本稿は、2023年1月に開催した東京都北区の飛鳥山の現地講座の補足資料です。

 ※飛鳥山博物館にて撮影した写真は、博物館から撮影の許可を頂いて撮ったものです

 

目次

第1章 武蔵野台地の成り立ち 

第2章 旧石器時代

第3章 縄文時代

第4章 弥生時代

第5章 古墳時代

第6章 律令時代

第7章 中世

 

 

第1章 武蔵野台地の成り立ち

 歴史を学ぶ上では、日本列島の地形の成り立ちについて、いつまで遡って知る必要があるでしょうか。

 飛鳥山現地講座や江戸城現地講座、そして川越現地講座で歩く場所は武蔵野台地とその周辺ですから、武蔵野台地の成り立ちまで遡って述べることにしましょう。下図が武蔵野台地の図です。

『東京の自然史』(貝塚爽平/著)より転載

 左上の凡例を見ると、「面」というもので区別されていることが分かります。面はそれぞれ形成された時期が異なり、凡例は古い順に記されています。各面についての詳しい話は後述します。

 

1-1 13万年前と2万年前との違い

 ではまず、約13~12万年前の下末吉海進最盛期の日本列島の地形を見てみましょう。

飛鳥山博物館にて撮影

 下末吉海進時の関東地方に着目すると、関東地方は広範囲にわたって海の中で、古東京湾という湾があり、房総半島の南側が島になっています。武蔵野台地の形成のスタート地点はこの時期です。これ以降、寒冷化が進んでいき、海水面が徐々に下がって行きます。

 そして、最終氷期のもっとも寒かった約2万年前には、この緊張感のないデザインの日本列島が出来上がってしまいました。

飛鳥山博物館にて撮影

 下末吉海進最盛期からこの時期に至るまで10万年以上の時間が経過しています。この間に武蔵野台地のベースがかたち作られたのです。

 

1-2 海洋酸素同位体ステージとは

 上に示した飛鳥山博物館の説明には、「酸素同位体ステージ」という言葉が記されていることに気づいたでしょうか。最初の図が「5」で、次の図が「2」です。

 地球には一定の周期で氷期が訪れ、氷期と氷期の間には温暖な間氷期が存在します。これについて、間氷期には奇数番号を、氷期には偶数番号を付けて、海洋酸素同位体ステージ(MIS: Marine Isotope Stage)と呼んでいます。下図の1~9の数字がMISです。

『列島の考古学 旧石器時代』(堤隆/著)より加筆転載

 上のグラフは、青色の線が気温ですが、日本でホモサピエンスが活動を開始した4万年前から縄文時代の始まりの頃までは、きわめて寒冷であったことが分かります。

 MIS5とMIS2では、相当な気温の違いがあるため、地球上の環境もかなり変わったことが想像できますね。MIS2には、最終氷期最寒冷期(LGM)という、これでもか!というくらいのサディスティックな寒い名称が付いています。

 次節では、MIS5からMIS2に至る約10万年間の経緯を振り返り、武蔵野台地の成立の経緯について述べます。

 

1-3 下末吉面の形成

 歴史マニアには地形好きが多いですが、そんな人びとが特に注目する地形が河岸段丘です。

 河岸段丘とは、下末吉海進期(MIS5)から最終氷期最寒冷期(MIS2)までの10万年間に進行したような海水面の低下、あるいは陸地の隆起などによって、川の水がさらに河床を削り谷が深くなり、何かのきっかけで川がより低いところを流れるようになったことにより新たに平坦な河岸ができ、それが繰り返されることにより、河岸が階段状となったものをいいます。階段状の平らな面を段丘面、段差の部分を段丘崖と呼びます。段丘崖は、多摩地域ではハケと呼びます。

 この説明からも分かる通り、高い位置の面の方が形成が古く、低い位置の面の方が新しくできました。ここでもう一度、武蔵野台地の図を見てみましょう。

『東京の自然史』(貝塚爽平/著)より転載

 左上の凡例は古い順に書かれています。最も形成が古いのは多摩面で、具体的には例えば多摩丘陵です。

 土地勘のある方はイメージできると思いますが、多摩丘陵は全然平坦じゃなくてかなり起伏が激しいです。実は、多摩面は下末吉海進期にはすでに陸地として成立していました。多摩面の形成はもっと古いため、かなりの時間の経過によってあのような起伏に富んだ地形となったのです。呼び名が段丘ではなく丘陵になっているのが古さの証で、狭山丘陵や草花丘陵、それに滝山城跡のある加住丘陵なんかも仲間です。

 古東京湾時代は、山地から流れ落ちてきた土砂や火山からの噴出物が海底で堆積していき、それによって作られた層は、東京層と呼ばれ、海の中で地層ができて行ったので海成層と呼ばれます。飛鳥山博物館の地層剥ぎ取り展示で、東京層を見ることができます。

飛鳥山博物館にて撮影

 この地層は、低地部分のものですが、東京層は、シルトという粘土のようなもので形成されており、上の写真の一番下の青灰色の部分が東京層です。下の図では、北区の台地部分と低地部分の地質が良く分かります。

飛鳥山博物館にて撮影

 台地部分でとても厚く堆積した肌色の部分が東京層です。一方、低地部分では沖積層や有楽町層といわれる縄文時代前期の海進のときに形成された地層が厚いですが、その下層には東京層も存在しています。

 飛鳥山の近くの石神井川では東京層が観察できる場所があります。「音無さくら緑地内旧石神井川の自然露頭」と呼ばれている場所です。

音無さくら緑地内旧石神井川の自然露頭

 下末吉海進が後退していく過程でできたのが下末吉面です。ここからが武蔵野台地の形成の話になります。以降、古東京湾がしだいに陸地化していきますが、下末吉面は、多摩丘陵から続く神奈川県側の先端部分、都心の港区や大田区辺りもそうですし、江戸城が乗っかっているのもこの面の上です。淀橋台という名前から分かる通り新宿辺りもそうです。

 この下末吉面は、まさしく下末吉海進が後退していく最初の頃にできたのですが、その頃はまだ古東京湾の上に、淀橋台や荏原台などが島状に浮かぶ光景だったのです。

 

