますが、4世紀の前期古墳としては、三島市の向山16号墳が墳丘長68.2mの前方後円墳で、向山14号墳は径28mの円墳となり、伊豆半島にも前期からそれなりの規模の古墳があったことが判明しています。
62
高尾山古墳
駿河のみならず、東国の古墳時代の幕開けを語る上では、10年くらい前から話題に上るようになった沼津市の高尾山(たかおさん)古墳についてまずは語るべきでしょう。高尾山古墳は、墳丘長62mの前方後方墳です。
この前方部周辺をシートで覆われた古墳の何が一体凄いのか。
高尾山古墳は未盗掘でした。それもベリーグッドでしたが、墳丘内、墳丘上、周溝内から数多くの土器が見つかり、墳丘東側の周溝からは廻間Ⅱ式の高坏が見つかり、築造年代は230年頃と決まりました。そして、築造から時間が経って、初葬者は250年頃に葬られています(埋葬時期の土器に関しては、大廓Ⅲ式期 ≒ 廻間Ⅱ式後半からⅢ式 ≒ 布留0式期)。
230年の築造というと、箸墓古墳よりも確実に古いです。そうなると、研究者によっては古墳と呼ばず、弥生墳丘墓と呼ぶ人もいますが、私は3世紀初頭から、すなわち纒向石塚古墳の築造以降は、古墳と呼びます。弥生墳丘墓とか、そういうケチなことはいいません。
現状では東国で高尾山古墳よりも古い前方後方墳は見つかっておらず(註)、長野県松本市の前方後方墳・弘法山古墳は、廻間Ⅱ式の土器が見つかっていることから高尾山古墳とほぼ同時期、そして千葉県木更津市の高部30号墳と同32号墳も同じころになります(高部は消滅)。
弘法山古墳も66mありますが、高尾山古墳も62mで、これ以前の方形周溝墓や前方後方形周溝墓と比べると一気に3倍近い大きさになっており、この大きさを見ても高尾山古墳が画期的なことが分かります。
一般的に古墳出現期にあたる3世紀前半の前方後円墳や前方後方墳は、前方部が短く、いわゆる「纒向型」と呼ばれるような、後円部の径に対して前方部長は半分くらいしかないものが目立ちます。ところが、高尾山古墳は全国の前方後方墳に先駆けて、前方部長が後方部長と同じくらいに発達しています。
ブリッジ(土橋)を残してほぼ全周する周溝も備えていますし、平面形を見ても立派な前方後方墳です。
高尾山古墳から見つかった土器は、もちろん在地のものもありますが、S字甕やパレススタイル土器などの伊勢湾岸の土器が多く、また、近江系、北陸系、東京湾岸系の土器が見つかり、古墳祭祀の際に東国各地の勢力からの人の派遣があったことが分かります。
もちろん、普段から付き合いがない人たちが葬儀の時だけ来るというのは考えられないため(現代ではそういう人はいるでしょうけど)、高尾山古墳の被葬者は東国各地の有力者と生前から親交があったと考えられます。
そして重要なことは、外来系の土器の中に畿内の土器が目につかないことです。つまり、高尾山古墳の被葬者はヤマト王権とは付き合いがなかったのです。
この突如として出現した画期的な古墳の被葬者は一体何者だったのでしょうか。ヤマトとは付き合わず、東国の広範囲の人びとと仲良しだった被葬者は、一体何者だったのでしょうか。その人物は卑弥呼と同時代を生きた人でした(後述)。
副葬品に関しては、鉄槍や鉄鏃といった武器類が目立ち、装飾品が少ない点が特徴です。
甲冑は見つかっていませんが、この時代の甲冑は植物や動物の革などの有機物で造られていたため、副葬されていたとしても溶けて無くなっていると思われます。舶来の銅鏡も1枚見つかっています。
副葬時に意図的に割られた破砕鏡です。未盗掘であったため、すべてのパーツが見つかっても良いように思えますが、一部が見つかっていないのはなぜでしょうか。
