最終更新日:2022年11月2日

 本稿ではタイトル通り、越後の古代史について述べますが、私自身がまだこの地域について踏み込んだ研究をしておらず、また土器の見方も理解が足りていないため、現状で分かる範囲で記します。もし、学術的な誤りがありましたらご指摘ください。

 ※青字で示した遺跡は、11月3日出発の越後の現地講座にて訪れる予定の箇所です(結構行程がタイトなのですが極力行けるように努力します)。

 

越後の弥生集落

 弥生時代の集落というと、復元されている佐賀県の吉野ヶ里遺跡や奈良県の唐古・鍵遺跡などのような堀と土塁に囲まれた環濠集落をイメージする人が多いと思います。

奈良県田原本町・唐古・鍵遺跡

 ただし、こういった環濠集落は、日本各地に満遍なくできたわけではなく、分布には偏りがあります。一般的に環濠集落は戦いに備えた集落と説明されることが多く、その考えに対しては、環濠をめぐらすのは動物対策だとか、信仰上の結界だとか、あるいは反対に中に住んでいる人を外に出さないためだとか、様々な否定的な意見もありますが、そういう種類の集落がゼロとは言えないとしても、私は通説通り戦いに備えた集落であると考えています。

 しかしそうなると、不思議な点もあります。さきほどは分布に偏りがあると言いましたが、東日本ではこのような分布になります。

『弥生時代のヒトの移動』(西相模考古学研究会/編)より転載

 例えば関東地方では著名な横浜市の大塚・歳勝土遺跡がある鶴見川流域や、その周辺の比較的海から近い場所には沢山作られたため、神奈川・東京・埼玉は激戦地帯で殺伐とした社会のように見えますが、少し離れた今の利根川を越えた茨城県には弥生時代の環濠集落は見られないため、その地域の人たちは、のほほーんと平和な生活を送っていたということになってしまいます。徒歩で数日の距離しか離れていないのに、かたや血で血を洗う戦争社会、かたや平和社会ということがあり得るのでしょうか。

横浜市都筑区・大塚遺跡

 このようなこともあって、環濠集落の正体については、大雑把に「弥生時代後期」とか、そういう見方をするのではなく、地域や時期を精緻に見つつ、出土する遺物の観察を含めて考察を深める必要があると思います。

 しかしそう偉そうにいいつつも、私にはまだそこまでの知識がなくて、大雑把な見方になってしまうのですが、新潟県内でも弥生時代中期前半には環濠集落が現れます。上越市の吹上遺跡です。土器には信州系のものも含まれるため、この集落の構成員には信州に出自を持つ人物もいました。また、吹上遺跡では、中期中葉には玉作工房も作られています。

 吹上遺跡は低地に作られた環濠集落でしたが、後期になると、生活に不便であろう山の上に集落を営むケースが増えます。これは全国的な傾向で、まるで後世の山城のような集落も現れるのですが、それを高地性集落と呼びます。有名な高地性集落としては、鳥取県の妻木晩田(むきばんだ)遺跡を挙げることができます。

鳥取県・妻木晩田遺跡

 高地性集落の性格に関しては、一般的には社会が不安定な状況になったため、敵の攻撃から村の成員と財産を守るためにそういう造りになったと説明されます。そして、『三国志』の「魏志倭人伝」に記されている「倭国乱」にあてはめ、弥生時代末期の2世紀終り頃の日本列島は、戦国時代のような様相を呈しており、そのために高地性集落が多数造られたと考える研究者がいます。

 なお、『後漢書』の「東夷伝」では、「桓霊の間」に倭国が大いに乱れたとあり、後漢の第11代桓帝から第12代霊帝の間(146~189年)と具体的に書かれていますが、中国の史書では、後漢末の動乱時期を表す慣用句として、「桓霊の間」という表現をよく使いますし、後漢書は三国志よりも後出ですので、実年代はそれにこだわる必要はありません。

