最終更新日:2022年9月22日

  

縄文時代後期(4500年前~3500年前)

 中期の終わりころから寒冷化が始まり、後期の始めには有名な三内丸山遺跡が解体します。一般的には気候の寒冷化によって大人数のムラを維持することが困難になったと説明されます。

『環境と文明の世界史』(石弘之・安田喜憲・湯浅赳男/著)より加筆転載

 ただし、東北地方の遺跡数は後期にはむしろ増加しますから、人びとは分散化して生活を続けていったことが分かります。後述する環状列石の盛行も分散化と関係があると思われ、分散化した人びとが集う場所が必要だったのでしょう。

 東北地方の中期の土器に関しては、北の円筒土器と南の大木式土器の2つの文化圏があり、徐々に南の大木式土器が北方へ勢力を伸ばし、中期の終わりには東北地方全体に大木式様式が広まりました。後期は、その流れのまま、東北地方全体で共通の十腰内土器様式を共有します。

 関東や中部高地を見てみますと、後期には遺跡数が減ります。中期のページでもお見せした東京都の多摩ニュータウン遺跡群の遺跡数と竪穴住居跡数を表したグラフですが、後期になると激減しているのが分かると思います。

東京都埋蔵文化財調査センターにて撮影

 八ヶ岳西南麓の場合も再掲しますが、こちらも徐々にフェードアウトして行っているのが分かります。

長野県立歴史館にて撮影

 ところが、九州では人口が増えたと思われ、下の写真もまたまた再掲ですが、熊本では後期になると賑やかになってきたのが分かります。

熊本博物館にて撮影

 後期から晩期は西日本では遺跡数が増加する傾向にあります。縄文時代というと、東日本が非常に栄えたイメージがあるかもしれませんが、そういうイメージは後期になると揺らぎ始めます。それでは、縄文時代後期の日本列島各地の様相を見てみたいと思いますが、まずはその前に環状列石の話からです。

 

環状列石(ストーンサークル)とは

 後期を象徴する遺跡として、一般的にストーンサークルと呼ばれる遺跡が後期から晩期にかけて主として東日本で作られました。ストーンサークルというと洋風な感じがしますが、日本語でカッコよく決めたいときは、環状列石と呼びます。

 では、環状列石とは何かというと、その名の通り、石が輪っか状に列してある遺構です。秋田県鹿角市の大湯環状列石はとくに有名ですね。

大湯環状列石(野中堂環状列石)

 この石を並べた遺構の正体は一体何なのかというと、実はいまだにはっきりしないものが多いのです。一番ポピュラーな説は、墓説ですが、墓として認めて良いものもあれば、墓の痕跡のないものもあります。祭祀場という説もありますが、そもそも祭祀が何なのか分かりません。私的には現代人が考えるような「お祭り」の場所でもあったのかなと考えています。上の写真のような場所で盆踊りみたいなダンスをしたのかなと思っています。もちろん合コンパーティーもあったことでしょう。

 ということで、環状列石とひとくくりにされてはいても、その正体については一個一個きちんと見極めていかなければなりません。

 環状列石のルーツ的なものは中期後半から見られますが、後期から増え、各環状列石の存続期間はそれほど長くはありません(具体的には後の表をご覧ください)。以下に列島各地の代表的な環状列石の分布を示します。

青森市・縄文の学び舎・小牧野館にて撮影

 著名なものだけでもこれだけあって、これらをケースバイケースで考察する必要があります。

 ところで、この分布図を見ると大きく2か所の分布圏があることがわかります。一つは関東で、もう一つは北東北と北海道です。築造された時期に関しては、前者は中期のものも見られますが、後者は後期が主です。そのため、中期に関東地方で発生したものが後期になって北東北に伝播したと考える研究者がいますが、その中間地帯である南東北には著名な環状列石は存在しないことから(小さな遺跡が存在するかは私は未確認)、両者は関連がないと考える研究者もいます。

 またさらに、大湯環状列石や伊勢堂岱遺跡、小牧野遺跡などが造られる後期前葉の十腰内Ⅰ式期には、青森県を中心とした地域で石棺墓が登場しますが、この時期以前に関東に石棺墓はなく、もし関東からの伝播だとすると石棺墓のみ在地のオリジナルということになり不可解です。