棺は木棺でしたが、溶けて無くなっていました。以下のような状況に復元されます。
上の模型には再現されていませんが、棺内には朱がまかれており、被葬者の勢力の経済的豊かさを表しています。
なお、前方後方墳ではなく、東国で古い前方後円墳を探すと、3世紀初頭の纒向石塚古墳とほぼ同時期の築造と考えられる古墳があります。千葉県市原市の神門5号墳です。
墳丘長は42.6mで、庄内系装飾壺、庄内系高坏、廻間Ⅰ式4段階もしくは狭間Ⅱ式1段階相当の高坏、それに北陸系の小型壺が出土し、それらの土器から3世紀初頭の築造と考えられます。
高尾山古墳の被葬者は、ヤマトと付き合いがなかったと考えられますが、沼津を通り越した千葉県市原市の勢力は、高尾山古墳の被葬者より一世代前には、ヤマトと親しい関係にあったことが分かります。こういう諸地域同士の複雑な関係が伺える所が弥生末期から古墳時代初頭の時代の特徴と言えます。
高尾山古墳の被葬者は誰か
その時代で有名な話としては、邪馬台国の卑弥呼が列島内の頂点に立っていたことで、卑弥呼が死んだ年は確実なことは言えず、魏志倭人伝の書き方からすると魏の正始8年(247)か、その直後です。魏志倭人伝には、卑弥呼の邪馬台国連合に相対する勢力として、卑弥弓呼が率いる狗奴国が登場しますが、邪馬台国が奈良だとすると、上述したように高尾山古墳の被葬者が畿内を除いた東日本各地の勢力と親交を結んでいる様子から、狗奴国は東海地方東部にあって、高尾山古墳の被葬者は卑弥弓呼であると考えることもできます。
この考えは面白いですが、あくまでも邪馬台国奈良説を前提としたストーリーです。私自身は邪馬台国は福岡県内にあったと考えており、以下のストーリーを考えています。
3世紀前半は、列島内で人びとの移動が激しかった時代ですが、概ね3世紀初頭から4世紀前半に繫栄した纒向遺跡からは北部九州の土器がほぼ出ません。反対に、博多湾岸では、その時代の畿内系土器が結構見つかります。畿内では3世紀前半は庄内式土器、3世紀後半の古墳時代になってからは布留式土器が使われますが、博多湾岸ではこれらの影響を受けた土器がたくさん出ることから、かなり多くの畿内の人たちが博多湾岸へ移住したことが分かります。これは、邪馬台国連合の中心地である福岡に畿内の人たちが引っ越していったことの形跡と考えます。
纒向遺跡が繁栄していた頃、奴国の範囲である博多沿岸も繫栄していたのです。纒向遺跡はよく広大な範囲を強調しますが、博多湾岸も決して負けていません。朝鮮半島に近い分、どう考えても奈良より博多湾岸の方が先進地域だったと考えられます。博多湾岸には畿内だけでなく瀬戸内や北陸や濃尾の人たちも来ています。
私は、2世紀に楯築墳丘墓を造った勢力が中心となって3世紀初頭に纒向遺跡においてヤマト王権を結成したと考えていますが、彼らは結成当初から北部九州の邪馬台国連合へのアプローチを始めており、それが魏志倭人伝に記されている市場を監する「大倭」だと考えています。そして、その市場は、以前から何度もお伝えしている通り、具体的には博多湾岸の西新町遺跡(奴国の領域内)にあったと考えています。ヤマト王権は上手い具合に邪馬台国連合に経済面で参画できたのです。つまりは、ヤマト王権も邪馬台国連合の一つと考えてよいわけです(魏志倭人伝には沢山の国名が出てきますが、その中にヤマト王権を探すのはおそらく不毛な作業です)。
邪馬台国連合と言っても、弥生時代中期後半から伝統的に伊都国と奴国の力が大きく、両国は常に主導権争いをしており、連合の盟主になる野望を抱いていた奴国の王・難升米にヤマト王権は上手く取り入った結果、西新町遺跡の管理者に付くことができたと考えています。難升米はその後、卑弥呼を殺害し(魏志倭人伝を読むと、魏が黄幢を難升米に渡したことによって卑弥呼が死んだ、という文意にとれる)、邪馬台国連合のトップに立つことができましたが、それもつかの間、失策して没落し、今度は卑弥呼の一族の台与が立ちます(那珂八幡古墳は難升米の墓かもしれません)。