1-4 武蔵野面の形成以降

 下末吉面につづいて、かなり広範囲に展開する武蔵野面ができました。武蔵野台地は西高東低ですから、普通に考えれば、海退によって西の方から徐々に陸地化していったはずです。下末吉海進期には、上図の左端に草花丘陵がありますがその上の青梅の辺りで多摩川が海に注いでいましたが、その多摩川も上流から土砂を運んできますので、扇状地化が進み、武蔵野台地の形状を見ても分かる通り、武蔵野台地は多摩川の扇状地と言ってよいでしょう。

 今度現地講座をやる川越周辺の仙波台地や、飛鳥山現地講座で歩く本郷台もこの時期の形成です。この面には海退していったあとに沢山の礫が流されてきて、それが堆積して武蔵野礫層を形成しました。その上にはさらに地層が積み重なったわけですが、現在でも武蔵野礫層が部分的に地表面に近くなっている場所があり、そこから水が湧き出て、井の頭池や石神井池などの池を作り、そこから流れ出た河川が東京湾へと注いでいます。

 武蔵野面と次に話す立川面との間のハケは、国分寺崖線とも呼ばれ、立川市砂川町で明瞭になり、国分寺市・小金井市・三鷹市・調布市・世田谷区と続き、総延長は約20kmあります。湧水ポイントもいくつかあって、地元では散歩コースとして人気で、例えば律令時代の武蔵国分寺はハケを寺域に取り込んでいて、近くには真姿の池という湧水スポットがあります。

 今話したハケの下部分が立川面です。武蔵野面と立川面は、多摩川北岸の世田谷区から立川市辺りにお住まいの方は、知らないうちにいつも行ったり来たりしているはずです。こういう地形を気にして外を歩くと面白い発見があるかもしれませんよ。

 段丘の最後は青柳面で、これはごく一部にみられるのみで、例えば国立市内では比較的よくその差が分かります。

 そして、沖積面になりますが、一般的に沖積面と言った場合は、ここ数千年の間に陸地化した新しい土地のことを指します。

 なお、狭義の武蔵野台地は、武蔵野段丘のことを指しますが、広義の武蔵野台地はもっと広範囲で、沖積地の上の段丘をすべて含んだ意味のこともあり、私の場合はよく広義のイメージで話します。

 これ以降の話は、次章に譲ります。

 

 

第2章 旧石器時代

 旧石器時代に関しては、飛鳥山現地講座ではあまり関係がない話なので、飛鳥山博物館の展示に関係があることを少しだけ解説します。

  

2-1 旧石器時代の時代区分

 世界史的な呼び名としての「石器時代」というのは、文字通り人類が石を素材に自作した「石器」を主たる道具として活用して生活をしていた時代で、青銅器の使用が始まると「金属器時代」と呼びます。

 石器時代は、「旧」と「新」に分けますが、日本の場合は、「新石器時代」と呼ばず、縄文時代がそれに相当します。そして弥生時代には青銅器や鉄器を使い始めますが、日本ではそれを「金属器時代」と呼ぶことはしません。

 今はあまり使いませんが、旧石器時代のことを先土器時代と呼ぶこともあります。案外この呼び方がいいかもしれません。

 旧石器時代はさらに前・中・後期に分けます。中期旧石器時代というのは、日本ではあまり意味がある区分ではないため、日本の場合は前期と中期をひっくるめて前期と呼び、前期と後期の2期区分で呼ぶ研究者もいます。

時代区分実年代特徴
前期260万年前~30万年前アフリカで私たちホモ属の祖にあたるホモハビリスが登場し、石器を自作して旧石器時代の幕が開く
大分県丹生遺跡が唯一この時代の日本人の足跡である可能性が高い(40万年前)
中期30万年前~4万年前日本各地で見つかる石器からホモサピエンスではない人びとがごく少数住んでいたことが分かる
後期4万年前~1万6500年前ホモサピエンスが日本列島に渡海してきて、中期に比べると遺跡数が増加
多くの研究者は日本人の歴史は後期旧石器時代からと考えている

 

2-2 ATとは

 後期旧石器時代は、鹿児島県の姶良(あいら)カルデラの噴火の前後でさらに前期と後期に分けます。姶良丹沢火山灰(AT)の降下の年代は、書籍や博物館の展示によって区々ですが、最新の研究では3万年前とされます。南九州のカルデラの位置は下図をご覧ください。

鹿児島市立ふるさと考古歴史館にて撮影

 ATは偏西風に乗ってほとんど列島全体を覆うくらいの分布を示すため、それが堆積した層は、考古学的には時代を知る上での重要な地層となり、こういう地層のことを鍵層(かぎそう)と呼びます。

 

2-3 武蔵野台地の旧石器時代の地層

 武蔵野台地の旧石器時代を語る上で良く出てくる表現があります。飛鳥山博物館の展示にもありました。「立川ローム第Ⅹ層」という言葉です。

飛鳥山博物館にて撮影

 武蔵野台地のローム層のことを立川ロームと表現するのですが、その地層からは石器は出ますが土器が出ず、すなわち旧石器時代の地層であることが分かります。立川ロームは大きく10枚の層に分け、下図の通り第Ⅲ層から第Ⅹ層がそれにあたります。

『シリーズ「遺跡を学ぶ」064 新しい旧石器研究の出発点 野川遺跡』(小田静夫/著)より転載

 ⅢからⅩだと8枚に思えますが、第Ⅳ層が3枚に分かれているので全部で10枚です。なお、上の図は野川遺跡のものなので、第Ⅸ層と第Ⅹ層はありません。

 都内の博物館などで、第Ⅹ層の石器が展示してある場合は、要するに国内最古級の石器ですよ、ということが言いたいのです。ただし、一部の研究者は、上述した通りそれ以前の時代の石器の存在を認めていますので、この辺は意を汲み取ってください。

 飛鳥山博物館に展示してある第Ⅹ層のスクレイパーはこちらです。

赤羽台遺跡出土のスクレイパー(飛鳥山博物館にて撮影)

 飛鳥山博物館には、それ以外にも多少の旧石器が展示してあります。

飛鳥山博物館にて撮影

 

2-4 放射性炭素年代測定法と暦年代較正

 考古学の本を読んでいると、放射性炭素年代測定法という言葉に出くわすことがあります。他に、C14年代測定法、炭素14年代法、C14法などいくつもの呼び名があります。

