最終更新日:2024年3月6日

 

目次

弥生時代後期

前期古墳

中期古墳

後期古墳

終末期古墳

 

 

埼玉県の弥生時代後期

 北部九州では、弥生時代中期後半には、魏志倭人伝に記されている伊都国や奴国などの元になった国ぐにが生まれ、それが持続発展します。ところが埼玉県では、弥生時代の国を思わせるような集落跡や、王墓を思わせるような墳丘墓は見つかっていません。しかしだからと言って、人びとの生活の痕跡が乏しいわけではなく、例えば武蔵野台地の辺縁部にある和光市の午王山遺跡は弥生後期(2~3世紀)の大規模な環濠集落で、150棟以上の竪穴住居跡が検出され、環濠は多重となっています。そこで見つかる土器からは、関東各地の広範囲から人びとがやってきたことが分かります。弥生後期は列島全体で人びとの動きが活発な時期です。

 このように東京都内から連続する武蔵野台地の台地上には、都内と同じく環濠集落がいくつも見つかっており、多くの人びとが住んでいたことが分かります。また、方形周溝墓群も多数見つかっています。ただ、そういった村々の成員の中で他者から抜きに出た権力を持った特定少数の人びとが現れることがなかったのです。現れなかったということは、社会的にそういう必要がなかったということになります。

 下の図は、弥生時代後期の環濠集落の分布図です(神崎遺跡資料館にて撮影)。

神崎遺跡資料館にて撮影

 埼玉県域を見ると、既述したように荒川右岸の武蔵野台地の辺縁部に都内から連続して環濠集落が分布しているのが分かります。さらに対岸の大宮台地にも多数の分布が認められます。

 これらの環濠集落の成員には、東海東部に出自を持つ者も多く居ました。そのなかでも、荒川右岸の人びとは、天竜川東岸から大井川西岸の東遠江(東遠)地方がルーツの菊川式土器を使っていたことが分かっています。

 その後、列島各地が古墳時代に突入する3世紀半ば頃、埼玉県もその時代の流れの埒外に置かれることは無く、古墳の造営が始まります(S字甕を携えた東海西部の人たちがやってきたのはこの頃です)。

 

 

埼玉県の前期古墳

25
根岸稲荷神社古墳|東松山市

 冒頭に武蔵野台地辺縁部の話をしましたので、その流れだとその場所に初期の古墳が造られたという話になりそうですが、その地域に初期の古墳はありません。埼玉県の最古級の古墳は、比企地方にあります。東松山市にある根岸稲荷神社もそのうちの一つです。

 写真の通り墳丘が残っていて、その上に稲荷神社が祀られています。

 

 現状では方墳のようになっていて、現地で見ると参道の方向に土が流れているので、そこに前方部があったように思えますが、実際は、鳥居に向かって右側にもともと前方部があったのが完全に隠滅しています。つまり、前方部を東に向けた東西軸の前方後方墳で、墳丘長は25mほどです。後方部の先端部分は河川改修によってなくなっています。

 

 この古墳の周溝からは在地の吉ヶ谷(よしがやつ)式土器の系譜に連なる壺が出土しており、生粋の東海系というわけでもなさそうです。吉ヶ谷式土器は、後期中葉以降に比企や入間を中心に分布する土器です。

 厳密にどの古墳が最古なのかは言いづらいため、最古「級」という言い方をよくしますが、その中でも、この根岸稲荷神社古墳こそが、「埼玉県最古の古墳」と言える最有力候補です。

 なお、現地には説明板はおろか、古墳と分かる標柱など何もありません。

 


三ノ耕地遺跡|吉見町

 三ノ耕地遺跡は、現況ではまったく目で見られるものは残っていません。

 

 下の写真は、吉見町埋蔵文化財センターのパネル展示を撮影したものですが、よく見ていただくと分かる通り、前方後方墳とそれを取り囲む方形周溝墓群が検出されています。

吉見町埋蔵文化財センターにて撮影

 これは第1次発掘のときの写真ですが、中央やや左に前方部を上に向けた前方後方墳(1号墳)があり、その上にもう1基、同じ向きでそれよりも小さい前方後方墳(2号墳)が見えると思います(この写真は下がおおむね北)。復元イメージはこんな感じです。

吉見町埋蔵文化財センターにて撮影

 第2次調査において、南にもう1基前方後方墳(3号墳)が見つかっており、3号墳(25m)、2号墳(30m)、1号墳(48.8m)の順に墳丘規模が大きくなり、それに伴って前方部が長大化しています。これらの墳墓群は低地にあるのですが、北側の丘の上には墳丘長54.8mの前方後方墳・山の根古墳があります。

 出土土器にはパレススタイル土器もあり、バリバリの東海西部系です。

 この墳墓群も埼玉県内では最古級の古墳ですが、埼玉県ではこの時期の前方後円墳は一つも見つかっていません(ただし、3号墳の隣に前方後円形周溝墓が見つかっており、惜しいところまでは行っていました)。

 


塩古墳群|熊谷市

 群集墳というのは、その名の通り群集している古墳のことですが、単に「群集墳」と呼んだときは、暗黙的に後期(6世紀)の群集墳を指すことが多いように思います。というのは、後期は群集墳が列島各地でフィーバーするからです。ただし、前期(3~4世紀)でも古墳が群集していることがあり、関東地方では、熊谷市の塩古墳群が著名です。地域区分的にはこちらも比企の範囲内です。まずは、分布図をご覧ください。

埼玉県指定史跡「塩古墳群」の調査(熊谷市教育委員会/編・2011)より転載

 これを見て古墳好きな方がまず注目するのは、Ⅰ支群に前方後方墳が2基あることでしょう。この2基はここのリーダーの墓です。さらに、場所によっては異様に方墳が多いことにも気づくと思います。

 一般的に後期の群集墳は円墳から構成されます。塩古墳群でも、Ⅱ支群やⅢ支群は円墳がほとんどですが、これらは後期の群集墳で、いわばノーマルな古墳たちです。それに対するアブノーマルなものはどれかというと、やはり方墳ですね。