ちなみに、卑弥呼や台与は伊都国王の家系で、邪馬台国というのは昔からあった国ではなく、連合を結成した時に作られた「本部」あるいは「事務局」のようなものと考えています。
難升米を操って北部九州へも版図と伸ばそうと画策したヤマト王権でしたが、どうしても九州を自らの版図に加えることはできず、その陰謀が露呈したヤマト王権は、連合首脳の判断によって西新町遺跡での権益をはく奪されてしまいます。ヤマト王権の勢力減退です。そしてヤマト王権は、邪馬台国連合から脱退します。
垂仁紀では、穴門(現・下関市)に伊都都比古という王が登場しますが、この人物は伊都国の王の一族と考えます。邪馬台国連合は4世紀初頭には、山口県にまで影響を及ぼしていたのです。そういう状況のあと、九州進出を大々的に企てたのが景行天皇でした。ただし、景行天皇の巡幸路を見れば分かる通り、彼は邪馬台国連合のコアゾーンには行っていません。つまりは、九州の各地を手中に収めることはできたのですが、肝心の邪馬台国連合のコアメンバーたちを服属させることはできなかったのです。
以上が私が考える邪馬台国ストーリーの概略ですが、結局のところ、魏志倭人伝や遺跡・遺物の評価は人によって変わりますし、視点を変えれば結果も変わります。江戸時代から始まった邪馬台国所在地論争は、21世紀の現代になってさえも科学的な話には発展しておらず、それぞれの人たちが自分の信念や趣味や仕事上の立場などによって発言しているにすぎません。ですから、私は以上のストーリーで考えていますが、これが合っている保証はなく、私個人の考えに過ぎません。ですから、奈良説でもいいと思いますし、正直どうでも良い問題です。邪馬台国の所在地に関しては、未来永劫確定しないと思います。研究者にとっては、他にやるべき重要な仕事がたくさんあります。
では、高尾山古墳の被葬者が卑弥弓呼でないとすると誰でしょうか。
私には分かりません。
3世紀の歴史像を復元する際には、文献史料はほぼ魏志倭人伝しかないため、みんな魏志倭人伝に飛びつきます。くどくどと述べますが、魏志倭人伝は極めて政治的な書物ですし、魏の役人がどこまで日本列島の実態を把握していたかは分からず、当たり前のことですが、該書に書かれていることが列島のすべてではありません。該書を読んでイメージできる風景は北部九州の情景ですし、畿内の風景は一つも思い浮かびません。東日本のことなど一言も書いていないことが分かります。魏がきちんと把握していたのは、伊都国までだと考えています。
邪馬台国の問題に関しては、以前AICTで3時間の座学講座を4回に渡って行いました。いずれ本サイトにももっと詳しい話を掲載しようと考えています。
69
神明山1号墳
前方後方墳の高尾山古墳は、駿河最古の古墳と言ってよいですが、前方後円墳で古いものを探すと神名山1号墳が最古の可能性があります。
築造時期は3世紀後半、前方部墳端がバチ形に開き、箸墓古墳とよく似た墳形であることが指摘されています。
現在の墳丘はかなり削られているため、当時の墳形が分かるように礫を並べて表示しています。それを見ると前方部墳端が「バチ形」になっているのが分かります。
説明板の図と一緒だと思いますが、静岡市埋蔵文化財センターに掲載されている図を転載します。
これを見ると、前方部の西側のトレンチによって前方部のラインが分かり、バチ形に開いているのが分かります。前期前半に流行ったデザインです。
100?