 炭素14は、大昔から空気中にほぼ一定して存在しており、私たち人間を含めて動植物は呼吸や食事によってそれを体内に取り込んでいます。この炭素14は、その動植物が死ぬと体内に取り込むことがなくなり、その後は放射線を出して減っていき、5730年すると半減するという法則があります(正確には炭素14は消滅するのではなく窒素に変化しますが、放射線を放出して他の原子に変化する能力のことを放射能と呼びます)。

 この法則を利用して年代を決める方法を1947年にシカゴ大学教授のウィラード・リビー氏が発見しました。同氏は1960年にノーベル化学賞を受賞しています。そして、1970年代末に開発された加速器質量分析(AMS)法は、現在はかなり普及していて、昔の人の骨や遺物として見つかる炭化物、木造建築の資材など、様々な動植物に利用してそれらの年代を決めています。この方法によって年代を決めた場合は、「BP」と記載することになっており、書物に例えば「12,000BP」と記載されていた場合は、基準となる年は1950年と決まっていることから、1950年より12000年前という意味になります。

 ところが、この単純な方法はかなりの誤差が含まれていることが判明し、時代が古くなればなるほど誤差が拡大します。例えば、縄文時代草創期だと、3000年もの誤差があるのです。そのため、現在はその誤差を計算して縮める方法が編み出され、誤差を較正して実年代を示すことを暦年代較正といいます。較正された年代のことを、暦年代と呼ぶこともあり、書物には、「calibrated(較正済み)」を意味する「cal」をつけて、「calBP」と記されることが多いです。

 これでもう昔のモノの実年代は簡単に分かる、と喜びが込み上げてくるかもしれませんが、この方法は土器や石器そのものには使えません。なぜなら土や石は動植物ではないからです。ただし、土器にはまれに植物性の物質が付着していることがあり、そういう土器が見つかればラッキーで、状態が良ければC14年代測定および暦年代較正をかけることができます。考古学ではこういった科学的な根拠に加え、型式学(遺物を「型式」に則って古い順に並べ、これを編年とよぶ)や、層位学(原則として古いモノから順番に地層の下から積み重なる)を駆使して、実年代を決めて行きます。また、地中から見つかる火山灰も重要な手掛かりとなります。

 

 

第3章 縄文時代

 縄文時代は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6つの時期に分けて考えることが一般的です。本サイトにある、こちらのページに詳しく書いてありますが、結構な長文なので、縄文時代についてあまり知らない方は、そこの「第1章 縄文時代とは」だけで良いのでお読みください。

 ただし、それでも結構長いので、ここでは縄文時代の時代区分と実年代を示した後、北区の縄文遺跡について述べます。

 

3-1 縄文時代の時代区分と実年代

 縄文時代は下表のとおり、6つに区分することが一般的です。実年代に関しては、研究者によって考え方が変わり、下表のものは考え方の一つだと思ってください。時代ごとの特徴とともにそれらを示します。

時代区分実年代特徴
草創期16,500年前~11,500年前・青森で国内最古の土器が誕生
・当初は現在よりも5℃ほど低く雨も少なかった
・15,000年前以降、温暖化が始まり徐々に気温が上がる
・13,000年前くらいに世界的にはヤンガードリアスと呼ばれる寒の戻りが来るが日本への影響は少なかった可能性がある
・定住化が始まるがほとんど進まない
早期11,500年前~7,300年前・再び気温がどんどん上昇し、海面高度が上昇する
・8000年前ころに寒の戻りがあり、北海道北部に大陸系の石刃鏃文化が一時的に繁栄
前期7,300年前~5,500年前・ヒプシサーマル(気候最温暖期)を迎え、現在よりも2℃ほど高くなる
・早期にも増して海面高度が上昇して現代よりも海が広くなり、縄文海進と言った場合はこの時期の海進を指すことが多い
・多数の貝塚が現れる
・定住が普及しムラらしいムラが現れる
中期5,500年前~4,500年前・最も過ごしやすかった時代で、関東甲信越ではとくに派手な装飾の土器が造られる(関東甲信の勝坂式土器や信濃川流域の火焔土器が有名)
後期4,500年前~3,500年前・寒冷化へ向かい、北東北や北海道では大きなムラが消える(三内丸山遺跡も消滅)
・その後再び気温が上昇し、縄文後期海進が起きる
・呪術的に見える道具が多く出現し、ストーンサークルが盛行
晩期3,500年前~2,900年前(紀元前10世紀)・現在より2℃低くなる
・津軽発祥の亀ヶ岡文化が西日本にまで波及
・これまでは東西の人口比(遺跡比)が極端に東日本に高かったのが、西日本の比率が急に高まる

※沖縄地方に関しては、列島の他地域とは異なる文化的推移があります。
※縄文時代が終わって弥生時代が始まる時期は全国画一でないことはいわずもがなことですが、紀元前10世紀の半ばに北部九州で灌漑水田が始まった時をひとまず縄文時代の終わりとしておきます。

 

3-2 飛鳥山遺跡

 飛鳥山遺跡は、文字通り飛鳥山にある遺跡のことです。飛鳥山は全山が遺跡と言え、しかも旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の複合遺跡です。縄文時代早期は、夏島式や稲荷台式土器が多数出土し、押型文土器も少数見つかっていますが、遺構は見つかっていません。

 飛鳥山遺跡の縄文時代におけるピークは、前期の関山式期で、北西側の先端部付近の緩傾斜面に8件の住居跡が見つかっています。現在、飛鳥山山頂モニュメントがある場所の近くです。

飛鳥山山頂モニュメント

 飛鳥山博物館には、飛鳥山遺跡から出土した関山式土器が1点展示してありますが、非常に素晴らしい土器で、ずっと見ていても飽きない造形美を醸し出しています。

飛鳥山遺跡出土の関山式土器(飛鳥山博物館にて撮影)

 文様のベースは縄文ですが、それも単純ではなく、下半分は縄を転がして羽縄文を付けているように見えますし、縄の先端に環を作ってそれを押し付けているようにも見えます。そうした地の上に、ダイナミックに平行の直線や円を描き、本当に見ていて飽きません。

 ところで、余談ですが、サルボウやハイガイなどの放射肋がある二枚貝は、縄文土器に文様を付けるときに使うこともあります。

飛鳥山博物館にて撮影

 