 ただし、注目すべきこととしては、三国志を読んだことのある方はご存じかと思いますが、宗教結社による184年の黄巾の乱は後漢王朝にとどめを刺したような事件で、その頃から中国大陸では自然的・人為的な原因が合わさって、人が人を食べるような食糧難に見舞われていますから、この異常な気候不順と後漢王朝の政情不安が、周辺の東アジア地域にも大変大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。そのような時代、2世紀末頃に卑弥呼が倭国王になっており、それと反比例するように吉備や出雲の勢力が衰退して、3世紀半ばには畿内にて今までになかったような巨大な古墳が誕生し、ヤマト王権が発足し、時を同じくして朝鮮半島でも国家の成立が進みます。すべては連動しています。

 越後に話を戻します。

 越後でも高地性集落は、後期前半に信濃川以北の越後北部に出現し、それらの集落では東北系の土器が多くみつかることがあり、その場合の想定としては、会津地方から阿賀野川を下って人びとがやってきて信濃川以北の越後平野に住み着いたと考えられます。ただし、平野最北の村上市の滝ノ前遺跡や山元遺跡(両者とも東北系土器が多数を占める)の場合は、もしかすると、山形県の庄内地方から南下したかもしれません。いずれにせよ、それらの土器について詳しく勉強しないと結論は出せません。

 越後の高地性集落で著名なのは、新潟市秋葉区の古津八幡山遺跡です。比高50mの高所に造られており、かつ環濠もめぐっています。土器は北陸系と東北系が混在しています。

古津八幡山古墳

 後期の間繫栄した遺跡で、50棟以上の竪穴住居跡が検出されたほか、方形周溝墓も3基見つかっており、興味深いのは前方後方形周溝墓も1基見つかっていることです。大きさは13mです。

古津八幡山遺跡の前方後方形周溝墓

 越後最大の弥生集落跡は、上越市の斐太(ひだ)遺跡です。後期中葉から古墳時代が始まるころまで存続した集落で、比高45m以上の場所にあり、環濠も施されています。見つかった建物跡は130棟、土器類は北陸系で、古津八幡山遺跡と違って東北地方に出自を持つ構成員の面影は見えません。

 斐太遺跡は、国指定史跡・斐太遺跡群を構成する遺跡の一つで、他には、既述した吹上遺跡、それに吹上遺跡と同様に低地に作られた集落遺跡である釜蓋(かまぶた)遺跡が含まれます。

 同じ高地性集落でも、妻木晩田遺跡では900棟くらいの建物跡が検出されていますから、130棟の斐太遺跡はそれに比べたら小規模でしょう。しかし、越後地方も以西の地域と同様、弥生社会に組み込まれていたことは確かですから、例え小規模であっても、弥生時代の越後に「クニ」が存在したのか、墳墓をもとに考えてみましょう。

 

越後の弥生墳墓

 越後では、弥生時代中期には方形周溝墓が造られるようになります。方形周溝墓は今のところ近畿地方が震源地とされるため、これは西からの文化の伝播です。後期にかけて増加傾向にあり、比率的には少数派になりますが、円形周溝墓も見られます。それが、後期後半になると、方形台状墓が築かれるようになり、方形台状墓は方形周溝墓と比べて大きいものが多いです。越後の方形周溝墓は、一辺が10m未満のものがほとんどですが、見附市・大平城遺跡の台状墓は16m、長岡市の藤ヶ森1号台状墓は、13m×15m、斐太遺跡群のA2号台状墓は正確な大きさは不明ですが、長辺は20mに達するようです。

 周溝墓と台状墓の違いは、低い墳丘と周溝を持つ点では共通ですが、研究者は主として立地によって言い方を変えているようです。低地にあるものは周溝墓と呼び、一方、丘の上でも平坦な部分に溝によって区画した低い墳丘を持つものは周溝墓、元々の地形を削ることによって墳丘の高さが強調されたものを台状墓と呼ぶ傾向があります(もしかすると、研究者による統一見解はないかもしれません)。出現期の古墳は、一部地域を除いて山の上に築かれることが多いですから、イメージ的には台状墓は古墳に近いです。20mもの台状墓となると、もはや古墳じゃないかと思われるくらいです。

 周溝墓なのか台状墓なのか、というニュアンスは古墳初心者の方には難しいと思いますが、数をこなしていくと理解できるようになりますので分からないとしても今は耐えてください。

