最終更新日:2024年3月31日

 ※自治体ごとに示し、自治体の並び順は五十音順です。
 ※一覧の見方に関しては、こちらをご覧ください。
 ※現代の東葛飾および葛南振興事務所管内の自治体とし、白井市は千葉県(下総その他)のページに含めます。

 

目次

我孫子市

市川市

柏市

鎌ケ谷市

船橋市

松戸市

 

 

我孫子市


下ヶ戸貝塚

さげとかいづか

後期から晩期の遺跡で、住居跡と地点貝塚が検出されている。

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15
前原古墳(1号墳・2号墳)跡

発見時は主体部を含めて墳丘はすでになかったが、一辺15mの方墳が2基並んで確認された(西が1号墳、東が2号墳)。周溝から見つかった土器によって3世紀後葉の築造とされる。

現在は高野山桃山公園の一画で、ここからの手賀沼の眺めは最高。

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26
香取神社1号墳

香取神社古墳群。前期の方墳の可能性があるとされているが不詳。

香取神社古墳群には説明板はない。

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26
香取神社2号墳

香取神社古墳群。詳細不明。

道路側から見ると前方後円墳に見えるが分からない。

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香取神社古墳群のなかの1基かもしれないが、北総はやたらと中世の塚も多いため何とも言えない。

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69
水神山古墳

すいじんやまこふん。4世紀末から5世紀初頭にかけて築造された墳丘長69mの前方後円墳。手賀沼沿岸で最大、千葉県北西部全体で見ても、市川市の法皇塚古墳(65m)よりわずかに大きい。

後円部墳頂の主体部は、長辺を墳丘の長軸と並行させた長さ7.2mの粘土槨で、5.13mの割竹形木棺が安置されていた。

墳丘の形状は説明板の図を見ても分かる通り、いかにもという形の前方後円墳。この水神山古墳の築造によって、この地域がヤマト王権の影響下に完全に入ってしまったことが分かる。

立地は香取海(今の手賀沼)に横腹を見せており、香取海を航行する船からも見えたはず。

とても素敵な古墳。

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36
高野山1号墳石室(移築)

我孫子市立我孫子中学校の敷地内、正門近くに移築保存してある。

高野山1号墳は、6世紀後半に築造された墳丘長36mの前方後円墳で、初葬の主体部は不詳だが、墳丘後円部裾をめぐる形で4基の埋葬施設が見つかった。

4基の内、3つが石棺(直葬?)、1つ(4号)が竪穴式石室だった。移築されているのはこの4号。

石室内には約7体分の遺骨があり、3号からも3体出ており、6世紀後半における古墳の複数埋葬の珍しい事例として大変興味深い。

この時代は群集墳の時代で、横穴墓も造られていることから、古墳に従来よりも多くの人びとが葬られるようになった。高野山古墳群自体も群集墳であるが、個別の古墳を造らずに、盟主的な古墳の墳丘に墓域を設け、しかも1基の埋葬部に複数の遺体を納めた理由は果たして何だったのだろうか。

しかし小形の石室に7体というのは異様である。

※見学する際は学校の許可を得ること。

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30
日立精機2号墳


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子の神古墳群

6世紀初頭から末にかけて築造された群集墳。14基の古墳からなり、14号墳が前方後円墳であるほかはすべて円墳。

子の神大黒天の境内部分に関しては、14号墳の墳丘もほとんど分からず、他の古墳も分からなくなっている。

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香取神社(高野山)

手賀沼沿岸に多い香取神社の一社。由来書きなし。

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将門神社

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子の神大黒天

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我孫子地区公民館アビスタロビー

1階ロビーに下ヶ戸貝塚から出土した遺物が展示してある。数は少ないが、優品が揃っているためわざわざ立ち寄る価値がある。

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我孫子市湖北郷土資料室

我孫子市内の湖北地域の歴史を紹介する施設。S字甕の優品もあってなかなか素晴らしいのだが、令和6年度に閉室するということだ。

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市川市


堀之内貝塚

 