 主な環状列石の存続時期を下表に示します。土器型式が記されている時期がその遺跡が存在した時期です。

遺跡名後期・前葉中葉後葉晩期・前葉中葉後葉
大湯環状列石十腰内Ⅰ式十腰内Ⅱ式・Ⅲ式
伊勢堂岱遺跡十腰内Ⅰ式直前~十腰内Ⅰ式
小牧野遺跡十腰内Ⅰ式
大森勝山遺跡大洞BC式大洞C1式
鷲ノ木遺跡白坂3式
忍路環状列石手稲式・ホッケマ式

 後期という期間は約1000年間ですから、それを考えると、伊勢堂岱遺跡や小牧野遺跡のように後期の前葉で、しかも十腰内(とこしない)Ⅰ式が主体の遺跡は、その期間は長くても200年くらいと考えることができ、縄文時代の長いスパンから見ると、環状列石という遺構は、一般的には短い期間に造られた(使用された)構築物と見ることができます。

 なお、上の表の土器型式に関しては後述します。

 

大湯環状列石

 環状列石の中では比較的長命な遺跡で、後期前葉から中葉にかけて構築されました。鹿角街道を挟んで東西の2つの環状列石からなり、西側が万座環状列石、東側が野中堂環状列石で、その総称として大湯環状列石と呼びます。国指定特別史跡となっており、指定名称は「大湯環状列石」です。遺跡の北側に隣接して大湯ストーンサークル館があるので、そこを拠点にして散策するといいですし、可能であれば館の方にガイドをお願いして散策することをお勧めします。

 まずは野中堂環状列石。

 私たちは空から見下ろすことができないので、大湯ストーンサークル館の展示パネルで確認してください。

 径は42mあります。配石が二重の円を形作っていますが、外側の配石を外帯、内側の配石を内帯と呼びます。これらは適当に並べられているわけではなく、配石遺構の集合体です。

 一つの配石遺構は、数個から十数個の川原石を円形や楕円形あるいは方形(菱形)に組んでおり、それが各々約100基以上集まって二重の円を形成しています。現状では、野中堂環状列石では55基 、万座環状列石では105基の配石遺構が当時のままの形を保っているとされています。

 そう考えると、その一つの単位が一つの家族の墓と考えたくなりますが、実際にその下に土坑が見つかることがあっても遺体が埋葬された証拠が出ません。もっと調べれば出てくるかもしれませんが、今は国指定特別史跡になっていることもあり今後徹底的な調査をすることはないでしょう。

 ところが、1984~86年に行われた野中堂環状列石の南側に隣接する一本木後ロ(いっぽんぎうしろ)配石遺構群の調査では、確実に墓であることが確認されました。そのため、それから類推して大湯環状列石の配石遺構は墓である蓋然性が高くなりました。

 外帯と内帯の間に、目立つ円形の配石(日時計状配石)がありますが、それは後述するとして、内帯1号組石を見てみましょう。

 ストーンサークル館の模型ではこうです。

 環状列石は遺構内に立ち入ることができない場所が多くて、大湯環状列石もそうなので、少し離れた場所からの観察となります。

 輪になっているのが内帯で、右の立石が日時計状配石です。

 どこに1号組石があるか分かりますか?

 これです。

 遠い・・・。

 この配石の正体は不明です。

 つづいて万座環状列石を見てみましょう。こちらは環状列石の外側で検出された柱跡からほぼ同時期に存在したと考えられる建物跡を復元しています。

 径は48mあります。正円になっておらず、隅丸方形のようなことから「ストーンスクウェア」と呼ぶ研究者もいますが、当時これを作っていた人は空の上から見ることはできず、四角を指向したわけではなく、丸にしたかったことは間違いないと思います。

 こちらも大きく二重構造になっており、外帯と内帯の間に、配石遺構やそれらしきものがいくつかありますが、その中で特徴的なものの模型がストーンサークル館で展示してあります。まずは、日時計状組石と呼ばれているものです。

 昔は日時計説があり、日時計状組石とネーミングされたのですが、現在日時計説を主張している研究者は少数派だと思います。

 この配石の正体は不明ですが、万座環状列石の中心と野中堂環状列石の中心を線で結ぶと、この日時計状組石はそのライン上に位置します。そして、そのライン上には、少しずれるものの上述した野中堂環状列石の日時計状組石も存在するため、何か意味がありそうです。