3-3 七社神社前遺跡

 七社神社の鳥居前には、西ヶ原の一里塚がありますが、その辺から南側にかけて七社神社前遺跡が展開しています。

西ヶ原の一里塚の周辺

 七社神社前遺跡は前期後半の径200mの環状集落で、中央に墓域を持ちますが、その時代はこの周辺に集落が見つかっておらず、孤立した様相を呈しています。また、時期的には縄文海進期で、普通であれば貝塚を伴うはずなのに貝塚が見つかっていないという珍しい遺跡で、発掘調査者も不思議に感じているようです。

 ただ、住宅街の中で小規模な発掘を地道に繰り返しての成果であって、発掘面積はまだ非常に小さく、今後の発掘調査によって分かることも多いはずです。

 飛鳥山博物館には、七社神社前遺跡から出土した土器のうち、浅鉢の優品が展示してあります。浅鉢が出てくるのはおそらく、諸磯式土器からだと思います。

 このような文様は、入組木の葉文(いりくみこのはもん)と呼ばれるもので、諸磯式土器に特有な文様です。

七社神社前遺跡出土の諸磯式土器(飛鳥山博物館にて撮影)

 上の土器は、篠竹のような植物を縦に半分に切って、その先端で二重線を引きつつ押し付けるようにして爪形の文様を描いています。

 こちらの浅鉢も同じく、入組木の葉文ですが、上の土器とは文様の付け方が異なり、こちらは二重線を引くときに断面を押し付けておらず、木の葉文の内側にも文様を付けています。

七社神社前遺跡出土の諸磯式土器(飛鳥山博物館にて撮影)

 この2つの浅鉢は、土壙墓に副葬品として添えられていたもので、壁際に割られた状態で置かれていましたが、副葬品の浅鉢の場合は、ほぼパーツが揃っていることが特徴で、上のようにきれいに接合できます。

 

3-4  中里貝塚

 想像を絶する規模の貝塚として全国にその名が轟いている遺跡です。

 貝塚が作られたのは、中期の中頃から終わりにかけての500年間で、その規模は幅70~100mほどで、長さが1㎞前後もあり、貝層の深さは2m~4mもあります。飛鳥山博物館には、貝層の剥ぎ取り標本が展示してあり、圧巻のスケールです。

飛鳥山博物館にて撮影

 これだけの規模は、とても近隣の住民だけで消費できる量ではないため、水産加工場説が登場し、おそらくそれは間違いないと考えます。事実、近辺では一度に大量の貝の口を開けるための施設も見つかっており、貝の種類は、ハマグリとカキが90%を占め、通常の貝塚であれば様々なものが堆積しているのですが、ここでは魚骨や獣骨が混ざらず、土器や石器もほとんど見つかっていません。祭りの場という雰囲気もなく、非常に近代的な加工場の匂いがします。

 現地へ行くと、一部分が広場として保存されています。

中里貝塚

 当時を想像させるようなものはまったくない住宅街と化していますが、それでも結構な面積を史跡として確保してあるのは良いことだと思います。現地の説明板には、イメージ図が載っているので、それを見ながら往時の様子を想像してみましょう。

現地説明板を撮影

 中里貝塚周辺は中里遺跡と呼ばれているのですが、そこで見つかったものとして特筆できるのは、丸木舟です。

 全長5.8m、最大幅70㎝で、ムクノキ製で、丸木舟ですから、当然ながら一本の木を削って作っています。鉄がない時代に、石斧だけでよくもこれだけのものを作ったと驚きます。素晴らしい遺物です。

 中里遺跡から出土した土器も飛鳥山博物館に展示してあり、中期の勝坂式土器と後期の称名寺式土器があります。まずは、東京の人間にはお馴染みの勝坂式土器。

中里遺跡出土・勝坂式土器(飛鳥山博物館にて撮影)

 粘土紐でダイナミックな装飾をするのが勝坂式土器の特徴の一つですが、勝坂人が大好きな区画と楕円形もきちんと入っており、何かの生き物を連想させる文様にもなっています。

 こちらは後期の始まり頃の称名寺式です。

中里遺跡出土・称名寺式土器(飛鳥山博物館にて撮影)

  

3-5  西ヶ原貝塚

 中期後半から晩期初頭にかけての長期間にわたって、断続的に貝塚が形成されました。東西140m、南北180mの規模で、馬蹄形の貝塚です。

 マンションの敷地のような場所に、馬蹄形を模した盛土があって、限られたスペース内にできる限りの展示をしようとする心意気を感じることができます。

西ヶ原貝塚

 この敷地の下には、遺跡が保存されているそうです。

 位置的には、東京低地に向いているというよりかは、反対の谷田川の谷の方に近いです。

現地説明板を撮影

 さすが貝塚ということで、かなり残りの良い人骨も出土しています。

西ヶ原貝塚出土・人骨(飛鳥山博物館にて撮影)

 後期の堀之内式土器も飛鳥山博物館に展示してあります。

西ヶ原貝塚出土・堀之内式土器(飛鳥山博物館にて撮影)

 

3-6 東谷戸遺跡

 北区でもなかなか良い土偶が出ています。東谷戸遺跡出土の土偶で、後期のものです。

東谷戸遺跡出土の土偶(飛鳥山博物館にて撮影)

 出土時はバラバラでしたが、接合してほぼ完全な形に戻りました。

 名前は付いていないのかな?

 

 

第4章 弥生時代

 弥生時代の区分と呼び名および絶対年代に関しては、国立歴史民俗博物館の見解を紹介します。

『港区考古学ブックレット4 港区の先史時代Ⅱ 港区の弥生時代』(港区教育委員会/編)より転載

 箸墓古墳の造営の時期などもそうですし、歴民の先走り気味の見解に付いていけない研究者は多いようです。私も危ういとは思いつつも何かしら基準を設けないと研究が進まないため、最近ではこの年表に則って弥生時代の区分や絶対年代を考えています。

 

4-1 水田跡

 人びとが組織的に灌漑水田を構築するようになると、その地域での弥生時代の始まりとなります。ところが、都内ではいまだ水田跡は見つかっておらず、農具の一つである穂摘み用の石包丁も私が知る限りでは2点しか見つかっていません。石包丁以外の農具である鋤や鍬、それに稲作に関連する道具である臼や杵などについては、西日本では普通にたくさん発見されていますが、都内ではそれらの検出例も少ないです。

 都内は本州で最も灌漑水田の導入が遅れた地域と考えられますが、都心の低地部に水田が作られていたとしても、開発がこれだけ進んでいると今後の発見は絶望的です。なお、多摩丘陵の谷戸にも小規模な水田が造られていた可能性があります。

