最終更新日:2026年7月3日
縄文時代早期(11500年前~7300年前)
早期は草創期に比べて土器の出土量が増えます。最初の土器の登場からすでに5000年も経っていますが、ようやく縄文時代らしくなってきます。この時代の土器の外見的な特徴は、北海道東部や鹿児島県を除いて、尖底(せんてい)や丸底(まるぞこ)であることで、何かに支えられなければ自分で立っていることはできません。神奈川県横須賀市の夏島貝塚では、礫を敷いた炉の中に尖底土器が刺されたままの状態で発見されたことがあり、尖底土器の実際の使い方が判明しています。
列島各地の博物館などの縄文時代コーナーには、草創期の展示は少ないかあるいはゼロですが、早期の土器から展示が増えてきて、破片ではなく、土器片を接合して元々の形に戻した状態での展示が増えます。旧石器時代はその名の通り展示の主役は石器でしたが、縄文時代も盛んに石器を作っているものの早期には主役の座は土器に変わります。
早期は下図の通り、ガンガン気温が上がりますよ。
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縄文時代に気温が上がるにつれて海面高度が上がって行くことを縄文海進と呼び、前期には日本列島の太平洋側各地で多くの貝塚が作られますが、貝塚は早期の段階ですでに作られ始めます。日本最大の貝塚のメッカである千葉県でも早期には貝の堆積が見られ、印旛沼沿岸で最古の土坑内貝層である印西市・瀧水寺裏(りゅうすいじうら)遺跡で見つかる貝は、ハイガイやマガキが多く、ハマグリやアサリなども混ざっています。この頃の関東地方でメジャーであったハイガイは、その後の海水温の低下に伴って生息域が徐々に南へずれていき、現在の日本では絶滅危惧種として九州地方に少し見られるだけですが、当時は海水温が高かったため関東地方でも棲息できたのです。
早期末の約8000年前に作られた佐賀県の東名(ひがしみょう)遺跡は、湿地貝塚という位置づけで、その立地のお陰で大量の植物製品や動物遺体が見つかり、早期末の縄文人の生活の一端が解明されつつあります。東名遺跡の植物製品については後述します。
目次
第1章 早期の土器の文様
1)土器様式
2)押型文系土器
3)関東地方の早期の土器型式
4)撚糸文系土器
5)貝殻沈線文系土器
6)早期後葉の貝殻条痕文土器
第2章 列島各地の早期の土器
1)道東・道北の早期土器と石刃鏃文化
2)道央・道南の早期土器
3)青森県の早期土器
4)南部九州の早期土器
5)鬼界カルデラの噴火
6)沖縄県の早期土器
第3章 早期の生活・精神文化
1)炉穴
2)関東・東北と南九州に土偶が出現
3)耳飾り
4)トロトロ石器
第4章 植物製品の製作
第5章 早期の人骨資料
1)群馬県長野原町・居家以岩陰遺跡
2)愛媛県久万高原町・上黒岩遺跡
3)長野県北相木村・栃原岩陰遺跡
第1章 早期の土器の文様
早期の土器には以下のような土器があり、文様の付け方で「○○系土器」という大雑把なくくりかたをしています。
<早期前葉>
西日本から北海道南部まで押型文(おしがたもん)系土器が作られますが、関東地方には撚糸文(よりいともん)系土器も見られます。南九州では、南九州貝殻文系土器や貝殻文系筒形土器群などと呼ばれる独特な土器が作られます。初めて土器が作られてから5000年以上経って、ようやく文様の施し方に東西での顕著な違いが現れます。
<早期中葉>
西日本では引き続き押型文系土器、東日本では貝殻沈線文(かいがらちんせんもん)系土器が作られます。中葉の後半段階から北東北では縄文土器が作られます。
<早期後葉>
北海道と北東北、それに南九州や沖縄を除く列島全体の広範囲で条痕文(じょうこんもん)系土器が作られます。
ただしこういった土器の分布は厳密なものではないため、一つの傾向として考えておいてください。
1)土器様式
縄文土器は、型式で分類します。型式に関しては後述しますが、土器の特徴をもとにある時期の土器群をまとめた呼び名です。型式を古い順に並べたものを編年と呼び、草創期の章で述べた通り、型式学は層位学とともに考古学の根幹をなします。そのため、すべての土器を型式に当てはめて説明できればいいのですが、型式名だけだと表現しづらいことがあり、型式学の泰斗である山内清男(やまのうちすがお)ですら、例えば晩期の大洞式土器の一群を、「いわゆる亀ヶ岡土器」とひとくくりに呼んでいます。
こういった学史に鑑み、小林達雄氏は、様式という概念を提示しています。様式と言うのは、簡単に言うと複数の型式をその土器の持つ雰囲気をもとにグルーピングしたものです。縄文土器に様式の考えを導入することに対して否定的な考えを持っている研究者もいるようですが、私個人としては土器を理解するためには分かりやすいツールだと思いますので、本稿では様式について述べます。
下表は、小林達雄氏が作成したもので、少し古い内容ですが、概ねこれで土器の説明はできると思います。
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すでに草創期の章で述べた、隆起線文系(上表では隆線文系)、爪形文系、円孔文系、多縄文系も記されており、本項で述べる押型文系、撚糸文系、貝殻沈線文系、条痕文系の位置づけも分かりやすいです。用語の使い方は、例えば、押型文系土器について様式を強調した言い方をする場合は、「押型文系土器様式」と呼びます。
2)押型文系土器
主に西日本で好まれた押型文というのは、長さ数センチほどの木の棒などを彫刻した原体(げんたい)と呼ばれるスタンプのようなものを表面に転がして文様を施すものです。
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一方、主に東日本で好まれた撚糸文については後述します。早期になると土器の文化も東西で違ったものになったことが分かります。
以下、押型文系土器をいくつか紹介します。
奈良県山添村の大川(おおご)遺跡から出土した押型文土器で、この地域の押型文土器は、大川式、神宮寺式、黄島式、高山寺式と編年されています。

縄文はありませんね。縄文土器と言っておきながら、縄文のない土器はたくさんあります。口縁部がラッパ状に開いているのが特徴です。押型文土器は近畿地方が発祥と言われていますが、やがて東へ勢力を拡大し、中部高地でも流行し、関東地方へも流入してきます。東京都町田市からも西日本の土器に似ている押型文土器が出ています。