 こういうときによく出てくる説が、夏至や冬至の日の入り・日の出の方向説です。事実として、このラインは現代の夏至の日の入りと冬至の日の出方向とほぼ合致しています。そのため、これらの遺構はきちんとした計画に則って構築されていると考えられます。

 縄文人が太陽に対してどのように思っていたのかは分かりませんが、経験として冬至の日から一日が長くなり、夏至の日から反対に短くなっていくことは理解していたでしょう。そういうことは、むしろ現代人より敏感だったはずです。

 もう一つのこちらは四角ですね。明かに四角を指向しています。

 さあ、これは何でしょうか。

 

東北地方の後期の土器

 既述した通り、後期の東北地方では全体的に十腰内様式に一本化されます。十腰内様式には時代順に以下の型式があります。後期は4500年前から3500年前までですので、その1000年間に以下の型式の土器が作られました。

 ・牛ヶ沢式
 ・沖附(おきづけ)式
 ・弥栄平(いやさかだいら)式
 ・十腰内(とこしない)Ⅰ式
 ・十腰内Ⅱ式
 ・十腰内Ⅲ式
 ・十腰内Ⅳ式
 ・十腰内Ⅴ式
 ・十腰内Ⅵ式

 十腰内様式期には、普段使い用の粗製土器と、祭祀用と考えられる特別仕様の精製土器が作られ、こういった作り分けは他地域でも見られるようになります。

 

牛ヶ沢式

 十腰内様式の土器は前半期には沈線で施されるのですが、後期最初の牛ヶ沢式土器を見ると粘土紐を使った隆線で文様を付けています。

縄文の学び舎・小牧野館にて撮影

 

沖附式

 この沖附式土器は、十腰内っぽくなっています。まるで道路地図のようですが、道路(例えです)の中には縄文を施しています。道路の中には中央分離帯がある場所もあります。

縄文の学び舎・小牧野館にて撮影
縄文の学び舎・小牧野館にて撮影

 

弥栄平式

縄文の学び舎・小牧野館にて撮影
縄文の学び舎・小牧野館にて撮影

 

十腰内Ⅰ式

 これ以前の型式では、深鉢がほぼすべてで稀に壺がありますが、十腰内Ⅰ式からはいきなり深鉢以外の器種が増加します。

縄文の学び舎・小牧野館にて撮影

 下の浅鉢は文様というより絵柄のような雰囲気です。

縄文の学び舎・小牧野館にて撮影

 

十腰内Ⅲ式

 この土器は5つの突起をもつ波状口縁部分の質感が革製品のような風合いです。縁の部分の文様が縫い目のように見えるため、余計にそう見えます。ただ、文様としては照明の関係であまり写ってない下の方の部分の縄文に注目して欲しいのです。

八戸市・風張1遺跡出土(是川縄文館にて撮影)

 風張1遺跡は、十腰内Ⅲ式以降の土器が出るため型式は分かりませんが、縄文は上の土器よりかは分かると思います。

八戸市・是川1遺跡出土(是川縄文館にて撮影)

 

十腰内式各種

 赤い彩色の跡が見られますが、器の内側も赤くなっています。きっと元々は真っ赤な土器だったのでしょう。

縄文住居展示資料館カルコにて撮影
縄文住居展示資料館カルコにて撮影

 下の壺形土器は頸部に把手が付いており棺と考えられます。

縄文住居展示資料館カルコにて撮影

 棺と言ってもこの中に遺体が入る人はいないので、白骨化した遺骸を納めるものです。

 

十腰内Ⅴ式

 十腰内様式も最後の方になると、器面に瘤のようなものを付けるようになります。この土器も控えめですが、粘土の塊を器面にくっつけています。

縄文の学び舎・小牧野館にて撮影

 この時期からは香炉形土器が作られ始めます。

 

風張1遺跡

 青森県八戸市にある後期後半(十腰内Ⅲ式以降)の集落跡で、国宝の「合掌土偶」が出土した遺跡です。車であれば是川縄文館から数分で行ける距離なのでぜひ現地へ行ってみましょう。ただし、遺跡の場所は現在介護施設があるため立ち入ることはできず、道路沿いに説明板が立っているのみで、駐車スペースもありません。

 風張1遺跡では後期後半の住居跡が188棟見つかっており、十腰内Ⅲ式期に集落が造られました。ただ、先行する十腰内Ⅱ式期に相当する集落跡はこの近辺からは見つかっておらず、十腰内Ⅲ式期に少し遠い場所から人びとがここに移り住んできて新たな生活を始めたことが分かります。なお、合掌土偶は十腰内Ⅳ式期に造られた第15号竪穴住居跡で見つかりました。