 

4-2 集落跡

 このように、水田跡から都内の弥生時代を追うことはできないわけですが、集落跡や周溝墓は見つかっており、集落に関しては、西日本の各地と同様に環濠集落も見つかっています。

 飛鳥山遺跡では、博物館の建設に先立って発掘調査が行われ、中期の環濠集落跡が見つかっています。

『北区飛鳥山博物館 常設展示図録』(北区飛鳥山博物館/編)より転載

 長径約260m、短径約150mの楕円形で、幅5m、深さ2mのV字断面の環濠が一条めぐっており、面積的には東日本最大級の環濠集落跡です。ただし、上の図でも分かる通り、未発掘の部分も多いようなので、全貌は判明していないようです。出土した遺物は飛鳥山博物館に展示してあります。

飛鳥山遺跡出土の弥生時代の土器(飛鳥山博物館)

 この集落からはやがて環濠が消滅し、集落自体は古墳時代まで存続し、濃尾勢力がやってきた証であるS字状口縁台付甕(通称「S字甕」)も出土しています。

 そもそも環濠集落というものは、一般的には戦いに備えた作りであるといわれ、事実、西日本(特に北部九州)の弥生時代は戦いの痕跡が濃厚です。ところが、南関東の場合は、環濠集落があったとしても、武器らしきものが見つからず、殺傷人骨も希薄で、戦争による火災が原因と思われる焼失家屋も少ないです。そのため、畿内や北部九州の社会とは違った社会が展開していたことが考えられます。

 

4-3 周溝墓

 弥生時代の墓制の一つに、周溝墓というものがあります。文字通り、周りを溝で区画して、その内部に多少の盛土をし、盛土の中央部分あるいは溝の中に人を埋葬するという墓で、方形のものと円形のものがあります。

 東京で見つかる周溝墓の大部分は方形です。その方形周溝墓のルーツは畿内にあるというのが通説で、関東地方でも多く見つかりますが、比較的南関東より北関東の方が造営時期が遅れ、茨城県では古墳時代になってから造られます。

 方形周溝墓は、必ずしも正方形というわけではなく、やや長方形になっているものが多く、一片の長さは数メートルから十数メートルで、20メートルを超える大型のものもたまにあります。周溝は、全周しているわけではなく、一部分が削り残され陸橋となっており、陸橋の場所は様々です。飛鳥山遺跡の場合は、四隅が陸橋となっているタイプです。また、周溝は隣接する方形周溝墓同士で共有している場合もあります。周辺では、七社神社前遺跡や御殿前遺跡などでも見つかっており、方形周溝墓は、都内ではそれほど珍しいものではなく、古墳時代の前期にも造られ続けます。

 方形周溝墓には誰でも葬られたわけではなく、その数や構築時の労力からして、ある程度の身分の家族が葬られたと考えられ、また墓制は文化ですから、文化が異なれば見つからなくても当然です。

 飛鳥山では目で見られる形で復元されている方形周溝墓はなく、近辺では横浜市都筑区の歳勝土(さいかちど)遺跡の復元が有名です。

横浜市都筑区・歳勝土遺跡

 

 

第5章 古墳時代

 今回の現地講座ではほとんど古墳を見ることができません。AICTではすでに飽きるほど古墳を見ていますから、改めて古墳の説明はいらないかもしれませんが、古墳時代の時代区分と実年代は、概ね以下の通りと考えて良いです(特徴は、厳密ではなく、あくまでも傾向です)。

時代区分実年代特徴
前期3世紀半ば~4世紀前方後円墳が登場し次第に大型化する
中期5世紀大型の前方後円墳が造られ、この頃まで石室は竪穴
後期6世紀墳丘規模が縮小し、横穴式石室が普及し、群集墳が盛行する
終末期7世紀前方後円墳は築造されず、一部では仏教との融合が進んだ仏塔のような古墳が造られる

 飛鳥山博物館には、豊島馬場遺跡から出土したS字甕が展示しているのですが、今は他館に貸し出し中でした。

 前期・中期の古墳についての解説は割愛します。

 飛鳥山で古墳の造営が始まるのは後期になってからで、かつては住居域として使用されてきた飛鳥山は、この時期には完全な墓域と化します。飛鳥山全体が調査されているわけではありませんが、現状では6基の古墳あるいは古墳跡が見つかっており、実数はもっと多いと考えられています。

 マウンドが残っているもので確実に古墳だと言えるのは、飛鳥山1号墳のみです。

飛鳥山1号墳

 径31メートルの円墳で、切石積みで胴張型の玄室を備える横穴式石室は、調査時には損壊が激しく、現在は見ることができません。

 胴張というのは、武蔵国内の横穴式石室の玄室で比較的多く見られるもので、下図のように側壁が一直線ではなく、丸く張っているものをいいます。武蔵国以外でもたまにあるので、各地の石室を見るときは注意して見ましょう。

『あすか時代の古墳』(府中市郷土の森博物館/編・2006)より転載

 上の図は東京都府中市の熊野神社古墳の石室ですが、これはかなりグレードが高く、玄室・後室・前室の3室構造になっています。飛鳥山1号墳は、玄室と羨道(廊下部分)のみのシンプルな構造であったと思われます(未確認)。

 また、出土遺物は、飛鳥山博物館に所蔵されていますが、展示されていません。

飛鳥山1号墳の説明板を撮影

 今回は訪れませんが、北区内で代表的な古墳群は、赤羽台古墳群です(北区中央公園内に3号墳の石室が移築されています)。飛鳥山博物館に展示してある遺物は、赤羽台古墳群のものが主です。

 赤羽台4号墳からは、人物埴輪も出土しており、埼玉県鴻巣市の生出塚(おいねづか)埴輪窯で焼かれたものです。

飛鳥山博物館にて撮影

 生出塚の埴輪はある種のブランド品で、埼玉古墳群に埴輪を供給しており、房総半島にも輸出されています。

 房総半島からはその見返りとして、房州石が埼玉古墳群に持ち込まれており、房州石は、飛鳥山にももたらされています。下見に行った際に、旧渋沢庭園を歩いていたら、房州石らしきものが転がっていました。飛鳥山のどこからか持ってこられたものか、これが転がっている場所にもしかしたら古墳があったのかもしれません。