 塩古墳群で最古のものはⅠ支群の中心にある方墳(3号墳)です。そのあと前方後方墳が2基築造されました。

塩3号墳

 前期初頭の場合は、その地域のリーダー古墳が造られた際、それと同じ時期の古墳を周囲には造らないのが一般的で、リーダーの墓は隔絶した存在であることを誇示します(次の世代のリーダーの古墳を隣に作ることはよくあります)。なのに塩古墳群では、そんなことお構いなしに周辺にポコポコ方墳を作っているわけです。みんな、リーダーのことが好きだったのかなあと思いますが、実はこういう様相はちょっと弥生時代的なのです。

 Ⅰ支群が造られた時期は古墳時代前期前半ですが、造った人たちの気分はまだ弥生時代だったのかもしれません。

 ちなみに、Ⅰ支群を造ったと考えられる集団の集落跡からは、やはりS字甕が少なからず見つかっています。つまり、東海系の人びとが、熊谷にも侵入しているということです。

 ところで、先ほど紹介した三ノ耕地遺跡にも前方後方墳を取り巻いて四角い墓が沢山あるため、似たようなものではないかと思う方もいるでしょう。しかし、明らかな違いは、三ノ耕地遺跡の場合は方形周溝墓ですが、こちらは方墳なのです。塩古墳群はちょっと特殊な光景なのです。

  

53
諏訪山29号墳|東松山市

 その名前からわかる通り、周辺ではたくさんの古墳が見つかっており、諏訪山古墳群の近くにも古墳が沢山あります。その中で最古の古墳は、墳丘長53mの諏訪山29号墳です。私が訪れた時は、森の中にあって完全に藪化していました。2月なのに完全常緑です。

 

 大廓(おおぐるわ)式の大型壺が見つかっていますが、大廓式土器は駿河の土器ですから、S字甕を擁する東海西部系ではなく、東部系です。一口に東海系と言っても様々です。

 

115
野本将軍塚古墳|東松山市

 野本将軍塚古墳は、墳丘長115mの前方後円墳で、前期古墳としては埼玉県最大です。長い間築造時期に関して論争が続いていたのですが、数年前に4世紀後半ということで決着しました。

 

 前期古墳であることがはっきりしたことは非常に重要で、とかく多摩川流域と荒川流域の南北二つの勢力で語られることの多い武蔵の古墳について、新たな問題を投げかける古墳です。安閑紀の武蔵国造の乱と古墳を絡めてストーリーを語る研究者が多いなか、新たな説の誕生を促す古墳となります。

 多摩川流域に荏原台古墳群が勢力を張っていたのと同じ頃、隅田川上流の入間川のさらにその支流の市野川流域(入間川と荒川の当時の流路は現代と違う)に位置する比企地方で、この野本将軍塚古墳とそれに続く5世紀の帆立貝形の雷電山古墳(後述)が築造されたというのは大きなインパクトがあります。

 さて、ここまで述べた古墳はすべて比企地方の古墳でした。埼玉県の前期古墳を見ると、比企地方の造墓活動が卓越しているのですが、利根川を遡った児玉地方にも前期の特筆すべき古墳があります。鷺山古墳は60mの前方後方墳で、前期後半の築造です。S字甕をはじめとする伊勢湾岸に出自を持つ土器が見つかっており、東海西部勢力が利根川を遡上してテリトリーを確保して行った様子が分かります(彼らは特に群馬県域で大きく繁殖します)。もうひとつは、前山1号墳で、70m以上の前方後円墳です。この古墳は児玉地方における最初の首長墓級前方後円墳で、野本将軍塚古墳と同じ頃に築造されています。

 

 

埼玉県の中期古墳 

86
雷電山古墳|東松山市

 雷電山古墳も東松山市にあり、市野川の上流域に位置します。墳丘はゴルフ場に隣接した森の中に隠れており、写真に撮りづらいのですが、個人的には帆立貝形の中ではとくに好きな古墳です。

 

 5世紀に入ると前方後円墳だけど前方部が短くてしかも低い、いわゆる「帆立貝形」とか「帆立貝式」と呼ばれる古墳が造られ始めますが、雷電山古墳はまさしくそれです。現地説明板にはサイズが書かれていないのですが、東松山市の公式HP内にある埋文センターのページによると、86mとあります。

 

 雷電山古墳の特徴としては、埼玉県で最古の埴輪が見つかったことが挙げられます。5世紀になって初めて墳丘に埴輪を樹立するというのは遅くて驚きますが、しかもその埴輪の形状も製作技法もオリジナル感丸出しなのです。

 帆立貝形という墳形である以上は、完全にヤマト王権の影響下に置かれていたはずなのに、そこに並べた埴輪は、表面に刷毛目(横や縦の線)がなく、形も独特です。そこに被葬者のアイデンティティを伺うことができる、と評価しておきましょう。

 ※どんな埴輪なのかは、手元に写真がないので東松山市埋文センターのHPをご覧ください。

 変な埴輪を作ったせいで没落したわけではありませんが、比企周辺においては、雷電山古墳のあとは半世紀以上(70~80年くらい?)、大型墳は造られません。

 一方、児玉地方では、金鑚神社古墳など、50~60m級のやや大型の円墳を立て続けに6基以上も築造し、ちょっと変わった様相を呈しており、埼玉県の中期に関しては、この円墳たちがある種、異様な精彩を放っているわけですが、全県的に古墳の造営が寂しい時期です。

 なお、令制武蔵国全体に広げて見てみると、雷電山古墳の築造と同じ頃、多摩川流域では同じく帆立貝形の野毛大塚古墳(世田谷区)が築造され、こちらは82mです。

東京都世田谷区・野毛大塚古墳

 雷電山古墳と野毛大塚古墳は、まさに「武蔵帆立貝デュオ」と称せられるべき名墳であります。

 

 

埼玉県の後期古墳

120
稲荷山古墳(埼玉古墳群)|行田市

 後期に入ると、今まで古墳の築造が無かった現在の行田市に、突如として大型前方後円墳の築造が開始されます。5世紀第4四半期(後期初頭)に築造を開始した「国指定特別史跡・埼玉古墳群」で、そのトップバッターは、「国宝・金錯銘鉄剣」が出土した稲荷山古墳です。