 ところで、私はその地域に「クニ」が発生したと考える条件として、王が存在したかどうかを基準にしており、王が存在したかどうかは、王墓が見つかっているかどうかを基準にしています。王墓というのは、古墳のように王その人だけのために特定個人墓と呼ばれる墓を造る以前にも、墳丘墓の中に多数の埋葬があったとしても、それらの人びとが貴族層と思われるほどの副葬品をもっていたり、その中の一人が特に副葬品が多彩であったりする特定集団墓があれば、それを王墓とみなします。福岡市西区の吉武高木遺跡では、弥生時代中期前半に遡る列島最古級の特定集団墓が見つかっています(AICTでは、2021年11月21日に探訪)。

吉武高木遺跡の特定集団墓跡は道路によって分断されている

 このような弥生時代の墓を越後で探すと今のところ該当するものはありません。このことから、越後には弥生時代に「クニ」は発生しなかったと考えます。

 それでは、弥生時代に「クニ」の発生を見なかった越後では、古墳時代はどのように迎えられたのでしょうか。

 

越後の古墳時代

 越後は古墳時代全時代を通じて、以西の地域と比べると古墳の造営が低調です。古墳の総数も650基くらいと言われており、比べる対象でもありませんが、畿内では一つの古墳群(群集墳)でこれくらいの数の場合があります。同じ「越の国」にあっても、越中(富山県)はもっと盛んです。

日本海側最大の前方後方墳である富山県氷見市の柳田布尾山古墳(墳丘長107.5m)

 越中や能登・加賀の古墳に関しては、2023年4月13日から現地講座を行うので、ぜひそれに参加いただいてその面白さを味わっていただきたいですが(募集ページはこちら)、越後の各時代の傾向としては、前期の古墳が比較的多く、列島各地で大型前方後円墳を造営した中期には古墳の造営は低調で、後期には群集墳もそれほど作られず、終末期の著名な石室墳も知られていません。したがって、新潟県では、古墳マニアが喜ぶ石室めぐりができないのです。

 つづいて、単純なスペックの話をすると、越後最大の古墳は造出付きの円墳である古津八幡山古墳で、径は60mです。前期後半から中期初頭にかけての造営で、既述した弥生時代の高地性集落のある古津八幡山遺跡で最も見晴らしの良い場所に築造されています。

古津八幡山古墳

 2番目の大きさの古墳は、新潟市の菖蒲(あやめ)塚古墳で、墳丘長54mの前方後円墳です。当然ながら、越後最大の前方後円墳で、かつ日本海側では最北の前方後円墳です。

菖蒲塚古墳

 菖蒲塚古墳も見晴らしが良い場所に築造されています。

 前方後方墳を見ると、墳丘長37mの山谷(やまや)古墳が最大です。これも前方後方墳としては日本海側最北です。

 こちらも山の上にあるのですが、現状は周りに木々が生えているため、見晴らしは良くありません。後期の古墳に関しては、「越の国の国造と神社」項で述べます。

 一般的に東日本ではその地域で古墳が築造される際は、まず前方後方墳が造られてからそれに続いて前方後円墳が造られます。ところが、何でも例外は付きもので、会津地方に関しては、前方後方墳と同じくらい古い前方後円墳が存在します。会津若松市の田村山古墳や会津坂下町の杵ガ森古墳ですが、それらは2022年10月10日にAICTで訪れました。

会津坂下町・杵ガ森古墳

 杵ガ森古墳は、墳丘長45.6mの前方後円墳で、これを箸墓古墳の6分の1の相似形として、ヤマト王権の力が3世紀後半には会津にまで及んでいたと考える研究者がいます。私はまず、よく言われる相似形の古墳という定義については慎重に考えていますが、もし会津に箸墓古墳の相似墳が存在するのなら、その古墳の伝播の通り道である北陸地方にあってもいいはずで、越後にも存在するべきだと考えますが、今のところ越後には確実なものがありません。

 そのようななか、越後の前期の前方後円墳を探っていくと、最初期のものとしては、弥彦村にある墳丘長26mの稲場塚古墳が挙げられます。ただし、発掘調査がされていないため詳細が分からないのが歯痒いです。