説明板に載っている堀之内1式土器(複製)

堀之内2式土器群
左側が小田原市山田出土の堀之内1式土器で、右側が堀之内貝塚から出土した面白い形をした土器(これ以降、國學院大學博物館にて撮影)
東京都町田市相原遺跡出土の堀之内1式土器
東京都町田市相原遺跡出土の堀之内1式土器
堀之内1式の注口土器群
 
 

縄文時代後期前半から晩期中頃の集落跡。東西に長い尾根上に造られたU字型の馬蹄形貝塚で、長径100m、最大短径110m(説明板による)。開口部は東側。

記録の上では明治16年には遺跡としてその存在が知られており、明治37年には東京人類学会の遠足で発掘され、その後も東京から近いということもあり、多くの学者やマニアが訪れ掘り散らかした。比較的大規模な発掘調査は昭和38年の杉原壮介率いる明治大学による発掘(B地点)。

山内清男は、本遺跡出土の土器を堀之内式土器と命名し、新旧で1式と2式に分類した。ただし、このように堀之内式土器の標式遺跡にもかかわらず、古くからの乱掘もあって遺跡の全容は分かっていない。

説明板に載っている土器は個人蔵の堀之内1式土器で、市川考古博物館に複製が展示してあり、同館には2式土器も展示してある。また、國學院大學博物館にも堀之内式土器の展示がある。

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曽谷貝塚

 
左上の土偶は曽谷貝塚から出土(市川考古博物館にて撮影)
ちなみにこれは秋田県北秋田市藤株遺跡出土の縄文後期の土偶(伊勢堂岱縄文館にて撮影)
曽谷貝塚出土の堀之内2式土器(市川考古博物館にて撮影)
曽谷貝塚出土の安行1式異形台付土器(市川考古博物館にて撮影)
 

北側に開口する縄文時代後期の馬蹄形貝塚。現状はだだっ広い広場になっており、近所の子供たちが野球などをして遊んでいる。

外径南北240m、東西210m(説明板による)で、国内最大級の貝塚。貝塚はCの字の窪んでいる中央部周辺で見つかり、Cの字の高まりの部分から外側にかけて住居跡が見つかっている。

出土する土器は、称名寺式、堀之内式、加曽利B式、安行式土器などでこれらは後期の土器であり、遺跡自体は後期がメインとして考えてよいだろう。

市川考古博物館には、本遺跡出土の土偶や堀之内2式の深鉢、安行1式の異形台付土器が展示してある。

本遺跡を標式とする曽谷式土器もあるが、個体数は少ない。

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姥山貝塚

うばやまかいづか

 
 
 
 
姥山遺跡出土遺物(市川考古博物館にて撮影)
 

縄文時代中期の集落跡で貝塚を伴う。見つかった住居跡は39軒、人骨は143体で説明板が設置された昭和57年の時点では国内で3番目の数。

現状では南側に開口する馬蹄形貝塚に見えるが、乱掘の影響もあるため、実際はリング状だった可能性がある。外径は東西130m、南北120m(説明板による)。

住居跡を完掘したことにより、日本で初めて縄文時代の住居が炉を持つ竪穴住居であることが確実に分かった。

大正15年には考古学に造詣が深かったスウェーデンのグスタフ・アドルフ皇太子(後に即位)が発掘し、その際皇太子は層序を気にしたが対応した大山柏はそれほど気に留めなかったという逸話が残る。

現地には各発掘地点ごとに説明板が設置されていて、発掘の歴史を追うことができて楽しい。なお、杉原壮介発掘地点(S2地点)も明示されているが、このとき杉原は旧制中学生。

