最終更新日:2022年8月6日

縄文時代早期(11500年前~7300年前)

 早期は草創期に比べて土器の出土量が増えます。最初の土器の登場からすでに5000年も経っていますが、ようやく縄文時代らしくなってきます。この時代の土器の外見的な特徴は、北海道東部を除いて、尖底(せんてい)丸底(まるぞこ)であることで、何かに支えられなければ自分で立っていることはできません。神奈川県横須賀市の夏島貝塚では、礫を敷いた炉の中に尖底土器が刺されたままの状態で発見されたことがあり、尖底土器の実際の使い方が判明しています。

 列島各地の博物館などの縄文時代コーナーには、草創期の展示は少ないかあるいはゼロですが、早期の土器から展示が増えてきて、破片ではなく、土器片を接合して元々の形に戻した状態での展示が増えます。旧石器時代はその名の通り展示の主役は石器でしたが、縄文時代も盛んに石器を作っているものの主役の座は土器に変わります。

 早期は下図の通り、ガンガン気温が上がりますよ。

『環境と文明の世界史』(石弘之・安田喜憲・湯浅赳男/著)より加筆転載

 縄文時代に気温が上がるにつれて海面高度が上がって行くことを縄文海進と呼び、前期には日本列島の太平洋側各地で多くの貝塚が作られますが、貝塚は早期の段階ですでに作られ始めます。日本最大の貝塚のメッカである千葉県でも早期には貝の堆積が見られ、印旛沼沿岸で最古の土坑内貝層である印西市・瀧水寺裏(りゅうすいじうら)遺跡で見つかる貝は、ハイガイやマガキが多く、ハマグリやアサリなども混ざっています。この頃の関東地方でメジャーであったハイガイは、その後の海水温の低下に伴って生息域が徐々に南へずれていき、現在の日本では絶滅危惧種として九州地方に少し見られるだけですが、当時は海水温が高かったため関東地方でも棲息できたのです。

 

早期の土器の文様

 早期の土器には以下のような土器があり、文様の付け方で「○○系土器」という大雑把なくくりかたをしています。

 <早期前葉>
 西日本から北海道南部まで押型文(おしがたもん)系土器が作られますが、関東地方には撚糸文(よりいともん)系土器も見られます。土器が作られてから5000年以上経って、ようやく土器の外観(文様の施し方)に東西での顕著な差が現れます。

 <早期中葉>
 西日本では引き続き押型文系土器、東日本では貝殻沈線文(かいがらちんせんもん)系土器が作られます。

 <早期後葉>
 北海道と九州・沖縄を除く列島全体の広範囲で条痕文(じょうこんもん)系土器が作られます。

 ただしこういった土器の分布は厳密なものではないため、一つの傾向として考えておいてください。

 

1)土器様式

 縄文土器は、型式で分類します。型式に関しては後述しますが、土器の特徴をもとにある時期の土器群をまとめた呼び名です。型式を古い順に並べたものを編年と呼び、草創期の章で述べた通り、型式学は層位学とともに考古学の根幹をなします。そのため、すべての土器を型式に当てはめて説明できればいいのですが、型式名だけだと表現しづらいことがあり、型式学の泰斗である山内清男(やまのうちすがお)ですら、例えば晩期の大洞式土器の一群を、「いわゆる亀ヶ岡土器」とひとくくりに呼んでいます。

 こういった学史に鑑み、小林達雄氏は、様式という概念を提示しています。様式と言うのは、簡単に言うと複数の型式をその土器の持つ雰囲気をもとにグルーピングしたものです。縄文土器に様式の考えを導入することに対して否定的な考えを持っている研究者もいるようですが、私個人としては土器を理解するためには分かりやすいツールだと思いますので、本稿では様式について述べます。

 下表は、小林達雄氏が作成したもので、少し古い内容ですが、概ねこれで土器の説明はできると思います。

『縄文土器の研究<普及版>』(小林達雄/著)より転載

 すでに草創期の章で述べた、隆起線文系(上表では隆線文系)、爪形文系、円孔文系、多縄文系も記されており、本項で述べる押型文系、撚糸文系、貝殻沈線文系、条痕文系の位置づけも分かりやすいです。用語の使い方は、例えば、押型文系土器について様式を強調した言い方をする場合は、「押型文系土器様式」と呼びます。

