最終更新日:2022年8月17日

縄文時代 前期(7300年前~5500年前)

 早期のページでも述べましたが、早期と前期との境は、鹿児島県沖の鬼界カルデラの噴火です。その時期は今から7300年前。これから前期について述べますが、縄文時代が始まってすでに9200年経過しました。縄文時代は残る4400年です。前期になると土器のデザインに面白味が増してくるので、土器鑑賞も楽しくなりますよ。

 早期末の寒冷化を過ぎると、気温は以前にも増して上昇しつづけ、ヒプシサーマルを迎えます。ヒプシサーマルは、「気候最適期」と呼ばれることがありますが、その時期が本当に最適な気候なのかは誰にも分からないので、私は「気候最温暖期」と呼びます。

 最大で現在より平均気温が2℃ほど高くなり、海面高度が上がって縄文海進が最大となります。その結果、列島各地の主に太平洋側で貝塚がたくさん形成されます。

  

前期の関東地方

 縄文海進を示すためにこの頃の関東地方の地図を引き合いに出すことが良く行われますね。例えばこのような図です。

水子貝塚展示館にて撮影

 これは水子貝塚展示館で撮影してきたものですが、同遺跡の資料館の方には地形が分かる展示があります。この方がリアルでしょう。

水子貝塚資料館にて撮影

 千葉県がほぼ島になっています。関東地方に縁がない人はあまりピンとこないかもしれませんが、関東人からするとこれは恐怖の地図ですね。現代の多くの方々のご自宅が水没していると思いますが、今後、温暖化で海水面が上がるとまたこうなってしまうかもしれません。

 埼玉県立歴史と民俗の博物館の展示では前期前半の関東の土器編年を以下の通りとしています。

・花積下層式 
・関山式
・黒浜式

 花積下層式土器は、早期後半の縄文から発展した羽状(うじょう)縄文という文様を施し、前期前半の土器は、羽状縄文系土器と呼びます。右撚りと左撚りの縄を交互に転がすか、心棒に右撚りの縄と左撚りの縄を巻き付けて、それを転がすことによって羽状をなすように施文します。

縄文時代前期の羽状文土器片(縄文の学び舎・小牧野館にて撮影)

 下の写真はピンが甘くて分かりづらいですが、羽状縄文土器です。羽状縄文は黒浜式まで見ることができます。

埼玉県富士見市・打越遺跡出土(水子貝塚資料館にて撮影)

 羽状縄文系土器は、関東・東北南部・新潟で盛行し、中部地方の土器にでも影響を与えています。胎土に繊維が多量に含まれていることが特徴で、繊維は燃焼すると燃えてなくなるため、土器の軽量化に役立っていますが、関東ではこの羽状縄文系土器をもって、胎土に繊維を混ぜることをやめます。

 つづいて関山式土器。

埼玉県蓮田市・関山貝塚出土(埼玉県立歴史と民俗の博物館にて撮影)

 関東では、前期土器が作られ始めた当初から底部が尖底から平底に移行しますが、北海道や東北、北陸の土器はワンテンポ遅れて、この関山式との併行期に平底に移行します。

 こちらの関山式土器は、器面のほぼ全体に縄文が施されていますが、よく見ると細かくいろいろな風合いになるようにしていることが分かります。縄の拠り方を工夫して、複雑なデザインにしているのです。羽状縄文系土器を作っていた人たちは縄に対して非常にこだわりがあります。

東京都多摩市TN514遺跡出土(東京都埋蔵文化財センターにて撮影)

 上の関山式土器は、口縁に注ぎ口のようなものが1つ付いているため関山式片口土器と呼びます。下の黒浜式は、下半分に羽状縄文を施して、突起が4つ付いています。

埼玉県飯能市・中矢下遺跡出土(埼玉県立歴史と民俗の博物館にて撮影)

 羽状縄文が分かりやすいですね。下の黒浜式土器にも突起が4つありますが、ドライバーで回してみたくなるようなポッチが付いていて面白いです。ドライバーで回すと器が分解できるんじゃないかと錯覚するような作りです。

埼玉県富士見市・水子貝塚展示館にて撮影

 これが前期後半になると、関東地方でも大雑把に言って西と東で異なった土器型式となります。埼玉県立歴史と民俗の博物館の展示に加え、印旛郡市文化財センターの『印旛の原始・古代 縄文時代編』をもとに編年を示すと以下の通りです(左が西関東で右が東関東)。

・諸磯a式 / 浮島Ⅰa式
・諸磯b式 古段階 / 浮島Ⅰb式
・諸磯b式 中段階 / 浮島Ⅱ式
・諸磯b式 新段階 / 浮島Ⅲ式
・諸磯c式 / 興津Ⅰ式
・十三菩提式 / 興津Ⅱ式

 諸磯式土器では、今までの羽状縄文とは別れを告げ、竹のようなものを半裁した施文具によって、平行沈線や爪形文によって施文します。諸磯式は、a、b、cと細分化されており、存続期間も長いためか、関東地方各地の博物館などでよく見かける型式です。