市川考古博物館には、本遺跡出土の注口土器や石皿などが展示してある。

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65
法皇塚古墳

ほうおうづかこふん

国府台古墳群

6世紀後半に築造された千葉県北西部最大の前方後円墳。前方部はおおよそ北西を向いており、江戸川の方に側面を見せて築造されているが、角度的に川から見ることは無理。

関東の古墳としては珍しい片袖式の横穴式石室を備えているが、天井石は見つかっていない。千葉県の古墳としては貴重な挂甲も見つかっている。

埴輪は下総型と生出塚埴輪窯産のものが見つかっているが、器材形埴輪に関してはすべて生出塚産。

現在の千葉県・東京都・埼玉県の江戸川流域を見渡しても大きな古墳は築かれず、後期後半にいたってようやく市川市に法皇塚、弘法寺、明戸、そして葛飾区に柴又八幡神社古墳といった前方後円墳が築造され、松戸市の栗山古墳群や葛飾区立石の古墳群などの群集墳の築造も始まる。

この地域での前方後円墳の築造順は分からないが、6世紀後半になってから国府台やその西側の東京低地で突如として古墳の造営が始まることから、本地域の開発を推進するために畿内から遣されてきて、この地域の支配者の高祖的人物が被葬者でないだろうか。挂甲の出土や片袖式の横穴式石室からそれが推測できる。

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40
明戸古墳および国府台城跡

あけどこふん

 
 
 

戦国期の国府台城の土塁の一部に利用されてしまったが、なんとなく古墳であることが分かる。後円部には箱式石棺が2基並んでおかれており、元々の位置を保っている。石材は黒雲母片麻岩で、この石は筑波山麓から運ばれてきた。

古墳の向きは法皇塚古墳とほぼ同様だが、やはり江戸川からは見えないだろう。

40m(説)
10期
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43
弘法寺古墳

ぐほうじこふん

 
 

現地標柱の説明によると、6世紀後半から7世紀前半の築造とあり、関東における最終段階の前方後円墳の一つであろう。

台地上の南縁に東西の主軸で前方部を西に向けて築造されており、海側から仰ぎ見られるような立地。現在は墳丘の南側は崖の崩落とともになくなっており、墳丘に登ることはできない。

43m(説)
10期

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真間山古墳

ままやまこふん

 

弘法寺古墳と同じく弘法寺境内にあり、円墳と考えられているが、調査がされておらず詳細不明。弘法寺の境内にはほかにも古墳のようなものがあるが、確実なものはない。

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下総国府跡

しもうさこくふあと

 

説明板はおろか、標柱も無いが、発掘調査によって国衙の位置が分かっている。

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下総総社跡

しもうさそうじゃあと

 
 

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下総国分寺跡

しもうさこくぶんじあと

 
 

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下総国分尼寺跡

しもうさこくぶんにじあと

 
 

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柏市


戸張一番割遺跡

遺跡は、日体大柏高校や戸張地区公園周辺に広がる。

3世紀半ば頃に稼働していた環濠集落跡で、130軒以上の建物跡が見つかった。当時の北総地域での大規模拠点集落。

発掘時の写真を見ると、環濠の隅の部分が突出している。まるで櫓を設置して横矢を効かせているような平面形だが詳細不明。

畿内系のタタキ甕や伊勢湾岸のS字甕など、外来系土器が多数出土している。

目で見られるものはとくになく、説明板もない。

出土遺物は、柏市郷土資料展示室に展示してある。

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戸張城山遺跡

遺跡は、文京区立柏学園の敷地内。

戸張一番割遺跡と同様な環濠集落で、稼働時期も同じ頃。

竪穴住居が復元されているようだが、柏学園が平成25年から休校中のため、敷地内に入ることはできない。説明板もない。

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14+
戸張一番割1号墳跡

戸張一番割遺跡にある北総最古の前方後方墳で、築造時期は3世紀半ば頃と推定される。

戸張地区公園の台地の縁の部分にあり、現在目で見られるものはなく、説明板もない。

前方部が未発達の前方後方墳で、発掘時の写真を見ると、すでに墳丘は失われていたかほぼ無い状態だったようだ。環濠集落に隣接して築造されており、周囲には方形周溝墓もあった。