 

2)押型文系土器

 主に西日本で好まれた押型文というのは、木の棒などを彫刻した原体(げんたい)と呼ばれるスタンプのようなものを表面に頃がして文様を施すものです。一方、主に東日本で好まれた撚糸文については後述します。早期になると土器の文化も東西で違ったものになったことが分かります。

 以下、押型文系土器をいくつか紹介します。

 奈良県山添村の大川(おおご)遺跡から出土した押型文土器で、この地域の押型文土器は、大川式、神宮寺式、黄島式、高山寺式と編年されています。

奈良県山添村・大川遺跡出土の押型文土器(橿原考古学研究所附属博物館にて撮影)

 縄文はありませんね。縄文土器と言っておきながら、縄文のない土器はたくさんあります。口縁部がラッパ状に開いているのが特徴です。押型文土器は近畿地方が発祥と言われていますが、やがて東へ勢力を拡大し、中部高地でも流行し、関東地方へも流入してきます。東京都町田市からも西日本の土器に似ている押型文土器が出ています。

東京都町田市・TN962遺跡出土の押型文土器(東京都埋蔵文化財センターにて撮影)

 この土器も口縁部がラッパ上に開いていますが、開き具合はやや大人しいです。ちなみに、上の二つとも口唇部分にも刻みを入れて素敵なデザインにしているのが分かりますが、土器を見るときは細部まで観察して、作った人の「ひと手間」や「こだわり」を感じ取ってみてください。

 西日本(近畿・中国・四国)の文化圏に入る愛媛県松山市の上苅屋遺跡からは、早期中葉頃の押型文土器と無文土器が見つかっています。

愛媛県松山市・上苅屋遺跡出土の押型文土器と無文土器(松山市立埋蔵文化財センターにて撮影)

 上苅屋遺跡では、当該期の遺構は見つからず、これらの遺物のみが見つかっただけですが、松山市周辺ではこの時期の遺物はほとんど見つかっていないため貴重なものです。押型文土器は、小さな浅い穴が表面に見えます(小型精円文)。また、口縁端部内面には短い刻目があります。一方、無文土器は金雲母が入っているようにキラキラ見えますが、これは石英のようです。

 押型文土器は九州でも制作されています。

熊本市・阿高貝塚出土の押型文土器(熊本博物館にて撮影)

 押型文土器は、見た目にも分かりやすいため、博物館などに行ったときは早期の土器のコーナーで探してみてください。傾向としたら西日本の土器ですが、既述した通り、東日本でも見られますよ。

 

3)関東地方の早期の土器型式

 書籍を読んだり博物館を見学したりすると必ず「勝坂式」とか「諸磯式」というような「〇〇式」という呼び名に出会うはずです。それを型式(かたしき)と呼びます。似た用語に形式というのがあり、深鉢とか浅鉢とかそういった分類をするときに使いますが、そちらはわざと「かたちしき」と発音して分けます。

 縄文時代早期になると、いよいよその型式によって土器を表すことが一般的になってきて、例えば関東地方の早期の型式に関しては、埼玉県立歴史と民俗の博物館のパネル展示には以下の16型式が記されています。

・井草式 ・・・ これ以降の文様は撚糸文
・大丸(だいまる)式 ・・・ 上の井草式を井草Ⅰ式として、大丸式を井草Ⅱ式と呼ぶ人もいる
・夏島(なつじま)式
・稲荷台式
・大浦山式
・稲荷原台式
・花輪台式
・平坂式 ・・・ この時期、無文となります
・三戸(みと)式 ・・・ 貝殻や施文具を使って沈線文を施すほか、条痕文も見られます
・田戸下層式 ・・・ 細沈線、太沈線、貝殻条痕文を混在させて文様を施し、波状口縁や突起が作られる
・田戸上層式
・子母口(しぼぐち)式
・野島式
・鵜ヶ島台(うがしまだい)式
・茅山(かやま)下層式
・茅山上層式

 早期は4200年間ですから、単純に16で割ると、一つの型式は262年となり、徳川15代の江戸時代の長さに相当しますが、一つの型式の存続時間は長かったり短かったりします。また、上記以外の型式名で呼ぶ研究者もいます。