この土器も口縁部がラッパ上に開いていますが、開き具合はやや大人しいです。ちなみに、上の二つとも口唇部分にも刻みを入れて素敵なデザインにしているのが分かりますが、土器を見るときは細部まで観察して、作った人の「ひと手間」や「こだわり」を感じ取ってみてください。
普通、西日本と言った場合は、近畿・中国・四国・九州地方を指しますが、縄文時代早期を語るうえでは、九州は特別な地域ですから、九州を除いた近畿・中国・四国地方を一つの文化圏として語ることが多いです。
それを「九州以外の西日本」と呼ぶことにしますが、その文化圏に入る愛媛県松山市の上苅屋遺跡からは、早期中葉頃の押型文土器と無文土器が見つかっています。

上苅屋遺跡では、当該期の遺構は見つからず、これらの遺物のみが見つかっただけですが、松山市周辺ではこの時期の遺物はほとんど見つかっていないため貴重なものです。押型文土器は、小さな浅い穴が表面に見えます(小型精円文)。また、口縁端部内面には短い刻目があります。一方、無文土器は金雲母が入っているようにキラキラ見えますが、これは石英のようです。
「九州以外の西日本」で最大の縄文遺跡と言われているのが、鳥取県智頭町にある智頭枕田遺跡です。智頭町埋蔵文化財センターで遺物を見ることができ、中期末から後期初頭の磨消縄文土器(中津式土器=関東での称名寺式土器のルーツ)の優品が多く展示されている中で、独特な存在感を醸し出しているのが大型の早期押型文土器です。

器高は56.8㎝もありますが、口径が66.4㎝もあるので、ちょっと寸詰まりな印象を受ける押型文土器で、押型文一つ一つの粒が大きく見えます。
なお、智頭枕田遺跡には現在は国民健康保険智頭病院が立っていて、説明板も設置されていません。2024年11月にAICTで探訪したときには結構な雨が降っており、周囲の地形も煙っていて観察する余裕もなかったのですが、写真に収めてきました。

同じ鳥取県の鳥取市・柄杓目遺跡からも押型文土器が出土しており、鳥取市内最古の土器として鳥取市歴史博物館に展示しています。

早期中葉と記されているので、押型文土器の中では後半の方になると思います。
押型文土器は九州でも制作されています。

押型文土器は、見た目にも分かりやすいため、博物館などに行ったときは早期の土器のコーナーで探してみてください。傾向としたら西日本の土器ですが、既述した通り、東日本でも見られますよ。
3)関東地方の早期の土器型式
縄文時代の書籍を読んだり博物館を見学したりすると必ず「勝坂式」とか「諸磯式」というような「〇〇式」という呼び名に出会うはずです。それを型式と呼びます。発音するときは本来は「けいしき」ですが、似た用語に形式というのがあり、そちらも同音のため、わざと「かたしき」と発音する人がいます(私もそうです)。なお、形式とは、深鉢とか浅鉢とかそういった分類をするときに使いますが、そちらはわざと「かたちしき」と発音して分けます。
縄文時代早期になると、いよいよその型式によって土器を表すことが一般的になってきて、例えば関東地方の早期の型式に関しては、埼玉県立歴史と民俗の博物館のパネル展示には以下の16型式が記されています。
・井草式 ・・・ これ以降の文様は撚糸文
・大丸(だいまる)式 ・・・ 上の井草式を井草Ⅰ式として、大丸式を井草Ⅱ式と呼ぶ人もいる
・夏島(なつじま)式
・稲荷台式
・大浦山式
・稲荷原式
・花輪台式
・平坂式 ・・・ この時期、無文となります
・三戸(みと)式 ・・・ 貝殻や施文具を使って沈線文を施すほか、条痕文も見られます
・田戸下層式 ・・・ 細沈線、太沈線、貝殻条痕文を混在させて文様を施し、波状口縁や突起が作られる
・田戸上層式
・子母口(しぼぐち)式
・野島式
・鵜ヶ島台(うがしまだい)式
・茅山(かやま)下層式
・茅山上層式
早期は4200年間ですから、単純に16で割ると、一つの型式は262年となり、徳川15代の江戸時代の長さに相当しますが、一つの型式の存続時間は長かったり短かったりします。また、上記以外の型式名で呼ぶ研究者もいます。
型式と聴くと身構えてしまう方もおられると思います。私もかつてはそうだったのですが、本に書いてあることでも、展示物のキャプションに書いてあることでも、分かりやすく書いてあるものが少なく、そういう文章を参照しながら展示されている土器を見ても全然理解できないのです。
稀に埋文センターなどでとても分かりやすい説明があった場合は幸運です。書物もたくさん読んでいくと、素晴らしく分かりやすい解説の本に出会うことがあります。そういった好機を見逃さず、とにかく沢山の土器を見ることが重要で、本当は土器を模写するのが一番良い方法だそうです。私の場合は土器の写真を撮ってきて、自宅で本を参照しながらじっくり鑑賞することによって少しずつ理解を深めて行っています。今もってまだまだちょっとのことしか分かっていない状況ですが、少しでも分かってくると土器の面白さが一層高まります。型式を制する者は土器を制す、ひいては縄文時代を制しますので、私もとにかく土器を見まくって勉強の日々です。
4)撚糸文系土器
撚糸文系土器は、早期前葉の関東地方で主に見られる土器です。前項で示した井草式から花輪台式までに該当します。
撚糸文という文様は、絡条体(らくじょうたい)を転がして付けた文様を指します。絡条体とは、木の棒か何かを芯にしてそれに縄を巻き付けた施文具です。絡条体を転がさずに、単にそれを押し付けて施文したものは、絡条体押圧文と呼びます。
下の土器は西関東の撚糸文系土器である夏島式土器です。