東京都多摩市TN753遺跡出土(東京都埋蔵文化財センターにて撮影)

 こちらの諸磯式土器は口縁部のデザインが斬新。

東京都八王子市TN205遺跡出土(東京都埋蔵文化財センターにて撮影)

 諸磯式では初めて深鉢以外の器が作られ始め、浅鉢も作られます。

東京都八王子市TN420遺跡出土(東京都埋蔵文化財センターにて撮影)

 そして諸磯式期には非常に面白い遺物も出土しています。「デスマスク」のようだと言う人もいる千葉県成田市の南羽鳥中岫第1遺跡E地点で出土した人頭形土製品(国指定重要文化財)です。

千葉県成田市・南羽鳥中岫第1遺跡E地点出土の人頭形土製品(「発掘された日本列島2014」にて撮影)

 拠点集落であった同遺跡の土壙墓から見つかったもので、副葬品と考えられますが、こういったものは他に見たことがありません(他の例をご存じの方がいたらご教示ください)。

 なお、土壙墓とはその名の通り、土を掘って作った穴の墓ですが、前期になると確実に土壙墓が作られ始めます。早期には、貝塚で捨てられたように見つかる人骨がありますが、今の私たちが想像するような死者を埋葬して墓らしい墓を作るという行為がポピュラーになるのは前期です。

 前期の最後の型式は十三菩提式土器です。この十三菩提式土器は、ついに口唇部に立体的な文様が付きました。「W」字と渦巻。

東京都八王子市TN436遺跡出土(東京都埋蔵文化財センターにて撮影)

 下の十三菩提式土器もかなり洗練されたデザインになってついに縄文土器が芸術の域に達する予感がしてきました。

東京都稲城市TN482遺跡出土(東京都埋蔵文化財センターにて撮影)

 

前期終り頃の甲信地方

 上に示した通り、十三菩提式土器は、編み籠からインスパイアされたような植物的な風合いのデザインですが、同じころの甲信地方でも同様な風合いの土器が造られています。例えば、一部でトロフィー形土器と呼ばれているこちらの土器です。

長野市松原遺跡出土(長野県立歴史館にて撮影)

 甲信地方は中期になって国内で最大級の派手な土器を造る地域になりますが、その兆しを感じさせるようなダイナミックで美しいデザインです。

 八ヶ岳西南麓地方は傑出した縄文文化が栄えた場所ですが、井戸尻遺跡の近くからはこのような土器が見つかっています。

籠畑遺跡出土の深鉢形土器(井戸尻考古館にて撮影)

 松原遺跡のトロフィー形土器と同様に4つの突起が天を衝くように突出しています。しかもこちらの場合は、先端部分内側にも少しだけ文様を施しているところが作り手の拘りを感じさせます。また、同じ地域では下の土器も見つかっています。

 素晴らしく細いシェイプがいいですね。やはり植物製品のような風合いがあります。この時代の深鉢は煮炊き用のはずなので、これで夕飯を作っていたということになるのですが容量が少ないです。誕生日を迎えた家族用の特別な料理でも作ったのかなと想像しますが、2つ上のトロフィー形土器は見た目的には使用感がなく、土器の用途については鍋以外に、もう少し広い用途を想定したほうがいいのではないかと思います。

 

前期の南東北地方

 南東北では、前期に入るのと同時に上川名式土器が造られます。標式遺跡は宮城県柴田町上川名貝塚ですが、室浜式と呼ばれることもあります。

左道遺跡出土の上川名式土器(七ヶ浜町歴史資料館にて撮影)
左道遺跡出土の上川名式土器(七ヶ浜町歴史資料館にて撮影)

 南東北の早期後半の土器は貝殻条痕文でしたが、上川名式土器も貝殻で表面をなでるようにして文様を施しています。

 上川名式につづいて、かの有名な大木(だいぎ)式土器が造られ始めます。大木式土器は大きく13の型式に分けることが一般的です。

 大木1式土器とひとつ前の上川名式の器形の大きな違いは、上川名式は底が丸くなっていて自立ができませんが、大木1式になってようやく普通に置けるようになります。既述した通り、関東では、前期土器が作られ始めた当初から底部が尖底から平底に移行しますが、東北の土器はこの時期に平底に移行するのです。

 大木2式は、2a式と2b式に細分化されています。

 大木2a式が造られた時期の関東は黒浜式が造られ、大木2b式の時期には、磯浜a式が造られます。一方、反対側の北東北では、大木2b式と同じ頃、大木式土器と並び称される円筒土器が出現します。前期後半から中期の終わりに至るまで、東北地方は、北が円筒土器文化圏で、南が大木式土器文化圏として推移しますが、円筒土器については後で述べます。