 型式と聴くと身構えてしまう方もおられると思います。私もかつてはそうだったのですが、本に書いてあることでも、展示物のキャプションに書いてることでも、分かりやすく書いてあるものが少なく、そういう文章を参照しながら展示されている土器を見ても全然理解できないのです。

 稀に埋文センターなどでとても分かりやすい説明があった場合は幸運です。書物もたくさん読んでいくと、素晴らしく分かりやすい解説の本に出会うことがあります。そういった好機を見逃さず、とにかく沢山の土器を見ることが重要で、本当は土器を模写するのが一番良い方法だそうです。私の場合は土器の写真を撮ってきて、自宅で本を参照しながらじっくり鑑賞することによって少しずつ理解を深めて行っています。今もってまだまだちょっとのことしか分かっていない状況ですが、少しでも分かってくると土器の面白さが一層高まります。型式を制する者は土器を制す、ひいては縄文時代を制しますので、私もとにかく土器を見まくって勉強の日々です。

 

4)撚糸文系土器

 撚糸文系土器は、早期前葉の関東地方で主に見られる土器です。

 撚糸文系土器は、縄自体を転がして施文した土器や、絡条体(らくじょうたい)と呼ばれる木の棒か何かを芯にしてそれに縄を巻き付けたものを転がして施文した土器のことをいいます。早期の関東地方では東側に前者が多く、西側に後者が多い傾向があります。

 縄自体を転がす施文方法は、草創期後葉に現れた多縄文の流れを汲んでおり、多縄文系土器様式の最後の方に縄自体を転がして施文する方式がポピュラーになりそれが早期に引き継がれます。だったら早期も多縄文系土器と呼べばよさそうなものですが、早期では、撚糸文系土器様式のカテゴリーにくくられます。

 撚糸文という文様のことを指す場合は、絡条体を転がして付けた文様を指します。絡条体を転がさずに、単に押し付けて施文したものは、絡条体押圧文と呼びます。

 下の土器は西関東の撚糸文系土器である夏島式土器です。

埼玉県川口市叺原(かますはら)遺跡出土・撚糸文の夏島式土器(埼玉県立歴史と民俗の博物館にて撮影)

 あまり文様が分からないですが、上半分に文様が見えます。

 撚糸文系土器は、関東を中心として甲信・南東北が分布域と言われていますが、こちらの撚糸文土器は、熊本のものです。

熊本県大津町・無田原遺跡出土の撚糸文土器(熊本博物館にて撮影

 随分と豪快に文様を付けていますね。キャプションには撚糸文と書いてあるので、そのはずですが、貝殻沈線文に見えます。よく見ると、上部の方に撚糸文で地の文様を付けたような形跡が見えます。その上に縦横無尽に豪快な沈線を施しているように見えますが、実際はどうなのか。分かる方がいらっしゃったらご教示ください。

 

5)貝殻沈線文系土器

 早期中葉になると、関東地方では貝殻沈線文土器が流行ります。沈線というのは、木のへらでも道具は何でもいいのですが、それで描く凹んだ線のことです(陰刻のようなものです)。その沈線を描いたり、二枚貝の腹縁の部分でちょっとギザギザな風合いの線を描いた土器を貝殻沈線文系土器と呼びます。二枚貝は、現代人にとってはハマグリやアサリが有名だと思いますが、ホタテやカキも二枚貝です。この時代の関東地方では、ハイガイやサルボウといった放射肋をもった貝を使って施文することが多かったようです。

東京都品川区・大森貝塚遺跡庭園の展示を撮影

 サルボウなどの放射肋を持った貝は文様を付けるのに適しており、次項で述べる貝殻条痕文土器の中にはこれを上手に利用して文様を施したものがあります。腹縁や放射肋などの貝の部分名称については下の図をご覧ください。

「島根大学総合博物館アシカルのブログ」より転載

 下の土器は、三戸式土器で、北東北の日計式土器の押型文が沈線文に置き換わり成立した土器です。

東京都稲城市・TN366遺跡出土の三戸式土器(東京都埋蔵文化財センターにて撮影)