あまり文様が分からないですが、上半分に文様が見えます。
もう少し文様が分かる土器が福島県いわき市の竹之内遺跡から出土しています。

撚糸文系土器は、関東を中心として甲信・南東北が分布域と言われていますが、下の撚糸文土器は、熊本のものです。

随分と豪快に文様を付けていますね。キャプションには撚糸文と書いてあるので、そのはずですが、貝殻沈線文に見えます。よく見ると、上部の方に撚糸文で地の文様を付けたような形跡が見えます。その上に縦横無尽に豪快な沈線を施しているように見えますが、実際はどうなのか。分かる方がいらっしゃったらご教示ください。
5)貝殻沈線文系土器
早期中葉になると、関東地方では貝殻沈線文土器が流行ります。沈線というのは、木のへらでも道具は何でもいいのですが、それで描く凹んだ線のことです(陰刻のようなものです)。その沈線を描いたり、二枚貝の腹縁の部分でちょっとギザギザな風合いの線を描いた土器を貝殻沈線文系土器と呼びます。二枚貝は、現代人にとってはハマグリやアサリが有名だと思いますが、ホタテやカキも二枚貝です。この時代の関東地方では、ハイガイやサルボウといった放射肋をもった貝を使って施文することが多かったようです。

サルボウなどの放射肋を持った貝は文様を付けるのに適しており、次項で述べる貝殻条痕文土器の中にはこれを上手に利用して文様を施したものがあります。腹縁や放射肋などの貝の部分名称については下の図をご覧ください。

下の土器は、三戸式土器で、北東北の日計式土器の押型文が沈線文に置き換わり成立した土器です。
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刺さりそうなくらいの尖底ですが、これが三戸式の特徴となっています。三戸式はそれまでの撚糸文系からこの後の条痕文系に移り変わる時期の土器で、関東地方の広範囲から出土し、沈線文を施したものや条痕文を施したものがあり、それらを並べて文様の付け方だけに注目すると一見違う型式の土器のように見えます。
下の2つの土器は三戸式土器と同様に尖底の沈線文土器です。南東北の土器編年はまだ理解が進んでおらず型式は分かりません。三戸式より少し早い竹之内式土器だと思うのですが、ご存じの方がいれば教えてください。

こちらは器面の上半分は太沈線で施文しています。

6)早期後葉の貝殻条痕文土器
早期後葉には全国的に貝殻条痕文が流行りました。下の土器が貝殻条痕文土器です。
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貝殻条痕文は二枚側の表面で擦りつけるようにして土器の表面を調製したもので、あまり文様がはっきりしない場合があります。下の土器も貝殻条痕文ですが、水平方向にめぐっている出っ張った線は細隆起線文で、器面に目立たない感じで付いているのが貝殻条痕文です。

貝殻条痕文土器の野島式土器をもう一つ。

つぎの鵜ヶ島台式土器になると、見た目はガラッと変わって、精緻なデザインになります。
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器面に貝殻条痕文を施しているはずですが、ほとんど分からなくなっています。これもまだ尖底ですが、全体的な器形が新しいデザインになっていますし、早期は口縁部分が平らなものが多いですが、これは少し波状になってきており、8つの突起がそれぞれ2つの山を持つタイプになっていて新しい時代の到来を感じさせます。ただし、表面の細隆起線文は、一つ前の野島式土器から引き継いでおり、パッと見では野島式とだいぶ違う印象があるものの、施文方法は継承されているのです。なお、鵜ヶ島台式には平底もあります。
早期の終末期には既述したサルボウやハイガイのような放射肋を持つ二枚貝の縁の部分を押し付けた貝殻腹縁文(かいがらふくえんもん)と呼ばれる文様の土器が南関東で見られ、打越式土器という型式名が与えられています。

第2章 列島各地の早期の土器
つづいて、列島各地の早期土器を見てみましょう。
1)道東・道北の早期土器と石刃鏃文化
北海道は現代でも、道央、道南、道東、道北というふうにブロック分けをしますが、縄文土器も、それぞれの地域でルーツが異なるようです。ただし、大雑把にくくると、道南と道央で一つの文化地域、道東と道北で一つの文化地域といえますが、道央は文化が入り混じっている時代が多いです。
草創期に土器作りが活発に行われていなかった北海道は、早期初頭になると道央の日高地方や道東の十勝地方で暁式土器が出現します。列島各地の早期の土器は尖底や丸底ですが、暁式土器は平底で、文様はほとんどありません。なお、暁式土器は帯広市の暁遺跡が標式遺跡ですが、帯広市は北海道最古の草創期の土器(大正3遺跡出土)や、旧石器時代でも北海道最古の石器(若葉の森遺跡出土)が見つかった場所で文化の発信地として非常に興味深い場所です。
日高地方以西の道央や道南で土器が作られる時期は、暁式土器の出現よりも遅いため、そうなると道東の土器のルーツは北海道最古の土器が見つかっている帯広市・大正3遺跡の土器に求められる可能性がありますが、大正3遺跡の土器から暁式土器までを繋げようにもあまりにも資料が少なくてはっきり分かりません。道内に脈がなければ日本最古の土器を作った北東北に求められるかというと、それもやはりはっきりせず、むしろ大陸側に求める考えもあります。現在のところ、暁式土器のルーツは不明と言わざるを得ません。
早期中頃から後半ごろにかけて、条痕文系平底土器と呼ばれる土器群が現れます。道東の土器文化は、後述するように東釧路Ⅲ式土器の時期は汎北海道的になりますが、道南の土器文化とは一線を画しています。
釧路市埋蔵文化財調査センターのパネル展示を参照して道東の早期の土器編年を示すと以下のようになります。
・暁(あかつき)式(テンネル式) ・・・ 底部に帆立貝の圧痕
・沼尻式 ・・・ 貝殻条痕文
・東釧路Ⅰ式
・大楽毛(おたのしけ)式 ・・・ 微隆起線文
・浦幌式/トコロ14類土器/女満別式土器 ・・・ 石刃鏃文化期で、竹管文・半截竹管文・絡条体圧痕文などを施し、違う文様の土器が並立する
・東釧路Ⅱ式
・東釧路Ⅲ式 ・・・ 絡状体圧痕文、羽状縄文(道内に広く分布)
・コッタロ式
・中茶路(なかちゃろ)式
・東釧路Ⅳ式(羅臼町では前期初頭の土器型式としている)
早期の始めには、暁式土器が作られます。地域によってはテンネル式と呼んでいる土器がありますが、同じ型式とされます。下の土器が暁式土器で、帯広市の暁遺跡が標式遺跡です。