 上述の杵ガ森古墳を箸墓古墳の6分の1という人は、稲場塚古墳を箸墓古墳の10分の1とか言い出しそうな雰囲気ですが、そもそも私は前方後円墳は畿内で発生して全国に伝播したものではなく、列島各地で同時多発的に発生したものと考えています。なぜかというと、前方後円墳や前方後方墳は、それ以前の周溝墓から発達したと考えられるからです。

 話を戻して、稲場塚古墳と同じくらい古い古墳と考えられるものとしては、前方後方墳の大久保1号墳同2号墳が挙げられます。大きさはそれぞれ、25mと18mで、これだと弥生時代の台状墓と変わらないと思われるかもしれませんが、その周辺には方墳も数基見つかっており、そこには「四角い世界」が現出されています。

 これらに遅れて、既述した37mの前方後方墳・山谷古墳が築造されるのですが、山谷古墳と同じ頃には、胎内市に城の山古墳が築造されます。

 城の山古墳は、34m以上×41.6mの楕円形をした円墳ですが、一時、調査時の誤認によって前方後円墳とされたことがありました。結局、前方部に見えたものは中世の頃の増築だったことが分かっています。出土したほんの小さな歯の欠片の分析によって、被葬者は性別は不明ですが、10代の可能性もある若い人物であることが分かっています。

 城の山古墳のすぐ東側には、籠ホロキ山古墳という前期の24mの円墳がありましたが(圃場整備のために消滅)、城の山古墳は、日本海側の古墳らしい古墳の最北のものと言ってよいでしょう。城の山古墳の41.6mという大きさは全国的に見てもそれなりに立派な古墳の部類になります。その延長で見ると、前期の後半から中期初頭の頃の築造とされる越後最大・径60mの古津八幡山古墳は、越後における古墳の大型化の到達点と考えることができます。

 なお、城の山古墳は、前期古墳としては日本海側最北端と言われていましたが、2014年には山形県鶴岡市の鷲畑山2号墳が、一辺15mほどと小型ではありますが、4世紀前葉から中葉の間に築造された前期古墳であることが確認されています。

 

越後と続縄文文化

 ところで、北海道には弥生時代は到来せず、縄文時代が終わると続縄文時代に移行します。その文化の担い手を続縄文文化人言いますが、彼らは大雑把に言ってアイヌの先祖です。その続縄文文化人は、4世紀には北東北の広範囲に広がり、後北C2-D(こうほくしーつーでー)式土器を使っていましたから、その土器を追えば、彼らの行動範囲が分かります。彼らは自分たちの生活圏内にアイヌ語地名を残しました。

北海道立埋蔵文化財センターにて撮影

 一般的には後北C2-D式土器は時代とともに徐々に範囲を広げていく、つまり南下して行くのですが、新潟県の古代史の面白い点は、後北C2-D式よりも古い、古墳時代が始まるか始まらないかの3世紀の頃に編年される後北C1土器の方がむしろ多く見つかっていることです。後北C1式やC2-D式土器の分布圏に関しては、北海道江別市郷土資料館のパネル展示が分かりやすいです。

江別市郷土資料館にて撮影

 上図の通り、3世紀のC1式の分布圏は、青森県域に収まり、4世紀のC2-D式に至って東北地方の広範囲に広がると考えるのが一般的な考えです。ところが、新潟県内の遺跡をよく見てみると、上の一般的な考えの地図とは裏腹に、新潟平野では後北C1式土器(正確には後北C1土器様式)が出る遺跡が結構あるのです。

「展示解説パンフレット 砂丘と遺跡Ⅲ」(新潟市文化財センター/編)より転載

 これはかなり刺激的で、古墳時代が始まるか始まらないかという3世紀の時期に、北海道から青森県域に進出してきていた続縄文文化人が、ほとんど時間を空けずに、かなりアグレッシブに新潟平野まで飛地的に進出しているわけです。もちろん彼らは船を使って移動し海上から進出したに違いありません。

後北(江別)C1式土器(江別市郷土資料館にて撮影)

 これが古墳文化が成熟してくる4世紀になると、越後平野では後北C2-D式文化を担った人びとはむしろ少なくなり、そして彼らはいなくなります。東北地方全体に後北C2-D式文化が急速な広がりを見せている時期に、越後平野からは続縄文文化人はいなくなるわけです。