稲荷山古墳
国宝・金錯銘鉄剣のオモテ面(さきたま史跡の博物館にて撮影)

 稲荷山古墳は、墳丘長120mを誇る大型前方後円墳で、大きさは、埼玉県で3位です。ちなみに、全国では多分、145位です。

 特別史跡の範囲内には、8基の前方後円墳と1基の円墳が含まれ、前方後円墳は大型のものが多く、円墳である丸墓山古墳は、円墳としては大きさは全国2位です。周辺にも多くの古墳があり、またすでに湮滅してしまった古墳も多く、公園の中にも湮滅した古墳がさりげなくその形跡が分かるように植栽で表現されていたりします。

 これらの多くの古墳たちが狭い場所にギュッと凝縮されて築造されているのが特徴の一つで、どうしてもこの場所に古墳を造りたかったという意思が現れています。古墳群の場所は完全に墓域で、住居跡は見つかっていません。

 個人的に、古代史に興味を持った方にまずは行って欲しい古代遺跡を挙げるとすれば、縄文時代では三内丸山遺跡、弥生時代では吉野ヶ里遺跡、古墳時代では埼玉古墳群を挙げます。

 畿内の遺跡を挙げていませんが、別にいいです。

 百舌鳥古市古墳群の歴史的重要性は言うまでもないですが、古墳というものをヴィジュアル的に楽しんで、そして学習する場所としたら、百舌鳥古市古墳群より埼玉古墳群の方が初心者にはお勧めです。百舌鳥古市古墳群は、もっと上級者向けの古墳群です。ただし、埼玉古墳群は初心者にお勧めといっても、訪れる人の成長に合わせて末永くお付き合いができる古墳群で、私は8年の間に11回行っていますが飽きません。

 稲荷山古墳は、既述した通り、これまで古墳の造営が見られなかったエリアに突如として築造された大型前方後円墳ですが、全国を見渡すと、後期にはこのように何の脈略もないような感じで突如として大型前方後円墳が築造されるケースがあり、とくに関東地方はそれが顕著です。

 これは中央の政策と連動していることは確かなのですが、残念ながら日本書紀を読んでもそれを直接的に伺わせるものはなく、時代的には雄略天皇が崩じて、その後、継体天皇が現れるまでに天皇が短い在位期間で次々に即位した、ある種の「不明瞭」な時代に相当します。

 関東地方で稲荷山古墳と同期の古墳を探すと、栃木県小山市の摩利支天塚古墳(120.6m・栃木県で3位)や、保渡田古墳群の井出二子山古墳(108m)といった関東地方を代表する錚々たる古墳たちがおり、もし芸能界にいれば「花の後期初頭組」と呼ばれるような古墳たちです。

摩利支天塚古墳(栃木県小山市)
井出二子山古墳(群馬県高崎市)

 稲荷山古墳は、戦前には土取りのために前方部が破壊され、整備が始まったときには円墳状になっていました。それでも埴輪片や須恵器片は大量に見つかっています。埼玉古墳群の須恵器編年に関しては、さきたま史跡の博物館に便利な図が展示されています。

さきたま史跡の博物館にて撮影 

 

62
おくま山古墳|東松山市

 稲荷山古墳が華々しくデビューしたのとほぼ同じ時期の埼玉県内の古墳を見てみましょう。

 前期の埼玉県では、古墳の造営では比企地方が優勢だったことは既述しました。そしてその比企地方でも中期初頭に雷電山古墳が築造されたのちは造墓活動が低調になったのですが、後期初頭の5世紀末に少し大きな古墳が造営されます。東松山市のおくま山古墳です。

 

 前方部が短いため、帆立貝形古墳のように見えますが、前方部の高さはそれまでの帆立貝形に比べてせり上がってきています。さらに時代が進むと、上から見た形状は帆立貝であっても、前方部が高く造られる古墳が現れるため、それへの過渡期の古墳かもしれません。

 埼玉県では中期初頭の雷電山古墳でようやく埴輪が登場しましたが、おくま山古墳では、過去3度に渡る周溝の発掘調査によって、円筒埴輪や朝顔形埴輪、盾持人埴輪が出土して、もはや埼玉県でも埴輪は普通の存在になっています。すなわち、雷電山の円筒埴輪を見て笑ったヤマトの役人を見返してやったぜ!のような様相を呈しているわけです。

 現地説明板には盾持人埴輪の写真が掲載されているのですが、印刷が薄くなっていて、本物以上に鬼気迫る表情で今なおこの古墳を悪霊から守護しています。

 
俺たちがロック魂で被葬者を護ってるぜ!左からドラム、ヴォーカル、ギター、ベースと推測(説明板一部拡大)

 説明板には、榛名山二ッ岳渋川テフラ(Hr-FA)の降下後の6世紀初頭の築造とありますが、FA降下は、最近では497年とされており、従って築造時期は5世紀末となります。埼玉県内でこの頃の古墳を探すと、行田市内にとやま古墳という69mの前方後円墳がありましたがすでに湮滅しています。おくま山古墳もとやま古墳も墳丘規模ではまったく稲荷山古墳に及ばず、後期初頭の埼玉県では、稲荷山古墳が独り勝ち状態であったことが分かります。

 

105
丸墓山古墳(埼玉古墳群)

 埼玉古墳群は調査が進んでおり、様々なことが分かっているのですが、その反面、分かっていないことも沢山あります。当たり前ですね。埼玉古墳群最大の謎といったら、巨大円墳の丸墓山古墳にまつわる様々な事柄です。

 

 丸墓山古墳は直径が105mもあり、つい数年前まで日本最大の円墳でした。ところが、奈良市の富雄丸山古墳に抜かれてしまったのです。古墳は生きていませんので、富雄丸山が成長して追い越したわけではなく、最新技術で測り直したら富雄丸山の方が大きかったのです。