この土器は面白い特徴を持っていて、底部に帆立貝の圧痕が付いているのです。

帆立貝を土台にして土器を作ったようですが、一体どのような効果がでるのでしょうか。面白いですね。
下の土器は暁式に次いで作られた沼尻式土器です。

沼尻式土器は、土器表面を二枚貝の表面で擦り付けるようにして調製して仕上げます。これを貝殻条痕文と呼びます。この土器では分かりませんが、口唇部分に貝殻の縁でギザギザ模様にします。底部が見つかっていないのが残念ですが平底でしょう。
次の土器は、東釧路Ⅰ式土器です。

東釧路Ⅰ式土器はほとんど文様らしきものは施されませんが、木片状の道具で表面を擦った形跡があります。
下の土器は大楽毛(おたのしけ)式土器ですが、こちらも底部が分かりませんが、平底のはずです。

縄文時代の日本列島には、大陸からの異文化の流入が明確に分かるものが少ないのですが、約8,000年前を前後する浦幌式期に、道東から道北にかけて、石刃鏃(せきじんぞく)文化が起こります。これは、東北アジアに広く分布する石刃鏃と呼ばれる細長い独特な形状の石鏃を使う文化で、それ以前の日本にはない文化です。すなわち、なぜかこの時期だけ道東・道北と大陸の人びとの間で交流があったことが分かりますが、この時期、一時的に気候が寒冷化した影響もあり、大陸やサハリンの人びとが北海道にやってきて文化の伝播があったと考えられます。

石刃鏃文化は大陸では、西はバイカル湖畔まで広がっていた文化です。通常の矢じりと違って細長いですし、大きいです。関東などで普通に見つかる矢じりは小さくて、ウサギなどの小動物を射るためかなと思いますが、石刃鏃を使う地域では狩りの対象となる動物が他の地域と違ったのでしょう。なお、大空町・豊里遺跡や湧別町・湧別市川遺跡では石刃鏃が多量に見つかっています。


このトコロ14類土器の文様は見えにくいですが、キャプションには、「平底で、口縁部には3段の浅い類竹管文、もしくは絡条体圧痕文が施され、胴部には擦痕ないし条痕が確認できる。裏面にも条痕がある」と記されています。
石刃鏃文化は大陸からやってきた文化ですが、反対に北海道の縄文文化がサハリンや大陸に影響を及ぼした形跡はなく、日本の縄文文化の北限は北海道の北端です。ただし、千島列島に関しては、北千島は縄文文化ではないのですが、南千島は縄文文化が確認されていますから、北方領土と呼ばれる島々が文化的に見ても縄文の昔から日本の一部であることは明白です。
つづいて作られたのが東釧路Ⅱ式土器です。

ようやく縄文が施されるようになりました。
東釧路式土器は、東釧路貝塚が標識遺跡で、古い順にⅠ式からⅤ式まであり、Ⅳ式までは早期です。このⅡ式は、次のⅢ式よりも底部に安定感があります。
東釧路貝塚は、前期の貝塚が主体の遺跡ですが、貝層の下からはここで示している通り、早期の土器が見つかっており、規模は小さいですが、すでに貝塚の形成が始まっています。前期には北海道屈指の貝塚に発展します。
現地は釧路市街地を望む丘の上にある一見すると普通の公園ですが、北海道らしく竪穴住居跡の窪みが残されている素敵な遺跡です。ただ、竪穴住居跡の窪みは早期の物ではなく、おそらく前期の物だと思いますが、前期だとしても相当古いので、その窪みが残っているのは凄いことです(いつの窪みなのかはご存じの方がいれば教えてください)。AICTでは2024年8月に訪れています。

釧路市・東釧路貝塚早期の終わりに近いづいてくる頃には東釧路Ⅲ式土器が作られます。

胴体の上の方は絡状体圧痕文、下の方は羽状縄文が施されています。面積は少ないですが平底になっていて、安定感を考えたような作りになっているように見えます。
東釧路式土器は、古い順にⅠ式からⅤ式までありますが、その中でもⅢ式は、道内に広く分布しました。例えば、道央でも見つかっています。

上の土器は2種の文様を交互に付けていますね。下の土器も道央の東釧路Ⅲ式土器ですが、やはり2種類の文様を交互に施し、口縁部に突起らしきものを作っています。

東釧路Ⅲ式土器は道内各地の博物館などでよく見ることができて、作られた個体数も多かったのかもしれません。次はコッタロ式です。

下のコッタロ式は、口縁部は波状を呈してきていますが、底部のフォルムは今までと変わりません。

そして早期の最後は、東釧路Ⅳ式です。

今まで平底だったのが急に尖底になりました。全国的には早期の土器は尖底ですが、道東・道北の場合は、他の地域とは違って平底でしたね。それがこの時期になってようやく尖底になるのが面白いです。次の前期には各地の土器はもう尖底をやめるのですが、道東ではいったいどういう土器を作るようになるのか、次の展開が楽しみです。
2)道央・道南の早期土器
一方、道南では、東北地方北部の押型文系土器群である日計(ひばかり)式土器が最古の土器として見つかり、上述の道東の土器よりも登場が遅れます。関東地方で撚糸文土器が発生し、西日本ではその影響を受けて押型文土器が作られ、それが日本海を伝って北上し、日計式土器が作られともいわれています。
日計式の次は、貝殻文土器が見られ、道東・道北とは違って尖底です。その名の通り、文様は貝殻で付けますが、北海道では比較的寒い場所に生息しているサルボウが利用されたとの説があります。


3)青森県の早期土器
青森県でも早期土器の編年ができています(下の一覧は、『図説 ふるさと青森の歴史シリーズ1 青い森の文化の始まり』<青森県教育委員会/編>を元に作成)。
・日計(ひばかり)式 ・・・ 押型文
・白浜・小舟波平式 ・・・ これ以降、沈線貝殻文
・根井沼式
・寺ノ沢式 ・・・ 9200年前の南部軽石が検出される
・物見台・千歳式
・螢沢AⅡ式
・吹切沢式 ・・・ 波状口縁や突起が作られる
・ムシリⅠ式 ・・・ 薄手の条痕文土器
・表館Ⅳ群 ・・・ これ以降、縄文
・赤御堂式
・早稲田5類
・表館Ⅸ群
日計式の時期の青森県内では、数件程度のムラの形成が始まり、八戸市見立山(2)遺跡では2軒、同売場遺跡では1軒の建物が見つかっています。ただし、いずれも柱穴跡や炉跡は見つかっておらず、屋外で焼土や焼けた石がまとまって見つかるため、屋外で火を焚いて調理をしていたことが伺えます。
墓に関してはこの時代まではほとんど分かっていませんが、遺跡で見つかる土抗のなかに墓が含まれている可能性があります。
中葉になると、ダイナミックに表面を沈線で描いた今までとは違う斬新な装いの土器が登場しました。
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ギザギザの線は、サルボウなどの二枚貝の貝殻の腹縁を使っています。丸底で口縁にも動きが現れ、シルエットが全体的に洗練され、早期の土器の中でもひと際美しい土器と言えるでしょう。縄文人は意外と沈線で絵を描くとちょっと残念な感じになるのですが、これは上手い。幾何学模様の中には、その後の縄文人が好んだ渦巻き文の使用が認められます。
こちらはあまり文様がはっきりしていませんが、物見台式土器の特徴はよく表れています。
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つぎの2点は螢沢AⅡ式土器です。一つ目は貝殻条痕文だけのシンプルな土器。

