最終更新日:2022年12月6日

※本稿で登場する飛鳥の遺跡に関しては、12月7日(水)からの飛鳥の現地講座にてすべて訪れる予定です。

 

蘇我稲目

 継体天皇の子とされる欽明天皇の御代に、急激に頭角を現したのが蘇我稲目です。日本書紀によると、稲目は宣化天皇の御代に突如出現して大臣(おおおみ)という今でいう総理大臣のような職に就いた人物とされます。しかし、平時の際にいきなりポッと出の人が大臣などになれるはずはなく、私は宣化朝で屯倉の設営などの実務をしていたところ、半島の王族に出自を持つ欽明が天皇家を簒奪するタイミングで多大な功績をあげたことにより、欽明朝にて大臣に抜擢されたと考えています。つまりは宣化から欽明に鞍替えしたと考えます。

 稲目は蘇我氏の中で実在が確実な最初の人物で、父母の名は不明で、自身がどこの出身かもわかりませんが、その氏名からして葛城氏の流れを汲む飛鳥地方の在地の豪族ではないかと考えています。稲目が元々仕えていた宣化天皇は、諱を檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)といい、宮名も檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや)という名前であるので、現在の明日香村の檜前谷に縁があることが分かります。蘇我氏は檜前谷の渡来系の人びと(東漢氏の祖)を支配下に置いていたため、稲目が宣化に仕えるようになったのは、地縁によるものと考えます。

 稲目の妻に関しては、高麗を討った大伴狭手彦が捕らえて送ってきた美女媛とその従女である吾田子を妻としており、こういった正常ではないシチュエーションでの婚姻しか知られていません。馬子ら数人の子女が確認できますが、その人びとの生母が誰だったのかも分かっていません。

 こういう多くの謎に包まれているところが、急激に頭角を現した氏族の最初の人物に相応しい感じがしますが、欽明天皇も同様に謎に包まれており、私は謎の人と謎の人がタッグを組んで、新たな王朝が始まったと考えています。

 さて、蘇我稲目は、欽明天皇から仏像を賜り、自身の小墾田(おはりだ)の家に安置しました。ついで、向原(むくはら)の家を寺に改造しましたが、現在、向原寺(こうげんじ)がある場所が稲目の「寺」であったと伝わります。

向原寺

 稲目は欽明31年(570)に薨じ、翌年には欽明天皇も崩じます。

 欽明天皇の陵は、墳丘長330mの前方後円墳・五条野丸山古墳と言われることが多いですが、その一方で、宮内庁は、檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)として墳丘長140mの前方後円墳・平田梅山古墳を欽明天皇陵に治定しています。

五条野丸山古墳

 140mの平田梅山古墳より、330mの五条野丸山古墳の方が天皇の陵として相応しいと思われるかもしれませんが、私は権力者・蘇我稲目とその娘・堅塩媛が眠るのが五条野丸山古墳で、稲目によっていろいろとお世話になった欽明天皇は、平田梅山古墳だと考えています。

平田梅山古墳

 これはヴィジュアル的に天皇家よりも蘇我家の方が力があるということを世の中に知らしめる結果となったのですが、天皇家も負けておらず、「そっちがそうならこっちはこうだ」と言わんばかりに、大型前方後円墳の時代を終わらせて、小さくても仏教チックでお洒落な終末期古墳に移行させたと考えます。

 ただし、稲目の墓は石舞台古墳からほど近い都塚古墳だと考える研究者もいます。

都塚古墳

 都塚古墳は、石室内に入ることはできませんが、刳抜式の家形石棺が安置された石室内を外から観察することができます。

 都塚古墳は6世紀後半に築造された多段の方墳で、一辺は40m以上あります。その後の7世紀には石造りの仏塔のような古墳が造られるようになりますが、そういった古墳の先駆け的な古墳で、当時としてはなかなか先鋭的な外観をしていたと考えられます。

 このような未来派の古墳の存在を見ると、こちらが稲目っぽい感じがしてきて五条野丸山古墳を推す気持ちが萎えかかりますが、貴方なら330mの前方後円墳と素敵なデザインの方墳のどちらがいいですか?