旧渋沢庭園にて撮影

 飛鳥山古墳群や赤羽台古墳群のように、小型の古墳が一か所にまとまって数基から数十基、場合によっては3桁の数が築造されるものを群集墳と呼びます。飛鳥山では実際に墳丘が群集している様が見られないため、イメージしにくいと思います。

 

浅草寺の創建と浅草

 浅草寺の縁起には数種類あるのですが、『日本の神々』には以下の話が載っています。

 推古天皇36年(628)、檜前(熊)浜成・武成兄弟が浅草浦で漁をしていましたが、この日に限って一匹も掛からず、網に掛かったのは、人の形をした一体の像だけでした。二人はその像が何であるか分からなかったので、海に捨てましたが、網を入れるたびにその像は引っ掛かってきます。

 不思議に思った兄弟は、それを持ち帰って土師真中知(土師直中知という説もある)に話したところ、その像は聖観世音菩薩像であることが分かり、真中知は、それは自分が帰依している功徳ある仏像だと教えました。

 さっそく、仏像を祀ってみると、翌日から大漁が続きました。

 そのため、真中知は仏門に入り、自宅を改めて寺としたといいます。

 その後、大化元年(645)、沙門勝海が本堂を建立し、それから300年近く経った天慶5年(942)には、既述した通り平公雅が堂塔を再建したと伝わっています。

 この短い話の中にも興味深い点がたくさんありますので、一つひとつ検証してみましょう。

 まず、仏像の入手を推古天皇36年(628)としているのは、この時代には関東地方でも寺院の建立が始まっていますので、時期的にはおかしくありません。ただしかなり早期です。

 仏像が漁で得られたという話は、各地に類型があります。例えば兵庫県西宮市の西宮神社(えびす宮総本社)の由緒も漁師が網にかかった人形のようなものを一度リリースして、さらに網にかかったため祀ったという話が伝わっています。ただし、西宮神社の場合は、それが蛭児(イザナキとイザナミから生まれたが足が不自由だったため海に捨てられた神)と結び付けられて語られます。

 仏像が網に掛かるという伝承は、海に生きる人たちのなかで共有された伝承の可能性があります。

 つぎに、浜成・武成兄弟の氏は檜前ですが、奈良県明日香村に檜前という地名があり、そこは渡来氏族である東漢氏の本拠地で、彼らは7世紀前半には蘇我氏の支配下にありました。

奈良県明日香村・檜前寺跡

 東漢氏の人物としては、桓武朝に活躍した坂上田村麻呂が有名ですが、その父の苅田麻呂は、光仁天皇あるいは桓武天皇への条表文の中で、後漢霊帝の後裔と称する祖先の阿知使主(阿智王)が応神天皇の時代に17県の人夫を率いて百済から日本へと帰従し、大和国高市郡檜前村を賜って居住した旨を述べています(『続日本紀』宝亀3年(772)4月20日条と延暦4年(785)6月10日条)。

 阿知使主に関連する神社としては、岡山県倉敷市の阿智神社は阿知使主の子孫が創建した神社と伝わり、その場所は古代においては島であり、この氏族の海人的性格を表しています。

岡山県倉敷市・阿智神社

 このように、檜前兄弟は東漢氏の一族の可能性があり、また海人的性格をも考慮する必要があります。7世紀の頃にはこのような人びとがすでに浅草の微高地上に進出し、拠点を設けていたことが想定できます。浅草寺に来る中国人観光客は、果たしてこういう歴史に気づいているでしょうか。

 つづいて、土師真中知に関しては、「真」を「直」の誤字だとして、土師直中知(はじのあたいなかとも)ではないかという見解が以前からあり、浅草寺では現在は「直」説を採っています。

 土師直だとすると、土師という地名と直という姓(カバネ)が合わさったものになりますが、浅草近辺には土師という地名はなく、そうすると畿内の土師氏との関連が伺われ、土師直中知は古墳造りの技術者集団の一人あるいはそれを祖とする人物であった可能性があります。

 しかも、簡易的なものであっても寺を建立していますから、財力を考えると一般人ではなく、浅草を治めるリーダーであった可能性が高く、土師一族としての技術力を以って寺の建立を行った可能性があります。

 以上、浅草寺の創建伝承をまったくの史実として見るには証拠が不十分ですが、伝承の内容からして、浅草は西からやってきた東漢氏系の海人が東京湾沿岸に築いた拠点の一つとして、7世紀には開発が行われていた可能性は十分にあるのではないかと考えます。

 なお、浅草という地名の史料上の初見は、吾妻鑑の治承5年7月3日条です。

 

 

第6章 律令時代

 律令時代という呼び名は、一般的にはあまり馴染みがないかもしれません。詳しくは後述しますが、律令という法律によって国家が運営された時代のことで、飛鳥時代の終わり頃の7世紀後葉から奈良時代、そして平安時代半ばの10世紀あるいは11世紀くらいまでを指します。

  

6-1 律令とは何か

 645年に蘇我本宗家が滅び、それによって発足した孝徳天皇の改新政府は、新たな政策を次々と実行し、その流れで中国の律令という法律を輸入して、日本風にアレンジして使うことを始めました。律は刑法で、令は行政法として考えてよいです。日本の律令も何度かヴァージョンアップを繰り返し、一般的には文武天皇の大宝元年(701)に制定された大宝律令で一応の完成とされます。ただし、大宝律令の内容は現代に伝わっておらず、孝謙天皇の天平宝字元年(757)に施行された養老律令が残っているため、現代の研究者は、それを主な研究資料とします。養老律令の編目は以下の通りです。

『古代の日本9 研究資料』(岡崎敬・平野邦雄/編)より転載

 律令時代の最盛期は8世紀の奈良時代で、徐々に時代の流れに対応できなくなってきて、格式(きゃくしき)と呼ぶ補足的な法律や細則によって時代の流れに対応するように努めました(よく聞く延喜式もその一つです)。ところが、10世紀の頃には律令の維持がかなり難しくなってしまいました。タイミング的には、東国では平将門の乱が起き、武士の発生とともに律令が一気に衰退するというような流れです。

 