 越後平野では続縄文文化人が活躍した時期が短かったせいか、いま頭の中で思い浮かべてみても、新潟県内にはアイヌ語地名らしきものが思いつきません。

 

越の国の国造と神社

 いったいいつからそう呼ばれ始めたのかは分かりませんが、気が付くと、西は福井県東部から東は新潟県までの日本海側の広い地域を「越の国」と呼ぶようになっていました。日本地図で単純にその直線距離を測ってみると、450㎞もあります。非常に広大な国です。

 国造という地方官がいつ定められたのかはまだ確定はできませんが、私は継体天皇が筑紫君磐井を倒す前後と考えており、大雑把に言って6世紀前半と考えています。その制度がすぐに列島全体に及んだかは分かりませんが、古墳時代後期後半から終末期前半の100年少しのあいだは、国造の時代と考えています。継体朝のときからはじまって、蘇我本宗家が乙巳の変で倒された後に政府によって解体されていくまでです。

 列島各地の国造については、あまり信用できないと評価する人も多い『先代旧事本紀』に収められた「国造本紀」に頼るしかありません。あとは、これもまた心細いですが、神社や古墳などに残っている伝承くらいしか頼るものはありません。

 今の福井県は、令制の若狭国と越前国からなりますが、歴史的に見ると若狭国は越の国の範囲には含まれず、越前から東が越の国です。ですから、私は若狭出身の知人がいないため想像で言いますが、多分、若狭の人は越と一緒にされたくないと思っているんじゃないでしょうか。そしてその反対も。勝手な想像で言って済みません。ただし、若狭国は越の国ぐにと一緒に五畿七道の制では北陸道に所属しています。

 「国造本紀」をもとに北陸道の国造を西から羅列します。

 若狭国造、角鹿国造、三国国造、高志国造、江沼国造、加我国造、加宜国造、羽咋国造、能等国造、伊彌頭国造、久比岐国造、高志深江国造、そして佐渡島には、佐渡国造が見えます。加我国造と加宜国造という同じ発音になる国造が2つある理由は不詳です。これらの内、いまの新潟県域に入るのは、久比岐国造、高志深江国造、佐渡国造です。

 国造たちの経済基盤は、基本的には農業だと考えます。その観点から列島全体の国造の分布を考察すると、農業生産力が高い平野や盆地にだいたい国造がいるのですが、例えば会津盆地は生産力が高かったはずなのに国造がいないため、「国造本紀」に記された国造が全ててあったとは考えない方がいいでしょう。ただし、拠るべき資料がほぼそれしかないため、その範囲内で考察するしかないです。

 まず、久比岐(くびき)国造ですが、本拠地はいまの上越市周辺だと考えます。頸城郡という地名も残っています。その地域には、新潟県にしては珍しく、横穴式石室を備えた後期の古墳や、規模は少ないながらも群集墳も見られます。

 宮口古墳群は、31基の円墳が確認されており、半分以上の古墳が発掘調査されています。宮口古墳から西へ500mの近距離には、水科古墳群があり、こちらも34基の円墳があり、9基が発掘されており、分かっている限りではすべてが川原石の野面積みの横穴式石室で、玄室は無袖です。築造時期は7世紀。また、菅原古墳群は、首長墓と考えられる30mの前方後円墳である菅原古墳が現存し、それ以外にも円墳が41基が残っており、かつては108基以上の古墳があったと言われています。このように多数の古墳の存在を見ても、有力な人びとが住んでいた地域であることが分かります。なお、横穴式石室を備えた菅原古墳は、久比岐国造の墓の可能性があります。

 私は国造の時代には、その国造の支配領域内に神社が建立されたと考えています。ちょうど仏教が普及する時期でもありますから、それ以前の山や磐座をご神体とするナチュラルな信仰から、より政治的な信仰へシフトしたと考えます。ただし、国造時代の地方の神社は、まだヤマト(中央)の神々がやってくる前のプリミティヴな神を祀る神社であったと考えられ、国造も亡くなると神として祀られていたと考えます。ですから、地方で古い神社を突き止めたいときには、国造との関連を調べるといいと考えています。といいつつも、それは簡単なことではないのですが、いま大きな力を持っている神社が、必ずしも古代にまで遡って力があったとも限らず、意外と歴史が新しい可能性もあります。神様に怒られちゃうかもしれませんが、古代史マニアは凡百の古事記ファンとは違って、そういう視点で神社を詣でるのが正しい研究態度です。