 刺さりそうなくらいの尖底ですが、これが三戸式の特徴となっています。三戸式はそれまでの撚糸文系からこの後の条痕文系に移り変わる時期の土器で、関東地方の広範囲から出土し、沈線文を施したものや条痕文を施したものがあり、それらを並べて文様の付け方だけに注目すると一見違う型式の土器のように見えます。

 

6)早期後葉の貝殻条痕文土器

 早期後葉には全国的に貝殻条痕文が流行りました。下の土器が貝殻条痕文土器です。

東京都多摩市・TN737遺跡出土の子母口式土器(東京都埋蔵文化財センターにて撮影)

 貝殻条痕文は二枚側の表面で擦りつけるようにして土器の表面を調製したもので、あまり文様がはっきりしない場合があります。下の土器も貝殻条痕文ですが、水平方向にめぐっている出っ張った線は細隆起線文で、器面に目立たない感じで付いているのが貝殻条痕文です。

埼玉県川口市・叺原遺跡出土の野島式土器(埼玉県立歴史と民俗の博物館にて撮影)

 貝殻条痕文土器の野島式土器をもう一つ。

埼玉県川口市・卜伝遺跡出土の野島式土器(埼玉県立歴史と民俗の博物館にて撮影)

 つぎの鵜ヶ島台式土器になると、見た目はガラッと変わって、精緻なデザインになるます。

東京都八王子市TN72遺跡出土・貝殻条痕文の鵜ヶ島台式土器(東京都埋蔵文化財センターにて撮影)

 器面に貝殻条痕文を施しているはずですが、ほとんど分からなくなっています。これもまだ尖底ですが、全体的な器形が新しいデザインになっていますし、早期は口縁部分が平らなものが多いですが、これは少し波状になってきており、8つの突起がそれぞれ2つの山を持つタイプになっていて新しい時代の到来を感じさせます。ただし、表面の細隆起線文は、一つ前の野島式土器から引き継いでおり、パッと見では野島式とだいぶ違う印象があるものの、施文方法は継承されているのです。なお、鵜ヶ島台式には平底もあります。

 早期の終末期には既述したサルボウやハイガイのような放射肋を持つ二枚貝の縁の部分を押し付けた貝殻腹縁文(かいがらふくえんもん)と呼ばれる文様の土器が南関東で見られ、打越式土器という型式名が与えられています。

埼玉県富士見市・打越遺跡出土の打越式土器(水子貝塚資料館にて撮影)

  

列島各地の早期の土器

 つづいて、列島各地の早期の土器を見てみましょう。

 

1)道東・道北の早期土器と石刃鏃文化

 北海道は現代でも、道央、道南、道東、道北というふうにブロック分けをしますが、縄文土器も、それぞれの地域でルーツが異なるようです。ただし、大雑把にくくると、道南と道央で一つの文化地域、道東と道北で一つの文化地域といえますが、道央は文化が入り混じっている時代が多いです。

 草創期に土器作りが活発に行われていなかった北海道は、早期初頭になると道央の日高地方や道東の十勝地方で暁式土器が出現します。列島各地の早期の土器は尖底や丸底ですが、暁式土器は平底で、文様はほとんどありません。なお、暁式土器は帯広市の暁遺跡が標式遺跡ですが、帯広市は北海道最古の草創期の土器(大正3遺跡出土)や、旧石器時代でも北海道最古の石器(若葉の森遺跡出土)が見つかった場所で文化の発信地として非常に興味深い場所です。

 日高地方以西の道央や道南で土器が作られる時期は、暁式土器の出現よりも遅いため、そうなると道東の土器のルーツは北海道最古の土器が見つかっている帯広市・大正3遺跡の土器に求められる可能性がありますが、大正3遺跡の土器から暁式土器までを繋げようにもあまりにも資料が少なくてはっきり分かりません。道内に脈がなければ日本最古の土器を作った北東北に求められるかというと、それもやはりはっきりせず、むしろ大陸側に求める考えもあります。現在のところ、暁式土器のルーツは不明と言わざるを得ません。

 早期中頃から後半ごろにかけて、条痕文系平底土器と呼ばれる土器群が現れます。道東の土器文化は、後述するように東釧路Ⅲ式土器の時期は汎北海道的になりますが、道南の土器文化とは一線を画しています。