 ニュースで富雄丸山古墳を報道する際には、必ず「日本最大の円墳」を冠して強調しているのは癪に障りますが、致し方ありません。盗掘の逆パターンで、富雄丸山を抜くために土を盛るのも法律違反ですからやめましょう。

 富雄丸山は最近も面白い発掘結果がよくニュースに流れて、大変興味深い古墳ですが、丸墓山は発掘調査がされているものの周溝と墳丘テラス面のみで、ニュースになるような遺物が見つかっていません。主体部は、掘っていませんし地下レーダー探査もしていません。

 築造時期もはっきりせず、二子山より前か後かでずっと揉めていましたが、現在では、稲荷山と二子山との間の築造で、6世紀第1四半期との評価が一般的だと思います(第1四半期の中でも前半、つまり6世紀初頭)。

説明板では、2023年6月4日の時点ではまだ「日本最大」の記述のままです

 形状に関しては、多くの円墳を見ている方は気づくと思いますが、異様に斜面が急です。墳丘には登れるようになっているのですが、その階段を一気に登り切れず、途中で休む人もいるくらい急です。南側斜面に関しては、後に西行寺を作った際に整形された可能性が高いということですが、それにしても急です。

 現地に行った時によく観察して欲しいのですが、他の古墳が造られている面の範囲内に造ることができず、一段下がった面に跨ぐ、地形的な段差の上に築造されています。

 そして、その段差の高い方の縁には、天正18年(1590)の豊臣政権による忍城攻めの際に石田三成が築いたとされる石田堤が築かれており、丸墓山に接続しています。

 このように、地形的に不自然な場所に無理をしてでも105mの円墳を造っているのです。

 周溝は現状では一周していませんが、往時は一周していたと推定され、結構広い幅があって、周溝を含めた最大径は推定で206mもあります。ただ、広大な周溝を掘ったにもかかわらず、計算上ではその分の土では墳丘を造るのに足りません。足りない分はどこからか運んできたのです。

 埼玉古墳群の古墳たちは葺石が施されていないのですが、唯一、丸墓山のみ葺石が検出されています。ただし、それが墳丘全面を覆うものであったかどうかは分かりません。

 前方後円墳で大事な部分は、一部の例外を除いて前方部ではなく後円部です。そのため、前方後円墳の本当の価値を知るためには後円部に注目する必要があります。

 丸墓山は円墳ですが、円丘だけに注目したら丸墓山古墳は埼玉古墳群最大となり、仮にもし前方部を付けたら、東日本最大の古墳になった可能性があります。

 どう考えても被葬者は大変力があった人物でしょう。でも、なぜそのような人物が前方後円墳を造らなかったのでしょうか。これが丸墓山古墳の最大の謎です。

 仮説としては、稲荷山から二子山に続く本流の人ではない、傍系の人で、家を継ぐことはできなかったものの大変な権勢を誇った人物というような想像ができます。ありきたりな想像ですが。

 皆さんも、丸墓山古墳の被葬者像の謎解きに挑戦してみてください。

 

132.2
二子山古墳(埼玉古墳群)

 稲荷山古墳に続いて築造された前方後円墳は二子山古墳です。墳丘長132.2mで、埼玉県最大、武蔵国でも最大となります。全国では多分105位。武蔵国大会では優勝しても、全国大会に出場したら100位にも入れないんですね。墳丘には立ち入りできないのですが、最近では盗掘にあったというニュースが流れていました。

二子山古墳・冬の装い
二子山古墳・初夏の装い

 二子山古墳という名前を聴いて、古墳好きの方は、二子山という名前は列島各地に大量にあるため、なぜ地名を冠さないのか不思議に思うかもしれません。私も不思議に思いますが、埼玉古墳群は別格なので、関東地方で「二子山」と言ったら、この二子山古墳がナンバーワン的存在なのでしょう、と自分に言い聞かせています。他の古墳も単に稲荷山とか愛宕山とかだけで、地名を冠していません。

 

 築造時期は、正確な時期を決める決定的な遺物の発見がないのですが、造出付近で見つかった提瓶(ていへい)・壺・甕はMT15型式段階で、それ以外にもTK47~MT15期の大甕・壺・器台・提瓶・ハソウの破片が造出から表採あるいは周溝内から出土しているようで、平成25年に見つかった坏身はTK10新相ということで、須恵器の年代幅は広いです。ただ、おそらくTK10は追葬時か追悼時のもので、上掲の須恵器の表のとおり、TK47型式期の築造で良いと考えます。そうすると、一般的には大まかに6世紀前半と言われていますが、もっと時期を絞って、6世紀第1四半期ではないかと考えられ、稲荷山古墳の被葬者の次の代の王の墓として相応しくなります。丸墓山古墳よりは後ですが、ほとんど同時期と言っても良いかもしれません。

 主体部は発掘していないため不明です。前代の稲荷山古墳は竪穴の主体部が2基発掘調査されていますが、二子山古墳は、築造時期から見て横穴式石室ではないかと言われています。

 前述の盗掘者は、後円部墳頂から2か所の穴を掘り、深さはそれぞれ、1.9mと2.5mでした。もし竪穴式であれば、主体部に当たっていてもおかしくない深さですが、当たっていないということは、やはり、横穴式石室なのでしょう。2.5mで止めているところが妙にプロっぽい。

 横穴であれば後円部墳頂の真下に石室があるわけではないので、真ん中を掘って行っても主体部には当たりません。つまり、その盗掘事件は、二子山古墳が横穴式石室である確率を格段に高めたことになります。

 

 6世紀になると関東地方の中でも群馬県では横穴式石室を備えた古墳が造られ始め、その第1期生として有名な前方後円墳としては、群馬県前橋市の総社古墳群にある王山古墳(75.6m)や大室古墳群の前二子古墳(93.7m)、そして安中市の簗瀬二子塚古墳(80m)があります。群馬県の初期石室は細長いことが特徴で、羨道は特に窮屈です。