 合掌土偶ほかの出土遺物は、八戸市の是川縄文館で見ることができます。是川縄文館の2階にある常設展示室は、主として前半が晩期の集落跡である是川中居遺跡、後半が風張1遺跡の展示になっています。合掌土偶がスターですが、この頬杖土偶も素晴らしいですよ。

風張1遺跡出土・頬杖土偶

 この土偶は十腰内Ⅲ式期ですから、造られた時期は合掌土偶よりも前になります。合掌土偶がどこかの展示に呼ばれて出張に行っているときは、先輩であるこの子が是川縄文館の「トップ代理」に就任していると私は勝手に思っています。

 ちなみに、こういった座った状態でポーズをとっている土偶は各地で見つかっていますが、岩手県遠野市で「たそがれ土偶」と呼ばれている土偶もその仲間です。後期の土偶で夫婦石袖高野遺跡から出土しました。

遠野市・夫婦石袖高野遺跡出土(遠野まちなか・ドキ・土器館にて撮影)

 ただし、この子は頬杖はしていません。ただ面白いのは右手が器のようになっており、そこに何かを容れることが可能な様子になっていることです。といっても、この子は高さ4㎝と小さいため、小石程度しか入らないのですが。

 さて、話を是川縄文館に戻します。2階常設展示の一番奥まで行くと、いよいよ合掌土偶専用の部屋があり、かの国宝土偶が鎮座しています。

風張1遺跡出土・合掌土偶

 元々、既述した頬杖土偶を含め、風張1遺跡から出土した664点が重要文化財になっていたのですが、その中からこの子だけが平成21年に国宝にランクアップされました。多分、先輩の頬杖土偶は「なんだよ私は”つけたり”にもならないの?」と気を悪くしたと思います。

 合掌土偶は、第15号住居跡の中から左足がもがれた状態で見つかりましたが、左足も同じ住居跡でみつかり、無事このように造られた当初の形に接合することができたのです。土偶は墓や捨て場から見つかるのが一般的で、住居跡から見つかるのは珍しいです。土偶本体が見つかったのは、住居内北側の壁際です。

是川縄文館の展示パネルに加筆

 左足は、西側約2.5m離れた位置で見つかったということですが、写真が鮮明でないので分かりづらいです。土偶の足らしきものが見えていますが、土偶本体よりも層位が低く、これに関してはちょっと調べてみます。

 下の写真で左足の付け根部分を確認してみてください。

風張1遺跡出土・合掌土偶

 すでに「現役」だったころには4つの部位に割れていたのをアスファルトで補修していたことも分かっています。補修済みだった右足側を見てみましょう。

風張1遺跡出土・合掌土偶

 なお、合掌土偶は元々は全体が真っ赤に塗られていたので、よく観察するとベンガラを塗った形跡が分かりますよ。

 ところで、土偶の使い方の説明で、ある人が身体の一部が不調になったときに、その身代わりとなる土偶の一部をもいで平癒を願ったという説を聴くことがありますが、そうだとすると、その儀式を行った後、再び補修して何度も再利用したということになります。もしかしたらそういう利用方法もあったのかもしれませんが、合掌土偶に関してはそれは違うと考えます。縄文時代は王様のような隔絶した地位の人は存在せず、大雑把に言うと皆一般人ですから、このような手の込んだ立派な土偶を普通の人の病気平癒のために何度も壊して再利用を続けたというのはちょっと贅沢すぎるように思え、それとは違う目的で壊しては補修するという行為が「現役」の頃に行われたのでしょう。そして最終的には、左足をもいで住居内に安置されました。

 「捨てた」という表現より「安置した」という表現が良いと思うのは、合掌土偶は住居の内側を向くように側位で置かれていたように見えるからです。

是川縄文館の展示パネルを撮影

 同じ縄文後期の国宝の「仮面の女神」も土坑内で側位で内側に向いて置かれていました。丁寧な置き方なので「捨てる」というより「安置する」という表現の方がいいと思います。

 私たちは博物館などでたくさんの土偶を見ることができるため、土偶の希少価値に気づかないかもしれませんが、当時の人びとにとって土偶は大変珍しいもので、とくにこのような現代の国宝になるような土偶を当時見た人は非常に限られているはずです。そう考えると、この土偶は拠点集落とも呼ぶべき風張1遺跡とその周辺の人びと全員の「宝物」として存在していたと考えることができます。