 釧路市埋蔵文化財調査センターのパネル展示を参照して道東の早期の土器編年を示すと以下のようになります。

 ・テンネル式/暁式
 ・沼尻式 ・・・ 貝殻条痕文
 ・東釧路Ⅰ式
 ・大楽毛(おたのしけ)式 ・・・ 微隆起線文
 ・浦幌式/トコロ14類土器/女満別式土器 ・・・ 石刃鏃文化期で、竹管文・半截竹管文・絡条体圧痕文などを施し、違う文様の土器が並立する
 ・東釧路Ⅱ式
 ・東釧路Ⅲ式 ・・・ 絡状体圧痕文、羽状縄文(道内に広く分布)
 ・コッタロ式
 ・中茶路(なかちゃろ)式
 ・東釧路Ⅳ式(羅臼町では前期初頭の土器型式としている)

 下の土器は沼尻式土器です。

北海道羅臼町・トビニウス川南岸遺跡出土の沼尻式土器(羅臼町郷土資料館にて撮影)

 沼尻式土器は、土器表面を二枚貝の表面で擦り付けるようにして調製して仕上げます。これを貝殻条痕文と呼びます。この土器では分かりませんが、口唇部分に貝殻の縁でギザギザ模様にします。底部が見つかっていないのが残念ですが平底でしょう。

 下の土器は大楽毛(おたのしけ)式土器ですが、こちらも底部が分かりませんが、平底のはずです。

大楽毛遺跡出土の大楽毛式土器(釧路市埋蔵文化財調査センターにて撮影)

 縄文時代の日本列島には、大陸からの異文化の流入が明確に分かるものが少ないのですが、約8,000年前を前後する浦幌式期に、道東から道北にかけて、石刃鏃(せきじんぞく)文化が起こります。これは、東北アジアに広く分布する石刃鏃と呼ばれる細長い独特な形状の石鏃を使う文化で、それ以前の日本にはない文化です。すなわち、なぜかこの時期だけ道東・道北と大陸の人びとの間で交流があったことが分かりますが、この時期、一時的に気候が寒冷化した影響もあり、大陸やサハリンの人びとが北海道にやってきて文化の伝播があったと考えられます。

北海道羅臼町・オタフク岩遺跡出土の石刃鏃(羅臼町郷土資料館にて撮影)

 石刃鏃文化は大陸では、西はバイカル湖畔まで広がっていた文化です。通常の矢じりと違って細長いですし、大きいです。関東などで普通に見つかる矢じりは小さくて、ウサギなどの小動物を射るためかなと思いますが、石刃鏃を使う地域では狩りの対象となる動物が他の地域と違ったのでしょう。なお、大空町・豊里遺跡や湧別町・湧別市川遺跡では石刃鏃が多量に見つかっています。

北海道北見市・常呂貝塚出土の石刃鏃文化の遺物(東京大学常呂資料陳列館にて撮影)
北海道北見市・常呂貝塚出土のトコロ14類土器(東京大学常呂資料陳列館にて撮影)

 このトコロ14類土器の文様は見えにくいですが、キャプションには、「平底で、口縁部には3段の浅い類竹管文、もしくは絡条体圧痕文が施され、胴部には擦痕ないし条痕が確認できる。裏面にも条痕がある」と記されています。

 石刃鏃文化は大陸からやってきた文化ですが、反対に北海道の縄文文化がサハリンや大陸に影響を及ぼした形跡はなく、日本の縄文文化の北限は北海道の北端です。ただし、千島列島に関しては、北千島は縄文文化ではないのですが、南千島は縄文文化が確認されていますから、北方領土と呼ばれる島々が文化的に見ても縄文の昔から日本の一部であることは明白です。

 つづいて作られたのが東釧路Ⅱ式土器です。

北海道釧路市・東釧路貝塚出土の釧路Ⅱ式土器(釧路市埋蔵文化財調査センターにて撮影)

 東釧路式土器は、東釧路貝塚が標識遺跡で、古い順にⅠ式からⅤ式まであり、Ⅳ式までは早期です。このⅡ式は、次のⅢ式よりも底部に安定感があります。

 東釧路貝塚は、前期の貝塚が主体の遺跡ですが、貝層の下からはここで示している通り、早期の土器が見つかっており、規模は小さいですが、すでに貝塚の形成が始まっています。