 これらのうち、前二子古墳の石室は日中であればいつでも入れるので群馬県の初期横穴式石室に実際に入ってみたい方には勧めです。

前二子古墳の玄室には須恵器のレプリカが置かれている

 また、栃木県小山市の琵琶塚古墳(124.8m・栃木県2位)も同期で、主体部は見つかっていないものの横穴式石室ではないかと考えられています。

栃木県小山市・琵琶塚古墳

 二子山古墳の外見を見ると、先代の稲荷山古墳と共通なこととして、二重周溝を備え、しかも周溝の形が長方形(ただし、きっかりとした長方形ではない)という珍しいタイプで、外堤は存在しませんが、中堤には張出(造出とは敢えて言わない)があります。埼玉古墳群の前方後円墳には、墳丘の片側(北西側)に造出が付きますが、二子山は前方部のくびれに近い部分で、稲荷山は後円部側のくびれ近くにあります。

 なお、埼玉古墳群から出土した遺物は、さきたま史跡の博物館に展示してありますが、二子山古墳で見つかったもので展示しているのは、円筒埴輪だけのような気がします。大宮にある歴史と民俗の博物館にも二子山古墳から出土した円筒埴輪が展示してあります。

埼玉県立歴史と民俗の博物館にて撮影

 

72
柊塚古墳|朝霞市

 朝霞市の柊(ひいらぎ)塚古墳は、72mの帆立貝形古墳です。ただしこちらは、朝霞市では6世紀前葉の築造としているため、二子山古墳と同期の古墳としてご紹介します。

 

 柊塚古墳が築造された場所も入間川流域ですが、比企よりもだいぶ下流になり、比較的大型の古墳としてはこの周辺で初めて造られた古墳です。

 

 埼玉県を大きく南北に分けた場合、南部で現在見ることができる唯一の前方後円墳で、大変貴重な存在です。現況は公園になっており、気軽に見学することができます。

 

 主体部は2基見つかっており、それぞれ竪穴系で木炭槨と粘土槨でした。墳頂からは家形埴輪が出土しており、現地のトイレも家形埴輪を模したものになっています。

 

 遺物は、朝霞市博物館に展示してあります。

 

73.4
瓦塚古墳(埼玉古墳群)

 埼玉古墳群では、100年くらいの間に8基もの前方後円墳を造りました。ということは、すべての古墳が一種類の系統の古墳とは考えられません。墳丘の大きさや向きなどを勘案して、2つないし3つの系列に考える研究者がいます。

 私はひとまず、2種類に分けて考えています。すなわち、サキタマの王の墓と、それをサポートした有力者の墓です。

 サキタマ王墓は、稲荷山古墳、二子山古墳と続き、その次は鉄砲山古墳(後述)と考えます。それに対して有力者の古墳は、それを系統だてることは今はしませんが、築造順にいうと、既述した丸墓山古墳が、稲荷山古墳と二子山古墳の間に築造され、その次に、瓦塚古墳が二子山古墳にやや遅れて築造されました。しかし、当然ながらこの人たちの血のつながりは不明です。

 瓦塚古墳は、博物館正面の園路向かいの古民家の向こうにある古墳です。73.4mの前方後円墳で、いわゆる剣菱形と言われる形状をしていますが、剣菱形かどうかに関しては後世の改変によって偶然そうなってしまったとの説もありはっきりしません。

 

 周溝は二子山古墳などと同じく長方形の二重周溝ですが、東側の鉄砲山古墳との間に三重目の堀らしきものも検出されています。

 

 瓦塚古墳の出土遺物の目玉は何といっても造出で一括して見つかった須恵器類と、中堤に並べられていたと考えられる形象埴輪です。

 須恵器に関しては、TK47型式に類似する大甕も見つかっていますが、総体的にはMT15からTK10古相で、それを基にすると築造時期は、6世紀第2四半期が妥当かと思います。東海に系譜が辿れそうな提瓶も見つかっています。

 形象埴輪が固まって並べられていたものを埴輪群像と呼んだりしますが、現在復元として目で見られるもので最も大規模なものは、大阪府高槻市の今城塚古墳です。

大阪府高槻市・今城塚古墳

 今城塚古墳は、継体天皇の陵の可能性が極めて高いですからゴージャスすぎるとして、他には群馬県高崎市の保渡田八幡塚古墳も有名です。

群馬県高崎市・保渡田八幡塚古墳

 こんなイメージのものが瓦塚古墳の中堤に並べられていたのです。実際にどのような埴輪なのかは、さきたま史跡の博物館に展示してある瓦塚古墳出土の埴輪をご覧ください。

さきたま史跡の博物館にて撮影
さきたま史跡の博物館にて撮影

 今城塚古墳や保渡田八幡塚古墳は埴輪たちの原位置がおおよそ分かっているため復元展示ができていますが、瓦塚古墳も現地に復元展示ができたら素敵ですね。

 側面を見てみましょう。

 

 右側が前方部ですからね。

 なお、瓦塚古墳の名前の由来は、明治の初期に古墳の近くに瓦工が住んでいたからと伝わっていますが、古代の瓦が見つかったことはありません。

 

66.4
奥の山古墳(埼玉古墳群)

 築造順で述べると、次に奥の山古墳がやや遅れて造られましたが、これもサキタマの王の墓ではなく、それをサポートした有力者の墓です。

奥の山古墳・冬の装い

 奥の山古墳の東側には中の山古墳、さらにその東には湮滅した戸場口山古墳があり、この辺りは昔は渡柳村の範囲で、東側から見て、入口を表す「戸場口」から始まり、中の山、奥の山と呼んだのです。

 

 墳丘長は66.4m。主体部は発掘していませんが、地中レーダー探査によって、後円部に箱式石棺があることが分かっています。見つかった須恵器は、TK10型式のものが大多数ですが、その中でも新しい傾向があり、中の山古墳と同じ6世紀第2四半期でもその後半と考えます。

奥の山古墳・初夏の装い(奥に見えるのは鉄砲山古墳の前方部)

 長方形の二重周溝を備えますが、外堀は北側にその後造られた鉄砲山古墳の外堀と一部が重なっています。周溝の形は単純ではなく、南西側では形が分かるように表示されています。

 
 

