概要

 秋葉山古墳群は、相模川中流域左岸に位置する前期の古墳群で、相模川流域の古墳群としては最大級でヴィジュアルも良く見学のしやすさでも優れている。

 現在の地形では相模川の河口までは、直線距離で17㎞ほどである。注目すべき点としては、中津川と小鮎川が相模川に合流する地点に近いことで、秋葉山古墳群の南側に位置する上浜田古墳群と並び、相模川の河川交通の要衝を抑える立地にある。相模川流域では、秋葉山古墳群よりも上流域には前方後円墳は築造されていない。

 海老名市内最高所の痩せ尾根上に地形に沿って古墳が並び、現状で確認されているのは6基だが、調査がされて普通に墳丘に立ち入ることができるのは6号墳を除く5基。

【現地施設説明】

✅ 駐車場は古墳群南側に舗装されていない駐車スペースあり(大型車不可)
✅ トイレなし
✅ 飲み物の自販機なし
✅ 説明板は古墳群南側の駐車スペースに下記の内容のものが設置してある

 説明板とは少し違うところがあるが、各古墳のスペックを築造順に記すと以下の通り。

 ① 4号墳 ・・・ 3世紀後半の築造、墳丘長37.5mの前方後方墳
   ※4号墳が3号墳より古いと推定した理由は後述
 ② 3号墳 ・・・ 3世紀後半の築造、墳丘長50.5mの前方後円墳
 ③ 2号墳 ・・・ 3世紀末の築造、墳丘長50.5mの前方後円墳
 ④ 5号墳 ・・・ 4世紀前半の築造(1号墳と同時期)、一辺20mの方墳
 ⑤ 1号墳 ・・・ 4世紀前半の築造、墳丘長59mの前方後円墳

【眺望チェックポイント】

✅ 秋葉山古墳群は、海老名市内最高所の丘の上にあり、西側の相模川方面の眺望がよく、天候によっては大山などの丹沢山系が綺麗に見られる
✅ 相模川の水面は見えないが、南西方向4㎞弱の場所が相模川に中津川と小鮎川の合流地点なので、それの方向をイメージして望んでみよう


 以下、各古墳の説明は北側から順番とする。

秋葉山4号墳

 出土遺物が少なく、築造年代を確定させるのは難しいが、少ない遺物から推定すると1号墳と同じころの築造と考えられる。その場合、1号墳は前方後円墳であるので、通常その地域内では、前方後円墳よりも前方後方墳の方が先に築造されるため、1号墳よりも少しだけ早く築造された可能性が高い。ただし、例外が絶対にないわけでもないため、現状では「1号墳と同じころ」として、前後関係ははっきりさせないでおく。

墳丘

墳丘長37.5mの前方後方墳。平成14年度の第10次および第11次調査により後方部西側に周溝を検出し、段築と葺石がないことを確認。翌平成15年度の第12次調査により前方後方形と確定。

主体部

主体部は未調査。

周溝

平成14年度の第10次および第11次調査により後方部西側に周溝を検出したが、前方部の西・南・東の各トレンチからは周溝は見つかっておらず、後方部東側は住宅があるため調査できない。周溝は全周するものではなく、後方部を囲む程度のものだった可能性が高い。

出土遺物

【チェックポイント】

✅ 後方部東側(住宅がある方)の削られ具合
✅ 後方部西側のみ周溝が検出されているためその形跡を見たいが、おそらく地表面観察では分からないだろう

秋葉山5号墳

【チェックポイント】

✅ 墳丘が小さいため目立たないがきちんと存在に気付いてあげよう

秋葉山3号墳

現状は円墳のように見えるが、平成10年度の第7次調査などにより前方後円形の形状を確認し、墳丘長は推定で51m。秋葉山古墳群で唯一墳頂の発掘が行われており、墳丘主軸にほぼ平行した墓壙が見つかり、その規模は9m×6~7mで大きめのもの。円礫が多く見つかっていることから、墳丘は葺石で覆われていたと考えられるが、段築はない模様。

墓壙から出土した高坏と台付鉢には水銀朱が付着していた。墳墓での水銀朱の使用はこれ以前には認められていない。高坏は元屋敷系(東海系高坏)だが、搬入品ではなく在地化進んだもので比較的古い様相を残している。

周溝跡からは5つほどの壺が見つかり、折り返し口縁、有段口縁、単口縁とあるが、弥生後期からの連続性の強い在地系の土器。これらの出土遺物からして、築造時期は庄内式新相段階。