浅間古墳
駿河最大の古墳は静岡市葵区にある墳丘長110mの前方後円墳・谷津山1号墳ですが、それに次いで大きな古墳はこの浅間(せんげん)古墳です。
墳丘は丘の上にあり、南側の高速道路の方(海側)から見上げると古墳の横っ腹を見ていることになります。鳥居が見えますが、鳥居の背後が後方部で右手側に前方部が展開しています。
駿河は前期と中期の古墳が他地域と比べて少なく、大型墳も少ないですが、浅間古墳は大型の前方後方墳です。築造時期は4世紀半ばから後半にかけてで、墳形は寸詰まりな感じがして、推定復元形を見ると後方部は縦よりも横の方が長いです。
後方部墳頂には浅間神社が鎮座していますが、上図でも記されている通り、社殿の脇をレーダー探査で調べたところ、竪穴式石室らしき反応が確認されました。
実際に墳丘内を歩いてみると、前方部の形状は少し把握しづらいです。
前方部墳端近くに農道が走っていますが、その道路辺りまでが古墳です。
現在墳丘は森の中なので墳丘から南側の視界はゼロですが、墳丘の下からは南側の駿河湾方面の眺望が素晴らしいです。
遠くには新幹線とその向こうには駿河湾が見えます。
往時の海岸線はもっと近くでした。
日本武尊の東征と駿河
『日本書紀』の「景行紀」によると、駿河に遠征してきたヤマトタケルは、悪意を抱いた在地の有力者に鹿狩りに出かけるように唆され、出かけたところを火攻めにあいましたが、迎え火を焚いて辛くも難を逃れました。その後、ヤマトタケルは自分に危害を加えた在地勢力を焼き殺したため、その場所を焼津と呼ぶようになったという地名伝承を述べています。『日本書紀』の地名伝承はほとんどあてになりませんが、大井川の北岸に焼津市があり、その地が古代から焼津と呼ばれていたのは確かです。
面白いのは、焼津市から日本坂という丘陵を越えた先の静岡平野に流れる安倍川北岸の静岡市清水区には草薙という地名があり、式内社の草薙神社もあります。『日本書紀』の上述の説話には、別説としてヤマトタケルが差していた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が自ら抜け出して傍らの草を薙いだため火攻めの難を逃れることができ、そのためその剣を草薙剣と呼ぶようになったとあります。その南側に展開する丘陵には、日本平という名前が付いていますし、静岡市側にもヤマトタケル伝承は広がっています。
東名高速には「日本平PA」があるので、そこに立ち寄ったことがある方もいるでしょう。焼津市内には「日本坂PA」もあります。
剣が勝手に抜け出して働いてくれるのはファンタジーの世界だけのお話しですから、ヤマトタケルの側近の誰かの活躍を表しているかもしれず、そうだとしたら、天叢雲剣に仮託された人物が誰であったかは興味深いです。しかしこれを考察するには今は時間が無さすぎます。
駿河の中期古墳
68
三池平古墳
5世紀初頭に築造された墳丘長68mの前方後円墳で、未盗掘古墳です。
棺は刳抜式の割竹形石棺で、石槨内に収められていました。石槨は大きめの天井石で蓋をされ、それを粘土でくるむという構造でした。
上の模型で石槨から飛び出ている石敷きは地下に設けられた排水溝です。これは現地でも墳丘上に場所が分かるように表示されています。排水溝は前方部西側側面に抜けるようになっていました。
未盗掘だったため豊富な副葬品が見つかっており、下の写真の左側はガラス小玉で、出土時に数珠つなぎになっていることはありませんから、こういう展示の場合は、展示用につなげています。真ん中のものは勾玉、そして右側の上は車輪石でその下は石釧です。
この展示ケースは非常に写真を撮るのが難しいという言い訳をしつつ、あんまり鮮明に写ってなくて分かりづらいですが、車輪石と石釧はまるで銅製品のような色合いをしています。赤いのは朱でしょう。
石製品としては他に珍しい帆立貝形石製品が出ています。
筒形銅器も珍しい品で、東日本では長野県と埼玉県で出ているようですが、それらとともに分布の東限を示しています。
筒形銅器は、各地の豪族が朝鮮半島から直接入手した可能性が高いと言われており、もしそうであれば、5世紀の駿河の勢力が直接朝鮮半島南部と交易していたことになります。でも、駿河は伝統的に水軍が強い地域で、後述する通り日本書紀にも、百済の王が駿河の水軍の援来を期待していますから、この時代にはすでに半島へ行く「海軍力」があったかもしれません。