 

推古天皇

 欽明天皇が崩じた後は敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇と続きましたが、蘇我馬子が面倒くさい崇峻天皇を処断したあと、後継者を決める際に各勢力のバランスを保つため、敏達天皇の皇后であった推古天皇が即位します。ここまででてきた人びとの関係を下記系図で確認してください。

『日本書紀の謎と聖徳太子』(大山誠一/編)より転載

 推古が宮としたとされる場所が、豊浦宮(とゆらのみや)で、前述の向原寺近辺がそうだったと言われており、向原寺の発掘調査によって、宮跡らしき遺構が見つかっています。

向原寺では掘ったときの様子が観察できる

 向原寺の近くには、「推古天皇 豊浦宮趾」の石碑が建ち、何かの礎石が置かれています。

「推古天皇 豊浦宮趾」の石碑

 普通の民家の玄関先に設置してあるのが面白いです。

 ところで、推古天皇の子の竹田皇子は、天皇候補の一人として存在していましたが、蘇我氏と物部氏の勢力争いに巻き込まれたような形で、日本書紀の記述から姿が消えます。推古天皇にとって最愛の息子だったようで、推古天皇は死後は竹田皇子の墓に葬るように遺詔しています。

 古事記によると、推古天皇の陵は当初は大野崗の上にあったのを科長の大陵に移したとあり、大野崗の上にあったという墓は、植山古墳ではないかと考えられています。

植山古墳に2018年に訪れた時は、シートに覆われた何だかよく分からない物体だった

 植山古墳は、東西40m×南北27mの長方墳で、長辺に横穴式石室が2つある双室墳です。長方形で双室というスタイルの古墳は珍しく、例えば愛媛県四国中央市にある宇摩向山古墳があります。

宇摩向山古墳

 宇摩向山古墳は、第1石室が随時開口していて、なかなか素晴らしい石室で、最近もAICTにて2度ご案内してきました。

宇摩向山古墳の石室

 でも、宇摩向山古墳の長辺は70mあって植山古墳よりもでかい・・・

 話を戻すと、記紀の記述と植山古墳の状況が合致するため、竹田皇子と推古天皇が葬られたことは間違いなさそうですが、さすがに植山古墳では天皇の陵として相応しくないと考えた人が、科長の大陵に移したと考えていいでしょう。

 誰かが、「伊予の宇摩向山古墳の方が大きいっすよ」と教えてあげたのかもしれませんが、移った先の山田高塚古墳も長辺の長さでは宇摩向山古墳に負けている・・・

 

蘇我馬子

 蘇我稲目の後継者は馬子です。馬子は、姪である推古天皇を前面に立たせ、一族のホープである厩戸皇子(のちに聖徳太子とされる人物)らとともに政権を運営していきましたが、蘇我氏はあくまでも臣下です。蘇我氏が天皇になった事実はありません。その理由は、天皇家にはいわゆる苗字がありませんが、蘇我氏はどう頑張っても蘇我という姓を捨てられなかったからです。

 馬子の事績としては、父・稲目から引き続き、仏教の振興に努めたことが挙げられます。稲目の向原の家は、日本初の尼寺となりました。そして馬子は、飛鳥寺(当初は元興寺と呼んだ)の造営を行います。

 現在でも飛鳥寺に詣でれば、満身創痍の日本最古の仏像・飛鳥大仏を拝むことができます。

飛鳥寺の飛鳥大仏

 だいたい、仏様は写真撮影NGなことが多いですが、飛鳥大仏はOKですので、まるでモデル撮影会のようになります。貴方も様々な角度から撮影して、飛鳥大仏の魅力を引き出してみましょう。

 飛鳥寺は日本最初の寺であったこともあり、古墳から寺院への過渡期の様相が良く分かり、例えば塔跡の発掘の結果、塔心礎周辺からは挂甲や馬具などが見つかり、塔なのにまるで横穴式石室の副葬品のような内容でした。

 馬子の墓は、有名な石舞台古墳が有力候補です。

石舞台古墳

 現在はこのような姿になっていますが、元々は当然ながらちゃんと墳丘がありました。復元すると55mの方墳あるいは上円下方墳となります。私の直感としては、上円下方墳ではなく、多段の方墳だったのではないかと思うのですが、どうでしょう。蘇我氏と上円下方墳がイメージ的に結ばれにくいのです。

石舞台古墳

 しかし巨大な石を使っていますね。

 石室の構造としてはシンプルな単室構造で、約11.5mの羨道の奥に両袖式の7.8mの玄室があります。単純に総長を表すと19.3mで、長さは日本一ではありませんが(日本一は五条野丸山古墳の28.4m)、何しろ石の大きさが凄くて、天井石に使っている最大の石は77tもあるそうで全国の石室と比べても異常です。

 

蘇我蝦夷と入鹿

 馬子の次代の蝦夷の墓は、最近では70mの方墳である小山田(こやまだ)古墳ではないかと言われていますが、その古墳自体が消滅しているようです。古墳があった場所は学校の敷地内で、私は現地を見たことがありません。

 645年の乙巳の変のとき、蘇我蝦夷は自宅で自殺しましたが、蝦夷の邸宅があったと考えられているのが、甘樫丘東麓遺跡です。

甘樫丘東麓遺跡(2019年に撮影)