 造出の位置は稲荷山古墳と同様に、後円部のくびれ近くにありますが、小さなものであまり目立ちません。造出からは須恵器のほかに豊富な形象埴輪類が見つかっています。また、外堀の外側では盾持人埴輪が見つかっています。

奥の山古墳出土の盾持人埴輪(さきたま史跡の博物館にて撮影)

 本来は、他の古墳でも良く見られる通り、外堤に立てられていたようです。 

 

 埼玉古墳群は毎年少しずつどこかを発掘しており、それに伴って説明板の設置や整備内容も更新されていて、行くたびに新たな発見に気づかされる古墳群です。

 

90
将軍山古墳(埼玉古墳群)

 奥の山古墳の次は将軍山古墳が築造されました。将軍山とか将軍塚という名前の古墳も各地にあり、たまに具体的に葬られた将軍の名前が伝わることもあるのですが、ここの場合はそういう伝えはありません。まあ、伝わっていたとしても、全国の将軍山(塚)においては、伝承されている被葬者は大抵かなり時代にずれがありますので当てにはなりません。

 

 墳丘長は90mありますが、二子山古墳に葬られた王の跡を継いだ人物の墓とは評価されていません。平面形はこれまでの他の前方後円墳と違って、後円部の径が小さく造られており、異質な印象があります。

 

 現在のように整備される前の時点ですでに東側半分が破壊されていたため、それを上手く利用して、現位置で復元された横穴式石室を見学できる「将軍山古墳展示館」という施設を作ってしまいました。

 

 横穴式石室の壁面に利用された石は、いわゆる房州石で、上総方面との繋がりがあり、反対に当地方からは生出塚で制作した埴輪が輸出されています。

 馬具が多数出たため、将軍山古墳展示館には飾り立てた馬にまたがった武装した将軍の像が置かれています。

 

 特筆すべき遺物としては、馬のヘルメットである馬冑が見つかっていることです。これは、他では和歌山県の大谷古墳と福岡県の船原古墳でしか見つかっていない貴重な物です。また、馬に取り付けて旗を立てた蛇行状鉄器も同じく貴重です。さきたま史跡の博物館にてご覧ください。

 造出周辺出土のハソウがTK10新相です。石室で見つかった無蓋高坏はそれよりも遅れるTK43です。上掲の須恵器編年表を見ると、将軍山古墳出土の須恵器はTK43を代表的なものとしているようで、TK10新相の頃の築造と考えると西暦540年頃の築造となり、TK43とすると、560年頃の築造となって1世代くらいの違いが出ます。さきたま史跡の博物館では概ね後者の方の考えのようで、私もそれを支持し、築造時期は6世紀第3四半期と考えます。

 

53
愛宕山古墳(埼玉古墳群)

 将軍山古墳とほぼ同時期に造られたのが、墳丘長53mの可愛らしい前方後円墳である愛宕山古墳です。

 

 本当は53mでも立派な前方後円墳なのですが、大きな前方後円墳を見慣れていると可愛らしく見えるのです。半世紀少し前に、埼玉古墳群の発掘調査が本格的に始まる際、候補として最初に挙がったのが愛宕山古墳でしたが、状態が良いのでもったいないということで、前方部がすでになくなっていた稲荷山古墳が選ばれたという経緯があります。結果的には金錯銘鉄剣の発見になりましたし、この子も壊されないで済みました。

 前方後円墳としては埼玉古墳群最小ですが、それでも長方形の二重周溝がめぐります。

 出土遺物が少ないため、年代を決めるのは難しいのですが、現状では、将軍山古墳と併行とされます。ただし、現在調査研究中の遺物があり、その結果によっては二子山古墳の併行時期に繰り上がる可能性もあります。

 

107.6
鉄砲山古墳(埼玉古墳群)

 サキタマの王は、5世紀第4四半期の稲荷山古墳(120m)の被葬者、6世紀前半の二子山古墳(132.2m)の被葬者と続きました。その次の王は、墳丘長107.6mの鉄砲山古墳に葬られた人物です。

 

 こういうのを一般的に首長墓系列と呼ぶのですが、この言葉は私は便宜上は使いますが、実はあんまり好きじゃないのです。現代の考古学者が勝手に「系列」とか言って想像しているのに過ぎないのでは?と思われる事例に良く出くわすからです。

 さて、鉄砲山古墳ですが、築造時期に関しては、遺物や角閃石安山岩(おそらく総社古墳群の勢力から入手)を使った横穴式石室の存在などから、須恵器編年でいうところのTK43型式の後半が妥当とされています。

 そうなると実年代は6世紀第3四半期と考えられますが、そうした場合、稲荷山古墳の築造が5世紀第4四半期、二子山古墳が6世紀第1四半期とすると、その後、鉄砲山古墳の築造まで少し間が空きます。

 実際には被葬者は稀に見る長寿だったかもしれないし、一世代に一基必ず造った証拠もなく、一つの古墳に数世代も埋葬されている例もありますので何とも言えませんが、埼玉古墳群の王墓は、一世代に一基という計算は合いそうもありません。

 

127
真名板高山古墳

 鉄砲山古墳が築造された6世紀第3四半期、サキタマの王の近辺で大きな変化が起きます。これまで埼玉古墳群が一人勝ち状態だったのが、鉄砲山古墳から東に約4㎞の位置に、ほぼ同時期に真名板高山古墳という大型の前方後円墳が築造されたのです。

 

 墳丘は後世の土取りによりだいぶ痩せてしまっており、部分的にはほとんど土塁のようになっています。形状が把握しづらいため、登り口の方が前方部で、墳頂に祠がある方が後円部に見えるのですが、祠がある方が前方部です。

 後円部側の登り口脇にある説明板はだいぶ消えかかっていますが、辛うじて判読できます。

 

 説明板には墳丘長は90.5メートルとありますが、これは関東造盆地運動による埋没古墳で、実際には127mもの墳丘規模を持っており(埼玉県で2位)、鉄砲山古墳の106.7mを上回っているのです。37mも埋没してしまうのは俄かに信じがたいことですが、そういうことになっています。また、周溝も二重であることが確認されており、王の墓としても遜色ないものです。