49.2
ひょうたん塚古墳
上述した草薙という住所から日本平にかけては、数多くの古墳が築造されました。その中で最大の西の原1号墳(ひょうたん塚古墳)は、現地説明板によると墳丘長49.2m、『静岡県の前方後円墳』によると63mの前方後円墳で、現地説明板によると5世紀後半の築造です。
周囲には、かつては200基を超える小円墳があり、ひょうたん塚古墳で出会った土地の古老も「昔は古墳だらけだったのがいつのまにか家ばっかりになった」と話していました。
廬原(いおはら)国造
『古事記』によると、吉備武彦がヤマトタケルの東征に副将として付き従っています。それに関連する話として、『新撰姓氏録』「右京皇別」の廬原公の項には、「笠朝臣同祖、稚武彦命之後也、孫吉備建彦命、景行天皇御世、被遣東方、伐毛人及凶鬼人、到于阿部廬原国、復命之日、以廬原国給之」とあります。つまり、景行天皇の御世に東方に派遣された吉備武彦は、阿倍廬原国に至り、復命した日に廬原国を賜わったわけです。また、『先代旧事本紀』の「国造本紀」では、吉備武彦の子の思加部彦(別の箇所には意加部彦とある)が、成務天皇の御代に廬原国造に任じられたとあります。
私は国造の設置は継体以降と考えているため、吉備武彦を系譜上の祖とする意加部彦(おかべひこ)が、6世紀半ばから後半の頃に廬原国造に任じられたと考えます。焼津市の隣の藤枝市には岡部という地名が残っており(旧岡部町が2009年に藤枝市と合併)、意加部彦は、岡部という部民を率いる現地統率者が抽象化された名前で、岡部辺りに住していたかも知れません。では、「おか」とは誰か、あるいは何かということを考察しないとなりませんが、これを考察するには今は時間が無さすぎると再び言い訳をして逃げ去ります。
上述したひょうたん塚古墳の周辺には小円墳群がありますが、それらが後期の群集墳だとすれば、廬原国造の支配領域の主たる古墳群である可能性があります。
では、その廬原国造の支配領域の範囲ですが、令制庵原郡や庵原川という川の名前からして、庵原川流域が本拠地でしょう。ヤマトタケル伝承繋がりと、岡部という地名からして、焼津市や藤枝市が廬原国造に入りそうな感じがありますが、そちらの大井川北岸地域は、珠流河国造領域に入る可能性もあって、今私の心は揺れています。
というのは、「国造本紀」に記載された東日本の国造は、原則として西から順番に掲載されており、珠流河国造のつぎに廬原国造が現れるのですが、令制駿河郡という行政地名の存在から、沼津市周辺に珠流河国造の地があったと考えられ、そうすると「国造本紀」の記載順と矛盾してしまい、焼津市や藤枝市の方は珠流河国造の飛地だったかもしれないと考えているからです。
この問題はもう少し考えますが、庵原川流域が廬原国造の支配地域であったことは間違いないと思います。
ところで、時代は少し下りますが、『日本書紀』「斉明紀」によると、660年に倭国は百済のために新羅を討とうとし、駿河国に造船を命じています。「天智紀」によると、663年、百済王豊璋は、新羅が攻めてきた際に、倭国から援軍の将・廬原君臣(いおはらのきみおみ)が1万余りの軍団を率いてやってくるので、白村(錦江の河口)で出迎える旨を諸将に伝えています。このあと、有名な白村江の戦が起きて、倭国軍は敗退することになるわけですが、戦った軍勢の中には廬原の豪族もいたわけです。今の清水港から出陣したのかもしれません。『日本書紀』には東国の話や人物はあまり出てこないですが、駿河国には造船技術があって、特筆すべき水軍(海軍)がいたことがこれで分かります。
なお、直接の末裔かどうかは分かりませんが、中世の頃は庵原氏が当地の支配者として活躍し、今川義元の軍師で、駿府に人質として滞在していた幼少時の徳川家康にも影響を与えた可能性のある太原崇孚雪斎は庵原氏の出です。
駿河の後期・終末期古墳
32
賤機山古墳
賤機山(しずはたやま)古墳が築造された場所は、安倍川左岸の静岡平野の只中で、現在では静岡県の中心地となっています。戦国時代には駿河・遠江・三河の地を支配した戦国大名今川氏の居城・駿府城がありました。また、令制駿河国の国府は駿府城跡の下層に眠っていると想定されており、このように古代から現代まで駿河(あるいは静岡県)の中心地であったことが分かります。