 早期の終わりに近いづいてくる頃には東釧路Ⅲ式土器が作られます。

北海道羅臼町・オタフク岩遺跡出土の東釧路Ⅲ式土器(羅臼町郷土資料館にて撮影)

 胴体の上の方は絡状体圧痕文、下の方は羽状縄文が施されています。面積は少ないですが平底になっていて、安定感を考えたような作りになっているように見えます。

 東釧路式土器は、古い順にⅠ式からⅤ式までありますが、その中でもⅢ式は、道内に広く分布しました。例えば、道央でも見つかっています。

北海道江別市・大麻6遺跡出土の東釧路Ⅲ式土器(江別市郷土資料館にて撮影)

 上の土器は2種の文様を交互に付けていますね。下の土器も道央の東釧路Ⅲ式土器ですが、やはり2種類の文様を交互に施し、口縁部に突起らしきものを作っています。

北海道千歳市・キウス5遺跡出土の東釧路Ⅲ式土器(北海道立埋蔵文化財センターにて撮影)

 東釧路Ⅲ式土器は道内各地の博物館などでよく見ることができて、作られた個体数も多かったのかもしれません。次はコッタロ式です。

北海道釧路市・桜ヶ丘2遺跡出土のコッタロ式土器(釧路市埋蔵文化財調査センターにて撮影)

 下のコッタロ式は、口縁部は波状を呈してきていますが、底部のフォルムは今までと変わりません。

北海道釧路市・桜ヶ丘2遺跡出土のコッタロ式土器(釧路市埋蔵文化財調査センターにて撮影)

 そして早期の最後は、東釧路Ⅳ式です。

北海道釧路市・テンネル遺跡出土の東釧路Ⅳ式土器(釧路市埋蔵文化財調査センターにて撮影)

 今まで平底だったのが急に尖底になりました。全国的には早期の土器は尖底ですが、道東・道北の場合は、他の地域とは違って平底でしたね。それがこの時期になってようやく尖底になるのが面白いです。次の前期には各地の土器はもう尖底をやめるのですが、道東ではいったいどういう土器を作るようになるのか、次の展開が楽しみです。

 

2)道央・道南の早期土器

 一方、道南では、東北地方北部の押型文系土器群である日計(ひばかり)式土器が最古の土器として見つかり、上述の道東の土器よりも登場が遅れます。関東地方で撚糸文土器が発生し、西日本ではその影響を受けて押型文土器が作られ、それが日本海を伝って北上し、日計式土器が作られともいわれています。

 日計式の次は、貝殻文土器が見られ、道東・道北とは違って尖底です。その名の通り、文様は貝殻で付けますが、北海道では比較的寒い場所に生息しているサルボウが利用されたとの説があります。

北海道函館市・根崎遺跡出土の貝殻文土器(江別市郷土資料館にて撮影)
北海道七飯町・国立療養所裏遺跡出土の貝殻文土器 (北海道立埋蔵文化財センターにて撮影)

 

3)青森県の早期土器

 青森県でも早期土器の編年ができています(下の一覧は、『図説 ふるさと青森の歴史シリーズ1 青い森の文化の始まり』<青森県教育委員会/編>を元に作成)。

・日計(ひばかり)式 ・・・ 押型文
・白浜・小舟波平式 ・・・ これ以降、沈線貝殻文
・根井沼式
・寺ノ沢式 ・・・ 9200年前の南部軽石が検出される
・物見台・千歳式
・螢沢AⅡ式
・吹切沢式 ・・・ 波状口縁や突起が作られる
・ムシリⅠ式 ・・・ 薄手の条痕文土器
・表館Ⅳ群 ・・・ これ以降、縄文
・赤御堂式
・早稲田5類
・表館Ⅸ群

 日計式の時期の青森県内では、数件程度のムラの形成が始まり、八戸市見立山(2)遺跡では2軒、同売場遺跡では1軒の建物が見つかっています。ただし、いずれも柱穴跡や炉跡は見つかっておらず、屋外で焼土や焼けた石がまとまって見つかるため、屋外で火を焚いて調理をしていたことが伺えます。