 ここ最近も調査を続けているようですが、まだ蝦夷の邸宅らしき大型の建物は見つかっていないようです。

 645年の乙巳の変の舞台は飛鳥板葺宮であったとされます。その場所は、近年遺跡名が変わって、国指定史跡「飛鳥宮跡」になっています。現地に行くと、こういう物が見られます。

飛鳥宮跡

 これは、井戸跡なのですが、発掘調査の結果、建物群や宮の範囲などが分かっています。

『シリーズ「遺跡を学ぶ」102 古代国家形成の舞台 飛鳥宮』(鶴見泰寿/著)より加筆転載

 『シリーズ「遺跡を学ぶ」102 古代国家形成の舞台 飛鳥宮』によると、飛鳥宮跡は複合遺跡で、大きくⅠ期、Ⅱ期、Ⅲ-A期、Ⅲ-B期に分かれ、日本書紀に飛鳥岡本宮として出てくるのがⅠ期、乙巳の変の舞台となった飛鳥板葺宮は、Ⅱ期です。

 エビノコ郭というのが描かれていますが、これはⅢ-B期の天武天皇の時に増設された部分で、のちの大極殿のルーツではないかと考えられています。

 乙巳の変で殺害された入鹿の首塚とされている場所が、飛鳥寺の西隣にあります。

入鹿の首塚

 首塚の背後(西側)には、蘇我氏の本拠地であった甘樫丘が見えますが、反対に甘樫丘からもカメラのズームで首塚を捉えることができます。

入鹿の首塚を甘樫丘から拝む

 ということで、飛鳥に来たら何はともあれ登りたいのが甘樫丘です。

 北方の奈良盆地方面を眺めると、大和三山の耳成山と香具山が見えます。

甘樫丘からの眺望

 藤原宮跡の朱色の柱もズームすれば捉えられます。

甘樫丘からの眺望

 西を見れば、蘇我稲目の墓かもしれない五条野丸山古墳の側面を見ることができます。

甘樫丘からの眺望

 そして、入鹿の首塚がみえたことから分かる通り、飛鳥のコアゾーンも見渡せます。

甘樫丘からの眺望

 乙巳の変で入鹿が倒れるまでの100年くらいは、ここ飛鳥が日本の政治の中心地でした。そして、天皇(正確には大王)という存在はいるものの、蘇我氏が政権を引っ張っていた時代と考えていいと思います。この100年間、歴代の大王は皆、蘇我氏の本拠地の中に内包された状態でした。

 乙巳の変で蘇我本宗家は滅びましたが、蘇我氏自体が滅亡したわけではありません。今度は自殺した蝦夷の弟の雄正の系統が頭角を現すことになります。

『謎の豪族 蘇我氏』(水谷千秋/著)より転載

 乙巳の変の原因の一つは、蘇我氏内部での勢力争いです。ただし、その後の天智天皇の策謀を見ていると、天智は蘇我氏内での対立を上手く利用したのでしょう。

 乙巳の変の後、倉山田石川麻呂は政権で重要な地位に就き、本家筋を滅亡させてその地位を手に入れた彼はほくそ笑んだことでしょうが、それもつかの間、結局4年後には彼も殺されてしまいます。天智はこういった展開まで最初からプランニングしていたと考えられます。

 その石川麻呂の墓と言われている古墳が一辺30.6mの方墳である菖蒲池古墳です。

 菖蒲池古墳の横穴式石室内には2つの石棺が安置されており、一つが石川麻呂で、もう一つは石川麻呂の後を追って自死した子の興志(こごし)のものであるという説があります。

 ただし、2つの石棺は、蘇我蝦夷と入鹿であると考える研究者もいます。

 天智天皇の母は皇極天皇として在位したことがありましたが、斉明天皇として重祚しました。その斉明天皇の墓として目されているのが、最近整備が済んで公開が始まった牽牛子塚古墳です。娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)との合葬墓と見られます。

 

天武・持統天皇とその皇子たち

 天武天皇と持統天皇の夫婦合葬墓は、野口王墓(のぐちのおうのはか)と言われています。50mほどの八角墳です。

野口王墓

 古墳時代はずっと、夫婦合葬は一部の例外を除いてなかったため、夫婦で同じ古墳に入るのは非常に珍しいケースです。ただし、先に崩じた天武天皇と違い、後に崩じた持統天皇は、天皇として初の火葬でした。そのため、持統天皇は棺ではなく、骨蔵器に収められていました。

野口王墓の説明板

 左側は天武天皇の夾紵棺(きょうちょかん=漆をしみ込ませた布を何重にも重ねて造る最高級の棺)で、右側が持統天皇の骨蔵器を置いた台です。この上に金銅製の外容器に納められた銀製の骨蔵器が安置されていました。