ところが、古墳時代まで遡ると少し様相が違い、古墳時代前期後半(4世紀)にこそ、駿河最大の谷津山古墳(110mの前方後円墳)が築造されたものの、その後の古墳造営は低調で、後期後半(6世紀後半)になって突然、賤機山古墳が築かれます。
両袖式の横穴式石室は、前庭部を含めると、18.2mという長大なものです。
玄室には石棺が置かれていましたが、位置が玄門寄りで、奥壁側には木棺の形跡はないものの違う被葬者が眠っていました。位置的に見ると石棺の被葬者は初葬者ではない可能性が伺え、副葬品の耳環の数から、石室内には5名埋葬されたと考えられています。
石室内からは豊富な副葬品が見つかり、その豪華さでは東海地方で比肩できる古墳がなく、飛びぬけた存在となっており、比較する際には奈良の藤ノ木古墳がよく引き合いに出されます。石室の構造や副葬品の種類から、非常に畿内的色合いの強い古墳と評価されています。
この古墳の登場により、ついにこの地は駿河の中心地となりました。
なお、石室内を見学することはできませんが、外から中の状況が観察できるようになっています。
玄室に安置されている家形石棺は結構距離がありますが、静岡市埋蔵文化財センターに実物大のレプリカが置いてあるので、それを見ると大きさが分かります。
18
神明山4号墳
神明神社の境内の端にひっそりと存在するのが神明山4号墳で、後期末に築造された径18mの円墳です。
石室開口部には境内からではなく、右手の公園の方から近づけます。ただし、そこにもフェンスがあるため、石室に入ることはできません。
フェンスの隙間からカメラを突っ込んで撮影。
墳丘自体は18mほどですが、石室は10.2mもあります。
説明板にも記されている通り、石室内からは多彩な遺物が出土し、説明板に「大型の馬鈴」と記されているのはこちらの八角陵馬鈴です。
この中にはさらに小鈴が入っており、鈴の音が二重にするという非常に珍しいものです。かつ、この大きさで精巧なものとしては列島随一といっても良い品です。
美しい装飾品も出ています。
これらの写真は、AICTで2022年12月2日に静岡市埋蔵文化財センターを訪れた時に開催されていた「イハラの古墳がおもしろい!」の展示です。装飾大刀をはじめとして武器類も良いものが展示されていましたが、こういう大雑把な写真しか撮りませんでした。
金銅製の圭頭柄頭もありますし、銀象嵌されたものもあります。もうちょっと精密な写真を撮っておけばよかった。
須恵器もありますよ。
古墳自体は石室内に入ることができないためあまりパッとしませんが、こうやって遺物を見ると俄然興味が湧いてきますね。
16
原分古墳
静岡県内では、後期以降に古墳の造営が盛んになりますが、後期や終末期の古墳の中には、横穴式石室が観察できる状態になっているものもあり、長泉町にある原分(はらぶん)古墳もその一つで、7世紀に築造された、径16mの円墳です。
現地には詳しい説明板があります。
原分古墳は、元々は北側の現在道路になっている位置にあったのですが、道路建設の際にこちらに移設されました。説明板に掲載されているのと同じような発掘調査時の写真が静岡県埋蔵文化財センターに展示してあります。
どうでも良い話ですが、よく見ると、説明板の方の写真には東海道本線が写り込んでいますが、こちらには無いですね。
石室の長さは7.6mで、無袖型の「玄室ワンルーム」の石室です。賤機山古墳は、石室内に入ると少し登りのスロープになっていますが、こちらは反対に玄室に入るとき床面が一段下がっています。
中に入ることはできませんが、電気が付きます。カメラを突っ込んで中を撮ると、玄室の奥壁の鏡石は結構な大きさであることが分かります。
石室について、説明板で確認してみましょう。
室内にあった刳抜式の家形石棺が敷地内に展示してあります。
玄室の入口を塞いでいた閉塞石も展示してあります。
墳頂に上がると、天井石が見えるようになっており、こういう復元の仕方もいいですね。
原分古墳は移築ですが、横穴式石室を備えた古墳の場合、古墳マニアの多くは墳丘よりも石室を知りたいため、移築であっても石室が残されているのは良いことだと思います。
原分古墳の出土遺物は、静岡県埋蔵文化財センターに展示してあります。
16
清水柳北1号墳
国内に10基ほどしか確認されていない珍しい上円下方墳です。ただし、移築です。
沼津市埋蔵文化財センターには、現地説明板とアングルの異なる発掘時の写真が展示されています。