 墓に関してはこの時代まではほとんど分かっていませんが、遺跡で見つかる土抗のなかに墓が含まれている可能性があります。

 ダイナミックに表面を沈線で描いた今までとは違う斬新な装いの土器が登場しました。

青森県八戸市・田面木平(1)遺跡出土の物見台式土器(是川縄文館の特別展示にて撮影)

 ギザギザの線は、サルボウなどの二枚貝の殻縁の部分を使っています。丸底で口縁にも動きが現れ、シルエットが全体的に洗練され、早期の土器の中でもひと際美しい土器と言えるでしょう。縄文人は意外と沈線で絵を描くとちょっと残念な感じになるのですが、これは上手い。幾何学模様の中には、その後の縄文人が好んだ渦巻き文の使用が認められます。

 つぎの2点は螢沢AⅡ式土器です。

縄文の学び舎・小牧野館にて撮影
縄文の学び舎・小牧野館にて撮影

 早期後半には、施文が縄文に変わります。

青森県八戸市・長七谷地貝塚出土の赤御堂式土器(八戸市博物館にて撮影)

 上の土器は、長七谷地(ちょうしちやち)貝塚出土の赤御堂式土器です。長七谷地貝塚は、いまは完全に陸地にありますが、往時は古奥入瀬湾に面しており、遺跡の前面には干潟が展開していました。そこには、ハマグリやオオノガイなどが棲息していました。なお、長七谷地貝塚は、世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」の関連資産です。

長七谷地貝塚

 

4)東北地方や関東地方に土偶が出現

 草創期のページで述べた通り、草創期には滋賀県や三重県で最古級の土偶が見つかっています。それらは13,000年前のものとされます。縄文文化のメッカである東北や関東では、それより遅れ、早期に作られた土偶が見つかっています。下の写真は青森県根井沼(1)から出土した東北最古の土偶です。

さんまるミュージアムの特別展にて撮影

 出現期の土偶は小さいことも特徴で、これは3㎝ほどしかありません。

 茨城県利根町の花輪台貝塚出土の早期の土偶も上記のものに似ています。

茨城県利根町・花輪台貝塚出土(国立東京博物館にて撮影)

 これも小さな土偶ですが、草創期のページで述べた通り、出現期の土偶は女性の身体の中心部分(トルソー)が重要であったことが分かり、手足や頭部の表現はほとんどありません。これこそが土偶の本質です。もっと人間らしくなって行くのは中期あるいは後期を待たなければなりません。

 

5)東海地方の早期土器

上ノ山貝塚出土(名古屋市博物館にて撮影)

 

6)南九州の早期土器

 南九州では早期前半に石坂式や吉田式といった平底の深鉢が作られます。

吉田式土器(鹿児島市立ふるさと考古歴史館にて撮影)

 石坂式や吉田式は、貝殻文に分類される土器ですが、貝殻文が盛行したのは津軽海峡両岸をコアにした東日本で、近畿以西は押型文の勢力範囲です。そのため九州の貝殻文と東日本の貝殻文との関係はよく分かっていません。上の土器は吉田式なので、文様を施すのは上部のみで、見つかっていない胴体下半分は無文のはずです。

 早期後葉には、塞ノ神(せのかみ)式土器が作られます。

塞ノ神式土器(鹿児島市立ふるさと考古歴史館にて撮影)

 この土器は、帯状の平行沈線でダイナミックなモチーフを描いた後に帯の中に撚糸文を施します。この文様はカッコいいので完形で見たかった。なお、山口県周南市原向畑では、塞ノ神式土器の影響を受けた塞ノ神系土器が出土しており、この時代の南部九州と周防との関係が興味深いです。

 

7)鬼界カルデラの噴火

 7,300年前には、鹿児島沖の鬼界カルデラが大噴火を起こし、鬼界アカホヤ火山灰(K-Ah)が降下しますが、この降下を早期と前期との境界とします。鬼界カルデラの周囲にある種子島や屋久島、それに薩摩半島南部および大隅半島南部には幸屋火砕流が直撃し、これによって当該地域の縄文文化は壊滅します。南九州では照葉樹林が元に戻るまで600年から900年くらいは掛ったとされています。

熊本博物館にて撮影
熊本博物館にて撮影