前方後円墳データベースによると、墳丘長は14m以上で、後方部は10m。

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21.5
北ノ作1号墳

以前は、説明板にあるように方墳とされていたが、現在では短い前方部を持つ前方後方墳と認識されている。

北総では、2番目に古い前方後方墳。

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30
北ノ作2号墳

北総で3番目に古い前方後方墳。

前方後円墳データベースによると、墳丘長は32m。

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46
大井浅間古墳

北総で4番目に古い前方後方墳。

前方部は道路建設のため湮滅し、後方部は浅間神社となっており残存。

説明板はない。

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21
権現古墳

説明板はあるが、古墳の名前しか書かれていない。

発掘調査はされておらず詳細不明。

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船戸古墳群

6世紀後半から7世紀前半にかけて築造された40基の古墳からなる手賀沼周辺を代表する群集墳。

その中には、前方後円墳が7基含まれ、小型前方後円墳が群集墳内に多く含まれるという北総の特色が現れている。

敷地内には立ち入ることができず、柵の外からの見学となる。

出土遺物は、柏市郷土資料展示室に展示してある。

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平将門 王城の地

平将門が都とした場所といわれている。

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香取神社(戸張)

新しめの住宅に完全包囲されているが、100mほどの参道とともに残っている。

手賀沼沿岸は香取神社の信仰圏。ただし、下手賀沼沿岸には鳥見神社の信仰圏が展開する。

由来書きはない。

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戸張城跡

文京区立柏学園の敷地内が城域だが、柏学園は平成25年から休校中のため、敷地内に入ることはできない。

敷地西側にある校門あたりから敷地内をのぞき込むと、空堀や土塁らしきものが見える。

説明板はない。

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柏市郷土資料展示室

小ぢんまりとした展示室だが、選りすぐられた考古遺物が並んでいて素晴らしい。

縄文土器も市内の遺跡から出た各型式を代表するような土器が並び、古墳時代では、戸張一番割遺跡の出土遺物が展示してある。

また、原1号墳出土の魚形埴輪は大変珍しいもので千葉県ならではの埴輪。弁天古墳出土の石枕と立花も当地域ならではの逸品。

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鎌ケ谷市


中沢貝塚

 
 

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下総小金中野牧跡

 
 

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船橋市


下郷後遺跡

 
 

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松戸市


栗山古墳

栗山浄水場の周辺には6世紀後半から7世紀にかけて古墳が築造されたが、墳丘が残っているのは栗山浄水場の南西角の西向かいの雑木林の中にある栗山古墳とその西側にある小墳丘のみ。

栗山浄水場南側の天神山遺跡と北側の立出し(たてだし)遺跡では、それぞれ5基の周溝跡が検出されており、それらを含めて栗山古墳群と呼び、市川市の国府台古墳群の支群に位置付けられる。

現状分かっている範囲では、合計12基の古墳からなるが、栗山浄水場を作る際に調査をしていないようなので、実際にはこの倍くらいの古墳があったかもしれない。

現在みつかっているものを見るとすべて円墳で、規模は10m台ほどだが、立出し遺跡の第1地点では、内径25m以上の周溝が確認されている。

栗山古墳群からは多くの埴輪が見つかっており、立出し遺跡第1地点で見つかったものは、群馬県産のものが多い。

栗山古墳からは、埼玉県行田市の生出塚産の埴輪も見つかっているが、同じ頃の栗山古墳群のボス古墳である市川市・法皇塚古墳でも生出塚産の埴輪が多く見つかっている。

また、栗山古墳群では房州石の破片が見つかっていることから、石室あるいは石棺の部材として使われていたことが分かる。

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2度訪れたが2度とも標柱の説明文は藪に覆われていて読めなかった(松戸市頑張れ!)

 

 

 

野馬除土手

 
 

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野馬除土手の木戸遺構

 
 

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金ケ作陣屋跡

 
 

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高龗神社・香実会所跡

 

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栗山配水塔

昭和12年に築造されて、いまなお現役の配水塔として稼働している。

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松戸市立博物館

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