6-2 律令官制

 律令国家は、二官八省一台五衛府(にかんはっしょういちだいごえふ)という、現代の省庁と同じような組織を作って政治を分担していました。

『詳説日本史図録 第7版』(山川出版社)より転載

 八省のうち、大蔵省は最近までありましたし、今でも省ではありませんが、宮内庁は存在します。また、現代の役場の部局の名前を見ていると、律令時代の名称が残っていることに気づく場合もあります。例えば、主税局の主税というのは律令時代の名称のままです。ちなみに、平城宮跡に行くと、各省庁の建物があった場所が少しだけ表示されています。

 

6-3 国郡里制

 時代を少し戻して、改新政府は特に地方に対する政策を重視したのですが、それらの政策の一つに国造を解体して、新たな地方制度の下に再編したことが挙げられます。新たな地方制度というのは、日本列島を60ほどの国という行政区画に分割し、その下に複数の郡を置き、さらにその下には里を置く制度です。これを国郡里制(こくぐんりせい)と呼び、大宝律令制定によって完成しますが、郡は当初は評(こおり)と呼ばれ、国造の一部は評の長官である評造(こおりのみやつこ)にスライドし、いわば地方の半独立の王だったのが地方公務員になってしまったのです。

『古代入間郡の役所と道』(川越市立博物館/編)より加筆転載

 ただし、こういった地方の再編もスピーディーに進んだわけではなく、7世紀後半の天武天皇の頃には、全国の国境が画定し、大宝律令によって国郡里制が完成するまでは、大化改新から半世紀以上の時間がかかっているのです。なお、天皇という称号や、日本という国号が決められたのも7世紀後半の天武天皇の時期であるというのが定説になっています。これによって日本は、当時の世界最先端の国家であった中国の唐と肩を並べたという自負を得るようになり、日本書紀の編纂へと進んでいきます。

 

6-4 官道

 律令国家は、都を起点として、列島各地に七道と呼ばれる幹線道を整備しました(上述の図を参照)。現代でいう高速道路網と同じようなものですが、これらは各国の国府を結んでおり、駅路と呼ばれます。駅路には支道もあり、このような古代官道の復元としては、東京都国分寺市の国指定史跡の東山道武蔵路が著名ですが、これは東山道から武蔵国府中へ行くための支道です。

西国分寺駅近くの東山道武蔵路跡

 駅路には16㎞おきに駅家(うまや)と呼ばれる役場が造られ、そこには常時決められた数の馬が置かれ、都との往復をする使いが使用しました。また、駅家は役人が出張する際にも使用されました。律令時代に役人が移動する場合は、軍隊を含めて原則としてこの陸路を使いました。船の方が移動が楽だとしても、陸路に拘った時代なのです。駅家の遺跡は全国的にもあまり見つかっていません。

 駅路のほかには、国府と郡家(後述します)や、郡家同士を結ぶ道もあり、これを伝路(でんろ)と呼びます。現代の駅伝競技の名前のもとは、古代の駅路と伝路です。

 

6-5 位階制度

 中央や地方で働く公務員のことを官人(かんじん)と呼びます。官人には位階と呼ばれるランクが付与されており、日本では603年に聖徳太子が定めたとされる冠位十二階から始まって、これもヴァージョンアップを繰り返し、上述の編目の表を見ると、令の第一に「官位」がありますが、この官位令には、以下の通りに30のランクが定められていました。

位階補足
正一位
従一位
正二位
従二位
正三位
従三位ここまでが上級貴族
正四位上
正四位下
従四位上
従四位下ここまでが中級貴族
正五位上
正五位下
従五位上
従五位下ここまでが下級貴族
正六位上ここからさらに上がるにはかなりハードルが高い
正六位下
従六位上
従六位下
正七位上
正七位下
従七位上
従七位下
正八位上
正八位下
従八位上
従八位下
大初位上
大初位下
少初位上
少初位下

 従五位下(じゅごいのげ)以上を貴族とし、ランクの低い官人からするとそこまで上がるのが一つの目標になりましたが、そう簡単になれるものではありませんでした。律令時代においては、家格というものがあり、出自によって基本的な上限が決まっており、また抜擢人事は極めて稀です。

 

6-7 国府

 今回は国府跡へ行かないため、説明は割愛させていただきます。

 

6-8 郡家

 国郡里制における国の国府と同様に、郡には郡家と呼ばれる役所がありました。郡家はその政治的中枢個所を指して郡衙と呼ばれることが多いです。武蔵国には最終的には21の郡が置かれました。

『国分寺の今昔』(国分寺市/編)より転載

 郡衙を構成する主な建物は、政庁と正倉です。政庁は郡司が政治を行う場所で、正倉は納められた税(主として種籾)を収めておく倉です。郡衙の遺跡は全国で多数確認されていますが、この両者が見つかっているものもあれば、片方だけが見つかっているものもあります。豊島郡衙は、両方が見つかっています。

飛鳥山博物館にて撮影

 正倉のイメージは、飛鳥山博物館に展示してあるものを見るとよいです。

飛鳥山博物館にて撮影

 

 

第7章 中世

 日本における中世の開始は、鎌倉幕府の始期である文治元年(1185)や、白河上皇が院政を開始した応徳3年(1086)とする考えが多数派ですが、平将門の乱の勃発した天慶2年(939)を始まりと考えることもできます。

 平将門を武士と見るか見ないかは、研究者によって違いがあります。私もまだ武士として認めるのは尚早かなと思っていますが、本稿では中世を述べるにあたり、平将門の乱から始めることにします。

 

7-1 平将門の乱

 平将門は、下総国北部の豊田郡や猿島郡に勢力基盤があった豪族です。生年は不詳ですが、天慶4年(940)に戦死しています。この時代はまだ律令国家は機能しており、将門を探る上での基本資料である『将門記』を参照しても、国府が地方を統治する際の要になっていることが分かります。

 下総の地方豪族である将門は、自身の結婚問題で親戚と険悪になり、やがて武力闘争に発展するのですが、その流れでなし崩し的に国家への反逆へと発展してしまった結果、「平将門の乱」と呼ばれる大事件になってしまいました。

 なお、平将門の乱の勃発時期を承平5年(935)と説明する研究者もいますが、その時点ではまだ親戚同士の戦いのレヴェルに留まっており、将門は国家への反逆を行っておらず、私は将門が常陸国府と戦ったことにより国家への反逆とみなされた天慶2年(939)をその開始時期として考えています。