 単純に古墳の大きさから見ると、埼玉古墳群の王は没落したように見えます。これを、ヤマト王権による「サキタマ包囲網」で、目的は「サキタマ潰し」にあると考える研究者もいます。私も以前は生意気なサキタマ勢力を潰すために、王権がその対抗勢力を近くに扶植したと考えましたが、今は、それらの大型古墳は、埼玉古墳の一族が巨大化して分家したものではないかと考えるようになりました。この時期、サキタマの王家は、无邪志の国造であったと考えており、その威勢は多摩川流域にまでも及んだと考えています。

 一般的に5世紀末から6世紀一杯までを後期と呼びますが、関東ではとくにその前半と後半とでは大きく様相を異にします。真名板高山古墳の登場もそうですし、栃木県の下野地方では、吾妻古墳(127m・栃木県最大)をはじめとする「下野型古墳」の築造ラッシュが始まります。

栃木県壬生町・吾妻古墳

 この時期を日本書紀に当てはめると、継体・安閑・宣化の時代が終り、私見では継体とは別系統の欽明天皇の時代になったタイミングと同期するため、欽明天皇が新たな画期を創造したことが分かります。

 

79
中の山古墳(埼玉古墳群)

 埼玉古墳群の中では、前方後円墳としては最後に築造された古墳です。

中の山古墳・初夏の装い

 一見写真右手が後円部に見えますが、右手は前方部です。築造された時期が時期だけに、前方部が高くせり上がっています。

 従来の円筒埴輪は並べられていなかったのですが、被葬者の要望か何かは不明なものの、須恵器で埴輪のようなものを特注して並べています。須恵質埴輪壺とか須恵質朝顔形円筒と呼ばれるもので独特なものです。

中の山古墳出土の須恵器埴輪壺(さきたま史跡の博物館にて撮影)

 須恵器編年ではTK209型式となり、築造時期は6世紀第4四半期に相当し、関東地方の一部を例外として、全国各地で最後の前方後円墳が築造された時期に当たります。この時期には地元ではもう従来の円筒埴輪の生産が終わっていたのですが、上述の通り、どうしても埴輪を並べたいというこだわりがあったため特注品を製造したようです。

 墳丘の調査はされておらず、主体部も不明です。墳丘長は現況での計測値は79mですが、本来の墳丘の形状がはっきりしていないため、それは推定地であって、今後の調査であきらかになることでしょう。

 なお、中の山古墳や鉄砲山古墳にかつて設置してあった説明板は、日本で最も読みにくい説明板として名高い問題作でした。赤い看板に黒い文字、まるでゴスロリを想起せしめるデザインです。

中の山古墳・冬の装い

 目が痛いくらいの衝撃的なデザイン。 

少し前まで設置してあった問題作

 おそらく設置した時から社会に対して様々な波紋を投げかけたのではないかと想像できますが、2023年6月4日に訪れた時は新しい説明板に交換されていました。

中の山古墳の新しい説明板

 やっぱりこの方がいいですね。

中の山古墳の新しい説明板

 しかし、なぜ当初は赤い説明板を設置したのでしょうか。遠くから見つけやすいようにとの配慮かも知れませんが、ある意味、埼玉古墳群最大の謎は赤い説明板ではないかと思います。

 

107
栢山天王山塚古墳|埼玉県久喜市

 中の山古墳の築造と同じ頃、埼玉古墳群からは少し離れていますが、南東13㎞の位置の久喜市菖蒲町には栢山(かやま)天王山塚古墳(107m)が築造されました。

 

 「栢山」の読みを忘れてしまう方は、この文字を見たら加山雄三さんがシンセサイザーを弾いている様子を思い出せば読みを思い出します。

 

 

112
小見真観寺古墳|埼玉県行田市

 6世紀の終わり頃、埼玉古墳群が築造された微高地とは浅い谷を挟んだ東側の1㎞も離れていない場所に若王子古墳(92m・完全湮滅)が築造され、さらに北方4㎞の地点には小見真観寺(おみしんかんじ)古墳(112m)が築造されました。

 小見真観寺古墳はその名の通り小見真観寺の境内にあり、古墳にご理解がある住職さんが大事に管理されているので綺麗な状態で保持されています。ただし、以前の土取りのためか現在の形状は往時と異なるため、横から一見するともっと古い古墳のように見えます。

楼門の背後に墳丘が見えます
 

 小見真観寺古墳の特筆すべきこととして、2つの横穴式石室があり、しかも両者とも武蔵国内では珍しいものであることが挙げられます。

 第1主体部は、後円部下段のお寺の建物側に開口しており、現在の入口の扉を開けて入ると、その中に二つの部屋があります。奥が玄室なのですが、玄室との出入口には玄門があり、今は割れてしまっているため一見すると分かりづらいのですが、板石を四角くくり抜いて玄門としています。

 

 壁に立てかけてあるのは、壊れてしまったパーツのようです。

 

 似たものを周辺で探すと、少し遠いですが栃木県の下野型古墳の石室が玄門を設けています。例えば、吾妻古墳の玄門は、壬生町歴史民俗資料館がある壬生城址公園内のちょっと目立たない場所に置かれています。

吾妻古墳の玄門

 小見真観寺古墳の玄門はこれほどは厚みがない緑泥片岩の板石ですが、発想は同じだと思います。ただ、こういった石室構造は関東には元々なく、研究者によって意見は異なりますが、島根県や鳥取県あるいは熊本県がルーツであると考えられています。いずれにしても結構遠いですが、それらのどこからか、まずは下野地方に入ってきて、その後に小見真観寺古墳に導入されたのかもしれません。

 しかし、そうだとしても、下野型古墳は渡良瀬川水系で、小見真観寺古墳は荒川水系ですから、同じ文化を共有しそうには思えず、なぜ小見真観寺古墳にこのような石室があるのか考えるのは面白いと思います。

 もう一つの第2主体部は、後円部墳頂に近い場所にあります。

 

 現在の扉を開けると、小さなお部屋が一つあるだけです。

 