もう一つはまるで波のような文様を腹縁のギザギザを利用して付けていますね。

ムシリⅠ式土器の条痕文は独特な風合い。既述した熊本県大津町・無田原遺跡出土の撚糸文系土器と似ているような感じがしますが、関係はないでしょう。口縁はやや波状になっています。
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六ケ所村郷土館は土器の展示が豊富にあって素晴らしい施設ですが、早期土器の展示は照明の関係で写真が撮りづらいのです(そもそも撮影用に考えて設計しているわけではないので郷土館は悪くありません)。同じ土器を少し角度を変えて見てみます。
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ダイナミックですね。
既述した青森県の土器編年によると、この次に表館Ⅳ類土器が来ますが、六ケ所村立郷土館では、それよりも少し後の時期に該当する表館Ⅵ類土器を展示しています。
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この土器も角度を変えた写真を掲示します。
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青森県域では、早期の後半に入ると縄文を施文するようになり、この土器も突帯部分より下は縄文です。ただし、口縁部近くは貝殻の腹縁で今までと同じくギザギザ模様を付けていますね。
つづいて、世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」の関連資産になっている長七谷地(ちょうしちやち)貝塚出土の赤御堂式土器です。

全体を縄文で施文しており、これぞ「ザ・縄文土器」というような風合いです。今まで散々使ってきた貝殻は飽きてしまったのでしょうか。
長七谷地貝塚は、いまは完全に陸地にありますが、往時は古奥入瀬湾に面しており、遺跡の前面には干潟が展開していました。そこには、ハマグリやオオノガイなどが棲息していました。

長七谷地貝塚2025年5月の現地講座で訪れています。
つぎの早稲田5類土器も縄文です。
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下の土器も早稲田5類土器ですが、綾杉文と呼ばれる縄文を施文しており、他の縄文と風合いがかなり違います。
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綾杉文に関しては、下の写真の上の図を見てみてください。縄を転がしているのではなく、押し付けているんですね。
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本項の最初に示した編年では、縄文時代早期の最後は表館Ⅸ群でしたが、ここでは、表館Ⅹ群土器を示します。
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写真だと分かりづらいですが、縄文を施文しています。
4)南九州の早期土器
早期前半の南九州は、貝殻によって施文した筒形土器が隆盛した地域で、それらの土器は南九州貝殻文系土器とか貝殻文系筒形土器群など研究者によって呼び名が異なります。

貝殻で文様を付けていたわけですが、上野原縄文の森展示館では具体的な文様の付け方を展示しています。
一番オーソドックスなのは、貝殻条痕文です。

二枚貝の貝殻の腹縁を立てるように押し当て引いた文様で、斜めにシャーっと引いているのが多いです。関東や東北の早期土器にも貝殻条痕文を施文しますが、そちらの場合は二枚貝の貝殻の放射肋を当ててスーッと引くことがあるので、その方が優しい風合いになり、現代では文様が不明瞭になっているものも多いです。
貝殻条痕文を施文した後、好きな場所に貝殻の腹縁を当てて点線を描いたものもあります(貝殻条痕文+貝殻刺突文)。

地に付けている貝殻条痕文はかなり薄くなっていますね。
貝殻押引文は、貝殻の腹縁を器面に立てて当てて横に引きます。貝殻条痕文とは違って水平方向に引き、引く際に力を加減して強弱をつけるとメリハリのある文様になります。

もうひとつ、貝殻綾杉文というものもあって、貝殻条痕文を山形に施文しそれを連続していきます。「WWW」のようになるわけですが、山形を描くところは前期土器の羽状縄文と同様な発想です(「World Wide Web文」と呼ぼうかと思いましたがやめます)。

早期の貝殻文が盛行した地域を列島全体で見ると、既述した通り中葉以降の東日本で流行しました。南九州とは流行の時期がずれており、南九州の方が始まりが早いです。ただし、南九州と東日本との間の西日本地域では押型文が流行っており、南九州の貝殻文の文化が東日本に伝播したとは考えにくいです。きちんと考察するためには、西日本の土器についてもっと調べなければならないと思っています。
ところで、東北地方や関東地方などの他の多くの地域の早期土器は、尖底あるいは丸底のため自立できません。ところが、こちらは平底で自立できる筒形土器を作っているのです。

筒形土器の中には、口縁の平面形がレモン形を呈しているものもあり、レモン形土器と呼ばれています。

円筒形以外にも角筒形も見られ、円筒土器の場合は口縁は平坦なものが基本で、角筒土器の場合は波打っているものが基本です。

縄文時代全体に渡って四角い土器は大変珍しく、隅丸方形の土器も稀にありますが、しっかりと角がある四角い土器は本当に珍しいです。
また、壺は弥生時代には一般的になりますが、縄文時代は少ないです。しかしここでは壺形土器も多く出土しており、しかも頸の部分に美しい文様がついているものもあり、初めて見た時はとても縄文時代早期の土器とは思えませんでした。

興味深いのは、弥生時代に普及する壺は、穀物や水を貯めておくのが主な用途ですが、この土器の場合は口縁部や胴部に火を受けた形跡があることで、どのような使い道をしたのか分かっていません。以上みてきたように、縄文時代早期の鹿児島県域は独特な土器文化を持っていた地域といえ、土器自体の完成度も高いです。
上野原遺跡では、早期後葉の遺構で特殊なものが出ています。台地の最も高い場所に土坑を掘り、その中にさらに小さな穴を2つ掘って、円い縁の壺と四角い縁の壺を立てて入れてあったのです。壺は完形でした。こちらは出土状況の模型です。