 天武天皇の後継者だったものの即位する前に早世した草壁皇子は、30mの八角墳である束神明古墳が候補で、同じく天武の皇子で大宝律令の編纂をリードし、文武朝で知太政官事という政権首班を勤めた忍壁皇子(おさかべのみこ)は、あの有名な高松塚古墳に葬られたとの説やこれまた著名なキトラ古墳に葬られたいう説があります。

高松塚古墳
キトラ古墳

 また、天智の子でありがなら、天武のもとでうまく生き残った川嶋皇子は、径23mの円墳のマルコ山古墳が候補です。そして、文武天皇の真陵としては、2020年の発掘調査によって往時の様相がはっきりした中尾山古墳が確実視されるようになりました。

発掘調査中の中尾山古墳の「135度」(八角墳の証拠)

 中尾山古墳は8世紀初頭の築造で、707年に25歳で崩じた文武天皇の陵としての条件を満たしています。今はもう撤去されたかもしれませんが、説明板には主体部のイラストが転載されています。

中尾山古墳の説明板

 これが石室?と思うかもしれませんが、この時代にはそれまでの横穴式石室はもう造られなくなり、火葬された文武天皇の遺骨が納められた骨蔵器を収めた石櫃のようなものが古墳の中に置かれていました。

 手元に資料が無くて掲載できませんが、中尾山古墳の外見はもはや古墳とは言えなくなっています。例えば、読売新聞オンラインのこちらページをご覧ください。

 以上のように、古墳時代も終わりの方になってくると、被葬者が具体的に想定できたり確定できるようなってきて面白いですね。

 

飛鳥時代の歴代天皇陵

 飛鳥時代およびその前後の天皇と古墳の形状を一覧すると以下の通りです。 

29代 欽明天皇(571年没) 平田梅山古墳?(前方後円墳)
30代 敏達天皇(585年没) 大阪府太子町・太子西山古墳(前方後円墳)
31代 用明天皇(587年没) 大阪府太子町・春日向山古墳(方墳)
32代 崇峻天皇(592年没) 奈良県桜井市・赤坂天王山古墳?(方墳)
33代 推古天皇(628年没) 植山古墳(長方墳) → 山田高塚古墳(長方墳)
34代 舒明天皇(641年没) 奈良県桜井市・段ノ塚古墳(八角墳)
35代 皇極天皇(斉明天皇として重祚)
36代 孝徳天皇(654年没) 大阪府太子町・山田上ノ山古墳(円墳)
37代 斉明天皇(661年没) 牽牛子塚古墳(八角墳)
38代 天智天皇(672年没) 京都市山科区・御廟野古墳(八角墳) 
39代 弘文天皇(672年没) 滋賀県大津市・園城寺亀丘古墳(円墳)
40代 天武天皇(686年没) 野口王墓(八角墳)
41代 持統天皇(703年没) 同上
42代 文武天皇(707年没) 中尾山古墳(八角墳)

 前方後円墳は一般的には6世紀の内には築造を終えますが、天皇家でも敏達天皇で終わっています。

 その後、方墳になり、推古天皇の植山古墳は長方墳ですが、これは方墳の流れです。詳しく調べていないので分かりませんが、長方墳は、埋葬施設(横穴式石室)を新たに構築するために、元々方墳だったものを盛土して増築したケースがあるのではないかと思います。

 愛媛県松山市の葉佐池古墳は、長方墳というよりか、長円墳という特殊な古墳なのですが、二つの古墳を合体させて一つの長円墳として整形しているため、そこから類推すると面白いので、植山古墳の構造についてもっと調べたいです。

葉佐池古墳の石室内復元はかなり攻めていて良い

 641年に崩じたとされる舒明天皇以降は、一部の例外を除いて八角墳が続きます。最終的な天皇陵の形状は八角墳なのです。しかも、八角墳は古墳と言うよりは、上述した野口王墓の説明板のイラストのように仏塔にイメージが近いと思います。

 八角墳は全国的に見ると数が少ない貴重な形状ですが、なぜか関東地方で少数散見できます。

山梨県笛吹市の経塚古墳
東京都多摩市の稲荷塚古墳
群馬県藤岡市の伊勢塚古墳(八角墳ではないという意見もある)
群馬県吉岡町の三津屋古墳

 ただし、このような写真を眺めても想像できる通り、畿内の大王陵のようなゴージャスな八角墳ではなく、私は関東地方の八角墳は、在地において独自に仏教からインスパイアされて構築された古墳で、大王陵とは関係がないかもしれないと考えています。

 なお、八角墳よりランクが下がると言われている上円下方墳も特殊な形状で、全国に10基ほどしかないため、上円下方墳の意味合いについては八角墳とともに今後さらに考察する必要があります。