 

縄文時代後期の八ヶ岳西南麓地域

 長野県から山梨県にまたがる八ヶ岳西南麓地域は、中期のページで既述した通り、中期は国内でも最大級の遺跡密集地域でした。ところが、後期になると一部の遺跡を除いて一気に減少化します。長野県立歴史館の展示パネルを再掲して確認してみます。

長野県立歴史館にて撮影

 後期の前半はまだ辛うじて中期の余韻があったように見えますが、堀之内Ⅱ式以降、減少傾向に歯止めが付かなくなっています。堀之内Ⅰ式期から同Ⅱ式期への減少をみると、何か大変なことがこの地域に起きたように思えますが、この時期はむしろ全国的に平均気温が上昇して、後期海進も起きており、海沿いの地域では多くの貝塚が造られています。

 そんな中でこの地域を代表する後期の遺跡に、中ッ原遺跡があります。実際には中期の貉沢式期から集落の形成が本格的にはじまり、後期の加曽利B式期まで途絶えることなく人びとが住んでいて、見つかった中期の住居跡は165軒あって全体の7割を占めるので、「後期の遺跡」という紹介は良くないかもしれませんが、後期には有名な国宝土偶の「仮面の女神」が出土しているためここで紹介します。仮面の女神は、棚畑遺跡から出土した「縄文のビーナス」とともに、長野県茅野市にある尖石縄文考古館に行けば会えます。

中ッ原遺跡出土・仮面の女神(尖石縄文考古館にて撮影)

 同じ仲間として、山梨県韮崎市後田遺跡出土の土偶(通称「ウーラ」)があります。

山梨県立美術館の「縄文展」にて撮影(普段は韮崎市民俗資料館にいます)

 両者に共通するのは、2009年に連れ立ってイギリス旅行を楽しんだことだけでなく、胸の表現がないことも同じです。ほとんどの土偶にはおっぱいがあって、中には巨乳のものもありますが、これらはそれを敢えて表現していないのです。妊娠線もありません。ただ、女性器の表現はあるので、女性を表現しているのは確かでしょう。ただし、ウーラは男性器のように見えなくもないです。

 さて、中ッ原遺跡は「中ッ原縄文公園」として整備されており、現地に来てまず目に飛び込んでくるのは、三内丸山遺跡を彷彿とさせるような8本柱の復元です。

 柱列の位置は後で図をお見せしますが、南北の軸で建てられています。どんな上物であったのかは分からないため、この地の「諏訪の御柱」を連想されるような柱のみで表現されています。わざと長短の4本ずつのペアにしているところが神への畏敬の念を感じられます。

 覆屋がありますが、そこは実際に仮面の女神が出土した場所で、その時の状況をジオラマで見ることができます。

 置かれている土偶はもちろんレプリカですよ。土偶がみつかった第70号土坑は、裏返した土器が見えている第94号土坑と切りあっており別の遺構です。

 第70号土坑は堀之内Ⅱ式期です。次の加曽利B1式期には住居跡は1軒しかみつかっておらず、中ッ原遺跡は終焉を迎えます。

 地表面には建物跡の表示があり、これらも実際と同じ位置に表示されています。

 以上の位置を現地説明板にて確認してみましょう。

 現地説明板の写真は北が下になっているので180度回転させました。現地で位置を確認するときは、この写真の右手に写っているお宅が目印になるでしょう。オレンジ色の丸で示したのが8本柱跡ですが、こう見ると、既述した通り南北方向に軸を揃えていることが分かります。

 駐車場もありますし、トイレもあるのですが、注意することとしては、GW前までは、仮面の女神の出土状況展示とトイレが閉鎖されていることです。この地域は冬が厳しいため、このように冬季に閉鎖される施設があるので訪れるときは注意しましょう。

 

縄文時代後期の関東地方

 中期の後葉、大木8式土器(縄文時代の伊達政宗)の南下によって加曽利E1式土器が成立し、その勢力が西進して西関東の勝坂式土器を消滅させました。その流れで後期に入りますので、後期の関東は東西で別の土器型式があったわけではなく、おおむね統一された型式で推移します。

 ・称名寺式
 ・堀之内式
 ・加曽利B式
 ・安行式