実際に出土した壺も展示しています。

全国で最も有名な縄文遺跡は青森市の三内丸山遺跡だと思います。縄文時代に興味を持ったらまずは訪れて欲しい遺跡です。併設されている「さんまるミュージアム」も素晴らしいです。そして、縄文時代への興味が増幅したら、今度は上野原遺跡と上野原縄文の森展示館を訪れると良いでしょう。両遺跡は時期も地域も違いますから、縄文時代の多様性を知るにはこの2か所をまず押さえておくのが効果的だと思います。

鹿児島県霧島市・上野原遺跡先ほどは珍しい角筒土器について述べましたが、上野原遺跡の竪穴住居の平面形も四角なのです。縄文時代の住居跡は円形が多く、四角形は少数派です。
さて、以上のような特徴のある南九州の早期の土器編年は下記のとおりです(私自身がまだ勉強中で不確定・未消化な部分があるため下記は試案です。詳しい方がいれば教えてください)。
<前葉>
・岩本式 ・・・ 草創期最後の水迫式土器からの流れ
・前平(まえびら)式 ・・・ 筒形土器のはじまり
・志風頭式
・知覧式
・加栗山式 ・・・ 角筒土器が隆盛
・吉田式 ・・・ 円筒形と角筒形があり、筒形土器の完成期。口縁が開いてくるものが現れる
<中葉>
・倉園B式
・中原Ⅱ式
・石坂式
・下剥峰式
・桑ノ丸式
・中原式
・白ヶ野式
・手向山(たむけやま)式
<後葉>
・平栫(ひらがこい)式
・塞ノ神(せのかん)A式
・塞ノ神B式
・苦浜式
早期前葉に吉田式、中葉に石坂式といった平底の深鉢が作られます。

上の吉田式土器は、文様を施したのは上部のみで、見つかっていない胴体下半分は無文のはずです。

下の石坂式土器の形状は円筒形で平底です。口縁部には刺突文が施され、胴部には条痕文が施されています。



手向山式土器の段階には、筒形土器からだいぶ変化しています。

早期後葉には、塞ノ神(せのかみ/せのかん)式土器が作られます。

この土器は、帯状の平行沈線でダイナミックなモチーフを描いた後に帯の中に撚糸文を施します。この文様はカッコいいので完形で見たかった。なお、山口県周南市原向畑では、塞ノ神式土器の影響を受けた塞ノ神系土器が出土しており、この時代の南部九州と周防との関係が興味深いです。
5)鬼界カルデラの噴火
7,300年前には、鹿児島沖の鬼界カルデラが大噴火を起こし、鬼界アカホヤ火山灰(K-Ah)が降下しますが、この降下を早期と前期との境界とします。鬼界カルデラの周囲にある種子島や屋久島、それに薩摩半島南部および大隅半島南部には幸屋火砕流が直撃し、これによって南九州の縄文文化は壊滅的打撃を被ったとされています。南九州では照葉樹林が元に戻るまで600年から900年くらいは掛ったとされています。



6)沖縄県の早期土器
「縄文時代草創期 第5章 沖縄県の草創期」でも述べましたが、沖縄県と一口で表しても、宮古・八重山地方では全時期に渡ってほとんど縄文文化の影響は見られず、沖縄諸島では時期によって縄文文化の影響が濃くなったり薄くなったりします。ただし、縄文文化が濃い時期であっても沖縄諸島の在地の縄文土器は縄文を施さないですし、土偶や石棒といった縄文文化を代表するようなアイテムを使った祭祀も行われていません。
そんな沖縄県では、今のところ草創期の土器は見つかっていませんが、早期になると土器が出土します。うるま市の藪地(やぶち)洞穴遺跡では、1万年前~9000年前の押引文土器や波状文土器がみつかっており、それとともに16~40歳の女性の頭蓋骨も見つかっています。この人骨は沖縄諸島の縄文人骨としては最古のもので、藪地洞穴遺跡は沖縄最古の貝塚でもあります。
南城市のティーラガマ出土の土器は、9700年くらい前のものです。

底部ですが、沈潜で文様が付けられているのが分かります。
同じ南城市のサキタリ洞遺跡でも9000年くらい前の押引文土器が見つかっています。また、南城市の隣の八重瀬町・港川遺跡から出土した波状文土器は、8500年くらい前とされています。
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時代が前期に近づいた8000年くらい前になると、爪形文土器が造られます。指先で施文するヤブチ式と爪先で施文する東原式に分かれます。なお、本土でも草創期に爪形文土器が現れますが、それは1万2000年以上前の土器であるので、沖縄の爪形文土器はそれとの系譜的つながりはないとされます。沖縄諸島の早期の爪形文土器は、南島(なんとう)爪形文土器と呼ばれます。


第3章 早期の生活・精神文化
1)炉穴
私たちの家には台所があります。私たちは日常の食事の支度は台所でするのが当たり前だと思っています。縄文時代まで遡ってイメージすると、おそらく多くの人が思い浮かべる縄文人の調理シーンは、竪穴住居の中に設置された炉に置かれた土器で食材を煮込んでいるシーンだと思います。炉の上には鮭や動物の肉が吊るされて燻製を作っているのもイメージするかもしれません。
ところが、縄文時代の草創期や早期の住居跡内では炉跡が見つかることが少ないのです。むしろ、炉跡は住居跡の隣、つまり屋外から見つかることが多く、それ以外にも蒸し焼き料理を作った旧石器時代以来の集石遺構も見つかります。料理は住居の外でするのが一般的だったのです。

縄文時代早期に特徴的に見つかる遺構に炉穴(ろあな)があります。「炉の穴」という至ってシンプルな名称ですが、炉穴と言った場合は、早期において屋外に造られた炉跡のことを指すのが一般的です。
学史を振り返ると、昭和13年の東京考古学会による千葉県船橋市の飛ノ台貝塚の発掘において、「灰のある楕円形の穴」が見つかりました。灰があるということは、そこで火が焚かれたということになります。その後、列島各地で似たような遺構が見つかるようになり、それが現在では炉穴と呼ばれています。
穴の深さは1mほどあって、人がしゃがんで入り込めるほどの広さを持っています。物によっては、その穴の隣に小さな穴が並んでおり、それらの穴はトンネルで結ばれており、それを煙道付炉穴と呼んだり、連穴土坑と呼んだりします。飛ノ台史跡公園博物館に煙道付炉穴の模型があります。

