対馬は南北約 82 ㎞、東西約 18 ㎞で、離島では佐渡島、奄美大島についで大きい
平成16年(2004年)3月1日、上対馬町・上県町・峰町・豊玉町・美津島町・厳原町が合併、市制を施行し、対馬市となった
長崎県対馬市の推計人口は、 27,792 人( 2021年 12 月 1 日現在 )
対馬北端から朝鮮半島、対馬南端から壱岐ともに直線距離で約 50 ㎞
北部からは朝鮮半島が見えることがあるという

上対馬町

比田勝港があり、博多港や釜山港と結ばれている
上対馬町歴史民俗資料館がある

上県町

峰町

峰町歴史民俗資料館がある

豊玉町

豊玉町郷土館がある

美津島町

厳原町

対馬市役所がある
厳原港があり、博多港、郷ノ浦港(壱岐)、芦辺港(壱岐)、釜山港と結ばれている
対馬博物館がある

 

対馬の古代遺跡の特徴

縄文時代晩期から古墳時代後期まで、見つかるほとんどの墓は箱式石棺
弥生時代の北部九州を代表す墓である支石墓や甕棺墓が見つかっていない
弥生時代の稲作用の農具の発見が皆無で、稲作をした形跡がない
⇒ 島の 98 %が山地なので無理もない
弥生時代の遺跡から朝鮮半島系の有柄式石剣が多く見つかる
縄文時代の遺跡からは骨製の釣針や、黒曜石で造った銛先などの漁撈具が見つかるが、弥
生時代の遺跡からは漁撈具がほとんど見つからない
⇒ 対馬の弥生時代における大きな謎とされている
弥生時代の遺跡からは 120 本を超える銅矛が見つかっており、一地域で見つかる量として
は国内最多で、国内で見つかった銅矛の 4 分の 1 を占める
弥生時代から古墳時代にかけての遺跡は、峰町と豊玉町に集中している

写真の上の広形銅矛は、豊玉町の黒島遺跡で一括で見つかった 15本のうちの 1 本で、墓
の副葬品ではなく、銅矛だけが埋納されていた
下の中広形銅矛は壱岐最北端の天ヶ原セジョウ神遺跡で、 3 本並べて埋納されていたうち
の 1 本

これらは実用品ではなく、祭祀用とされ、ある種の国境のような場所に埋納される(両遺
物ともに弥生時代後期)
⇒ 出雲の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡を連想させる

對馬国の国邑はどこか?


対馬は平野が極めて少ないため、平面に展開する広々とした集落を造れる場所はほぼな
く、全島から古代の集落跡はほとんどみつかっていない
その中で、峰町の三根は、河川の沖積によってできた小さな平野で、西側に開いた湾があ
り、対馬の国邑(首都)の有力地と目され、集落跡も見つかっている
ただし、對馬国の国邑と思しき遺跡はまだ確認されていない
倭人伝によると、対馬には卑狗と卑奴母離という役人が置かれていることから、役人の居
館跡もどこかにあるはず

 

経隈遺跡

経隈(きょうのくま)遺跡は、対馬で唯一の弥生墳丘墓で、対馬最北部の大浦湾の西側丘陵上
に所在
東西 23m× 南北 15m 、元は 2m ほどの高さの墳丘墓で、墳丘は盛土
埋葬主体は 3 基で、木棺の上に方形に積石している
埋葬施設以外に、立石などの石組遺構がある
墳丘斜面には貼石
出土品は鉄製武器、楽浪系鉢形土器、三韓系瓦質土器で、対馬の他の墓の副葬品の構成と
はかなり違う
造営時期は弥生時代後期前半から後半ごろにあたり、邪馬台国時代よりも古い
邪馬台国の時代の對馬国では、拠点集落、首長館跡、首長墓、すべて見つかっていない

現在の対馬市は 2004 年 3 月 1 日に、上県(かみあがた)郡の
3 つの町と下県(しもあがた)郡の 3 つの町が合併してできた
が、旧町には以下の 3 か所の歴史施設がある
上対馬町歴史民俗資料室
峰町歴史民俗資料館
豊玉町郷土館
対馬博物館

旧石器時代の遺跡がみつかっていない。

越高遺跡では、大量の黒曜石と韓半島の隆起文土器が出土。隆起文土器は櫛目文土器より古い。それに対して縄文土器は、前平式土器が数点見つかっただけだが、土器だけを見たら縄文遺跡とはいえず、韓半島文化の遺跡になってしまうが、縄文文化系統の石器が大量に出ている。