【チェックポイント】

✅ 現在は後方部は存在しないが、この場所が痩せ尾根の中でももっとも幅がある場所であることを確認しよう
✅ 後円部径は40mほどあるため、前方部がどのあたりまであったのか目測して確認しよう
✅ 円礫が見つかっていることから、現在でも落ちていないか確認

秋葉山2号墳 秋葉山古墳

標高84.6mを計る海老名市内で最高所の後円部墳頂には秋葉社が祀られており、古くから秋葉山古墳と呼ばれていた。
墳丘長は50.5m。布留式古相段階の築造。

【チェックポイント】

✅ 海老名市内最高所である後円部墳頂に立ってみよう
✅ 墳丘長は3号墳を変わらないが、2号墳の方が後円部径が小さく全体的にスマートな形状になっている
✅ 段築がないことを確認
✅ 葺石がないことを確認

秋葉山1号墳 山王山古墳

 平成6年度の第4次調査により、前方部前面に周溝を検出したが、その後の調査によっても周溝は他の場所からは検出されず、周溝はその部分のみのようであり、よって周溝とは呼ばず、区画溝と呼ぶ。また、同調査により、墳丘は盛土によって構築されていることが分かった。

 平成11年の第8次調査により、段築と葺石がないことを確認し、くびれ部や区画溝から小型丸底土器と鉄鏃が出土。布留式新相段階の築造で実年代は4世紀前半。

【チェックポイント】

✅ 秋葉山古墳群最大のスケール感を確認

考察

 古墳群は、南側にある常泉院の所有地で、そのこともあって現代まで大事に保存されており、平成17年7月14日には国史跡に指定された。

 調査がされていない6号墳を除く築造順は、3世紀後半の4号墳から始まり、3号墳(3世紀後半)、2号墳、4世紀前半に古墳群最大の1号墳が築造されて終わる。1号墳が築造されたころには、南側に位置する上浜田古墳群の造営が開始される。

 関東地方各地では前方後円墳の築造に先立って前方後方墳が築造される地域が多くみられるが、秋葉山古墳群でも確定はできないものの前方後方墳である4号墳が最初に築かれた古墳と考えられ、その時期は、庄内式新相段階で、3世紀第Ⅳ四半期と考えられ、東日本では、長野県松本市の弘法山古墳(墳丘長63m)や、千葉県市原市の神門3号墳や同4号墳が同時期の古墳と考えられる。

 相模湾岸では弥生時代後期初頭の集落の様相が良くわかっていないが、後期前半には東海系の土器を出土する集落遺跡が確認されるようになり、相模川流域では東三河・西遠江系、金目川水系では、駿河・東遠江系の土器が多く、在地の伝統が希薄。東海地方でも、遠江国の天竜川を境に西と東では違う勢力が展開していたようだ。

 東海からやってきた人々が作った集落では、綾瀬市の遺跡が著名。彼らは、方形周溝墓を築造するが、弥生時代後期後半にいたっても墳墓から見る限りでは、王の存在をうかがわせるようなものはなく、北部九州でいうところの特定集団墓段階から特定個人墓への移行はなかった。

 この時期から相模平野では大型古墳の築造が始まり、上浜田古墳群では瓢箪塚古墳(墳丘長80mの前方後円墳)、相模川右岸では厚木市のホウダイヤマ古墳、伊勢原市の小金塚古墳(円墳)、真土大塚山古墳が築かれ、金目川水系では、平塚市の塚越古墳(墳丘長50mの前方後方墳)が築造されている。

なお、同じ相模国内では、三浦半島に長柄・桜山1号墳と同2号墳が相次いで築造されている。

上述の古墳やその周辺からの出土品を見ると、ヤマト王権の力が当地方にかなり浸透してきたことが分かり、相模国内では中期以降には大型古墳が築造されなくなることから、相模国は隣接する甲斐国と並んで、古墳時代前期のうちには倭国にとって内地化が完了した地域に入ると考えられる。

なお、多摩川流域の南武蔵地域も同様に前期の間には内地化され、中期初頭の野毛大塚古墳はヤマト王権に朝鮮半島での軍事作戦で活躍して大王に親しく功績を認められた将軍の墓と考えられる。

地方にある帆立貝式古墳は大山陵などの大王墓の陪冢として登場する経緯と、武器の副葬が多いという特徴から、その地域の王とは認められないものの朝鮮半島での軍事的功績が高い人物が葬られた墓と考えている。

併せて訪れるべき場所

・海老名市郷土資料館
・上浜田古墳群

参考文献

・『えびな文化財探求書 其ノ弐 史跡秋葉山古墳群 改定新版』 海老名市教育委員会/編 2009年
・『考古学リーダー4 東日本における古墳の出現』 東北・関東前方後円墳研究会/編 2005年