 久比岐国造との関係では、青海(おうみ)神社が重要だと思っています。現在有名なのは加茂市にある青海神社ですが、あの場所は、久比岐国造というより、高志深江国造の領域と見られるため、青海神社の信仰圏を調べてみたところ、柏崎市にもありますし、糸魚川市にもあって、久比岐国造の範囲内が本来の信仰圏ではないかと推定しています。

 久比岐国造は、「国造本紀」が記された平安時代の時点では、椎根津彦命の後裔とされており(もちろんこれは実際の血縁関係ではなく、政治的なグルーピング)、そのためか、青海神社は椎根津彦命を祀っています。また、根拠は不明ながら、上越市名立区名立大町にある江野神社がある場所は、元々は久比岐国造の御矛命(みほこのみこと)が居した場所と伝わっています。こういう説には、慎重な態度で臨まないといけませんが、重要な鍵を握っている可能性もあため興味深いです。

 一方の高志深江国造については、「国造本紀」の東日本の国造は原則的に西側から順番に記されるため、久比岐国造より東側の農業生産力がある場所が本拠地であったと考えられます。そうすると、普通に越後平野になります。ただし、古代の越後平野は今のイメージとは違って、それほどお米は取れません。しかしそれを差し引いて考えても、やはり越後平野しかないでしょう。

 

城柵の時代

 律令国家は、北方に新たな支配領域を増やしたいときは、まずは城柵(じょうさく)を構築してそこを拠点に軍政を敷き、支配が安定してくると郡を置き、地元の有力者を郡司に任じて統治させるようにしていました。

 城柵の初見は、『日本書紀』の大化3年(647)に見える渟足柵(ぬたりのき/ぬたりのさく)です。遺跡は見つかっておらず、阿賀野川と信濃川の河口近くをはじめとして、昔からいくつもの比定地が考えられています。

新潟市文化財センターにて撮影

 つづいて、『日本書紀』には、翌年に磐舟柵(いわふねのき/いわふねのさく)も登場します。こちらも遺跡は見つかっておらず、比定地の一つの岩船神社には石碑が建っています。

 なお、『日本書紀』には、大化改新直後に日本海側にこの2か所の城柵が構えられたことが記されていますが、太平洋側についての記述はありません。しかし、仙台市太白区の郡山遺跡は、初代陸奥国府として造り替えられる以前は、城柵として機能していたと考えられています。

仙台市太白区・郡山遺跡

 日本海側だけに城柵を作るということはあり得ませんので、渟足柵や磐舟柵が造営されたころ、太平洋側には郡山遺跡の第Ⅰ期官衙が城柵として造営されたと考えて間違いないでしょう(郡山遺跡は、AICTにて2度訪れています)。

 

律令時代 

 越の国は、時代は不詳ですが、7世紀の後半のある時点で、越前・越中・越後に分割され、信濃川右岸以北の地は越後国とされました(下図の一番上の地図)。その後の変遷は、『続日本紀』で追うことができますが、大宝2年(702)3月に、越中国から頸城郡、古志郡、魚沼郡、蒲原郡の四郡が移管されました(下図の真ん中の地図)。

 7世紀末から8世紀前半の越後は日本海側のフロンティアです。

 和銅元年(708)には、出羽郡を新しく設置し郡の数は7つとなりました。そして、和銅5年(712)9月23日 には、出羽郡が出羽国に昇格して分離します。天平16年(743)2月11日には、佐渡国を合併しましたが、天平勝宝4年(752)11月3日には元に戻しました。

能美ふるさとミュージアムにて撮影

 なお、本論とは関係ありませんが、能登国は、養老2年(718)5月2日に越前国から羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を割いて成立し、天平13年(741)12月10日には越中国に戻されましたが、天平宝字元年(757)に再び分立してその状態が続き、加賀国が越前国から割いて造られたのは、平安時代の弘仁14年(823)です(上図の一番下の地図)。

 

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