 これは横口式石槨というタイプであると考えられ、横穴式石室の仲間ではありますが、石室とは言わず、石槨と呼ばれます。終末期の古墳でよく見られるものなので、こういうタイプの石室を備えていることは、小見真観寺古墳が武蔵における最後の前方後円墳と考えられる証拠になります。内部には木棺が置かれていたと推定されています。

 ただ、往時はこの部屋の前にもう一部屋あったのか、それとももっと床面積の広い一つの部屋だったのか分かりませんが、墳頂には板石が置かれており、これがもう一枚の天井石だと思われます。

 

 築造時期は6世紀末と想定されますが、説明板には7世紀前半と書いてありますね。やはり、横口式石槨があるため、後期古墳というよりかは終末期古墳に思えるのでしょう。また、見つかった須恵器がTK209とTK217で、『武蔵と相模の古墳』所収「小見真観寺古墳・八幡山古墳」(増田一裕/著)では、「TK217併行期により近いTK209併行期」に築造されたと推定しており、この言い回しからすると、TK209の終わり頃のことを言っていると思われ、そうすると7世紀初頭の築造ということになります。

 中の山古墳の項でも述べましたが、この時期にはもう埴輪は造られていないため、小見真観寺古墳に埴輪の樹立はありません。

 ところで、小見真観寺古墳は、小見という地名の場所にありますが、小見と聞いて、いわゆる武蔵国造の乱に登場する使主(おみ)という人物を思い出した方もいると思います。以前から小見という地名は、使主から来たと考える研究者がいますが、少数派のようです。いずれ、武蔵国造の乱についてもきちんと書こうと思っているため、そのときに私の考えをお話しします。

 小見真観寺古墳や埼玉古墳群の中の山古墳の築造をもって埼玉県の前方後円墳の築造は終ります。

 

 

埼玉県の終末期古墳

50
浅間塚古墳(埼玉古墳)

 埼玉古墳群といった場合は、国の特別史跡に指定されている9基の古墳を指すことが多いですが、指定範囲外にもいくつか古墳があり、また古墳があった形跡も認められます。そのうちの一基が、前玉(さきたま)神社の社殿が乗っている浅間塚(せんげんづか)古墳で、径50mのやや大型の円墳です。

 
 

 

42
戸場口山古墳(埼玉古墳群)

 戸場口山古墳も埼玉古墳群のうちに数えられますが、すでに墳丘はありません。二重周溝を持つ一辺42mの方墳です。

 

 墳丘規模だけを見たら一辺が42mですので、それほど大きくないようなイメージを持つかもしれませんが、二重周溝の外側までは80mあり、埼玉古墳の勢力は、大化前代までそこそこの力を維持していたことが分かります。

 ただし、7世紀後半に政府が律令国家への道を進む中で、サキタマ王家の末裔は、この地に武蔵国府を誘致することはできませんでした。それどころか、埼玉郡の郡寺も見つかっておらず、郡寺というのは地元勢力の氏寺ですから、本当に郡寺がなかったら、律令時代にはすでに過去の栄光を引きずる存在となっていたと考えられます。

 

80
八幡山古墳(若小玉<わかこだま/わくだま>古墳群)|埼玉県行田市

 元々は径80mの円墳だったのが、昭和9年に東側2㎞の地点にあった小針沼の埋め立てのために土取りがされて、現在では横穴式石室が露わな状態になっています。

 

 昭和52年から54年にかけて発掘調査と復元整備が行われ現在見られる石室になりました。その見た目から飛鳥の石舞台を想起させられることから、「関東の石舞台」と呼ばれています。

 

 以前、広瀬和雄さんが講演の際に、「郡寺を造れなかった勢力は、古墳を寺の代わりに見立てて造ったのではないか」というようなことを仰っていました。郡寺の見つからない埼玉郡では、八幡山古墳はその例に該当する古墳かも知れません。

 

 石室は基本的に土日祝の日中だけ開いていますので、見学に行く際はご注意ください。

 武蔵の首長墓で見られる、3室構造の横穴式石室で、入口側から前室・後室・玄室となっています。

 切石積みの見事な石室で、私は何度もお客様をご案内していますが、この石室には多くの方が驚かれ、そして喜びます。私も列島各地の石室に潜り込んでいますが、単に規模だけを見たらこれくらいの石室は各地にあります。でも、技術力の高さや美しさ、また見学のしやすさや石室内の快適さなどを総合的に見ると、国内で最も良い石室の一つじゃないかと思います。

 

 玄室の平面形は隅丸で、ドーム状に壁を造っています。

 

 玄室の天井石は1枚。

 

 玄室奥壁には鏡石のような大きなものではありませんが、ちょっと大きめの石を使っていて何となく意識しているんじゃないかなと思えます。

 

 玄室から後室を振り返ると、玄門入口の上部には緑泥片岩の板石を重ねており、玄門両側もまるで可動式の扉に見えるような配置で板石を立てています。

 







 

参考資料

・『県内主要古墳の調査(Ⅰ)』 埼玉県立さきたま資料館/編 1988年
・『関東における古墳出現期の変革』 比田井克仁/著 2001年
・『埼玉の古墳 北埼玉・南埼玉・北葛飾』 塩野博/著 2004年
・『埼玉の古墳 児玉』 塩野博/著 2004年
・『埼玉の古墳 比企・秩父』 塩野博/著 2004年
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」016 鉄剣銘一一五文字の謎に迫る 埼玉古墳群』 高橋一夫/著 2005年
・『季刊考古学・別冊15 武蔵と相模の古墳』 広瀬和雄・池上悟/編 2007年
・『埼玉県指定史跡「塩古墳群」の調査』 熊谷市教育委員会/編 2011年
・『埼玉の古墳1 比企・入間 第2版』 埼玉県立さきたま史跡の博物館/編 2017年
・『埼玉の古墳2 秩父・児玉・大里』 埼玉県立さきたま史跡の博物館/編 2017年
・『史跡埼玉古墳群 総括報告書Ⅰ』 埼玉県教育委員会/編 2018年
・『朝霞から見る古墳の出現』 朝霞市博物館/編 2019年

 

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