 つづいて、大木3式土器。

 口縁部が装飾的になってきました。また、粘土紐でちょっとした装飾を施すようになってきました。

 左側の土器のように後円部から紐を垂らしたような造形は、関東や北海道でも見られるようにります。現代人が見ても可愛らしいと思いますが、縄文時代には結構流行るのです。関東では諸磯b式が造られ始めます。

 そして、大木4式では粘土紐でのダイナミックな造形が現れるようになります。

 粘土紐は幅1㎝程度の太めのものとその半分くらいの細めのものがあり、太めのものは上の写真のようにひし形を作ったり、X字形や三角形の文様を貼り付けたりしますが、細めの粘土紐では渦巻文様など少し繊細な文様を表現します。

 なお、小林達雄氏は『縄文土器の研究』のなかで、「厳密にいえば、前期大木式のうち、4式・5式・6式は型式の系統性が明らかであり、一つの様式として認識されるが、1式・2式・3式をこの様式に含めることには問題がある」と述べ、大木1式と2式はむしろ羽縄文系土器の流れのなかで把握すべきとしています。

 つづいて、大木5式では、同じ大木式文化圏内でも地域差が顕著になる時期で、宮城県内と北上川中流域の岩手県域や福島県の会津地方では文様や施文方法が異なります。また、6式期には、大木式土器が北東北への進出を強めますが、大木式文化圏には南から関東地方の土器文化が入ってきます。


前期の北東北地方

 ※前期の北東北の土器は、表館Ⅹ群、長七谷地Ⅲ群、早稲田6類、表館式、深郷田式と編年されていますが、この辺はまだ私自身が未調査のためとりあえず飛ばします。

 5900年前、十和田カルデラが噴火を起こし、この噴火は日本列島の過去1万年の噴火では最大級といわれています。東北地方北部では、十和田中掫(ちゅうせり)テフラが降下し、それまでの自然環境が大打撃を受けますが、そのあと、三内丸山遺跡で有名な円筒土器を使う人たちが現れます。つまり、十和田カルデラの噴火は、円筒土器文化形成の契機となったのですが、彼らの土器は、それ以前の在地の土器と文化的につながらないため、噴火の跡にどこからかやってきた人たちが新たな文化を創出したのです。

 十和田中掫テフラが降下した時代は、南東北では大木2b式が、関東では諸磯a式土器が造られ始めますが、北東北の人びとは円筒土器を造り始めました。この前期後半に造られる円筒土器は、円筒下層a式、同b式、同c式、同d式の4つに分けられます。円筒土器文化圏で最も有名な三内丸山遺跡で出土した円筒下層式土器を見てみましょう。

 さんまるミュージアムに入り、少年と縄文犬のお出迎えの向かって左側の部屋には、三内丸山遺跡から出土した土器の中から選りすぐった3個の円筒土器が展示してあります。

 これの一番左側のが円筒下層式土器です。細かい型式は記されていません。

円筒下層式土器(さんまるミュージアムにて撮影)

 何だコレは!と思うような細長い土器ですが、これも鍋ですから、当時の人はこれで煮炊きしていたのです。さらに展示室内にはこれと似たような細長い深鉢がいくつも展示してあります。

 これらは円筒下層式の中でも前半の土器(a式、b式)です。口縁部分は水平ではなくわずかながら波状になっています。全体的に縄文で覆われていますが、円筒土器の大きな特徴の一つは縄文を多用することで、現在知られている約100種類の縄文のうち、円筒下層土器ではその8割が確認できますから、円筒土器文化圏の人たちは縄文に拘っていたことが分かります。同体上部の口縁に近い場所のみ少し凝った文様を施していますが、時代が進むにつれて装飾性が増していきます。なお、この時期、全国的には胎土に繊維を混ぜることは廃れてしまうのですが、円筒下層式だけまだやりつづけます。

 この時代から玦状(けつじょう)耳飾などの装身具が登場し、前期後葉には「の」字状装身具も登場。

 

前期の北海道

 前期前葉には、綱文(つなもん)式土器が現れます。縄文の縄目が太いことから「綱文」と呼ばれ、底部は尖底のものと丸底のものがあり、胎土には多くの繊維が含まれているのも特徴です。

綱文式土器 江別市・大麻6遺跡出土(江別市郷土資料館にて撮影)
綱文式土器 千歳市・キウス5遺跡出土(北海道立埋蔵文化財センターにて撮影)

 前期には、有名な青森市の三内丸山遺跡に代表される円筒土器文化圏が形成され、道南地域もその文化圏内に入ります。そういう縁があって、道南の縄文遺跡も北東北の縄文遺跡と一緒に世界遺産になったわけですが、道南でも三内丸山遺跡の円筒下層式土器とそっくりなものが出土します。

円筒下層式土器 (江別市郷土資料館にて撮影)

円筒下層式土器 函館市ハマナス野遺跡出土(北海道立埋蔵文化財センターにて撮影)

円筒下層式土器 函館市ハマナス野遺跡出土(北海道立埋蔵文化財センターにて撮影)