遺構の検出状況はこのような感じです。

この展示パネルに示されている通り、飛ノ台貝塚からは3つの煙道を持つ炉穴まで見つかっています。一度に多くの料理を作ろうと思ったのでしょう。
博物館の外には飛ノ台貝塚の遺構展示があって、そこに炉穴も表示されています。

千葉県船橋市・飛ノ台貝塚結構複雑な様相ですが、現地には丁寧な説明板が設置されているので、それと見比べながら見ると良いでしょう。
鹿児島県の場合は連穴土坑と呼び、下の写真は上野原縄文の森展示館に展示されていた高吉B遺跡で見つかった連穴土坑の模型で、上野原縄文展示館では、小さい穴の方に肉や魚を吊るして燻製料理を作ったとの考えを示しています。
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既述した通り、炉穴は縄文時代早期に特徴的な遺構ですが、鹿児島県霧島市の上野原遺跡では、草創期の終わりころにはすでに出現しており、連穴土坑が合計16基見つかっています。


三重県明和町の坂倉遺跡からは早期の煙道付炉穴が19基検出されており、AICTでは2025年12月と2026年3月の現地講座で訪れています。遺跡は小規模な住宅地の中にまるで分譲地のように四角く切り取られて保存されており、地表面で見られる遺構はありませんが、遺構の場所を示すプレートが立ち並ぶなかなかシュールな装いの遺跡です。

三重県明和町の坂倉遺跡炉穴という地味な名前が付いているため見過ごしがちですが、各地の遺跡や博物館、資料館などに行ったときに、早期に関するものがあった場合は探してみてください。
2)関東・東北と南九州に土偶が出現
草創期のページで述べた通り、草創期には滋賀県や三重県で最古級の土偶が見つかっており、それらは13,000年前のものとされます。縄文文化のメッカである東北や関東では、それより遅れ、早期に作られた土偶が見つかっています。下の写真は青森県三沢市の根井沼(1)遺跡から出土した東北最古の土偶です。
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出現期の土偶は小さいことも特徴で、これは3㎝ほどしかありません。
茨城県利根町の花輪台貝塚出土の早期の土偶も上記のものに似ています。

これも小さな土偶ですが、草創期のページで述べた通り、出現期の土偶は女性の身体の中心部分(トルソー)が重要であったことが分かり、手足や頭部の表現はほとんどありません。これこそが土偶の本質です。もっと人間らしくなって行くのは中期あるいは後期を待たなければなりません。
千葉県船橋市の小室上台遺跡からも早期土偶が出土しています。

頭部が着脱式になっていたようで、草創期の土偶と共通する仕様のように思えます。
鹿児島県霧島市の上野原遺跡で見つかった早期後葉の土偶は、発見時は西日本最古の土偶でしたが、その後、既述した草創期土偶が見つかったため今では九州最古の土偶とされています。ただし、縄文時代の伊勢は大雑把に西か東かと問われれば東日本の文化圏ですし、近江はマージナル(境界)ゾーンですから、この土偶は、西日本最古の土偶といってよいと思います。

鹿児島県霧島市・上野原遺跡出土(上野原縄文の森展示館にて撮影)九州で土偶が見られるようになるのは一般的には後期からですから、早期の土偶というのは九州では極めて珍しい存在です。
3)耳飾り
縄文時代の展示を見ていると、土製耳飾りを見ることがあります。今でいうところのピアスです。上野原遺跡からも出土しており、上野原縄文の森展示館に展示してありますが、それを見ても「ふーん」で流す人も多いと思います。ところが、土製耳飾りが一般的に流行するのは中期からで、しかも東日本です。なんと、鹿児島県域では早期後葉には作られ始めており、その中でも上野原遺跡の出土量は多く、28点出土しています。

鹿児島県霧島市・上野原遺跡出土(上野原縄文の森展示館にて撮影)こういった形状の遺物はすべて「耳飾り」として説明されますが、例えば上野原遺跡で最大の物は径が12㎝あります。上の写真の左下のがそれですが、その上の物はそれを復元した物です。元々はベンガラで赤く彩色されていたことを示しています。
ところで私は、人間の耳たぶがそこまで伸びるかどうか疑っており、あまりにも大きいものは耳飾りではないのではないかと思っているのですが、その辺についてご存じの方がいればご教示ください。
土製耳飾りに関しては、改めて後の時代の項で述べたいと思います。
ついでに、耳飾りとは関係ないですが、上野原遺跡では異形土製品に括られている謎の遺物が出土しています。

鹿児島県霧島市・上野原遺跡出土(上野原縄文の森展示館にて撮影)上面は三角形の皿のようになっており、真横から見ると孔が並んでおり、新手のハーモニカの様です。きわめて珍しい遺物で、使い道も分からず、考古学者は仕方なく「異形」という名称を使っています。
4)トロトロ石器
考古遺物の呼び名はときにふざけているような物があったり、実際の使い方と違う名前が付いていたりして初心者を惑わすことがあります。トロトロ石器は、トロトロした質感からそう名付けられました。

もしかしたら「真面目に考えろ!」と怒り出す人がいるかもしれませんが、考古学者は面白い人が多いですよ。異形局部磨製石器などと呼ばれることもありますが、トロトロ石器という名前はインパクトがあるので、AICTで展示を見ていてこれが出てくると結構注目されます。ネーミングとしては成功ですね。ちなみに、誰がはじめに呼んだのかは分からないようです。「トロトロ石」というような石があるわけではなく、チャートで造られることが多く、上の写真の湯屋原遺跡出土のトロトロ石器もチャート製です。

早期の遺跡から出土することが多く、面白いことに列島各地のどのトロトロ石器を見ても皆同じような形をしており、一見すると石鏃なのかなと思いますが、先端は尖っておらず厚味があるので矢じりではないとされます。
用途に関しては分かっておらず、考古学者必殺の「祭祀に使われたと思われる」という説明に辿りつくでしょう。祭祀って便利な言葉ですよね。