 将門は、「桓武天皇五世の孫」と称しており、「応神天皇五世の孫」と称した継体天皇と通じるところがあります。『尊卑分脈』によると、桓武天皇の多数の皇子のひとりである葛原親王の子に高見王がおり、その子の高望王(たかもちおう)が臣籍降下し、平高望と名乗り、上総介に任じられたのを機に関東に下向したといわれます。臣籍降下とは、皇族が口減らしのために皇族の籍から離脱させられ一般貴族の籍になることで、臣籍降下された人びとはかなりの数に及びます。

 ここまでを系図に表すと以下の通りです。

桓武天皇 ーーー 葛原親王 ーーー 高見王 ーーー 高望王(平高望)

 ただし、この高望王は、高見王の子であるという説以外に、葛原親王の子であるという説もあり、この時点ですでに系譜関係がはっきりしなくなります。

 高望の子のうち、三男の良将(良持)が将門の父です。この後の説明で、秩父平氏という人びとが登場しますが、彼らは良将の兄弟・良文の子孫になります。秩父平氏を含めた関東八平氏というのがこの後に大繁殖して、関東地方を代表する武士となっていきますが、その祖は良文です。

 

7-2 平忠常の乱

 平忠常は房総に基盤を持つ豪族で、上述の平良文の孫です。系譜を示すと以下の通りです。

平良文 ーーー 忠頼 ーーー 忠常 ーーー 常将(千葉氏の祖)

 長元元年(1028)に発生した平忠常の乱は、房総の歴史を語る上では重要な事件ですが、飛鳥山現地講座とは関連しないため、今回は説明を割愛します。

 

7-3 前九年合戦

 永承6年(1051)から康平5年(1062)までの足掛け12年に渡り、奥六郡と呼ばれた現在の岩手県南部で、陸奥守として現地に赴任した源頼義が、現地の有力者である安倍氏の資産を奪って巨富を得ようとしたことが発端で開始された戦いです。

 この戦いに豊島氏の祖とされる常家が従軍しています。

平良文 ーーー 忠頼 ーーー 秩父恒将 ーーー 武恒 ーーー 豊島常家

 本章の豊島氏に関係する系図は、『豊島氏とその時代』(峰岸純夫ほか/編)所収系図を元にしていますが、中世の人物も古代と同じで、発音は一緒でも記された史料によって漢字が違う場合があります。例えば上記の「恒」という漢字は「常」の場合もあります。また順序が違うこともあり、恒将が将恒だったりすることもあります。不思議に思うかもしれませんが、そういうものですので諦めてください。

 さて、常家が豊島氏の祖とされるわけですが、武士は所領した地名を名字にすることがあります。つまり、常家は豊島郡を領したことにより、豊島と称したわけですが、常家が豊島郡を領することになった原因は不詳です。

 前九年合戦について解説するとかなり長くなりますし、今回の現地講座とは直接関係がないため、今のところは、源頼朝の祖である源頼義という人の名前を覚えておくことと、この時点で豊島郡に豊島氏が領主として君臨していたことを覚えておいてください。それと、一般常識的なこととしては、この戦いで安倍氏に加担して戦って死んだ藤原経清が奥州平泉の初代清衡の父であることも知っておくとよいでしょう。

 

7-4 後三年合戦

 前九年合戦の結果、安倍氏は滅び、奥六郡は清原氏の手中に収まったのですが、清原氏の養子となっていた藤原清衡と清原氏との間で戦いが起き、それを後三年合戦と呼び、永保3年(1083)から寛治元年(1087)にかけての戦いです。結果的には、清衡は頼義の子の八幡太郎義家の援助によって勝利し、平泉に政権を確立しました。この清衡による奥州平泉の栄華は、基衡、秀衡、泰衡と以後100年間続くことになりますが、平泉四代のことを知りたいときは、高橋克彦の小説『炎立つ』をお勧めします。

 今回訪れる平塚神社の主祭神は、八幡太郎源義家命と、その弟たちの賀茂次郎源義綱命と新羅三郎源義光命です。

平塚神社

 平塚神社の縁起によると、神社の創立は平安時代の元永年中で、八幡太郎義家が奥州から凱旋の途中にこの地を訪れ、領主の豊島太郎近義に鎧一領と十一面観音を下賜しました。そのシーンは、江戸時代に作成された絵巻物に収録されています。

「平塚明神幷別当城官寺縁起絵巻」の複製(飛鳥山博物館にて撮影)

 近義はその鎧を埋めて塚を築き、自身の城の鎮守としましたが、塚は甲冑塚と呼ばれ、高さがないために平塚とも呼ばれました。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀ったとしています。

 ただし、近義という人物は、「泰盈本豊島家系図」(江戸時代の旗本・豊島泰盈が作成した系図)には常家の兄として記されていますが、史料上には現れません。「近」の字も「義」の字も秩父平氏の通字として相応しくなく不審ですが、こういったことは武士の家系を調べているとよくあることです。

「泰盈本豊島家系図」の複製(飛鳥山博物館にて撮影)

  

7-6 鎌倉幕府創設

 昨年の大河ドラマで放送された通り、治承・寿永の内乱を経て、源頼朝は鎌倉に本拠地を定めました。頼朝が房総半島を北上する過程で、秩父平氏に属する葛西氏や豊島氏が味方に加わり、当初敵対し、のちに頼朝に降った江戸氏も秩父平氏ですし、頼朝麾下の豪将として活躍する畠山重忠も秩父平氏です。

 豊島常家 ーーー 康家 ーーー 清元(清光) ー+ー 有経
                         |
                         +ー 葛西清重


 この一族は荒川水系が主たるテリトリーでした。こちらの図が一族の配置図です。

飛鳥山博物館にて撮影

 鎌倉幕府創設時までは、相変わらず関東では秩父平氏などの坂東八平氏が強大な勢力を誇っていたのですが、鎌倉時代に北条得宗家が権力を握ると、彼らの力は落ちて行きます。ただし、後述する通り、その中でも豊島氏は戦国時代に太田道灌に滅ぼされるまで勢力を維持した数少ない一族です。

 なお、頼朝は江戸氏のいる現在の江戸城を避け、北から迂回して鎌倉へ入ったと言われています。飛鳥山現地講座での探訪予定はありませんが、王子駅の比較的近くに頼朝が在陣したと伝わる金剛寺があります。

金剛寺

 

7-7 鎌倉幕府の滅亡から関東における戦国時代の始まりへ

 以降は、本サイト内の関東戦国史のページをご覧ください。

 

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