なお、写真は上記以外にも2~3個は撮っていると思うので、見つかったら追加して掲載します。
第4章 植物製品の製作
佐賀市の東名(ひがしみょう)遺跡では、多数の植物製品が出土しており、最古級の編み籠も出土しています。出土した編み籠は大型のものと小型のものに大別でき、下の写真は大型のものです。

復元するとこのような感じになるそうです。

このタイプの編み籠の用途は、中にドングリなどの木の実を入れ、湧水によって水がたまった貯蔵穴に入れて保存のために使ったと想定されています。また、縄などを作るための素材の束を水にさらしておいたものも出土しており、ワラビやツヅラフジで作られていました。

東名遺跡にはAICTでは2025年10月に訪れています。

東名遺跡そのとき、東名縄文館を見学しようとしてハプニングに見舞われました・・・
東名遺跡では今新しい施設を建設中です。完成までもう少しかかりますが、完成したら東名遺跡から出土した素晴らしい遺物たちをもっと楽しめるようになると期待しています。
第5章 早期の人骨資料
草創期のページでは、草創期の人骨の分析は一つも行われていないと述べました。出土しているものをあげると、沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡から約14,000年前の石英製の石器とともに人の歯が見つかっています。
1)群馬県長野原町・居家以岩陰遺跡
早期になると人骨が発見されるようになります。少し前までは、全国的に見ても早期の人骨の分析調査は僅かだったのですが、2014年以降、國學院大學の谷口康浩氏が中心となって群馬県長野原町の居家以(いいやい)岩陰遺跡の発掘調査を行い、考古学・人類学・DNAの各方面からの研究成果が積み重なっています。詳細は、こちらの「居家以プロジェクトHP」をご覧ください。かなり重要かつ貴重な情報が掲載されており、読み応えのある素晴らしいサイトです。
その研究成果の一端を上述のHPを参照して簡単に述べますと、2023年までに確認された個体数は、縄文時代早期と前期とを合わせて40個体以上です。遺体の埋葬は個体埋葬といって一人で葬るケースと、合葬といって2体以上で葬るケースがありました。そのうち、個体埋葬された早期人骨6体の整理、復元が終わっています。その6体のうち2体が未成年で性別の判別が出来ず、残りの4体は女性。しかもみな若年成人(長く生きても30代)で、この6体だけを見ると、全員早死といえます。分析数はさらに増やす必要がありますが、日常的に堅いものを食べたり、皮なめしなどの作業で顎や歯を酷使したと考えられ、若くして顎関節症に苦しんでいた人が多かったようです。
2)愛媛県久万高原町・上黒岩遺跡
草創期のページでも紹介した愛媛県久万高原町の上黒岩遺跡では、早期中葉の押型文土器を使っていた文化層である第4層から28体の人骨が出土しています。

愛媛県久万高原町・上黒岩遺跡特に珍しい状態だったのは、熟年女性の6902号人骨です。右寛骨腸骨翼(右側の股関節の上あたり)に有孔ヘラ状骨器が刺さった状態で検出されたのです(A孔と呼びます)。しかも孔はもう1か所あり(B孔)、2度刺されています。状況的には、B孔に刺されたあとA孔に刺されています。自分で刺したということはないと思います。
A孔は治癒機転が全く見いだせないことから、この熟年女性は、A孔を刺された直後に亡くなっているか、亡くなった直後にA孔を刺されているわけです。亡くなった直後に刺すということもなくはないと思いますが、普通に考えたらこれは殺人事件ですね。
縄文時代は組織的な戦いは無かったと思っていますが、人間社会である以上は色々な性格の人びとと共に生活していますから、現代でもたまにある「カッとなってやった」的な事件は起きていたと思われます。ただし、あまり現代人的発想で考えてはいけないかもしれず、殺人事件などと断定してはいけませんね。
AICTでは、上黒岩遺跡に2026年11月の現地講座で訪れる予定です。
3)長野県北相木村・栃原岩陰遺跡
長野県北相木村の栃原(とちばら)岩陰遺跡は、信州大学によって昭和40年から昭和57年まで15次に渡る調査が行われています。そのうち、細久保式、樋沢式、立野式と言った早期の押型文土器が集中する層から合計12体の人骨が検出されています。
人骨は埋葬人骨とされますが、そのうちの2体は埋葬とは言えない特殊な状況でした。それは、「日本初の事故死」と言われる落盤事故で亡くなったと思われる二人の子供です。洞窟の中で遊んでいたらしい二人の子供が突如として発生した落盤に見舞われ、二人はとっさに逃げようとしたのか、少し腰を浮かせた状態で石に潰されていました。すぐ近くには炉跡があり、周りにはカタツムリの殻が散乱していたので、もしかしたら二人は集めてきたカタツムリで遊びながら親の帰りを待っていたのかもしれませんし、あるいはすぐ横に母親もいて、母親は辛くも難を逃れたのかもしれません。いずれにしても涙を誘う出来事です。
栃原岩陰遺跡は、AICTでは2025年7月に訪れています。

長野県北相木村・栃原岩陰遺跡なお、普通は人骨は溶けてなくなることが多いですが、栃原岩陰遺跡の場合は白い灰が大量に見つかっているため、灰によって人骨が保護されて残りやすかったと考えられています。
近くにある北相木村考古博物館では、栃原岩陰遺跡に関する詳しい展示解説があり、復顔も展示しています。

おそらく復顔された縄文人ではもっとも古い人たちだと思います。その後の縄文人の復顔と比べて精悍な感じがしますね(その後の縄文人がだらーっとして精悍ではなくなったと言っているわけではありません)。
旧石器時代人は力仕事をしないので華奢でしたが、展示されている栃原岩陰遺跡の人びとの骨を見ると現代人よりも貧弱に見えます。「帰ってきたお父さん」系のジオラマのお父さんもガリガリです。

こういう光景が人としての幸せの原点のように思えて、自分自身の生き方と比較して考えてしまうことがあります。
さて、顎関節症やら殺人事件やら落盤事故やらの話をしてまるで新聞報道みたいですが、縄文時代の人たちにも様々な苦悩があったはずです。でも、いま私たちが生きていると言うことは、絶滅せずに子孫を残したのです。縄文人の生活に思いを馳せつつ、感謝の気持ちを忘れないようにしましょう。
